ドゥンガ
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|---|---|---|---|---|
| 名前 | ||||
| 本名 | カルロス・カエタノ・ブレドルン・ヴェーリー | |||
| 愛称 | ドゥンガ、鬼軍曹 | |||
| ラテン文字 | Dunga | |||
| 基本情報 | ||||
| 国籍 | ||||
| 生年月日 | 1963年10月31日(48歳) | |||
| 出身地 | リオ・グランデ・ド・スル州、イジュイ | |||
| 身長 | 177cm | |||
| 体重 | 81kg | |||
| 選手情報 | ||||
| ポジション | MF(ボランチ) | |||
| 利き足 | 右 | |||
| 代表歴 | ||||
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| オリンピック | ||
|---|---|---|
| 男子 サッカー | ||
| 銀 | 1984 | サッカー |
カルロス・カエタノ・ブレドルン・ヴェーリー(Carlos Caetano Bledorn Verri, 1963年10月31日 - )通称ドゥンガ(Dunga)はブラジル出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはMF(ボランチ)。
ブラジル代表として1990年、1994年、1998年のワールドカップに出場した。2006年7月から2010年7月まで同国の代表監督を勤めた。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 選手時代
ブラジル南部のリオ・グランデ・ド・スル州でドイツ系およびイタリア系移民の家に生まれた。あだ名の「ドゥンガ」は「白雪姫と7人のこびと」に登場するこびとたちの中でもっとも若い「おとぼけ(dopey)」に由来し、子供の頃身長が低かったため父親の友人に名付けられたと語っている。
出身地から近い名門インテルナシオナルでプロデビュー、イタリアに渡りピサ、フィオレンティーナ、ペスカラで活躍した。1990年のワールドカップに出場した際には、ブラジルの早期敗退の原因としてGKのクラウディオ・タファレル、監督のセバスティアン・ラザロニなどとともにメディアから厳しく批判された。ドイツのVfBシュトゥットガルトなどでプレーした後、1995年から日本のジュビロ磐田に所属した。円高不況のあおりをうけて大幅な減俸を提示した磐田と金銭面で折り合いが付かず1998年に退団した。その後は古巣インテルナシオナルで1シーズンプレー後に現役を引退した。
引退後は「市民能力開発のためのドゥンガ財団」の代表として社会福祉活動などに従事するとともに、1999年から2004年にかけてはジュビロ磐田のチームアドバイザーも勤めた。
[編集] 監督時代
[編集] ブラジル代表
カルロス・アルベルト・パレイラの後任として2006年7月にブラジル代表監督に就任、監督およびコーチ経験の無いままセレソンを率いることになった。
監督就任以降はフレッジ、ロビーニョ、シシーニョなどの若手選手を積極的に起用した。その一方でベテランのカフー、エメルソン、ゼ・ロベルト、ロナウドなどは招集しなかった。
パレイラが重用していたアドリアーノ、カカ、ロナウジーニョからなる通称「カルテット・マジコ」にたいしては「前線にアタッカーを4人並べる危険なことはしない」と否定的である。流れるようなパスワークといった芸術性よりも、規律を遵守した組織的な守備重視の戦術を採用しておりブラジルのメディアからはつまらないサッカーだと批判されていた[1]。
南アフリカW杯の南米予選においては前半戦で3試合連続無得点を記録し一時は5位にまで後退したため、スタジアムのファンからブーイングを浴び、試合のたびに「Adeus Dunga(さらばドゥンガ)」の合唱が起こり、メディアからも厳しく批判されたがその後は持ち直し、9月に行われたアウェーのアルゼンチンに3-1で勝利し第1回大会から19回連続となるW杯出場を決めた[2]。
しかし、本大会では優勝候補とされながら準々決勝で敗退。この責任を問われ、解任された[3]。
[編集] アル・ラーヤン
2011年8月29日、アル・ラーヤンSCの監督に就任した[4]。
[編集] 評価・プレースタイル
派手なタイプの選手ではなく足も速くないが、フィジカルが強く、危機察知能力に長け、長短織り交ぜた正確なパスでゲームの流れをコントロールした。 本人は著書で危機察知能力に長けていると自負していた。
守備能力やリーダーシップに対して足元の技術は大雑把と想像しがちだが、1998年ワールドカップではFKのキッカーを務めていた。W杯のPK戦では94年アメリカ大会決勝のイタリア戦、98年フランス大会準決勝のオランダ戦でいずれもブラジルの4番目のキッカーとして登場しブラジルの勝利に貢献している。また筋肉番付(TBSテレビ)の「キックターゲット」で最初のパーフェクト達成者でもある。94年W杯ではマウロシルバと中盤の底を担い、日本におけるダブルボランチという用語の知名度を高めた。
気が強くとても負けず嫌いであり、味方が少しでもミスをすると烈火の如く怒り始める。「鬼軍曹」といわれるのはそこに由来する。この性格をあまり快く思っていない選手もいたが、本人もチームのためにとあえてやっていた所もあり(本人によれば、自分がミスが多い時も必死に気持ちを抑え、周りには言いつづけたという)、代表には不可欠な選手だった。
セレソンでのチームメイトだったアウダイールにも「彼ほどチームのために全てをなげうってプレーできる選手はいない」と評価されていた。
[編集] エピソード
- 不慣れな右サイドバックに挑戦していた今野章に、ハーフタイム中ポジショニングの講義を始めた映像がサッカー番組でドゥンガを扱う時に頻繁に使用され、一時おなじみとなっていた。
- 山西尊裕がフリーキックを蹴ろうとしたとき、邪魔だと突き飛ばしたことがある。ただドゥンガはインタビューなどでしばしば山西について語り、彼の向上心の強さや真面目さを高く評価している。
- 引退した理由については、インテルナシオナルが同地域のライバルであるグレミオと対戦した際、グレミオの若いMFに軽々とかわされてしまい、自分の老いを自覚したからだったという。その選手は当時19歳のロナウジーニョであった。
- 自著によれば、殺人・窃盗等が頻発するセレソンの宿舎に耐えかねて何度も逃げ出そうと試みたという。一説によればドゥンガのその恐ろしい顔に代表メンバーが逃げ出したとも伝えられている。
- ジュビロ時代のチームメイトだった福西崇史は「今思い出しても、やたらに口うるさいオヤジだった」と発言している。
- ジュビロ磐田以外にも横浜フリューゲルスからオファーがあったが、条件が良かったジュビロ磐田を選んだと語っている(週刊サッカーダイジェスト 1999年3月10日号)。
- 1998 FIFAワールドカップ開幕戦(対スコットランド代表)でMVPを獲得した際、試合後のコメントでブラジル人記者に対して、日本サッカーへの想いを表現している。「どうだ、見てみろ。これで日本のJリーグに行った選手はセレソンに選ばれないというくだらない噂はもう終わりにしてくれ。レオナルド(1994‐96、鹿島所属)は素晴らしいプレーを見せたし、サンパイオ(1995‐98、横浜F所属)はゴールを決めた。私自身もこのように今日の試合のMVPに選ばれた。もはや日本はサッカー後進国ではない。私はJリーグと日本サッカーに感謝している」
- 多くの日本の選手・サポーターに愛された時代とは対照的に、監督経験のないままブラジル代表監督に就任したことに加え、ワールドカップ南米予選において他を圧倒する成績を収めていないこと、さらには、選手の個人技を生かした攻撃的サッカーから、つまらないとも称された守備的サッカーに変貌させた事から、2009年のコンフェデレーションカップで優勝するまでブラジルのサッカーメディアおよびサポーターの多くから解任を求める声が度々あがった。
- 日本代表に対する発言も時折行っており、2006 FIFAワールドカップにおける敗因について日本語で「お水ください」とからかうように発言した[要出典]。
[編集] 所属クラブ
- 1980年-1984年
SCインテルナシオナル - 1985年
コリンチャンス - 1986年
サントスFC - 1987年
CRヴァスコ・ダ・ガマ - 1987年-1988年
ピサ - 1988年-1992年
フィオレンティーナ - 1992年-1993年
ペスカーラ - 1993年-1995年
VfBシュトゥットガルト - 1995年-1998年
ジュビロ磐田 - 1999年
SCインテルナシオナル
[編集] 個人タイトル
- 1997年 - JリーグMVP・Jリーグベストイレブン
- 1998年 - Jリーグベストイレブン
[編集] 代表歴
- ブラジル代表(91試合6得点)1983-1998
- 1989 コパ・アメリカ(優勝)
- 1990 FIFAワールドカップ(ベスト16、4試合0得点)
- 1994 FIFAワールドカップ(優勝、7試合0得点)
- 1995 コパ・アメリカ(準優勝)
- 1997 コパ・アメリカ(優勝)
- 1998 FIFAワールドカップ(準優勝、7試合0得点)
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
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| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 1980 | インテルナシオナル | ||||||||||
| 1981 | インテルナシオナル | ||||||||||
| 1982 | インテルナシオナル | ||||||||||
| 1983 | インテルナシオナル | ||||||||||
| 1984 | インテルナシオナル | ||||||||||
| 1985 | コリンチャンス | ||||||||||
| 1986 | サントス | ||||||||||
| 1987 | ヴァスコ・ダ・ガマ | ||||||||||
| イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 1987-88 | ピサ | セリエA | 23 | 2 | |||||||
| 1988-89 | フィオレンティーナ | セリエA | 30 | 3 | |||||||
| 1989-90 | フィオレンティーナ | セリエA | 28 | 0 | |||||||
| 1990-91 | フィオレンティーナ | セリエA | 33 | 1 | |||||||
| 1991-92 | フィオレンティーナ | セリエA | 33 | 4 | |||||||
| 1992-93 | ペスカーラ | セリエA | 23 | 3 | |||||||
| ドイツ | リーグ戦 | リーグ杯 | DFBポカール | 期間通算 | |||||||
| 1993-94 | シュトゥットガルト | ブンデス1部 | 27 | 4 | |||||||
| 1994-95 | シュトゥットガルト | ブンデス1部 | 26 | 3 | |||||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1995 | 磐田 | - | J | 25 | 1 | - | 2 | 0 | 27 | 1 | |
| 1996 | 磐田 | - | J | 20 | 4 | 13 | 0 | 1 | 0 | 34 | 4 |
| 1997 | 磐田 | 8 | J | 26 | 5 | 11 | 1 | 0 | 0 | 37 | 6 |
| 1998 | 磐田 | 8 | J | 28 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 28 | 6 |
| ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 1999 | インテルナシオナル | 16 | 1 | ||||||||
| 通算 | ブラジル | ||||||||||
| イタリア | セリエA | 170 | 13 | ||||||||
| ドイツ | ブンデス1部 | 53 | 7 | ||||||||
| 日本 | J | 99 | 16 | 24 | 1 | 3 | 0 | 126 | 17 | ||
| 総通算 | |||||||||||
その他の公式戦
- 1998年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
[編集] 指導歴
[編集] 著書
- 「セレソン」、日本放送出版協会、1998年
- 「PROFESSIONAL勝者の条件―勝ち残る者と敗れ去る者の違いとは」、経済界 、1998年
[編集] 参照
[編集] 外部リンク
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