サッカーフランス代表
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|---|---|---|---|---|
| 国または地域 | ||||
| 協会 | フランスサッカー連盟 | |||
| 愛称 | Les Bleus、Le coq | |||
| 監督 | ローラン・ブラン | |||
| 最多出場選手 | リリアン・テュラム(142試合) | |||
| 最多得点選手 | ティエリ・アンリ(51得点) | |||
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| 初の国際試合 | 1904年5月1日対ベルギー 3-3 |
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| 最大差勝利試合 | 1995年9月6日対アゼルバイジャン 10-0 |
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| 最大差敗戦試合 | 1908年10月22日対デンマーク 0-17 |
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| FIFAワールドカップ | ||||
| 出場回数 | 13回 (初出場は1930) | |||
| 最高成績 | 優勝(1998) | |||
| UEFA欧州選手権 | ||||
| 出場回数 | 7回 | |||
| 最高成績 | 優勝(1984、2000) | |||
サッカーフランス代表(Équipe de France de football)はフランスサッカー連盟(FFF)によって編成されるフランスのサッカーのナショナルチームである。愛称はレ・ブルー(Les bleus - 「青」の複数形)、ル・コック(Le coq - 「雄鶏」の意)。
目次 |
[編集] 概要
初めての国際試合は、1904年5月1日にベルギーのブリュッセルで開催されベルギー代表との試合で、3-3の引き分けであった。ベルギーとは1917年の第一次世界大戦の終戦以降、その同盟を記念して長らく定期戦が実施されていた関係の深い間柄である。イタリア代表に対してライバル意識が強く、国際大会で数々の名勝負を繰り広げている(詳細はサッカーにおけるイタリアとフランスのライバル対決を参照)。
長らくタイトルを獲れない時期が続いたが、1984年に自国開催のUEFA欧州選手権で初戴冠。20世紀後半から21世紀初頭にかけては、1998年ワールドカップフランス大会での優勝、2000年のUEFA欧州選手権優勝した。
FIFAランキングで首位に立った経験をもつ7カ国のうちの1つ。ワールドカップ、コンフェデレーションズカップ、オリンピック、欧州選手権全てを制覇した唯一の欧州国でもあり世界でも屈指の強豪国である。
[編集] 歴史
[編集] 初期
ワールドカップへは、生みの親とも言える功労者ジュール・リメが当時FIFA会長だったこともあってヨーロッパのナショナルチームとしては珍しく第1回大会から出場している。記念すべきワールドカップ初ゴールを決めたのも他ならぬフランス代表のリュシアン・ローランであった。
フランス代表が最初にその名を世界に轟かせたのは1958年スウェーデン大会である。「ナポレオン」の異名を取ったレイモン・コパのパスを受けたFWジュスト・フォンテーヌはゴールを量産し、大会中2度のハットトリックを含む13得点という記録を残して大会得点王に輝いた。このフォンテーヌの記録は後に西ドイツのゲルト・ミュラー、ブラジルのロナウド、ドイツのミロスラフ・クローゼによって破られるが、彼らの記録は2~3大会分を通算してのゴール数であるため、1大会で達成した記録としては現在でも誰にも破られていない。なお、フランスは準決勝でブラジルに敗れたものの、西ドイツを破って3位に入る健闘を見せた。
[編集] プラティニの時代
レイモン・コパに続いて「将軍」「ナポレオン」と呼ばれたミシェル・プラティニを中心にして、1978-1986年までワールドカップに3回連続して出場した時期が第2の黄金期である。アラン・ジレス、ジャン・ティガナ、ベルナール・ジャンジニ、ルイス・フェルナンデスらと組んだ中盤が「シャンパンの泡が弾けるように」軽やかにパスを繋げる姿は、シャンパン・フットボールと呼ばれて賞賛された。
1984年自国開催の欧州選手権にて初めての国際タイトルを獲得した。この大会ではプラティニが得点王となるなどの大活躍を見せ、正に絶頂期であった(1998年大会でのユニフォームはこの年のデザインを踏襲したものである)。しかしワールドカップでは1982年スペイン大会、1986年メキシコ大会と共に準決勝にて西ドイツに敗れた。
殊に82年の西ドイツ戦は1-1のまま延長へ突入し、前半マリユス・トレゾール、アラン・ジレスのゴールによる2点のリードで勝負あったかに見えたが、延長前半終了間際にカール=ハインツ・ルンメニゲの、延長後半にクラウス・フィッシャーのゴールで3-3の同点に追いつかれ、ワールドカップ史上初となるPK戦の末に散った。更に延長後半にパトリック・バチストンがハラルト・シューマッハーとの激突事故で重傷を負ったことも悲劇性を高めた。しかし、この1982年の準決勝・西ドイツ戦は1986年の準々決勝・ブラジル戦と並んでワールドカップ史上に残る試合として評価され、具体例に挙げられることも多い。
プラティニらが退いた後は低迷期に入り、ワールドカップ出場も2回連続で逃した。1990年イタリア大会のヨーロッパ地区予選ではホームゲームに3勝1分と無敗ながらもアウェーでドラガン・ストイコビッチらを擁するユーゴスラビアとスコットランドに敗れた上に格下のノルウェー、キプロスと引き分けてしまうなど2敗2分に終り1勝も出来なかったのが響いて敗退。1994年アメリカ大会のヨーロッパ地区予選ではエリック・カントナ、ジャン・ピエール・パパンらを擁して前評判も高かったが、残りホーム2試合で勝ち点1を取ればいい状況からイスラエルとブルガリアに2連敗を喫し、土壇場で出場権を逃した。殊に最終戦のブルガリア戦はパリの悲劇と呼ばれた。
[編集] ジダンの時代
1998年のワールドカップに出場したチームからは、見た目で分かる変化を遂げている。アフリカや、カリブ海などのフランスの海外県、若しくは旧植民地からの移民、若しくはその子孫の選手が増えたのである。それまでのフランス代表は白人主体のチーム構成であったが、このチームを境にして有色系が混じり始めた。
地元開催の前回大会となる1994年アメリカ大会の出場を逃すと、フランスは危機感を強め代表監督にエメ・ジャケを据えた。ジャケはそれまでの伝統的な白人主体のチーム構成に、アフリカやカリブからの移民、その子孫を入れ始めた。その象徴となったのが、新フランス代表の中心選手となったアルジェリア系ベルベル人の子ジネディーヌ・ジダンである。
フランス代表にはそれ以前に移民やその子孫が存在していなかったわけではなかった。レイモン・コパはポーランド系移民で、プラティニもイタリア系の移民であった。しかしこの目に見えるフランス代表の変質はフランスの国粋主義者によって罵倒されることになった。この代表格である極右政党国民戦線のリーダージャン=マリー・ルペンは「ラ・マルセイエーズを歌えない者にフランス代表が務まるか」と発言して物議をかもした。またジャケのもとには彼等を代表から外すようにとの脅迫が舞い込んだ。
この批判をかわしたのが、1998年のワールドカップでの優勝である。1998年7月12日、スタッド・ド・フランスで優勝を決めたフランス代表がシャンゼリゼ通りに凱旋すると、通りはトリコロールで埋め尽くされ、熱狂の渦と化した。以降ジダンを初めとするフランス代表の移民の子孫たちは、フランス社会における移民の成功者、代弁者として扱われるようになった。2002年の日韓大会を直前にして、フランス大統領選挙でのルペンの躍進に際してジダンが政治的なメッセージを発したことにも関連する。
[編集] 黄金期とその終焉
1998年ワールドカップの優勝後、チームはエース・ジダンの不調などで精彩を欠き、UEFA欧州選手権2000予選も苦戦の連続であったが、突破を果たすと欧州選手権2000本大会では安定した試合運びで勝利を重ね、決勝では終了間際の逆転劇でイタリアを下し、プラティニを擁した1984年以来2度目の欧州チャンピオンに輝いた。この大会ではティエリ・アンリ、ダビド・トレゼゲなど若手のFW陣が完全に一人立ちし攻撃力は向上した。
この欧州選手権の優勝により、フランス代表は黄金期を迎えた。日本をスタッド・ド・フランスで5-0で破ったのもこの時期である。日本と韓国で開かれたFIFAコンフェデレーションズカップ2001でもジダンを欠くチームで優勝。翌年の日韓ワールドカップの優勝候補の筆頭に挙げられていた。
しかし、日韓ワールドカップではジダンの負傷欠場やディフェンスラインの高齢化などもあって精彩を欠き、初戦のセネガル戦を0-1で落とした。その後ウルグアイとはスコアレスドローに終わり、グループリーグ突破を賭けたデンマーク戦にジダンを投入して勝負に出るも0-2で敗れ1得点も挙げられないまま3戦2敗1分で1次リーグ敗退に終わった。前回優勝国が1次リーグで敗退という結果は、1966年のイングランド大会におけるブラジル以来36年ぶりのことであった。
UEFA欧州選手権2004予選では8戦全勝で突破を果たし、FIFAコンフェデレーションズカップ2003で同大会の連覇を果たすものの、欧州選手権2004本大会では準々決勝で、この大会で優勝したギリシャに敗れた。
大会後ジダンら主力選手が引退するとチームは迷走。ドイツワールドカップ予選突破を危ぶまれたが、代表引退を表明していたジダンやリリアン・テュラム、クロード・マケレレといった選手が復帰すると連勝を続け本大会出場を決めた。本大会でもベテラン勢が尻上がりに調子を上げ決勝まで駆け上がったが、このことは、あらためて黄金時代のメンバーの存在の大きさを印象付けると同時に、彼らの後継者選びという避けては通れない問題を先延ばしする結果にもなった。ベテラン勢が最後の輝きを見せたドイツ大会だが、代表選手の平均年齢は30歳で大会最年長であった。大会最大の発見ともいわれたフランク・リベリーの活躍などの明るい材料もあったが、ジダンらの抜ける後のチームをどうするかという問題の解決は大会後に委ねられることになった。
UEFA欧州選手権2008予選ではグルジアに連勝、更に2006ワールドカップ優勝のイタリアにも勝利し、幸先の良いスタートを切った。2007年10月17日にはアンリの2得点でリトアニアを撃破。この得点でアンリはミシェル・プラティニの持つ代表最多得点記録を更新する。フランスはこの予選B組をイタリアに続く2位で終了。本大会ではまたもイタリアと同組、さらにオランダ・ルーマニアがいるという「死のグループ」に割振られた。フランスはバイエルン・ミュンヘンにおいてリーグMVPを受賞するなど一流選手として成長したリベリーを中心として、テュラムやマケレレといったベテラン陣とサミル・ナスリやカリム・ベンゼマなど準レギュラーとして定着した期待の若手を織り交ぜたチームで臨んだ。しかし、初戦のルーマニア戦を0-0で引き分けると続くオランダ戦では1968年以降、公式戦における最悪のスコアとなる4-1で敗戦。3戦目のイタリア戦では早い時間帯でのアビダルの退場(PKを献上)、その直後のリベリーの左足首の負傷退場(全治2ヶ月)などの不運も重なり、2-0で敗戦。結果、1勝もできず2002年ワールドカップに続き、グループリーグのみで大会を去った。テュラムとマケレレは改めて代表引退を表明、レイモン・ドメネク監督は激しく批判されたが、フランスサッカー協会は「クラブ・フランス2010(2005年に創設された、フランス代表の管理議会)の監視下に置く」という条件付で監督続行を支持。
南アフリカワールドカップに向けた強化策として、かつてのワールドチャンピオンであったアラン・ボゴシアンをドメネクのスタッフに迎え入れた。予選でフランスはルーマニア、セルビア、リトアニア、フェロー諸島、オーストリアで構成される第7グループに振り分けられた。ここではリベリーに加え、グルキュフやロリスらの若手を起用、ニコラ・アネルカも代表に定着し、個々の能力は世界屈指と言われながら、またも苦戦し、セルビアに続く2位で予選を終了。この結果、本戦出場に向けてプレーオフを戦わなければならなくなる。プレーオフを戦う代表国の中でFIFAランキングにおいて最上位であったことから、アイルランドと対戦。アンリのハンドによるアシストからのギャラスの得点で辛うじて本大会出場を決めたが、これについては多くの物議を醸した。 2010年3月、本大会に向けホームのスタッド・ドゥ・フランスで行われたスペインとの親善試合では試合中に「ドメネク解任」コールや大ブーイングが起こるほどの醜態で大敗。監督の求心力低下に加え、リベリーやゴブーらの淫行疑惑、チーム内の人間関係悪化、一体感の無さなどが指摘され、プレー以前の問題を抱えたまま南アフリカ入りすることとなる。
本大会グループリーグでは開催国の南アフリカ、メキシコ、ウルグアイと同じA組で、これは比較的恵まれた割り振りとされていたにもかかわらず、精彩を欠き続けたフランス代表は初戦のウルグアイ戦を引き分けるとメキシコに敗戦。また、2戦目のハーフタイム中にアネルカが監督に暴言を吐いたとして強制帰国を命じられ、これに反発した選手達がサッカー連盟への抗議として練習をボイコットする事件が起こり、チームディレクターが辞任。騒動の収拾の為、ニコラ・サルコジ大統領が介入する事態にまで発展するスキャンダルとなった。チームが崩壊状態のままグループリーグ最終戦の南アフリカにも敗れ、2敗1分で勝ち点・得点共に1に終わり、グループリーグ最下位で敗退。大会後、ディエリ・アンリが代表引退を発表した[1]。
[編集] 2010ワールドカップ南アフリカ大会後
ワールドカップ・南アフリカ大会が終わると、フランスサッカー連盟(FFF)はレイモン・ドメネクの契約を更新せず、ローラン・ブランを後任として招聘した。
新生フランス代表は2010年8月11日にノルウェーとの親善試合で再スタートを切るが、この試合は2-1で敗戦した。ローラン・ブランは南アフリカ大会に選出された代表選手23名をメンバー入りさせない事を発表し、同年9月3日に始まったEURO2012の予選に突入。この公式戦において、ブランはブレーズ・マチュイディ、ジェレミー・メネズ、アディル・ラミといった数多くの選手を初選出、これまで何度かしか選出されなかったムサ・シソコ、ロイク・レミー、ジミー・ブリアンといった選手達や、更に南アフリカ大会にドメネクが呼ばなかったサミル・ナスリ、ハテム・ベン・アルファ、カリム・ベンゼマを招集し、ママドゥ・サコー、ベノワ・トレムリナスのような、プレーの機会が与えられなかった若い選手達と融合させた。この選出については賛否両論を引き起こした。
2012年にポーランドとウクライナで開催されるEURO2012では、ベラルーシ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ルーマニア、ルクセンブルク、アルバニアとの予選を1位通過した。
[編集] 成績
[編集] FIFAワールドカップ
| 開催国 / 年 | 成績 | 試 | 勝 | 分 | 負 | 得 | 失 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1次リーグ | 3 | 1 | 0 | 2 | 4 | 3 | |
| 1回戦 | 1 | 0 | 0 | 1 | 2 | 3 | |
| ベスト8 | 2 | 1 | 0 | 1 | 4 | 4 | |
| 予選敗退 | |||||||
| 1次リーグ | 2 | 1 | 0 | 1 | 3 | 3 | |
| 3位 | 6 | 4 | 0 | 2 | 23 | 15 | |
| 予選敗退 | |||||||
| 1次リーグ | 3 | 0 | 1 | 2 | 2 | 5 | |
| 予選敗退 | |||||||
| 1次リーグ | 3 | 1 | 0 | 2 | 5 | 5 | |
| 4位 | 7 | 3 | 2 | 2 | 16 | 12 | |
| 3位 | 7 | 4 | 2 | 1 | 12 | 6 | |
| 予選敗退 | |||||||
| 優勝 | 7 | 6 | 1 | 0 | 15 | 2 | |
| 1次リーグ | 3 | 0 | 1 | 2 | 0 | 3 | |
| 準優勝 | 7 | 4 | 3 | 0 | 9 | 3 | |
| 1次リーグ | 3 | 0 | 1 | 2 | 1 | 4 | |
| 合計 | 出場13回/優勝1回 | 54 | 25 | 11 | 18 | 96 | 68 |
[編集] FIFAコンフェデレーションズカップ
(出場した大会のみ表記)
[編集] UEFA欧州選手権
| 開催国 / 年 | 成績 | 試 | 勝 | 分 | 負 | 得 | 失 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 4位 | 2 | 0 | 0 | 2 | 4 | 7 | |
| 予選敗退 | |||||||
| 優勝 | 5 | 5 | 0 | 0 | 14 | 4 | |
| 予選敗退 | |||||||
| 1次リーグ | 3 | 0 | 2 | 1 | 2 | 3 | |
| ベスト4 | 5 | 2 | 3 | 0 | 5 | 2 | |
| 優勝 | 6 | 5 | 0 | 1 | 13 | 7 | |
| ベスト8 | 4 | 2 | 1 | 1 | 7 | 5 | |
| 1次リーグ | 3 | 0 | 1 | 2 | 1 | 6 | |
| 合計 | 出場7回/優勝2回 | 28 | 14 | 7 | 7 | 46 | 34 |
[編集] 歴代監督
| 氏名 | 期間 | 試合 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1936 - 1945 | 124 | 39 | 13 | 72 | ||
| 1945 - 1949 | 21 | 10 | 2 | 9 | ||
| 1949 - 1953 | 30 | 13 | 7 | 10 | ||
| 1953 - 1954 | 4 | 1 | 1 | 2 | ||
| 1954 - 1956 | 11 | 5 | 3 | 3 | ||
| 1956 - 1960 | 36 | 18 | 9 | 9 | ||
| 1960 - 1964 | 22 | 4 | 6 | 12 | ||
| 1962 - 1966 | 15 | 5 | 4 | 6 | ||
| 1966 | 4 | 2 | 0 | 2 | ||
| 1967 | 2 | 0 | 0 | 2 | ||
| 1967 - 1968 | 9 | 2 | 3 | 4 | ||
| 1969 - 1973 | 31 | 15 | 5 | 11 | ||
| 1973 - 1975 | 15 | 6 | 4 | 5 | ||
| 1975 - 1984 | 75 | 41 | 16 | 18 | UEFA欧州選手権1984優勝 | |
| 1984 - 1988 | 36 | 16 | 12 | 8 | ||
| 1988 - 1992 | 29 | 16 | 8 | 5 | ||
| 1992 - 1993 | 12 | 7 | 1 | 4 | ||
| 1994 - 1998 | 53 | 34 | 16 | 3 | 1998 FIFAワールドカップ優勝 | |
| 1998 - 2002 | 53 | 34 | 11 | 8 | UEFA欧州選手権2000優勝 FIFAコンフェデレーションズカップ2001優勝 |
|
| 2002 - 2004 | 28 | 22 | 4 | 2 | FIFAコンフェデレーションズカップ2003優勝 | |
| 2004 - 2010 | 79 | 41 | 24 | 14 | 2006 FIFAワールドカップ準優勝 | |
| 2010 - |
[編集] 選手
並びはキャップ数順。太字は現役選手。
[編集] GK
[編集] DF
- リリアン・テュラム
- マルセル・デサイー
- ローラン・ブラン
- ビセンテ・リザラズ
- ウィリアム・ギャラス
- マニュエル・アモロ
- マキシム・ボッシ
- マリユス・トレゾール
- ウィリー・サニョル
- パトリック・バチストン
- エリック・アビダル
- フランク・ルブフ
- バジール・ボリ
- ヴァンサン・カンデラ
- ジョスリン・アングロマ
- パトリス・エヴラ
- バカリ・サニャ
- セバスティアン・スキラッチ
- ガエル・クリシー
- アディル・ラミ
- ママドゥ・サコー
- ローラン・コシールニー
- フィリップ・メクセス
- アントニー・レヴェイエール
- ユネス・カブール
[編集] MF
- ジネディーヌ・ジダン
- パトリック・ヴィエラ
- ディディエ・デシャン
- ユーリ・ジョルカエフ
- ロベール・ピレス
- ミシェル・プラティニ
- クロード・マケレレ
- フローラン・マルダ
- エマニュエル・プティ
- ルイス・フェルナンデス
- アンリ・ミシェル
- クリスティアン・カランブー
- ジャン・ティガナ
- フランク・リベリー
- アラン・ジレス
- フランク・ソゼー
- ベルナール・ジャンジニ
- ダヴィド・ジノラ
- ジェレミー・トゥララン
- アルー・ディアッラ
- ラッサナ・ディアッラ
- ヨアン・グルキュフ
- サミル・ナスリ
- ヤン・エムヴィラ
- ブレーズ・マテュイディ
- ヨアン・キャバイェ
- マチュー・ヴァルブエナ
- アブー・ディアビ
- マルヴァン・マルタン
- シャルル・エンゾグビア
[編集] FW
[編集] キャップ
| 位 | 名前 | キャップ数 | 期間 |
|---|---|---|---|
| 1 | リリアン・テュラム | 142 | 1994-2008 |
| 2 | ティエリ・アンリ | 118 | 1997-2010 |
| 3 | マルセル・デサイー | 116 | 1993-2004 |
| 4 | ジネディーヌ・ジダン | 108 | 1994-2006 |
| 5 | パトリック・ヴィエラ | 107 | 1997-2009 |
| 6 | ディディエ・デシャン | 103 | 1989-2000 |
| 7 | ビセンテ・リザラズ | 97 | 1992-2004 |
| 7 | ローラン・ブラン | 97 | 1989-2000 |
| 9 | シルヴァン・ヴィルトール | 92 | 1999-2006 |
| 10 | ファビアン・バルテズ | 87 | 1994-2007 |
[編集] 得点
| 位 | 名前 | 得点数 | キャップ数 | 期間 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | ティエリ・アンリ | 51 | 118 | 1997-2010 |
| 2 | ミシェル・プラティニ | 41 | 72 | 1976-1986 |
| 3 | ダビド・トレゼゲ | 34 | 71 | 1998-2008 |
| 4 | ジネディーヌ・ジダン | 31 | 108 | 1994-2006 |
| 5 | ジュスト・フォンテーヌ | 30 | 21 | 1953-1960 |
| 5 | ジャン=ピエール・パパン | 30 | 54 | 1986-1997 |
| 7 | ユーリ・ジョルカエフ | 28 | 82 | 1993-2002 |
| 8 | シルヴァン・ヴィルトール | 26 | 92 | 1999-2006 |
| 9 | ジャン・ヴァンサン | 22 | 46 | 1953-1961 |
| 10 | ジャン・ニコラ | 21 | 25 | 1933-1938 |
[編集] 脚注
- ^ 空中分解したフランス代表。グループリーグ敗退の真相。~前回準優勝国を蝕んだ人間関係~ -NumberWeb: 2010年7月1日
[編集] 外部リンク
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