ジネディーヌ・ジダン
|
||||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | ||||||
| 本名 | Zinedine Yazid Zidane | |||||
| 愛称 | ジズー(zizou) | |||||
| カタカナ | ジネディーヌ・ヤジッド・ジダン | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 | ||||||
| 生年月日 | 1972年6月23日(40歳) | |||||
| 出身地 | マルセイユ | |||||
| 身長 | 185cm | |||||
| 体重 | 80kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | MF | |||||
| 利き足 | 右足 | |||||
| ユース | ||||||
| 1982-1983 1983-1986 1986-1988 |
||||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
| 1988-1992 1992-1996 1996-2001 2001-2006 |
61 (6) 139 (28) 151 (24) 155 (37) |
|||||
| 代表歴 | ||||||
| 1994-2006[1] | 108 (31) | |||||
| 1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
||||||
ジネディーヌ・ジダン(仏語:Zinedine Yazid Zidane 発音例, カビル語:Zinəddin Lyazid Zidan、1972年6月23日 - )は、フランス国籍の元サッカー選手。「ジダヌ」と表記されることもある。
目次 |
概要 [編集]
愛称はジズー(zizou)[2][3]。また、かつてのフランス代表で背番号10を背負ったミシェル・プラティニと同じく将軍と呼ばれることもある。
1990年代後半から2000年代前半にかけて「世界最高のサッカー選手」と称えられ[4]、クラブ・代表を通じて攻撃的ミッドフィールダーのポジションで活躍。高いテクニックとボールコントロール、キープ力などから宇宙人とも称され[5]、FIFA最優秀選手賞、バロンドール、ゴールデンボール賞などの個人タイトルに加え、ワールドカップ、欧州選手権、トヨタカップ、チャンピオンズリーグなどの主要タイトルをすべて制覇。FIFA100選にも名を連ねている。UEFAゴールデンジュビリーポールからは、フランツ・ベッケンバウアーやヨハン・クライフらを抑えて欧州における過去50年(1954年~2004年)で最も優れたサッカー選手に選ばれた[6]。
アルジェリア移民2世のカビル人で、マルセイユ北部郊外のラ・カステラン地区の貧困層が多く住む地域で育った[7][8]という自身の出自も手伝って、移民国家の象徴としてフランスではスポーツ選手の枠を超えた人気を誇っている[9][10][11]。
来歴 [編集]
クラブ [編集]
フランス時代 [編集]
ジダンの両親は、アルジェリア戦争が勃発する少し前の1953年にアルジェリアからパリへ移住。1968年にパリからマルセイユへ引っ越した。そこで4男1女の5人兄弟の末っ子として生まれたジダンは、キャプテン翼の影響でサッカーを始め[12]、友人とのストリートサッカーでサッカースキルを磨いた。子供時代は父親の影響で柔道もしており[13]、11歳の時に茶帯を取得した[14]。当時、ジダンはオリンピック・マルセイユのファンであり、特にエンツォ・フランチェスコリやジャン=ピエール・パパンはジダンにとってのアイドルだった[15]。
9歳で地元クラブのASフォレスタに加入すると、すぐにその才能を認められチームキャプテンに抜擢された。10歳の時には隣の地域にあるUSサン=タンリというASフォレスタよりも格上のチームの一員となった。1983年に、SOセプテーム・レ・ヴァロンに加入した。しばしばプロヴァンス地方の選抜チームでもプレーしたが、多くの出場機会には恵まれなかった[16]。14歳の時に参加したエクス=アン=プロヴァンスでの3日間のトレーニングキャンプで、ASカンヌのスカウトであるジャン・ヴァローの目に止まった。再びヴァローが見に来た試合、ジダンは他選手の欠場によってリベロのポジションに入り、決していいプレーを見せることはできなかったものの、ヴァローはカンヌでのトレーニングをジダンに提案した[17]。マルセイユを離れてカンヌでホームステイをする提案にジダンの父親は反対したが、貧しかった一家では受けられない教育を受けさせることができると考えた母親はこれに賛同し、ジダンはマルセイユを離れることになった[18]。
家族の元を離れてカンヌのユースに加入し、1988年にトップチームとプロ契約した。しかし1988-89シーズンのカンヌに当時16歳のジダンを出場させる余裕はなく、経験豊富な選手を重宝した。残留を確保し、リーグ戦残り2試合で迎えたFCナント戦で初招集を受け、試合時間残り12分のところで初出場を果たした。ジダンはゴールポストに直撃するシュートを放ち、資質の片鱗を見せた[13][19]。翌シーズン、ジダンはリーザブチームと共に4部リーグでプレーするよう命じられた[20]。3年目の第3節AJオセール戦で先発出場したが、ジダンはパスミスによって観客からブーイングを受けるなどし、0-3で敗戦した。その後4試合先発から外された後にFCナント戦で復帰。1990年9月23日、地元クラブでありサポーターもしていたオリンピック・マルセイユとの試合でも活躍を見せ、この試合をきっかけにジダンは輝きを取り戻した。オセールとの2試合目では3-0で勝利して雪辱を果たし、11月24日から3月23日まで14連勝した。1991年年2月10日のナント戦でプロ初得点を挙げ、それに対する特別ボーナスとして会長からルノー・クリオをプレゼントされた。3月24日のオリンピック・マルセイユ戦では試合にこそ敗れたものの、フランス・フットボールから「ディビジョン1で最も才能に恵まれた選手」と評された[21]。1991-92シーズンは、UEFAカップでの躓きがきっかけでチームは勢いを失い、リーグの前半戦終了時で17位と低迷。パリで兵役に参加していたジダンの疲労も深刻であったが、それでも試合によっては輝きを放った。シーズン終了後、350万フラン+4選手でFCジロンダン・ボルドーへ移籍[22]。
移籍初シーズンは、左の守備的MFとしてプレー。35試合に出場して10得点を挙げ、UEFAカップ出場権を得た。1994年にはリーグ・アンの最優秀若手選手に選ばれた。1995年、ブラックバーン・ローヴァーズFCの監督をしていたケニー・ダルグリッシュがジダンとクリストフ・デュガリーの獲得に興味を示すも、会長は「ティム・シャーウッドがいるのに何故ジダンを欲しがるのか?」と語り、獲得することはなかった[23]。1996年にはインタートトカップを勝ち上がり出場したUEFAカップで決勝まで進出。4回戦レアル・ベティス戦での35メートルのシュートや3-0で勝利を収めた準々決勝ACミラン戦2nd legなど印象的なプレーを披露。決勝では敗れたものの、ユヴェントスの首脳陣をして「ミシェル・プラティニの後継者をみつけた」と言わしめた[13]。
イタリア、スペイン時代 [編集]
1996年7月、移籍金3,500万フランでユヴェントスへ移籍。「海兵隊長」のニックネームで呼ばれるフィジカルコーチのジャンピエロ・ヴェントローネのフィジカルトレーニングとメディカルスタッフのケアによって強靭な肉体を手に入れた[24]。移籍当初は低調であり多くの批判を受けたものの、当時監督だったマルチェロ・リッピはジダンを起用し続けた[25][26]。リッピはジダンの最も適したポジションを試行錯誤し、当初のセントラルMFから2トップの下の攻撃的なポジションに置いた。そのことから徐々にチームに順応し、10月20日のインテル戦をきっかけにユヴェントスのファンから認められ始めた。試合前にチームメイトのラファエレ・アメトラーノから「今日、お前はゴールを決めて俺達を勝たせる」と言われていたジダンは、得点を決めた後ベンチのアメトラーノを指さして駆け寄り抱擁を交わした[27]。このシーズン、ユヴェントスはセリエA、インターコンチネンタルカップ優勝を飾り、ジダンはキャリア初のメジャータイトルを獲得した。
その後、ユヴェントスには5シーズン在籍し、デルピッポと称されたアレッサンドロ・デル・ピエロとフィリッポ・インザーギの2トップを操るトップ下の位置でプレー。2度のリーグ優勝に貢献したほか、UEFAチャンピオンズリーグにも1996-97、1997-98シーズンと2年連続で決勝進出を果たした。しかし、ジダンが移籍する前の1995-96シーズンでユヴェントスはUEFAチャンピオンズリーグを優勝しており、レキップ紙はジダンを不吉の象徴として黒猫と呼んだ[28]。1999-00シーズン、ジダンは好調を維持し、クラブも第26節終了時点で17勝8分1敗の成績でシーズンのほとんどで1位をキープ。しかし最終8試合で4敗を喫し、最終節のペルージャ戦でも0-1で敗戦。2位のSSラツィオが勝利したため、勝ち点1差で優勝を逃した。ジダンは「私たちは1年間こつこつとつらい仕事をしてきたが、最終節ですべてを失った。こんなことならもっと早く負けていればよかった」と悔しさを滲ませた[29]。翌シーズン、カルロ・アンチェロッティは3ボランチを置くフランス代表に近いフォーメーションを敷き、同郷のダビド・トレゼゲも加入した。ユヴェントスは上々のスタートであったが、2000年10月24日、UEFAチャンピオンズリーグのハンブルガーSV戦でジダンはヨヘン・キーンツのファウルに対して頭突きの報復行為を行ったことによって5試合の出場停止処分を受けた。この試合ではエドガー・ダーヴィッツもレッドカードを受けて9人での戦いを強いられ、1-3で敗北した。その翌日のガゼッタ・デロ・スポルトでは「ジダンとダーヴィッツがユーヴェを沈ませた」との見出しで批判された。2週間後のパナシナイコスFC戦でもユヴェントスは負け、UEFAチャンピオンズリーグを予選敗退した。また、より開放的でテクニカルなスペインリーグでのプレーを望んだことやスペイン人の夫人が母国で暮らすためにイタリアを離れたがっていたことなどから、クラブに何度も移籍を訴えた。ユヴェントスのオーナーであったジャンニ・アニェッリは、「問題はジダンじゃなくて奥方にある。私には彼女をどうすることもできない」と語っていた[30]。
2000年8月23日、モナコで行われた欧州サッカー連盟のレセプションで偶然レアル・マドリード会長のフロレンティーノ・ペレスが同じテーブルとなった。その際にペレスは「レアル・マドリードに来たいか?」と英語で書いた紙をジダンに見せて問い、ジダンはそれに「イエス」となぐり書きして答えた[31]。2001年7月、当時史上最高額となる8000万ユーロの移籍金でレアル・マドリードに移籍[13]。
ジダンはユヴェントス時代と同じ背番号21を望んでいたが、サンティアゴ・ソラーリがすでに使用していたため、前年に引退したキャプテンであるマヌエル・サンチスの5番を継いだ[32]。当時のクラブ、代表双方でツートップを組んでいたラウル・ゴンサレスとフェルナンド・モリエンテス、また超攻撃的左SBのロベルト・カルロスや自身と同じくバロンドール受賞経験者のルイス・フィーゴら豪華なタレントを擁し、銀河系軍団と称されたチームの攻撃陣の中心として活躍した[33]。加入当初は親しい友人に「こんなことなら引退してしまいたい」とこぼしたほどマスコミからのプレッシャーに追い詰められ、スペインでの生活への順応にも苦戦していたが徐々にチームに馴染み、特に2001-2002シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝戦、バイエル・レバークーゼン戦での決勝点となったボレーシュートは、CNNなどのメディアでサッカー史上最も素晴らしいゴールの一つと評価され[34]、「永遠に伝説として語られることになるゴール」(レキップ)、「ジダンは神に祝福されている」(フランス・フットボール)と賞賛された[35]。1対1の同点で迎えた前半44分、ロベルト・カルロスが左サイドから送った山なりのボールを、ペナルティエリアの外から左足でダイレクトボレーシュート。ボールは綺麗な弧を描きゴール左上隅に突き刺さった。この美しいゴールが決勝点となり、ジダンはキャリア初のUEFAチャンピオンズリーグ制覇を成し遂げた[36]。
2002-2003シーズンは自身と同じくバロンドール受賞経験者のロナウドが加入し、リーガ・エスパニョーラ、UEFAスーパーカップ、インターコンチネンタルカップ制覇の3冠を達成。しかし、その後はスター偏重によってクラブは攻守のバランスが崩れて低迷し、2003-2004シーズンのスーペルコパ・デ・エスパーニャ制覇が同クラブでの最後のタイトルとなった。ジダンの最終シーズン、セビージャFCを相手にキャリア初のハットトリックを達成した[37]。2005-2006シーズンの途中に、2006 FIFAワールドカップでの引退を発表。2006年5月7日、エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウでの最終戦となるビジャレアルCF戦前に行われた引退式では8万人を超えるファンが集まり、クラブもその日のために「Zidane 2001-2006」と刺繍されたユニフォームを用意した。その試合ではデビッド・ベッカムのクロスから得点も決めた。試合終了1分前にフアン・ラモン・ロペス・カロはジダンを交代させ、花道を提供した。その後、スタンド下の通路でフアン・ロマン・リケルメと抱擁し、ユニフォーム交換を行った[38]。ワールドカップ後に現役を引退した。
フランス代表 [編集]
1988年、スペインのマラガで行われたU-16欧州選手権で、初めてフランス代表としてプレーした。しかし、フランスは予選落ちしてしまい、ジダン自身も良い結果を残すことができなかった[39]。その後も様々なカテゴリでフランス代表に選ばれた。
1994年8月17日、チェコ戦でA代表デビュー。ユーリ・ジョルカエフの負傷によって追加招集されたジダンは、2点ビハインドの状態でコランタン・マルタンに代わり後半18分から出場。途中出場ながら2得点を挙げ[40]、この試合をきっかけに代表に定着した。欧州選手権予選、ジダンは最初の2試合に途中出場したが、2試合とも引き分けに終わり、その後の数試合は出場機会を与えられなかった。1995年4月26日のスロバキア戦で再び招集されると、「キャリアの中で最も重要な試合になる」と語ったこの試合で正ポジションを得たジダンは、フランスの4得点のうち2得点に絡んだ[41]。10月11日にブカレストでのルーマニア戦では、ジダンのハーフボレーでのゴールなどで3-1とホームで5年間無敗を誇ったルーマニアを破った。最終戦サッカーイスラエル代表戦でも2-0で勝利し、欧州選手権出場権を得た。これらの活躍によってジダンは代表での地位を磐石のものとした[42]。
1996年欧州選手権の直前、ジダンはBMWを運転中に時速100kmでガードレールにぶつかる事故を起こしてしまった。大会までに怪我は回復したもののコンディションは悪かったが、エメ・ジャケ監督はエリック・カントナを代表から外してジダンに背番号10に据える決断をした。チームはベスト4に進んだが、自身は「ずっと痛みを抱えながらプレーしており、準決勝では出場を自ら辞退しようとした」と語っている[43]。
1998年、1月28日にスタッド・ド・フランスのこけら落としとなるスペイン戦ではその日唯一の得点を挙げた。同年地元フランスで開催されたワールドカップに出場。グループステージ初戦南アフリカ戦は勝利を収めたが、ジダンは2戦目サウジアラビア戦で相手キャプテンのフアド・アミンを踏みつけ、一発退場となってしまう[44]。ジダンを欠いたフランス代表であったがグループリーグ最終戦でデンマークを2-1で下し、3戦全勝でグループリーグ突破。その後もフランス代表は勝ち進み、決勝戦でジダンはヘディングで2得点をあげるなどの活躍をし、フランスの初優勝に大きく貢献した。その後、優勝のお祝いの際にエッフェル塔にジダンの顔が掲げられた[5]。この活躍で名を上げたジダンは、この年のバロンドール、FIFA最優秀選手賞を受賞。W杯で優勝した22人のメンバー、監督はレジオンドヌール勲章のシュヴァリエ(Chevalier、騎士)の階級を与えられた[45]。2000年の欧州選手権でも優勝し、大会最優秀選手、そして2度目のFIFA最優秀選手賞を受賞した。
前回王者として臨んだ2002年、FIFAワールドカップ・日韓大会では大会直前の韓国との親善試合で左太もも肉離れを起こし、さらにその試合で受けたタックルによって膝も痛めてしまった[46]。その影響でワールドカップ本戦には包帯を巻いて強行出場したデンマーク戦1試合の出場にとどまり、フランス代表も2敗1分の成績でグループリーグで敗退した[47]。
2004年に行われた欧州選手権初戦のイングランド戦では、1点をリードされて迎えた後半90分にジダンのフリーキックから同点にすると、その2分後にティエリ・アンリの得たPKをジダンが決めて劇的な逆転勝利を果たした。しかしその後のフランスは精彩を欠き、ジダンは大会3得点を挙げるも、代表はベスト8で敗退。大会終了後の8月、自身のホームページでのインタビューにて、有望な若手選手に道を譲るために代表引退を発表した[48]。
2005年、フランスがFIFAワールドカップ・ドイツ大会予選敗退の危機に陥るとレイモン・ドメネク監督やキャプテンのパトリック・ヴィエラの説得を受け、ジダンを代表デビューさせたジャケが公式の場で引退を悔やみ、更にはジャック・シラク大統領やスポーツ大臣のジャン=フランソワ・ラムールが代表復帰のために尽力すると言った。そうした後押しの中でクロード・マケレレ、リリアン・テュラムと共にフランス代表に復帰することをオフィシャルサイトで表明[49][50]。携帯電話会社のオレンジグループは、代表復帰発表の翌日に、フランスの新聞各紙に「Tu nous as tellement manque! (あなたがいなくてどれだけ寂しかったか!)」という広告と共にジダンのインタビューが有料で聞くことができる電話番号を掲載[51]。レキップ紙は「彼が戻ってくる!」と見出しを掲げ、国家的な大事件として扱われた[52]。復帰発表の2週間後に行われたフランス世論研究所の調査では、73%の人がワールドカップ本大会に出場できると答えた。復帰後初戦のコートジボワール戦では3-0での勝利に貢献。アンリは「神が帰ってきた」とコメントした[53]。ヴィエラからキャプテンマークを譲り受け、予選敗退危機にあったフランスを本大会出場へ導いた。
大会後の引退を公言して臨んだ本大会では、グループリーグ序盤では低調だったものの、試合を重ねるごとに復調し、フランスも決勝戦まで進出した。準々決勝ブラジル戦ではアンリの決勝ゴールをアシストし、この試合のMVPに選ばれた。これまでジダンのアシストからアンリがゴールを決める場面は、共に出場したフランス代表55試合で1つもなく、メディアからの批判を受けていた[54]が、これが初めてにして唯一のアシストとなった。試合後、ペレはジダンについて「魔法使いだった」と賞賛した。準決勝はリカルド・カルヴァーリョがアンリを倒したことによって得たPKを決め、その得点が決勝点となってポルトガル代表を下した。これによりポルトガル代表の19連勝及び前回大会でブラジル代表を率いていたルイス・フェリペ・スコラーリのワールドカップ12試合負けなしの記録をストップさせた[55]。試合後は、レアル・マドリード時代のチームメイトであり共にキャプテンを務めていたルイス・フィーゴとユニフォーム交換を行った。決勝イタリア戦では延長戦後半、マルコ・マテラッツィの言葉に激昂。頭突き行為でレッドカードを受け退場し、現役最後の試合を終えた。(詳細はジダンの頭突き問題を参照)フランス代表も準優勝に終わったが、大会中の活躍が評価されMVPを受賞した。この2006年ワールドカップ後の一連の騒動では、しばしジダンの人種問題が取り上げられた[56]。
ワールドカップ通算12試合5得点、欧州選手権通算13試合5得点。ワールドカップ決勝通算3得点はペレ、ヴァヴァ、ジェフ・ハーストと並び史上最多タイ、また2大会に渡る決勝戦でのゴールはペレ、ヴァヴァ、パウル・ブライトナーに続き史上4人目。
引退後 [編集]
ワールドカップ決勝での暴力行為により、国際サッカー連盟から7500スイス・フラン(約70万円)の罰金と3日間の社会奉仕活動の処分を科せられる[57]。2006年11月に、同年ノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌスに招かれるとともに、両親の出身地であるアルジェリアの大統領であるアブデルアジズ・ブーテフリカの元を訪ねた。ブーテフリカからは、公式に面会の場を設けられた。
引退後はフランスのテレビ放送局Canal+で解説者を務めていたが、2009年6月1日、自身を呼び寄せたフロレンティーノ・ペレスが再びレアル・マドリードの会長となったことを受け、クラブアドバイザーに就任した[58]。その後、ジョゼ・モウリーニョにチームの近くにいることを要請され[59]、それを快諾。UEFAチャンピオンズリーググループリーグのアヤックス戦よりチームに同行することとなった[60]。2011年5月、モウリーニョとの対立からクラブのゼネラルディレクターを務めていたホルヘ・バルダーノが解任され、レアル・マドリードはゼネラルディレクター職を廃止。それまでスポーツディレクターの職に就いていたホセ・アンヘル・サンチェスがクラブの強化部門における最高責任者を務めることとなった[61]。その後任として、ジダンはスポーツディレクターに就任した[62]。
2009年、1998年に拝受したレジオンドヌール勲章のシュヴァリエの階級からオフィシエ(Officier、将校)に昇格した。UEFA欧州選手権2016誘致の際には、ニコラ・サルコジ大統領と共にフランスのプレゼンテーションを行った[63]。また、2022年のFIFAワールドカップでは、カタールの招致アンバサダーとして招致活動を行った[64]。2011年2月、サッカー選手としてはペレ、ヨハン・クライフ、フランツ・ベッケンバウアーに次いで4人目となるローレウス世界スポーツ賞の生涯功労賞を受賞した[65]。
2012-13シーズンからはスポーツディレクターの職を辞し、レアル・マドリードの下部組織に重点を置いた活動を行っている[66]。
人物 [編集]
人となり [編集]
性格は寡黙で内気と評され[9]、テニスも好むジダンの憧れのプレーヤーであるアンドレ・アガシとたまたま同じホテルに泊まっていた事があったが、恥ずかしくて会いに行けなかった[67]、2010年にフランス代表の一日コーチを引き受けてFIFAワールドカップ 1998、欧州選手権 2000のビデオを観賞してスピーチを行った際、ガエル・クリシーに「自分のビデオを見せながら照れていた」と明かされる[68]といったエピソードもある。ジダンとは対照的におしゃべりで気さくなクリストフ・デュガリーとは親友である[69]。慈善活動も熱心に行っており、多くのチャリティーイベントに顔を覗かせているほか、2003年からはダノンネーションズカップの公式アンバサダーも務める。
しかしピッチにおいては瞬間的に頭に血が上りやすいことでも知られ、前述のマテラッツィへの頭突きの他にも、試合において暴力行為により警告を受けたり退場になったりした回数は少なくない。キャリアを通じて受けたレッドカードは通算14枚ある。頭突きで退場になった例だけでもユヴェントス時代の2000年チャンピオンズリーグ対ハンブルガーSV戦、レアル・マドリード時代の2004年リーガ・エスパニョーラ対ムルシア戦とあるように[70]、プレイ中に関しては普段の紳士ぶりからかけ離れた姿を見せてしまう事もあった。2006 FIFAワールドカップグループリーグの韓国代表戦でイエローカードを提示され、途中交代させられたジダンはロッカールームのドアを蹴って破壊してしまった。しかし、そのスタジアムでは、サッカー史上最も偉大な選手の1人に蹴られた扉として保存されている[71]。
マルセイユ出身のジダンはオリンピック・マルセイユのファンであり、パリやパリ・サンジェルマンFCには「自分には関係のないもの」というイメージを抱いているという。しかし、父親がフランスに移住して初めて生活した場所であり、スタッド・ド・フランスもあるパリ郊外のサン=ドニには第2の故郷と語るほど愛着を感じている[72]。
両親はアルジェリア国内でも少数民族であるベルベル人であるため、母国語であるフランス語以外にベルベル語も話せる。また夫人がスペイン系フランス人であり、スペイン語にも不自由しない[73]。その他にも、イタリアで5年間生活をしていたことから、イタリア語も修得している[18]。
家族 [編集]
ベルベル人の両親スマイル、マリカと4男1女の家庭で育った。3人の兄の中でも三男のノルディーヌはジネディーヌと同じくらいサッカーの才能に恵まれていた[74]。2人の兄、ファリッドとノルディーヌは、マルセイユ北部でジネディーヌの肖像権や放映権の管理会社を経営している[75]。叔父に元アルジェリア代表だったジャメル・ジダンがいる。
ASカンヌ時代に出会ったスペイン系フランス人のヴェロニックと1994年5月24日に結婚。4人の子供がおり、長男エンツォの名は地元オリンピック・マルセイユに所属し、幼少時からのアイドルであったウルグアイ人、エンツォ・フランチェスコリに因んでいる[76][13]。息子たちはレアル・マドリードの下部組織に所属している[77]。
評価 [編集]
ルイ・ヴィトンの広告で共演した際、ペレはジダンについて「もしジダンのような選手がサポートについてくれていたら2倍のスコアを叩き出したかもしれない」と語り、ディエゴ・マラドーナは 「もう少し小柄であれば史上最高の選手だった」と語った[78]。カルロス・アルベルト・パレイラからは怪物と呼ばれ、フランツ・ベッケンバウアーは「史上最高のプレイヤーの一人、本当に素晴らしい選手」とした。ミシェル・プラティニは「コントロールやパスなど、基本的な技術に関してジダンは王である。ボールを受け、コントロールすることにおいて誰も彼と同等のことは出来ないと思う」と評価した。アルフレッド・ディ・ステファノはジダンを「真の天才」と賞賛し、「少なくとも40歳まではプレーをしてほしい」と語った[79]。
レアル・マドリードで共にプレーしたロベルト・カルロスは、2010年のレキップ紙のインタビューで「今まで見た中でベストの選手」と話し[80]、同じくデビッド・ベッカムは「史上最高の選手」と語った[81]。また、FCバルセロナなどで対戦したシャビは2010年のインタビューで、エル・クラシコにおいて最も苦労した選手に挙げて「1990年代から2000年代前半にかけてのベストプレイヤー」と語り[82]、ロナウジーニョは「歴代最高の選手で、自分のなかでのアイドルの1人」とし、ベストプレイヤーに名前を挙げた[83]。
エピソード [編集]
ジダンの得意技「ルーレット」とは、ドリブルの途中、両足の裏でボールを転がしながら一回転をし、プレスに来た相手選手をかわす技である。彼が考案した技ではないが、トッププレーヤーでこの技を試合中に頻発させるのは彼以外にいないため、ジダンの代名詞ともなっている[84]。日本においては、ジダンの出身地がマルセイユであることから、「マルセイユ・ルーレット」とも呼ばれ、少年サッカーのための指導材料としても使われている[85]。
世界的な人気、知名度から、アディダス、フランステレコム、アウディ、ボルヴィック、クリスチャン・ディオールなど多くの企業と広告契約を結び、日本でも2002年に日清食品のCMへ出演している。また、2005年のビジャレアルCF戦におけるジダンを捉えたフランスのドキュメンタリー映画『ジダン 神が愛した男』が制作され、第59回カンヌ国際映画祭で招待上映された。
ユヴェントス時代に禁止薬物エリスロポエチン(EPO)摂取のドーピング疑惑をかけられ、ジダンの頭を悩ませた。ユヴェントスの医師の裁判中、血液学者はアントニオ・コンテ、アレッシオ・タッキナルディのEPO使用痕跡を認めたが、ジダンには「特別なことは何もなかった。大きな変化も認められなかった」とし、引退後に放送されたフランス3での検証番組でミシェル・オードラン教授も同様の内容を語った。ジダンはフランスでは禁止薬物だった[86]ビタミンやクレアチンの使用に関しては認めていた[87]。
自身がミシェル・プラティニの後継者と言われたように、ジダン2世またはジダンの後継者と称される選手も数多く存在する。フランス国内ではヨアン・グルキュフ[88]やサミル・ナスリ[89]、ムラド・メグニらがそう呼ばれるほか、アレックス・ファーガソンはカリム・ベンゼマについて「身体の使い方がジダンを思わせる」と語った[90]。また、現役時代に所属したレアル・マドリードにおいても、ホセ・マヌエル・フラドはカンテラ時代に「カンテラのジダン」と呼ばれていた。メスト・エジルがレアル・マドリードに移籍した時には「ドイツのジダン」と紹介され[91]、同じくヌリ・シャヒンは「左利きのジダン」と呼ばれた[92]。長男エンツォも父親と同様攻撃的MFとしてプレーし、レアル・マドリードの下部組織で10番を背負っている。将来フランス、スペインどちらの代表を選ぶかが両国で大きな関心を集めるなど、名実ともにジダン2世として注目を集めている[93][94]。
獲得タイトル [編集]
クラブチーム [編集]
- UEFAインタートトカップ: 1995
- セリエA: 1996-97, 1997-98
- スーペルコッパ・イタリアーナ: 1997
- UEFAスーパーカップ: 1996
- インターコンチネンタルカップ: 1996
- UEFAインタートトカップ: 1999
- リーガ・エスパニョーラ: 2002-03
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ: 2001, 2003
- UEFAチャンピオンズリーグ: 2001-02
- UEFAスーパーカップ: 2002
- インターコンチネンタルカップ: 2002
代表チーム [編集]
個人タイトル [編集]
- UEFA年間最優秀MF賞: 1997-98
- 世界年間最優秀選手(ワールドサッカー誌): 1998
- FIFA最優秀選手賞: 1998, 2000, 2003
- バロンドール: 1998
- オンズドール: 1998, 2000, 2001
- フランス最優秀選手(フランス・フットボール誌): 1998, 2002
- UEFA年間最優秀選手: 2001-02
- FIFAワールドカップ最優秀選手: 2006
- UEFAチーム・オブ・ザ・イヤー: 2001, 2002, 2003
- FIFProワールドイレブン: 2005, 2006
- リーグ・アン年間最優秀若手選手: 1994
- リーグ・アン年間最優秀選手: 1996
- セリエA最優秀選手: 2000-01
- セリエA最優秀外国人選手: 1996-97, 2000-01
- リーガ・エスパニョーラ最優秀外国人選手: 2002
その他 [編集]
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人(ワールドサッカー誌) 28位: 1999
- FIFA 100 2004
- 過去50年間欧州最優秀選手(UEFAゴールデンジュビリーポール): 2004
- ゴールデンフット賞(all time legend): 2008
- マルカ・レジェンダ: 2008
- レジオンドヌール勲章 シュヴァリエ: 1998 オフィシエ: 2009
- ローレウス世界スポーツ賞生涯功労賞: 2011
個人成績 [編集]
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ[95] | カップ[95] | CL*[95] | UC*[95] | 期間通算 | フランス代表 | ||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 年 | 出場 | 得点 | アシスト | ||||
| 1988-89 | リーグ・アン | 2 | 0 | - | - | - | 2 | 0 | 1989 | - | |||||||
| 1989-90 | 0 | 0 | - | - | - | 0 | 0 | 1990 | - | ||||||||
| 1990-91 | 28 | 1 | - | - | - | 28 | 1 | 1991 | - | ||||||||
| 1991-92 | 31 | 5 | - | - | 4 | 0 | 35 | 5 | 1992 | - | |||||||
| 1992-93 | 35 | 10 | - | - | - | 35 | 10 | 1993 | - | ||||||||
| 1993-94 | 34 | 6 | - | - | 6 | 2 | 40 | 8 | 1994 | 2 | 2 | 0 | |||||
| 1994-95 | 37 | 6 | 3 | 2 | - | 4 | 1 | 44 | 9 | 1995 | 6 | 2 | 3 | ||||
| 1995-96 | 7 | 33 | 6 | 14 | 3 | - | 8 | 1 | 55 | 10 | 1996 | 12 | 1 | 4 | |||
| 1996-97 | 21 | セリエA | 29 | 5 | 9 | 1 | 10 | 2 | - | 48 | 8 | 1997 | 8 | 1 | 0 | ||
| 1997-98 | 32 | 7 | 5 | 1 | 11 | 3 | - | 48 | 11 | 1998 | 15 | 5 | 3 | ||||
| 1998-99 | 25 | 2 | 6 | 0 | 10 | 0 | - | 41 | 2 | 1999 | 6 | 1 | 1 | ||||
| 1999-00 | 32 | 4 | 4 | 0 | - | 4 | 0 | 40 | 4 | 2000 | 13 | 4 | 4 | ||||
| 2000-01 | 33 | 6 | 2 | 0 | 4 | 0 | - | 39 | 6 | 2001 | 8 | 2 | 0 | ||||
| 2001-02 | 5 | プリメーラ | 31 | 7 | 9 | 1 | 9 | 3 | - | 49 | 11 | 2002 | 9 | 1 | 2 | ||
| 2002-03 | 33 | 9 | 1 | 0 | 14 | 3 | - | 48 | 9 | 2003 | 7 | 3 | 3 | ||||
| 2003-04 | 33 | 6 | 7 | 1 | 10 | 3 | - | 50 | 7 | 2004 | 7 | 4 | 1 | ||||
| 2004-05 | 29 | 6 | 0 | 0 | 10 | 0 | - | 39 | 6 | 2005 | 5 | 2 | 1 | ||||
| 2005-06 | 29 | 9 | 5 | 0 | 4 | 0 | - | 38 | 9 | 2006 | 10 | 3 | 1 | ||||
| 通算 | フランス | 200 | 34 | 17 | 5 | - | 22 | 4 | 239 | 43 | |||||||
| イタリア | 151 | 24 | 26 | 2 | 45 | 5 | 4 | 0 | 226 | 31 | |||||||
| スペイン | 155 | 37 | 23 | 2 | 47 | 9 | - | 224 | 48 | ||||||||
| 合計 | 506 | 95 | 66 | 9 | 92 | 14 | 26 | 4 | 689 | 122 | 108 | 31 | 23 | ||||
* CLはUEFAチャンピオンズリーグ、UCはUEFAカップを指す。
代表でのゴール [編集]
| # | 日付 | 対戦場所 | 対戦チーム | スコア | 結果 | 大会 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1. | 1994年8月17日 | スタッド・シャバン・デルマ, ボルドー, フランス | 1 - 2 | 2 – 2 | 親善試合 | |
| 2. | 1994年8月17日 | スタッド・シャバン・デルマ, ボルドー, フランス | 2 – 2 | 2 – 2 | 親善試合 | |
| 3. | 1995年9月6日 | スタッド・ドゥ・アベー・デシャン, オセール, フランス | 7 - 0 | 10 – 0 | UEFA欧州選手権1996予選 | |
| 4. | 1995年10月11日 | ゲンチェア・スタジアム, ブカレスト, ルーマニア | 1 - 3 | 1 – 3 | UEFA欧州選手権1996予選 | |
| 5. | 1996年2月21日 | スタッド・デ・コスティエール, ニーム, フランス | 3 – 1 | 3 – 1 | 親善試合 | |
| 6. | 1997年6月11日 | パルク・デ・プランス, パリ, フランス | 1 - 0 | 2 – 2 | トゥルニー・ド・フランス | |
| 7. | 1998年1月28日 | スタッド・ド・フランス, サン=ドニ, フランス | 1 - 0 | 1 - 0 | 親善試合 | |
| 8. | 1998年2月25日 | ベロドローム, マルセイユ, フランス | 2 - 1 | 3 – 3 | 親善試合 | |
| 9. | 1998年5月27日 | スタッド・モハメド5世スタジアム, カサブランカ, モロッコ | 0 – 1 | 0 – 1 | ハサン2世トロフィー1998 | |
| 10. | 1998年7月12日 | スタッド・ド・フランス, サン=ドニ, フランス | 1 - 0 | 3 – 0 | 1998 FIFAワールドカップ・決勝 | |
| 11. | 1998年7月12日 | スタッド・ド・フランス, サン=ドニ, フランス | 2 - 0 | 3 – 0 | 1998 FIFAワールドカップ・決勝 | |
| 12. | 1999年9月8日 | ラズダン・スタジアム, エレバン, アルメリア | 1 - 2 | 2 – 3 | UEFA欧州選手権2000・予選 | |
| 13. | 2000年2月23日 | スタッド・ド・フランス, サン=ドニ, フランス | 1 - 0 | 1 – 0 | 親善試合 | |
| 14. | 2000年6月4日 | スタッド・モハメド5世スタジアム, カサブランカ, モロッコ | 1 - 1 | 2 - 2 | ハサン2世トロフィー2000 | |
| 15. | 2000年6月25日 | ヤン・ブレイデルスタディオン, ブルッヘ, ベルギー | 0 - 1 | 1 - 2 | UEFA欧州選手権2000・準々決勝 | |
| 16. | 2000年6月28日 | ボードゥアン国王競技場, ブリュッセル, ベルギー | 1 - 2 | 1 – 2 | UEFA欧州選手権2000・準決勝 | |
| 17. | 2001年2月27日 | スタッド・ド・フランス, サン=ドニ, フランス | 1 – 0 | 1 – 0 | 親善試合 | |
| 18. | 2001年3月24日 | スタッド・ド・フランス, サン=ドニ, フランス | 1 - 0 | 5 – 0 | 親善試合 | |
| 19. | 2002年3月27日 | スタッド・ド・フランス, サン=ドニ, フランス | 1 - 0 | 5 – 0 | 親善試合 | |
| 20. | 2003年3月29日 | スタッド・フェリックス・ボラール, ランス, フランス | 4 – 0 | 6 – 0 | UEFA欧州選手権2004・予選 | |
| 21. | 2003年3月29日 | スタッド・フェリックス・ボラール, ランス, フランス | 6 - 0 | 6 – 0 | UEFA欧州選手権2004・予選 | |
| 22. | 2003年4月2日 | スタディオ・レンツォ・バルベラ, パレルモ, イタリア | 0 - 2 | 1 - 2 | UEFA欧州選手権2004・予選 | |
| 23. | 2004年6月6日 | スタッド・ド・フランス, サン=ドニ, フランス | 1 - 0 | 1 – 0 | 親善試合 | |
| 24. | 2004年6月13日 | エスタディオ・ダ・ルス, リスボン, ポルトガル | 1 – 1 | 2 – 1 | UEFA欧州選手権2004・グループステージ | |
| 25. | 2004年6月13日 | エスタディオ・ダ・ルス, リスボン, ポルトガル | 2 - 1 | 2 – 1 | UEFA欧州選手権2004・グループステージ | |
| 26. | 2004年6月21日 | エスタディオ・シダーデ・デ・コインブラ, コインブラ, ポルトガル | 0 - 1 | 1 – 3 | UEFA欧州選手権2004・グループステージ | |
| 27. | 2005年8月17日 | スタッド・ドゥ・ラ・モッソン, モンペリエ, フランス | 2 - 0 | 3 – 0 | 親善試合 | |
| 28. | 2005年10月12日 | スタッド・ド・フランス, サン=ドニ, フランス | 1 - 0 | 4 – 0 | 2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選 | |
| 29. | 2006年6月27日 | ニーダーザクセンシュタディオン, ハノーファー, ドイツ | 1 - 3 | 1 - 3 | 2006 FIFAワールドカップ決勝T, 1回戦 | |
| 30. | 2006年7月5日 | アリアンツ・アレーナ, ミュンヘン, ドイツ | 0 - 1 | 0 - 1 | 2006 FIFAワールドカップ準決勝 | |
| 31. | 2006年7月9日 | オリンピック・スタジアム, ベルリン, ドイツ | 0 - 1 | 1 - 1 | 2006 FIFAワールドカップ・決勝 |
参考文献 [編集]
- バティスト・ブランシェ,チボー・フレ=ビュルネ著、陣野俊史,相田淑子訳 『ジダン』 白水社、2007年。ISBN 978-4-560-04979-2。
- ルーカ・カイオーリ著、片野道郎訳 『ジダン Ten Minutes To Glory』 ゴマブックス、2006年。ISBN 4-7771-0539-3。
出典・脚注 [編集]
- ^ “Zinedine Zidane - Century of International Appearances” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation
- ^ “Zinedine Zidane”. expertfootball.com. 2012年9月30日閲覧。
- ^ “Zizou top”. guardian. 2012年9月30日閲覧。
- ^ 「W杯、それは私の人生のすべてだった」、『Sportiva6月号』、集英社、2010年4月。
- ^ “Zinedine Zidane voted top player by fans”. uefa.com. (2004年4月22日)
- ^ “フランスW杯決勝敗北。ジダンの悲劇。多民族同化統合の夢も終わった”. 朝日新聞出版 (2006年7月28日). 2010年5月19日閲覧。
- ^ “Zizou et les siens” (フランス語). nouvelobs.com. (1998年12月24日)
- ^ “ジダンの涙 - 大野元裕コラム”. goo.ne.jp (2006年7月13日). 2010年5月19日閲覧。
- ^ “ジダン、フランスでのスポーツ選手人気投票で再びNO.1”. livedoor.com. (2005年6月25日)
- ^ “マンガの力(4) キャプテン翼の「洗脳」(中)”. asahi.com. (2007年11月11日)
- ^ a b c d e “英雄ジダンの6つのキーポイント”. livedoor.com. (2006年4月26日)
- ^ カイオーリ 255-256頁
- ^ “Zidane: Slišković mi je bio idol, uživao sam gledati ga”. klix sport. (2011年7月2日)
- ^ ブランシェ、ビュルネ 34-36頁
- ^ ブランシェ、ビュルネ 39頁
- ^ a b “ジダン頭突きの真相は母入院が関係か”. nikkannsports.com. (2006年7月21日)
- ^ ブランシェ、ビュルネ 52-53頁
- ^ ブランシェ、ビュルネ 55頁
- ^ ブランシェ、ビュルネ 57-59頁
- ^ ブランシェ、ビュルネ 63頁
- ^ “The Ones That Got Away...Zidane”. VitalFootball.co.uk
- ^ カイオーリ 147頁
- ^ リッピは後に、マラドーナに次ぐ過去20年で最高の選手はジダンと発言している。[1]
- ^ “ジダンがジエゴにエール 「私もイタリアでは苦しんだ」”. livedoor.com. (2010年1月22日)
- ^ カイオーリ 148-149頁
- ^ カイオーリ 154頁
- ^ ブランシェ、ビュルネ 104頁
- ^ カイオーリ 44頁
- ^ ブランシェ、ビュルネ 116頁
- ^ カイオーリ 46頁
- ^ “ワールドサッカーキング 10.01.21(No.134)掲載”. OCNスポーツ. (2010年1月21日)
- ^ “Football First XI: Best goals ever”. cnn.com (2009年3月12日). 2010年5月30日閲覧。
- ^ “「ジダンこそカギを握る男」”. スポーツナビ
- ^ “マドリーの逆転突破を信じるジダン氏”. Goal.com. (2010年3月9日)
- ^ “ジダンが初のハットトリック”. uefa.com. (2006年1月16日)
- ^ カイオーリ 38頁
- ^ ブランシェ、ビュルネ 45頁
- ^ “Zinedine Zidane's career timeline and detailed statistics” (英語). footballdatabase.com. 2010年5月19日閲覧。
- ^ ブランシェ、ビュルネ 165-166頁
- ^ ブランシェ、ビュルネ 167-168頁
- ^ カイオーリ 143頁
- ^ “France - Saudi Arabia”. FIFA.com. (1998年6月18日)
- ^ “France honors World Cup winners”. CNN/SI. (1998年9月1日)
- ^ “「レ・ブルーへの想い」”. ocnスポーツ
- ^ “仏にジダンの悪夢再び、FWシセ骨折で出場絶望”. Yomiuri Online. (2006年6月8日)
- ^ ブランシェ、ビュルネ 236頁
- ^ “Zidane et Makélélé reviennent” (フランス語). lequipe. (2005年8月3日)
- ^ ブランシェ、ビュルネ 246頁
- ^ カイオーリ 97頁
- ^ ブランシェ、ビュルネ 238頁
- ^ カイオーリ 99-100頁
- ^ “アンリとジダン 共存しつつあるふたりのスター”. Yahooスポーツナビ. (2006年6月6日)
- ^ カイオーリ 76頁
- ^ “ジダン選手とフランスの人種問題”. livedoor.com. (2006年7月17日)
- ^ 実際は罰金と3試合の出場停止処分であったが、ジダンはすでに引退したため社会奉仕活動へと変更された。[2]
- ^ “ジネディーヌ・ジダン”. OCNスポーツ. (2009年7月7日)
- ^ “サッカー=モウリーニョ監督、ジダン氏に協力求める”. ロイター. (2010年10月11日)
- ^ “ジダン「大きな意欲を持って臨む」”. realmadrid.jp. (2010年11月22日)
- ^ “レアル・マドリーのペレス会長、バルダーノGDの解任を発表”. スポーツナビ. (2011年5月26日)
- ^ “レアル・マドリー、ジダン氏がスポーツディレクターに就任へ”. スポーツナビ. (2011年5月27日)
- ^ “EURO2016開催地はフランスに決定”. livedoor.com. (2010年5月28日)
- ^ “中東初 W杯カタール決定、ジダン氏も喜び”. asahi.com. (2010年12月3日)
- ^ “ジダン「生涯功労賞」受賞 ペレ、クライフ、ベッケンバウアーに次ぎ4人目”. BIGLOBEニュース. (2011年2月8日)
- ^ “ジダン氏、モウ監督との不仲説を否定”. デイリースポーツ. (2012年9月29日)
- ^ “ZINEDINE ZIDANE:Did you know?”. bbc.co.uk. 2010年5月30日閲覧。
- ^ “フランス代表、ユーロ予選突入直前の“ジダン効果”に沸く”. livedoor.com. 2010年9月4日閲覧。
- ^ ブランシェ、ビュルネ 78頁
- ^ “ジダンの頭突きに見る、サッカーの醜さ”. Yahooスポーツナビ. (2006年7月14日)
- ^ “W杯エピソード:ジダンが韓国戦で控え室のドアを破壊した理由”. livedoor.com. (2010年6月2日)
- ^ “フランス代表の新たな聖地「スタッド・ド・フランス」”. スポーツナビ
- ^ “「スペイン系の妻を」ジダンが後輩ベンゼマに珍アドバイス?”. livedoor.com. (2010年2月22日)
- ^ ブランシェ、ビュルネ 31頁
- ^ ブランシェ、ビュルネ 274頁
- ^ 同選手とトヨタカップで対戦した際に、ユニフォーム交換を実現させた。(FIFA公式サイトより、2010年6月11日閲覧)
- ^ “ジダン、息子エンツォの才能を称える”. goal.com. 2010年9月4日閲覧。
- ^ “legends”. Louis Vuitton. 2011年6月9日閲覧。
- ^ カイオーリ 15頁
- ^ “Roberto Carlos : «Zizou était à part»”. L'equipe. 2011年6月9日閲覧。
- ^ “Zidane is the best player ever, says Beckham”. soccernews.com. 2011年6月9日閲覧。
- ^ “Xavi: “Winning el Clasico is like having an orgasm””. total Barca. 2011年6月9日閲覧。
- ^ “ロナウジーニョが選ぶトップ10プレイヤーは”. livedoor.com. 2011年6月9日閲覧。
- ^ “ジダン氏「マルセイユ・ルーレット」披露”. 日刊スポーツ. (2009年10月31日)
- ^ “ジダンのルーレット”. 学研. 2010年5月19日閲覧。
- ^ イタリアやイギリスなどでは自由に売買され、IOCにも認められている。
- ^ ブランシェ、ビュルネ 111-114頁
- ^ “「ジダン後継」期待熱く/グルキュフ=23歳・フランスMF”. 毎日jp. (2010年6月11日)
- ^ “フランス代表の新星(1):ナスリ「ジダンと比べないで」”. livedoor.com. (2007年3月22日)
- ^ “サッカー=マンU・ファーガソン監督、ジダン2世は「グルキュフよりベンゼマ」”. livedoor.com. (2009年2月23日)
- ^ Ozil flattered by 'German Zidane' labelsoccernet.espn.go.com、2010年8月19日
- ^ “マドリー、シャヒン本人と合意か”. Goal.com. (2011年5月2日) 2011年5月10日閲覧。
- ^ “西仏両国が注視する、将来渇望のジダン2世。~代表はスペインか、フランスか?~”. Number.com. (2010年10月9日) 2012年7月21日閲覧。
- ^ “U-17スペイン代表、ジダン長男を招集へ”. Goal.com. (2010年9月22日) 2012年7月21日閲覧。
- ^ a b c d Zinedine Zidane Football Profile- Yahoo! Eurosport UK
外部リンク [編集]
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||