ジョゼ・モウリーニョ
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| 名前 | ||||
| 本名 | ジョゼ・マリオ・ドス・サントス・ モウリーニョ・フェリックス |
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| 愛称 | スペシャル・ワン | |||
| ラテン文字 | José Mario Santos MOURINHO Felix |
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| 基本情報 | ||||
| 国籍 | ||||
| 生年月日 | 1963年1月26日(49歳) | |||
| 出身地 | セトゥーバル | |||
| 身長 | 177cm[1] | |||
| 体重 | 74kg[1] | |||
| 監督歴 | ||||
| 2000 2001 2002-2004 2004-2007 2008-2010 2010- |
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ジョゼ・モウリーニョ(José Mourinho、本名:José Mário dos Santos Mourinho Félix、1963年1月26日 - )は、ポルトガル・セトゥーバル出身のサッカー指導者。2010-2011シーズンよりレアル・マドリード監督。ポルトガル語での発音に近い日本語表記はジュゼ・ムリーニュ。監督として唯一UEFAチーム・オブ・ザ・イヤーに4度選ばれている。
目次 |
[編集] 来歴
父親のフェリックス・モウリーニョは元ポルトガル代表のゴールキーパーで、少年時代は父親にチームのスパイとして使われ、試合相手のチームの弱点などを探ってくる役目を与えられていたという。裕福な家庭の生まれで、使用人もいたようである。ポルトガルのユース代表に選出されたこともあるが、故障により、本人曰く「三流だった」選手生活を早々切り上げたため、プロとしてのキャリアはない。
[編集] 通訳・アシスタントコーチ時代
リスボンで一度、体育教師になるが、指導者の道を志してスコットランドで語学を勉強。ボビー・ロブソンがスポルティング・リスボンの監督に就任した際に通訳としてスタッフ入りし、以降厚い信頼を受けてロブソンとともにFCポルト、バルセロナといった名門クラブで通訳を務める。ロブソンがバルセロナを去った後、監督に就いたルイス・ファン・ハールのアシスタントコーチも経験した。なお、バルセロナ時代は通訳と思われがちだがカタルーニャサッカー協会には助監督として登録されている。
[編集] ポルトガル時代
そして、2000-01シーズンにポルトガルの古豪ベンフィカの監督に就任した。不調だったクラブを建て直し、ライバルのスポルティングを3-0で破るなど順調なスタートを切った。しかし、会長交代劇などの内紛によりそのスポルティング戦までの8試合の指揮を執った後、自らリスボンを離れる。ちなみに、このシーズンのベンフィカは6位、クラブ史上最低の順位だった。
2001-02シーズン、リーグ中位のウニオン・レイリアの監督に就任。クラブを19試合9勝7分3敗・リーグ4位の好成績に導く。
シーズン途中の2002年1月、当時不調にあえいでいた名門FCポルトに引き抜かれる。彼は残りの試合を15戦11勝2分2敗で乗り切り、低迷していた名門の順位を最終的に3位にまで上昇させた。ポルト監督就任時、彼は不遜にも「(中位に甘んじる)このクラブを来年チャンピオンにしてみせる」と宣言し、メディアの失笑を買ったが、彼はそれ以上の偉業を翌年以降成し遂げることとなる。
2002-03シーズン、モウリーニョに率いられたポルトは快進撃を続け、スーペル・リーガ、ポルトガルカップのタイトルを獲得。さらにUEFAカップ決勝でもセルティックを延長の末に下し、三冠を達成。指導者として国際的に注目され始めた。
さらに2003-04シーズンには、圧倒的な強さでリーグ二連覇を成し遂げる。また、UEFAチャンピオンズリーグでも、決勝でASモナコを3-0で下し制覇。ポルトを17年ぶりのヨーロッパチャンピオンに導き、より一層評価を上げた。
[編集] チェルシー
2004-05シーズンからはプレミアリーグのチェルシーで指揮を執った。ここでも就任一年目から創立百周年の記念の年を迎えたチェルシーに50年ぶりのリーグ優勝をもたらし、リーグカップとともに二冠を達成。名将としての評価を不動のものとした。
2005-06シーズンも独走でプレミアリーグ連覇を成し遂げるが、優勝決定後のセレモニーで優勝メダルを惜しげもなく観客席に投げ入れるなど、ここでも物議を醸している。とはいえファンは大喜び。
2006-07シーズンはFAカップ、リーグカップのカップ・ダブル を達成するが、DF陣の相次ぐ故障で冬の移籍市場でDFの補強を要求するモウリーニョと、補強をしようとしない経営陣との対立が表面化。「報道を忘れる必要がある」と否定する姿勢を見せず、同シーズン限りでチームの監督を辞するのではという憶測が流れた。モウリーニョ自身は「2010年の契約満了まで自分から辞める事はない」と明言。だが、クラブオーナーであるロマン・アブラモビッチの態度は不明瞭であり解任の噂が絶えなかった。そして2007年9月20日、チェルシーとの契約解除が公式ホームページ上で発表された。モウリーニョとクラブ側双方合意の上でのものだったが、事実上の解任であった。後任には、アヴラム・グラントが就任。このシーズン、クラブ史上初めてUEFAチャンピオンズリーグ決勝に進出を果たすも、サポーターから「モウリーニョの遺産」と揶揄されていた。
[編集] チェルシー退団後
チェルシーを退団してフリーの身となった際、各国クラブから監督就任の打診を受けているが、モウリーニョが要求する高額な年俸がネックになっているとされ、いずれも噂の域を出なかった。
そのような中、2007年11月にイングランド代表のユーロ2008予選敗退を受け解任されたスティーブ・マクラーレンの後任最有力候補であると報道された。
しかしこの件については、モウリーニョとFA幹部との三者会談の後、代理人を介して「素晴らしい仕事だとは思うが、熟考の末、イングランド代表監督候補になっても身を引くことにした。」と声明を発表し[2]、代表監督就任を辞退している(なお、イングランド代表監督の後任にはファビオ・カペッロが就任した)。
[編集] インテル
その後も引く手数多の状態が続いていたが、2008年6月2日、解任されたマンチーニ監督の後任としてイタリア・セリエAのインテル監督就任が発表された。セリエA初指揮となった2008-09シーズンはスーペルコッパ・イタリアーナとリーグ優勝の二冠を達成。一方でチャンピオンズリーグではマンチーニ時代から合わせて3年連続となるベスト16に止まった。しかし、翌2009-10シーズンはチェルシー、CSKAモスクワ、バルセロナ、そしてかつての師であるルイス・ファン・ハール率いるバイエルン・ミュンヘン等の各国の強豪を破り45年ぶりのチャンピオンズリーグ優勝、そして同年のセリエA、コッパ・イタリアも制し、イタリア史上初の三冠に導いた。この三冠を達成した優勝記者会見でインテル監督を辞任すると発言[3]。2010年5月28日、モラッティとペレス両会長の直接会談により、レアル・マドリードがインテルに違約金を支払う形で残り2年の契約が解除された。
[編集] レアル・マドリード
2010年5月31日、レアル・マドリードの監督就任が発表された。契約期間は4年[4][5][6]。就任初年度は序盤から好調を維持してリーグ戦首位にたったものの、監督就任後初となるクラシコで5-0の大敗を喫して2位に転落すると、驚異的なペースで勝ち点を積み重ねるFCバルセロナに及ばずリーグ戦2位に終わった。しかしチャンピオンズリーグでは6年連続でベスト16止まりだったレアルをベスト4にまで進出させ、コパ・デル・レイでは決勝でバルセロナを1-0で破り、18年ぶりの優勝を果たしてバルセロナのトレブルを阻止した。
[編集] 経歴
スポルティング・リスボン: 通訳 1992-1993
FCポルト: 通訳 1994-1996
FCバルセロナ: 通訳 1996-1997
FCバルセロナ: アシスタントコーチ 1997-2000
ベンフィカ: 監督 2000.8-2000.9
ウニオン・レイリア: 監督 2001.8-2001.12
FCポルト: 監督 2002.1-2004
チェルシー: 監督 2004-2007.9
インテル: 監督 2008-2010
レアル・マドリード: 監督 2010-
[編集] 獲得タイトル
FCポルト
- スーペル・リーガ優勝 2回(2002-2003、2003-2004)
- ポルトガルカップ優勝 1回(2002-2003)
- スーペルタッサ優勝 1回(2003)
- UEFAカップ優勝 1回(2002-2003)
- UEFAチャンピオンズリーグ優勝 1回(2003-2004)
チェルシー
- プレミアリーグ優勝 2回(2004-2005、2005-2006)
- FAカップ優勝 1回(2006-2007)
- リーグカップ優勝 2回(2004-2005、2006-2007)
- コミュニティーシールド優勝 1回(2005)
インテル
- セリエA優勝 2回(2008-2009、2009-2010)
- スーペルコッパ・イタリアーナ優勝 1回(2008)
- コッパ・イタリア優勝 1回(2009-2010)
- UEFAチャンピオンズリーグ優勝 1回(2009-2010)
レアル・マドリード
- コパ・デル・レイ優勝 1回(2010-2011)
[編集] 個人タイトル
- Portuguese Liga Manager of the Year (2002–03, 2003–04)
- Premier League Manager of the Year (2004–05, 2005–06)
- Premier League Manager of the Month (November 2004, January 2005, March 2007)
- Serie A Manager of the Year (2009, 2010)
- Albo Panchina d'Oro Coach of the Year (2010–11)
- Miguel Muñoz Trophy for Best Coach of the Year (2010–11)
- UEFA Manager of the Year (2002–03, 2003–04)
- UEFA Team of the Year Coach of the Year (2003, 2004, 2005, 2010)
- BBC Sports Personality of the Year Coach Award (2005)
- La Gazzetta dello Sport Men of the Year (2010)
- Onze d'Or Best Coach (2005)
- FIFA Ballon d'Or Best Coach (2010)
- IFFHS World's Best Club Coach of the Year (2004, 2005, 2010)
- World Soccer Magazine World Manager of the Year (2004, 2005, 2010)
- International Sports Press Association Best Manager in the World (2010)
- CNID Best Portuguese Manager in Foreign Countries (2008–09, 2009–10)
[編集] 戦術
対戦相手によって様々なフォーメーションを使いこなすが、本人はダブルボランチは好まず、サイドを広く使い攻撃的といわれる4-3-3を最も好んでいる。基本的に4-3-3を適用しているが、チェルシー時代は中盤を省略して素早く前線にボールを送るカウンター寄りの戦術がよく見られたために、彼の意思に反して「守備的なチーム」と言われていた。また、このカウンター戦術は彼の好みではなかったということで、インテル就任時に「トライアングルを作ってパスを回すサッカーをしたい」とも語った。
ポルト大学のビトール・フラデ教授が1980年代初期に提唱した戦術的ピリオダイゼーション理論(PTP理論)を取り入れており、綿密な分析を基に周到な戦術を駆使することで知られる。選手起用においては、シーズンを通しての出場時間数や怪我の有無といった一般的な判断材料から、試合時間別の成績とプレーの精度、体脂肪のベスト数値などの細かいデータを参考としている[7]。
[編集] 評価
[編集] 賞賛
メディアや対戦相手に対する尊大な態度や挑発的な言動は、興味や批判の矛先を自分に向けさせることで、選手を守るためのパフォーマンスではないかとの指摘がある。指導する選手にはモウリーニョを高く評価する者が多い。チェルシーではポルト時代から指導を受けていたカルヴァーリョ、フェレイラはもちろん、キャプテンのテリー、ランパードら、その人柄を慕う選手も多かった。伸び悩んでいたジョー・コールはウイングとして活路を切り開き、モウリーニョから多大な影響を受けたと語っている。2006-2007シーズンの最終節アーセナル戦では優勝を逃したにも関わらず、試合終了と同時にスタンドの前に駆け寄って選手たちを何度も指さし、賞賛の拍手を促した[8]。サポーターを大切にする一面もあり、2005-2006シーズンの優勝メダルは受け取ってすぐにサポーター席に投げ込んでいる[9]。モウリーニョとしばしば舌戦を繰り広げてきたマンチェスター・ユナイテッドのアレックス・ファーガソン監督は「彼がイングランドを去ったのは、イングランドサッカー界にとって大きな損失だ。彼を超えるチェルシーの監督は現れないだろう」と語った[10]。
インテル時代のチームメイトであるマルコ・マテラッツィは「彼はオレたち全員を兄弟にしてくれた。出ていくのはすごく残念だ」と語り、トレブル達成の原動力となったヴェスレイ・スナイデルは「モウリーニョはベストの監督」と賞賛している[11]。主将のハビエル・サネッティは「偉大な指揮官であり、彼は僕らを飛躍させてくれた」と感謝の言葉を述べている[12]。
元アルゼンチン代表の監督であったディエゴ・マラドーナとは親交があり、モウリーニョ自身はマラドーナのファンであることを公言している[13]。また、マラドーナもモウリーニョの実力を高く評価し、「私が理想とする監督」と語った[14]。
[編集] 批判
2003年1月のFCポルト対ボアヴィスタFC戦では「誰だか知らない人間とは握手したくない」とボアヴィスタの監督Jaime Pachecoとの握手を拒否した。2007年のポルト対チェルシー戦の際にPachecoはモウリーニョについて「病気か知的障害だ」とコメントしている。
2004年1月のスポルティング・リスボン対ポルト戦において、スポルティングのルイ・ジョルジとユニホームを交換したビトール・バイーアからスポルティングのユニホームを奪い取り、手で引き裂いた。この件に関しては処分はくだされなかった。ただし本人はこの件については否定をしている[15]。
アーセナルFCのアシュリー・コールと秘密裏に会談していたとして2005年6月に20万ポンドの罰金を課された。これは後に7万5千ポンドに減額された。モウリーニョはアーセナルの監督アーセン・ベンゲルを「覗き魔」だと批判した。ベンゲルはこのコメントに激怒し告訴を検討したが、モウリーニョが謝罪したことで事態は収束した。
2010年11月のコパ・デル・レイ・レアル・ムルシア戦では、審判に対して「地獄へ落ちろ」と発言し退席処分を受け、試合後に2試合のベンチ入り禁止処分を受けた。[16]
2010年12月のチャンピオンズリーグ・アヤックス戦において、消化試合となる次節で累積警告数を帳消しすることを目的としてシャビ・アロンソとセルヒオ・ラモスに故意に退場になるよう指示したとして罰金と1試合のベンチ入り禁止が課された。[17]
2011年4月に行われたチャンピオンズリーグ準決勝第一レグ・バルセロナ戦において、審判に対して意義をとなえ退席処分を受け、さらに試合後の会見でも審判批判を繰り返したため、5試合のベンチ入り停止処分を受けた。[18]
2011年8月17日に行われたスーペルコパ・デ・エスパーニャ第二レグ・バルセロナ対レアル・マドリード戦では、試合終了間際に乱闘騒ぎの中でバルセロナのアシスタントコーチを務めるティト・ビラノバの目を指でついた。会見でこの件を問われると、「ピト(スペイン語でペニスを意味する幼児語)・ビラノバだか誰だか知らないが」と謝罪を拒否した。[19]10月に罰金とベンチ入り禁止2試合の処分がくだされた。[20]
[編集] フリスク事件
レフェリーに対しては激しい批判を口にすることも珍しくなく、大問題に発展したこともある。2005年2月のチャンピオンズリーグ決勝トーナメントファーストレグのバルセロナ対チェルシー戦で、ディディエ・ドログバが累積警告により退場となった。数的不利に陥ったチェルシーは、2-1でバルセロナに逆転勝利を許したが、モウリーニョは試合後にスウェーデン人の主審アンドレス・フリスクのレフェリングを激しく批判し、さらにバルセロナの監督フランク・ライカールトとフリスクがハーフタイムに審判員室で密談していたと示唆した。イギリスのタブロイド紙はフリスクの自宅の住所とメールアドレスを掲載し、チェルシーのサポーターによると思われる殺害予告がフリスクに対して行われたため、当時ピエルルイジ・コッリーナとともに世界最高峰の審判とされていたフリスクは家族の安全の為に引退した。この騒動はフリスク事件として世界中で取り上げられ、審判批判に対する在り方が問われることになった。
UEFAの審判委員会会長であったフォルカー・ロスはこの経緯に激怒し、「モウリーニョのような人間はフットボールの敵だ」と激しく非難した。[21]モウリーニョはロスの告訴を検討し、引退したフリスク主審に対して「仮に脅迫状が届いたというなら、その内容を明らかにし、それから警察に頼るべきだ」とコメントした。その後、モウリーニョはこの件に関してUEFAの聴聞をうけ、罰金の支払いと2試合のベンチ入り禁止が言い渡された。
モウリーニョが所属していたクラブのチェルシーは、「フリスク氏を引退に追い込み、 彼の家族や友人に対して行った全ての脅迫を非難します。一部のファンによってこのような行動があったと明白な事実を発見次第、 クラブはそのファンとの関係を絶ち、その行動について調査し、必要な措置を施します」との公式の声明を発表した。[22]
[編集] 人物
家庭では二児の父で、夫人はアンゴラ出身。FCポルトでのチャンピオンズリーグ決勝試合直前、彼のチェルシーFC移籍が決定的となっていたことに起因し、ポルトの一部のサポーターから家族ぐるみで脅迫を受けるという災難に見舞われている[23]。試合後、優勝セレモニーに加わらず足早にピッチを後にしたのは、その脅迫に対しての抗議行動であり、何より家族を案じていたからだというエピソードがある。故郷のクラブのヴィトリア・セトゥバルのファンである。
コーチの前には通訳としてのキャリアを有し、6言語(ポルトガル語、イタリア語、スペイン語、カタルーニャ語、英語、フランス語)を流暢に操る。
ボビー・ロブソンとはFCポルト、バルセロナで共に仕事をした経験があり、師弟関係にあった。ロブソンの訃報の際はインテルの公式HPを通して哀悼のコメントを寄せた[24]。また、ロブソンの死後に同氏の基金が主催するがん撲滅チャリティーオークションに、自身が2010年に受賞したFIFA(国際サッカー連盟)年間最優秀監督賞のトロフィーを出品している[25]。
スペイン『Veo7』の取材で将来的なイングランドのプレミアリーグへの復帰を仄めかすと同時に、ポルトガル代表の監督になることを最終目標としていると語った[26]。
[編集] リーグ戦ホーム無敗記録
モウリーニョはホームでの国内リーグ戦において150試合連続無敗記録を残した(国内カップ戦、UEFAチャンピオンズリーグなどの国際大会においてはホームで敗北がある)[27]。途中就任したシーズンである2001-02シーズンの2002年2月23日に行われたSCベイラ・マルとの試合で敗れたのを最後に、その次の試合から2011年4月2日に行われたスポルティング・デ・ヒホンに敗れた試合の前の試合まで9年間にわたって無敗記録を続けた。以下はその9年間の内容である。
| クラブ | 成績 | シーズン | 備考 |
|---|---|---|---|
| FCポルト | 38試合36勝2分 | 2001-02,2002-03,2003-04 | ※2001-02シーズンは途中就任のため4試合のみ。 |
| チェルシー | 60試合46勝14分 | 2004-05,2005-06,2006-07,2007-08 | ※2007-08シーズンは途中解任されたため6試合のみ。 |
| インテル | 38試合29勝9分 | 2008-09,2009-10 | |
| レアル・マドリード | 14試合14勝 | 2010-11 |
[編集] 語録
- 「我々チェルシーには最高の選手たちがいる。そして今、傲慢に聞こえたら許して欲しいが、最高の監督を手に入れた」
- 「私はヨーロッパチャンピオンである。私は特別な存在(Special One)だ」[28] ―チェルシー監督就任記者会見で
- 「彼の言うとおりだ。現に昨シーズン、私の指揮するポルトがその10倍もの予算のマンチェスターUを破ったのだから」 ―資金が潤沢だからといって勝てるとは限らない、というマンチェスターU監督ファーガソンの挑発を受けて
- 「FCバルセロナは100年もの歴史の中でまだ1回しかヨーロッパチャンピオンになったことが無い。私はそれをたった1年で成し遂げた。さて、ライカールト監督は?」 ―2004-05シーズン、古巣バルセロナとの対戦を前に
- 「私は常に勉強している。あなた方はいつも時代遅れだ」 ―英国メディアに対して
- 「相手チームの感情など知ったことではない。私はチェルシーを勝たせるためにやってきた」
- 「ベンゲルはチェルシーの覗き魔だ」[29] ―アーセナル監督、アーセン・ベンゲルとの舌戦。なお後日「流石に言い過ぎた」と謝罪
- 「教えは請うがCL(UEFAチャンピオンズリーグ)の決勝を0-4で負ける方法は知りたくない」[30] ―ヨハン・クライフが05-06シーズンのチェルシーを「結果主義」と批判したことに対して述べたもの。クライフが1993-94シーズンのチャンピオンズリーグ決勝で0-4の大敗を喫した事を絡めた皮肉
- 「まずクラブに大事なのは、メンバーをできるだけ自国の選手で賄う事。その国の選手で賄えない時に他の選択肢を考えるべきだ。だから今クラブに必要だとされる自国出身の選手がいれば、その選手を是が非でも獲得しなければならない」 ―自身の「クラブ強化の理想」を問われて
- 「優勝した昨シーズンよりも選手たちを誇りに思っている。彼らは素晴らしいパフォーマンスを見せてくれたヒーローだからだ。」 ―06-07シーズンの三連覇を逃したアーセナル戦の後に
- 「来シーズンのチャンピオンズ・リーグで是非ともチェルシーと対戦したい。もし実現したら、何としてでも倒してみせるよ」 ―07-08シーズン。事実上解任された古巣チェルシーへ復讐ともとれるコメント(実際に2009-2010年シーズンにインテルの監督としてチェルシーと決勝トーナメント1回戦で対戦し、勝利している)。
- 「私は特別なクラブに来た。偉大な監督になる目標を忘れることはないが、特別な人間にはなりたくない。私はジョセ・モウリーニョになりたいだけであって、いつも同じように情熱を持って、モチベーション高くやりたいだけだよ」 ―インテル・ミラノ監督就任会見にて。
- 「我々は強いチームを作り上げているし、新戦力を何人も獲得する必要はない。私は量より質を重視する。私は革命家ではなく、何かを革命したいとも思わない。私はとても明確な考えを持っている一人の人間にすぎない。これは大事なことだと、私は思っている。私の人生哲学はサッカー哲学に似ている。それは正直、率直、明確、そして野心的であるべきということ。私はこれらの特徴を絶対に失いたくない」―自身の「サッカー哲学」についてのコメント
- 「この試合に選手として出場できなかったのは、私の人生で最大の損失だ。この試合でプレーするには強い精神力が必要になるだろうが、選手たちと同様、私も血を流して戦っていたと思う。」[31]-UEFAチャンピオンズリーグ2009-10・準決勝・FCバルセロナ戦終了後のコメント。インテル・ミラノを決勝に導く。
- 「インテルはイタリアのチームだが、先発にイタリア人はいなかった。それでも私たちはイタリアの文化を持ったチームだし、イタリアのサッカーを披露できたことを誇りに思う。この勝利は重要である。イタリアはこれで代表は世界王者であり、クラブでも欧州の頂点に立った。最高の気分だし、私も少しは貢献できたかと思うと誇らしい。」[32]
-UEFAチャンピオンズリーグ2009-10・決勝戦後の優勝記者会見にて。
- 「私がレアル・マドリーを率いるために、この世に生を受けたかは分からない。ただ、フットボールの監督をするために生まれたのは確実だ。私は挑戦が好きなんだ。」[33]-レアルマドリード監督就任会見時のコメント
[編集] 関連人物
- ルイ・ファリア - モウリーニョの下で10年間主にフィジカルコーチを務めている。モウリーニョからは「私の右腕」[34]と言われる。
- アンドレ・ビラス・ボアス - モウリーニョの下でアシスタントコーチを務め、現在はチェルシーFC監督。
- シウビーノ・ロウロ - モウリーニョの下で長年GKコーチを務めている。
- ジョゼ・モライス - モウリーニョが率いたいくつかのチームでコーチを務めており、現在もレアル・マドリードのアシスタントコーチのうちの一人。
- バルテマール・ブリトー - ウニオン・レイリア、ポルト、チェルシーでコーチとしてモウリーニョと共に働いた。
[編集] 脚注
- ^ a b http://www.goal.com/jp/people/portugal/2852/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BC%E3%83%A2%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A7
- ^ http://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-29294920071211
- ^ http://www.soccer-king.jp/news/cl/article/id=261
- ^ 5対0の大差は、なぜ生まれたのか?バルサがモウリーニョを引き裂いた夜。 -NumberWeb: 2010年11月30日
- ^ 不振に喘ぐレアルで繰り広げられる、モウリーニョ対GMの“仁義なき戦い” -NumberWeb: 2011年2月11日
- ^ “レアルNo.2”バルダーノの追放完了! クラブを完全支配したモウリーニョ。 -NumberWeb: 2011年6月1日
- ^ ロベルト・マルティネス「独占インタビュー」、『Sports Graphic Number 628』第26巻第11号、文藝春秋、2005年、40-43頁、雑誌 26851-6・2。
- ^ http://www.youtube.com/watch?v=Ppy6S2S164o
- ^ http://www.youtube.com/watch?v=oIpWGUsq2KM
- ^ http://news.livedoor.com/article/detail/3316735/
- ^ http://www.goal.com/jp/news/1867/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2/2011/01/11/2299525/%E3%82%B9%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A7%E3%81%AF%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E7%9B%A3%E7%9D%A3
- ^ http://news.livedoor.com/article/detail/4785243/
- ^ http://jp.uefa.com/memberassociations/news/newsid=1569563.html
- ^ http://news.livedoor.com/article/detail/3975275/
- ^ 著書『ジョゼ・モウリーニョ 「KING OF 監督」誕生ストーリー』P185
- ^ http://news.livedoor.com/article/detail/5136693/
- ^ http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2010/12/02/21.html
- ^ http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2011/05/06/kiji/K20110506000770510.html
- ^ http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2011/08/19/kiji/K20110819001438670.html
- ^ http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/15185716.stm
- ^ Mourinho accused as Frisk quits, BBC Sport, 14 March, 2005
- ^ http://sports.livedoor.com/marca/detail?id=774508
- ^ 著書『ジョゼ・モウリーニョ 「KING OF 監督」誕生ストーリー』P201
- ^ http://www.goal.com/jp/news/56/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3/2009/08/01/1414755/%E3%83%A2%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A7%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%93%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%AD%BB%E3%82%92%E6%82%BC%E3%82%80
- ^ http://www.soccer-king.jp/news/spain/article/201109201745_realmadrid_mourinho.html
- ^ http://www.goal.com/jp/news/73/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3/2011/03/29/2415312/%E3%83%A2%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A7%E6%9C%80%E7%B5%82%E7%9A%84%E3%81%AB%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB%E4%BB%A3%E8%A1%A8%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%81%AB%E5%B0%B1%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%84
- ^ “モウ”がギネス並みの大記録樹立 Livedoorスポーツ 2011年2月21日
- ^ http://www.youtube.com/watch?v=H_ai5C-pBhc
- ^ http://sports.livedoor.com/article/detail-1916940.html
- ^ http://sports.livedoor.com/article/detail-1722980.html
- ^ http://news.livedoor.com/article/detail/4745503/
- ^ http://jp.uefa.com/uefachampionsleague/matches/season=2010/round=2000032/match=2000488/postmatch/quotes/index.html
- ^ http://www.realmadrid.jp/news/2010/05/news_4798.html
- ^ 著書『モウリーニョ どうしてこんなに勝てるのか?』P34
[編集] 著書
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1 カシージャス | 2 カルヴァーリョ | 3 ペペ | 4 S・ラモス | 5 シャヒン | 6 ケディラ | 7 C・ロナウド | 8 カカ | 9 ベンゼマ | 10 エジル | 11 グラネロ | 12 マルセロ | 13 アダン | 14 X・アロンソ | 15 コエントラン | 16 アルトゥントップ | 17 アルベロア | 18 アルビオル | 19 ヴァラーヌ | 20 イグアイン | 21 カジェホン | 22 ディ・マリア | 24 ディアッラ 監督: モウリーニョ |
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