リッカルド・モントリーヴォ
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|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | ||||||
| 本名 | Riccardo Montolivo | |||||
| 愛称 | リッカ、リッキー[1] | |||||
| カタカナ | リッカルド・モントリーヴォ | |||||
| ラテン文字 | Riccardo MONTOLIVO | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 | ||||||
| 生年月日 | 1985年1月18日(28歳) | |||||
| 出身地 | ||||||
| 身長 | 181cm | |||||
| 体重 | 76kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| 在籍チーム | ||||||
| ポジション | MF (OH, CH) | |||||
| 背番号 | 18 | |||||
| 利き足 | 右足 | |||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
| 2003-2005 2005-2012 2012- |
73 (7) 219 (17) |
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| 代表歴2 | ||||||
| 2001 2003 2004 2004-2007 2008 2007- |
8 (0) 2 (0) 4 (1) 20 (3) 5 (1) 41 (2) |
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| 1. 国内リーグ戦に限る。2012年5月13日現在。 2. 2013年2月6日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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リッカルド・モントリーヴォ(Riccardo Montolivo, 1985年1月18日 - )はイタリア・カラヴァッジョ出身の同国代表サッカー選手。ACミラン所属。ポジションはミッドフィールダー。
目次 |
人物 [編集]
アタランタBC下部組織出身のイタリア人選手。非凡なテクニックとエレガントなプレースタイルから[2][3]、ジャンカルロ・アントニョーニやマヌエル・ルイ・コスタ等のファンタジスタと比較される[4][5][6]。ACFフィオレンティーナでは2010年よりキャプテンを務め、20歳から在籍する同クラブにおいてのバンディエラ候補である[7][8][9][10]。各アンダー世代のイタリア代表にも招集されており中心選手の1人として活躍した[11]。2007年10月7日に所属クラブでの活躍が認められフル代表に招集、このシーズンのセリエA最優秀若手賞(オスカル・デル・カルチョ)に選ばれている[12]。
プレースタイル [編集]
足裏を使ったボール捌きはエレガントであり、中盤でのボールキープや、精度が高く機知に富んだ長短のパスで試合にアクセントが付けられる選手である[2][13]。また、フィジカルや持久力の面においても優れたプレーヤーであることから、ファンタジスタとしての特性とアスリートとしての資質を併せ持つ現代的なミッドフィールダーでもある[2][11][14]。モントリーヴォが2006年以降にセリエA屈指のプレーヤーと評価されるのは、フリーでスペースに走り込む動き、クサビのパスやスルーパスなどを使って攻撃を縦に加速させる戦術眼など、実戦面でのプレー内容が成長したことによる[5][14]。懸念されていた守備力も、チェーザレ・プランデッリ監督の指導により、質だけでなく量でも貢献できるようになった[15]。
ポジション [編集]
アタランタ所属時はトレクァルティスタの選手として育てられてきたが[15]、フォワード的な資質に乏しいことや、後方からのオフザボールの動きや、ドリブルで攻め上がるという本来の持ち味を出せないため、フィオレンティーナに移籍後は徐々にポジションを下げる[15]。こういった経歴や前述のようなプレースタイルから、アンドレア・ピルロの後継者と呼ぶ声もあった[13][15]。しかし本人はピルロを手本としているとしながらも、スティーヴン・ジェラードやダニエレ・デ・ロッシといった、よりプレーエリアの広いオールマイティな選手を目指していると話す[16]。イタリア代表監督のマルチェロ・リッピも彼はピルロの後継者ではなく、ややジェラードのようだと指摘している。フィオレンティーナの戦術変更がなされた2009年頃からは、守備のタスクが多い2センターハーフシステムのポジションで、本来の華やかなプレーだけではなく我慢強い守備を披露し、より多くの役割に適応している。
来歴 [編集]
クラブ [編集]
下部組織 [編集]
イタリア国内でもトップクラスの育成部門を持つアタランタBCの下部組織でサッカーの基礎を学ぶ[2]。アッリエーヴィ(17歳以下が所属するカテゴリ)在籍時の2002年にはジャンパオロ・パッツィーニ、ミケーレ・カニーニらと共にカンピオナート・アッリエーヴィ・ナツィオナーリに優勝する[2]。また17歳時には飛び級でプリマヴェーラ(主に18歳~20歳以下が所属するカテゴリ)にも所属し、当時からその非凡な才能は注目を集めていた[2]。
アタランタ [編集]
2003-2004シーズンに、当時セリエBに所属していたアタランタにおいて、18歳でプロデビューを果たす。41試合に出場、4得点を挙げ18歳にしながらチームの主力選手として活躍している。同シーズンを5位で終えたが、セリエAの登録クラブが20チームに増えたことで、クラブはセリエAに昇格する。昇格後2004年9月12日に行われた対レッチェ戦において19歳でセリエAデビューを果たす。しかしチームは2004-2005シーズンを最下位で終えクラブはセリエA残留を果たせなかった。これは当時のチーム事情が原因であり、モントリーヴォが責任を問われることはなかった。19歳にしながら32試合出場3得点と、トップリーグデビュー1年目からレギュラーとして活躍したモントリーヴォの評価は高く、彼のポテンシャルに多くのクラブが注目することになった[13]。
フィオレンティーナ [編集]
アタランタがセリエBに降格したことを受け、2005年8月1日に当時若手選手主体のチーム作りに移行していたフィオレンティーナに移籍。保有権の一部を350万ユーロでアタランタ側が譲渡する形であった[17]。移籍当初はレギュラーポジションをつかめず、途中交代での出場がほとんどであった。アタランタ時代を含め代表でもサブであった事がなかったため相当戸惑ったようだが[18]、本人にとっては、「この経験が成長を促すことになった」と後に語っている。移籍初年度の2005-2006シーズンは20試合に出場、1得点を挙げるに留まった。一方、U-21イタリア代表では、U-21欧州選手権2007予選プレーオフのスペイン戦においてアクロバティックなボレーシュートで勝ち越しゴールを奪うなど、予選チーム内得点王(3得点)として本大会出場に貢献した[11]。この活躍を受け、フィオレンティーナはシーズン終了後に残りの保有権を200万ユーロで買い取ることを決定する[17]。
2006-2007シーズン途中にマルコ・ドナデルが怪我により離脱すると、そのポジションを引き継ぎクオリティーの高いプレーを披露した。守備面で成長することによってレギュラーポジションを確固たるものにし[11]、同タイプのファビオ・リヴェラーニとの同時出場を疑問視するマスコミに対し1つの答えを提示した[19]。
2007-2008シーズン開幕前にはチェーザレ・プランデッリ監督が、インタビューにおいてモントリーヴォをレギュラーで起用する事を公言していた。シーズンが始まるとその期待に応え、リーグ34試合、UEFA杯11試合に出場、出場時間数はチーム1位となり、フィオレンティーナの中心選手へと成長を果たした。リーグ前半戦こそ好不調の波があったが、後半戦に入ると攻守に美しくも効果的なプレーでコンスタントに貢献、リーグ戦ではクラブをUEFAチャンピオンズリーグ出場権が得られるリーグ4位、UEFA杯では準決勝まで導いた。これらの活躍から2007年10月には、セリエA最優秀若手賞(オスカル・デル・カルチョ)に選ばる[12]。
オフシーズン中の代表合宿や来日、オリンピックへの出場等のハードなスケジュールにより他のチームメイトよりも調整が遅れ、2008-2009シーズンは開幕後しばらくは低調なパフォーマンスを続ける。しかしプランデッリ監督からの信頼は厚くレギュラーとして試合を重ね、念願のUEFAチャンピオンズリーグのデビューも飾る。冬頃には徐々に本来のプレーを取り戻していき、2008年11月22日のウディネーゼ戦では自身セリエAでは初のドッピエッタを記録した。2点先制されてからのパフォーマンスはまさにファンタジスタと呼ぶに相応しく1人で試合を一変させている。2009年1月17日、24歳の誕生日の前日にサン・シーロで行われた対ACミラン戦では、23歳にしてフィオレンティーナのキャプテンマークを初めて巻いた。
2009-2010シーズンは開幕からレギュラーとして活躍する。2009年11月4日に行われた対デブレツェニVSC戦においてUEFAチャンピオンズリーグでの初得点を記録する。2010年1月15日には、フィオレンティーナでキャプテンを務めていたダリオ・ダイネッリが移籍し、2月1日にはその後キャプテンに任命されたマルティン・ヨルゲンセンが同じく移籍したことにともない、25歳にして正式に同クラブのキャプテンとなった[7][8]。このシーズンはリーグ戦36試合、欧州カップ戦9試合、国内カップ戦3試合と計48試合もの試合に出場した。また、リーグ戦ではパス数はアンドレア・ピルロの2511本に次ぐ2143本でリーグ2位[20]、インターセプト数はインテルのディフェンダーであるルシオの137回に次ぐ125回でリーグ2位と[21]、数字上でも攻守でリーグ屈指のセンターハーフとして充実したシーズンを送った。
2011-12シーズン開幕前に、契約延長を拒否し、ACミランやインテル、ユヴェントス、バイエルン・ミュンヘンといった国内外の強豪から注目を集めたが、結局残留。また、このシーズンよりキャプテンの座をアレッサンドロ・ガンベリーニに譲った。
ミラン [編集]
2012年5月17日、ACミランのマッシミリアーノ・アッレグリ監督がシーズン終了後にフリーでのモントリーヴォ獲得が内定していると明らかにした。その後ミランが公式にASナンシーのバカイェ・トラオレとともにモントリーヴォの獲得を発表した[22]。契約は2016年6月までとなる。
代表 [編集]
アタランタ下部組織在籍時にU-15、U-18のイタリア代表に招集される[23]。2004年からは飛び級でU-21イタリア代表に招集され、U-21欧州選手権2007予選プレーオフのスペイン戦においてアクロバティックなボレーシュートで勝ち越しゴールを奪うなど、予選チーム内得点王(3得点)として本大会出場に貢献した[11]。2007年夏に本戦であるU-21欧州選手権2007に中心選手の1人として出場したが、36試合に出場したレギュラーシーズン中の疲労が抜けておらず、モントリーヴォの本来のプレーからは程遠い内容となった。チームもグループリーグで敗退し、多くの期待が寄せられた今大会で活躍することが叶わなかった[24]。
2007年10月17日の南アフリカ共和国との親善試合でフル代表デビュー。2008年にはシーズン中のクラブでの活躍からEURO2008のイタリア代表の最終候補にチーム最年少で選出された(最終的にはメンバーから漏れる)。また、U-23代表として北京オリンピックに出場。4試合すべてにフル出場(1得点)したが、チームはベスト8で敗れメダル獲得はならなかった。
2008-2009シーズンのクラブでは素晴らしいパフォーマンスを示していた一方で、代表では存在感を示すことができていなかったが[16][25]、イタリア国内の若手中盤の選手では屈指の実績とポテンシャルを兼ねており、イタリア代表監督のリッピはFIFAコンフェデレーションズカップ2009の代表メンバーとして選出した。クラブでのUEFAチャンピオンズリーグなどの活躍から、2010年6月2日に2010 FIFAワールドカップの代表メンバーに選ばれた。ワールドカップでは全3試合に出場したが、イタリアは一勝もできず、グループリーグで敗退した。
2011年8月10日のスペインとの親善試合で代表初得点を挙げた。
エピソード [編集]
- 母親がドイツ人であることからドイツのパスポートも所有しており[16]、完璧なドイツ語を話すことができる。2008年のACキエーヴォ・ヴェローナ戦でのセットプレーの際には、相手選手が審判に抗議するなかでズドラフコ・クズマノヴィッチがドイツ語で「すぐここに出してくれ」と叫んだの聞き、他の味方と相手選手の意表をつく早いリスタートで得点を演出した。母方の祖父母はドイツ北部に位置するキールに居住している[26]。
- アタランタ下部組織や各アンダー世代の代表でも同僚であるジャンパオロ・パッツィーニと仲が良い。パッツィーニとモントリーヴォは背格好が似ていることから、彼等の名前を繋げたパッツォリーヴォ(Pazzolivo)として、フィオレンティーナのオフィシャルホームページやナイキのCMにおいて、実は同一人物なのではないかというネタにされていた[28]。
- 子供の頃はアタランタのファンであり、当時アタランタに在籍していたワルテル・ボナチーナ、ファビオ・ガッロ、マッシモ・カッレーラなどにあこがれていた。
- 足裏を使ったテクニックを得意としており、下部組織時代はティフォージからジネディーヌ・ジダンに例えられた。本人は光栄だとしながらも、プレースタイルの違いを指摘している[13]。
- 2008年にアルベルト・ジラルディーノがフィオレンティーナに移籍した際、インタビューにおいて「チームメイトとなって最も衝撃的だった選手はモントリーヴォ」と答えている。
- また、同年には中田英寿主催の『+1 FOOTBOOL MATCH』に出場するため来日している。
所属クラブ [編集]
個人成績 [編集]
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 2003-04 | アタランタ | 18 | セリエB | 40 | 4 | - | - | - | - | 40 | 4 |
| 2004-05 | セリエA | 32 | 3 | - | - | - | - | 32 | 3 | ||
| 2005-06 | フィオレンティーナ | 20 | 1 | - | - | - | - | 20 | 1 | ||
| 2006-07 | 36 | 2 | - | - | - | - | 36 | 2 | |||
| 2007-08 | 34 | 2 | 2 | 0 | UC 6 | 1 | 40 | 3 | |||
| 2008-09 | 34 | 4 | 0 | 0 | CL+UC 6+2 | 0 | 42 | 4 | |||
| 2009-10 | 36 | 2 | 3 | 0 | CL 9 | 1 | 48 | 3 | |||
| 2010-11 | 29 | 2 | 0 | 0 | - | - | 29 | 2 | |||
| 2011-12 | 30 | 4 | 3 | 0 | - | - | 33 | 4 | |||
| 通算 | イタリア | アタランタ | 72 | 7 | - | - | - | - | 72 | 7 | |
| イタリア | フィオレンティーナ | 219 | 17 | 8 | 0 | 28 | 2 | 255 | 19 | ||
| 総通算 | 291 | 24 | 8 | 0 | 28 | 2 | 327 | 30 | |||
経歴 [編集]
- 2004年9月12日 - セリエA初出場 - レッチェ戦(スタディオ・アトレティ・アズーリ・ディターリア)
- 2007年10月17日 - A代表初出場(国際親善試合) - 南アフリカ代表戦(スタディオ・アルテミオ・フランキ=モンテパスキ・アレーナ)
獲得タイトル [編集]
- 2007年 オスカル・デル・カルチョ 最優秀若手賞
TV・CM出演 [編集]
- NIKE 「Total 90」
出典・脚注 [編集]
- ^ Estate Viola - Estate Viola Montolivoviolachannel.tv(2010-6-7)(イタリア語),2010-6-7閲覧
- ^ a b c d e f RICCARDO MONTOLIVOcampionatoprimavera.com(2003-3-25)(イタリア語),2010-2-10閲覧
- ^ Nazionale: il punto sui convocati I sicuri, chi rischia, i tormentonigazzetta.it(2010-3-5)(イタリア語),2010-3-7閲覧
- ^ アントニョーニからモントリーヴォへ:「彼が私の後継者だ。」goal.com(2009-2-4)(イタリア語),2009-12-30閲覧
- ^ a b Montolivo segna e sogna con Firenzegazzetta.it(2007-4-8)(イタリア語),2010-2-13閲覧
- ^ Montolivo: tutti contro la Slarepubblica.it(2008-10-10)(イタリア語),2009-12-30閲覧
- ^ a b FIORENTINA, Montolivo nuovo vice capitanofirenzeviola.it(2010-1-15)(イタリア語),2010-1-15閲覧
- ^ a b 2010年2月1日にマルティン・ヨルゲンセンが移籍した事を受けキャプテンに昇格する。Fiorentina Star Riccardo Montolivo ‘Sad’ To Take Over Captain’s Armband(2010-2-3)(英語),2010-2-3閲覧
- ^ MONTOLIVO, Io bandiera viola? Mi piacerebbefirenzeviola.it(2010-2-3)(イタリア語),2010-2-3閲覧
- ^ a b MONTOLIVO, A Firenze mi sento davvero a casafirenzeviola.it(2010-2-8)(イタリア語),2010-2-9閲覧
- ^ a b c d e Web CALCiO2002内インタビュー1
- ^ a b AICサイト内のオスカル・デル・カルチョページ
- ^ a b c d Web CALCiO2002内インタビュー2
- ^ a b プランデッリ:「サッカーは非情だ」goal.com(2010-2-8),2010-2-9閲覧
- ^ a b c d e Milan su Montolivo l' alternativa a Pirlogazzetta.it(2006-12-13)(イタリア語),2010-2-13閲覧
- ^ a b c Montolivo nuovo nella culla azzurragazzetta.it(2009-6-17)(イタリア語),2010-2-13閲覧
- ^ a b La Fiorentina si fa bella col talento di Bergamogazzetta.it(2006-11-11)(イタリア語),2009-12-30閲覧
- ^ a b Riccardo Montolivo Pledges Future To Fiorentinagoal.com(2010-2-9)(英語),2010-2-10閲覧
- ^ リヴェラーニは中盤の底からボールを捌くことに特化した純粋なレジスタタイプの選手であり厳密にはプレースタイルは異なるが、当時のイタリアのマスコミはモントリーヴォをイタリア代表レジスタの第一人者アンドレア・ピルロの後継者とみており、守備力に問題がある2人の司令塔の同時出場を疑問視していた。
- ^ Classifiche Speciali - passaggituttosport.com(2010)(イタリア語),2010-6-6閲覧
- ^ Classifiche Speciali - intercettatetuttosport.com(2010)(イタリア語),2010-6-6閲覧
- ^ ミラン、モントリーヴォ&トラオレ獲得を発表 Goal.com 2012年5月17日
- ^ 当時のアタランタにはモントリーヴォの他にも、彼と同世代のロランド・ビアンキ、ジャンパオロ・パッツィーニ、ミケーレ・カニーニといった有望な選手が多数在籍しており、彼等もまた代表に選出されている
- ^ その後U-21ポルトガル代表とのプレーオフに勝利し、北京オリンピックの出場権は獲得している。
- ^ 2008年以降はフル代表にもコンスタントに呼ばれるようになるが、代表でのパフォーマンスは低調なもので最低限の仕事しかこなせていなかった。原因として慢性的な疲労が一番の理由であると地元メディアは伝えている。モントリーヴォはU-21の頃から毎年オフシーズンは各年代の代表に呼ばれており、さらにクラブではレギュラーとしてチーム内上位の出場数をこなしておりこの年代で最も休みが無い選手である。
- ^ Montolivo, in effetti è molto specialegazzetta.it(2005-12-24)(イタリア語),2010-1-3閲覧
- ^ Montolivo intervistato dal Guerino: "Voglio vincere con questa maglia!"fiorentina.it(2009-1-27)(イタリア語),2010-1-3閲覧
- ^ パッツォリーヴォのホームページ(イタリア語),2010-1-3閲覧
- ^ モントリーヴォ:「5、6年後にはスクデットを獲得する」goal.com(09-5-3),2010-1-3閲覧
参考文献 [編集]
- 『WORLD Soccer KING』 フロムワン、朝日新聞出版、2007年1月4-18日合併号。
- 『WORLD Soccer KING』 フロムワン、朝日新聞出版、2007年6月7日号。
- 『WORLD Soccer KING』 フロムワン、朝日新聞出版、2007年11月15日号。
- 『WORLD Soccer KING』 フロムワン、朝日新聞出版、2007年12月20日号。
- 『WORLD Soccer KING』 フロムワン、朝日新聞出版、2008年2月21日号。
外部リンク [編集]
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