ディエゴ・ミリート

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ディエゴ・ミリート Football pictogram.svg
Diego Milito - Inter Mailand (3).jpg
名前
本名 ディエゴ・アルベルト・ミリート
愛称 エル・プリンシペ(El Principe)、ディエゴル(Diegol)
ラテン文字 Diego Alberto Milito
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
イタリアの旗 イタリア
生年月日 1979年6月12日(34歳)
出身地 ベルナウ
身長 183cm
体重 78kg
選手情報
在籍チーム イタリアの旗 インテル
ポジション FW
背番号 22
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1999-2003
2003-2005
2005-2008
2008-2009
2009-
アルゼンチンの旗 ラシン・クラブ
イタリアの旗 ジェノア
スペインの旗 レアル・サラゴサ
イタリアの旗 ジェノア
イタリアの旗 インテル
137 (34)
59 (33)
107 (53)
31 (24)
123 (62)
代表歴2
2003- アルゼンチンの旗 アルゼンチン 24 (4)
1. 国内リーグ戦に限る。2014年3月30日現在。
2. 2010年11月16日現在。
テンプレート(ノート 解説)サッカー選手pj

ディエゴ・アルベルト・ミリートDiego Alberto Milito, 1979年6月12日 - )はアルゼンチンブエノスアイレス州ベルナル出身のサッカー選手。ポジションはフォワードCAインデペンディエンテ所属のガブリエル・ミリートは弟。愛称の「エル・プリンシペ(王子)」は、80年代から90年代に活躍した元ウルグアイ代表で、リーベル・プレートラシン・クラブに在籍したスター、エンツォ・フランチェスコリに容姿がそっくりであることに因んでいる[1]
なお、祖父母がカラブリア州コゼンツァ県テッラノーヴァ・ダ・シーバリ出身であるため、イタリアのパスポートも有するイタリア系アルゼンチン人である。

経歴[編集]

アルゼンチン時代

1979年に彼が生を受けた時、父親はディエゴ・アルマンド・マラドーナにあやかってディエゴ・アルマンドと名づけようとしたが、妻や親族に反対されたため、ディエゴ・アルベルトという名になった[2]

家族中がCAインデペンディエンテのサポーターだったが、弟のガブリエルに対するライバル心からラシン・クラブを応援するようになり、9歳でラシン・クラブの少年部に入団した[2]。14歳で9軍(下部組織の一番下のカテゴリー)に入団し、1998年に4軍(1軍のすぐ下のカテゴリー)でリーグ優勝したことから1軍に昇格し、1999年12月11日にトップチームデビューを果たした。2001年のアペルトゥーラでは、35年ぶりのリーグ制覇に貢献した。

ジェノアCFC

アルゼンチンでの実績を買われ、2003-04シーズン途中にセリエBジェノアに移籍すると、翌シーズンは39試合に出場し、得点ランク2位の21ゴールを挙げて、クラブを10年ぶりのセリエA昇格に導いた。しかし喜びも束の間、クラブに八百長疑惑が起こり、ジェノアはセリエC1(3部リーグ)降格を余儀なくされた。

レアル・サラゴサ

2005年夏、弟のガブリエル・ミリートが所属するスペインのサラゴサへ移籍した。クラブはクラウディオ・ロペスと合意間際だったが、開幕直前にディエゴ・ミリート獲得に焦点を絞り、まさに移籍市場の閉まる2005年8月31日、移籍金200万ユーロで移籍が決定した。買取オプション付、2年間のレンタル移籍であった。

既にシーズンが開幕しており、アウェーでアトレティコ・マドリードとスコアレスドローに終わっていたサラゴサに、決定力のあるフォワードが欠けている事は誰の目にも明らかだった。トップチームには、FCバルセロナカンテラ出身で、まだ若かったセルヒオ・ガルシアボルシア・ドルトムントから移籍してきたエベルトンの二人のフォワードしか在籍していなかった。この状況下で彼は、サラゴサに素晴らしい功績を残し、移籍金1200万ユーロでバレンシアに移籍したダビド・ビジャの代わりを務めなければならないという厳しい立場に置かれることになった。

2005年9月11日の第2節、バレンシア戦でリーガ・エスパニョーラにデビューした際はゴールすることができなかったが、第4節のオサスナとの試合で挙げたゴールが、サラゴサのユニフォームを着てホームのラ・ロマレダ・スタジアムで挙げた初のゴールとなった。最初のシーズンに早くも15ゴールを記録し、ファンの心を掴んだ。

2006-07シーズン、二人のアルゼンチン代表パブロ・アイマールアンドレス・ダレッサンドロが加入すると調子が更に上向き、スペイン人好みの攻撃サッカーを標榜するビクトル・フェルナンデス監督の下、通算23ゴールを挙げてクラブをUEFAカップ出場へと導いた。

しかし2007-08シーズンは、自身は安定した結果を出しつつも、V・フェルナンデス監督とダレッサンドロとの確執や、監督の解任、ディフェンスラインの不安定さなどの悪条件が重なり、クラブは迷走を続けた。2008年4月に左足首を痛め、一時は招集メンバーから外れたが、それまで15ゴールを挙げ、長く得点ランキング2位を保っていた。足首の怪我が完治しないまま戦線復帰するも、結局それ以降1点も記録することができず、最終節の5月18日、5年ぶりのセグンダ・ディビシオン(2部)降格が決まった。

ジェノアCFC復帰

2008-09シーズンにはジェノアへ復帰。ミリート本人も降格処分となって移籍して以来ジェノアを気にかけており、相思相愛の復帰となった。ジャン・ピエロ・ガスペリーニ監督率いるジェノアは攻撃の中心にミリートを据え、得点を量産した。第15節、サンプドリアとのジェノヴァ・ダービーでは決勝点を記録。最終的にチームは5位となり、UEFAヨーロッパリーグ出場権を獲得した。 2008-09シーズンは、ボローニャマルコ・ディ・ヴァイオと並んで24得点を記録し、ズラタン・イブラヒモビッチに次ぐ得点ランク2位となった。

インテル

常にFWとして安定した結果を残し高い評価を得ながらも、優勝を狙えるクラブでプレーをしないまま30歳を迎えたが、シーズン終了後ティアゴ・モッタとともにインテルへ移籍した。 2009-10シーズンはモウリーニョ監督から絶大な信頼を受け、ほぼ全試合にスターティングメンバーとして出場。サミュエル・エトオゴラン・パンデフと3トップを組み、インテルのエースストライカーとして活躍。また圧倒的な勝負強さを誇り、チェルシーACミランFCバルセロナ等のビッグクラブ相手にゴールを決めた。コッパ・イタリア決勝戦のASローマ戦でも決勝ゴールを挙げたミリートは、セリエA優勝がかかった2010年5月16日のシエナ戦でも決勝点を挙げ、「間違いなくキャリアでもっとも重要なゴールだ」と語った[3]。このシーズンはチームトップ、リーグ2位の22得点を挙げた。

2009-10シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝では、バイエルン・ミュンヘンから2ゴールを挙げ、チームを優勝に導き、UEFA年間最優秀選手賞を受賞した。2011年1月、オスカル・デル・カルチョの最優秀選手賞と最優秀外国人選手賞をW受賞した。

アルゼンチン代表歴[編集]

2002年にアルゼンチン代表に初招集され、ウルグアイとの試合で代表デビューした。幼い頃から注目された弟に比べると兄のディエゴは苦労人であり、その後代表から遠ざかるが、2004年2006年に再招集を受けている。2006年のドイツワールドカップ出場メンバーには選ばれていない。翌年のコパ・アメリカ2007には招集され、7月2日のコロンビア戦で1ゴールを挙げた。しかしアルフィオ・バシーレ監督の大型フォワードのファースト・チョイスはエルナン・クレスポであり、バシーレの後任となったディエゴ・マラドーナ監督下においても、リオネル・メッシセルヒオ・アグエロカルロス・テベスゴンサロ・イグアインなどいずれもビッグクラブで主力として活躍している選手がいるため、ポジション争いには苦戦している。

2010年の南アフリカワールドカップでは、背番号19で代表入りを果たし、グループリーグ初戦のナイジェリア戦の後半34分に途中出場、第3戦には先発出場した。

エピソード[編集]

ディエゴとガブリエルのミリート兄弟は、レアル・サラゴサでの2シーズンを除き、子供の頃から常に別々のクラブでプレーしていた。ディエゴがラシンに所属していた当時、弟はライバルのCAインデペンディエンテに在籍しており、2003年3月9日のアベジャネーダ・ダービーにおいて兄弟による対戦が実現した[2] [4]。試合中ペナルティエリア付近で弟が兄を倒し、ユニフォームを掴まれた、と兄が弟の退場を要求、弟に出されたイエローカードを巡って兄弟が激しく言い争うシーンが見られたが、結果は1対1の引き分けに終わっている[5]。 試合中2人がずっと罵り合いを続けたため、スタジアムの大観衆と何万人ものTV視聴者の前で「兄弟喧嘩」をしたことで、観戦に来ていた母親は怒り、スタジアムを退出した。この時彼女は兄弟のガールフレンドたちと一緒であり、穴があったら入りたいほど恥ずかしかったという。

所属クラブ[編集]

インテルでプレーするミリート
クラブ シーズン リーグ カップ 国際大会 合計
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
ラシン 1999-2000 11 1 0 0 0 0 11 1
2000-01 35 2 0 0 0 0 35 2
2001-02 38 9 0 0 0 0 38 9
2002-03 35 14 0 0 11 3 46 17
2003-04 18 8 0 0 0 0 18 8
通算 137 34 0 0 11 3 148 37
ジェノア 2003-04 20 12 2 0 22 12
2004-05 39 21 3 1 42 22
通算 59 33 5 1 64 34
サラゴサ 2005-06 36 15 8 6 44 21
2006-07 37 23 3 0 40 23
2007-08 35 15 4 2 2 0 41 17
通算 108 53 15 8 2 0 125 61
ジェノア 2008-09 31 24 3 2 34 26
通算 31 24 3 2 34 26
インテル 2009-10 35 22 5 2 11 6 51 30
2010-11 23 5 3 1 6 2 32 8
2011-12 33 24 1 0 7 2 41 26
通算 91 51 9 3 24 9 129 64
通算 426 195 32 14 35 12 493 222

獲得タイトル[編集]

クラブ[編集]

ラシン・クラブ
インテル

個人[編集]

脚注[編集]

  1. ^ フランチェスコリの愛称が「エル・プリンシペ」であった
  2. ^ a b c 「ルーツを訪ねて ゴールで切り開いた道」、ワールドサッカーダイジェスト、日本スポーツ企画出版社、2009年9月3日号
  3. ^ Goal.com ミリート:「信じられない喜び」 2010年5月17日
  4. ^ 主審は2006 FIFAワールドカップドイツ大会の決勝戦でジネディーヌ・ジダンを退場させたオラシオ・エリソンド
  5. ^ このダービーマッチは、ボカ・ジュニアーズCAリーベル・プレートスーペルクラシコに次ぐ熾烈さで有名であり、しばしばサポーターの暴動が起きる。両クラブのスタジアムはほんの数百メートルしか離れていない。