ラシン・クラブ
| ラシン・クラブ | |||
|---|---|---|---|
| 原語表記 | Racing Club | ||
| 愛称 | La Academia(ラ・アカデミア:学院) | ||
| クラブカラー | 水色と白 | ||
| 創設年 | 1903年 | ||
| 所属リーグ | アルゼンチンプロサッカーリーグ | ||
| 所属ディビジョン | プリメーラ・ディビシオン | ||
| ホームタウン | ブエノスアイレス州, アベジャネーダ | ||
| ホームスタジアム | エスタディオ・フアン・ドミンゴ・ペロン | ||
| 収容人数 | 53,389 | ||
| 代表者 | ガストン・コゴルノ | ||
| 監督 | |||
| 公式サイト | 公式サイト | ||
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| ■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ | |||
ラシン・クラブ(Racing Club)または、ラシン・クラブ・デ・アベジャネダ(Racing Club de Avellaneda)は、アルゼンチンの中東部、ブエノスアイレス州の都市アベジャネーダを本拠地とするスポーツクラブ。バスケットボール、ボクシング、武道、ローラースケート、テニス、バレーボールなどの競技チームも所有しているが、サッカークラブが有名である。サッカークラブはボカ・ジュニアーズ、CAリーベル・プレート、CAサン・ロレンソ、CAインデペンディエンテとともに、伝統的にアルゼンチンのビッグ5に数えられる。アルゼンチンの中で最も忠誠心の強いサポーターを持つと評判のクラブである[1]。
アマチュアリーグ時代に9度、プロリーグ化後に7度、計16度リーグ優勝しており、1913年から1919年までの7連覇はアルゼンチンにおける最長連覇記録である。これらの成功の歴史からLa Academia(ラ・アカデミア:学院)という愛称を持ち、クラブやサポーターのアイデンティティとなっている[2]。国際舞台においては、1967年にコパ・リベルタドーレスとインターコンチネンタルカップを、1988年に第1回スーペルコパ・スダメリカーナとスーペルコパ・インテルアメリカーナを制している。アルゼンチンのクラブとしてはCAインデペンディエンテに次いで2番目に南米制覇を果たし、アルゼンチンで初めて世界制覇を果たした。アマチュア時代には、アルゼンチンサッカー協会(AFA)とウルグアイサッカー協会(AUF)が共同で組織したコパ・アルダオやコパ・デ・オノール・コウセニエールでも優勝している[3]。
目次 |
歴史 [編集]
創設期 [編集]
1901年5月12日、国立中央カレッジの学生グループがFCバラカス・アル・スド(Football Club Barracas al Sud)を設立し、ペドロ・ウェルネルが初代会長に就任した。しかし、FCバラカス・アル・スド設立、1周年を前に、ユニフォームの色に関して内部対立が起こった。会長側メンバーは黄色と黒の縦縞を希望し、残りのメンバーは赤色を希望した。そして多数派であった反会長派である赤色支持のメンバーが離脱し、赤色のユニフォームを着用するコロラドス・ウニードス(Colorados Unidos)が設立された。しかし、この分裂状態が長く続くことはなかった。1903年3月25日、ブエノスアイレスのアシエンダ市場で会合が行われて、両クラブの分裂解消が決定され統合することとなった。この際に出席者のひとりエルマン・ビダジャックがフランスのスポーツ雑誌を手にしていて、そこにはフランスのフットボール・クラブ、ラシン・パリが1902年に優勝した記事があった。ラシン・パリは当時、フランスでかなりの強豪チームであった。彼がこれを仲間達に見せると、喝采を持って受け入れられ、そこから、チーム名をラシン・クラブ・デ・アベジャネダにすることが決定された[4][5]。ラシン・パリのユニフォームは当時から水色と白の横縞であったが、ラシン・クラブのメンバーはユニフォームのデザインまでラシン・パリと同じにすることは止めた。ラシン・クラブの最初期のユニフォームは上下ともに白色であったが、1904年7月25日に黄色と黒色の縦縞のユニフォームを着用することが決定された。しかし、このデザインはウルグアイのペニャロールと同じということで、デビューして1週間で廃止となった。その後、ユニフォームはピンクと青の格子のデザインになり、それから1908年に青地に白の太い横縞のデザインへと移り変わっていった。しかし、1910年に、アルゼンチンの独立100周年を記念して、ユニフォームカラ―を国旗と同じ色の水色と白色に変更することにした。そして、ラシン・パリの横縞ではなく、縦縞のデザインにすることを決定し、このデザインは現在に至っている。
ラシンは1905年にアルゼンチンサッカー協会(AFA)の会員となり、アルゼンチンサッカーリーグの下位リーグでプレーした。1908年、プリメーラ・ディビシオン(1部)昇格をかけてCAリーベル・プレートと対戦。試合はリーベルが2-1で勝利したが、ラシンは「リーベルのサポーターが試合中に何度もピッチに飛び降りた」ことを理由にAFAに試合の無効を訴えた。AFAはこの要求を受け入れて再試合が行われたが、再試合ではリーベルがラシンを7-1で葬り去って昇格を決めた。1909年にも昇格プレーオフに出場したが、今度はヒムナシア・ラ・プラタに敗れた。1910年、4,000人の観客の前でボカ・ジュニアーズを下し、ついにプリメーラ昇格を果たした。この試合ではフェルナンデス、セミナリオ、アジャン、ウィンネ、フアン・オアコ、アンヘル・ベトゥラール、オジャルサバル、アルベルト・オアコ、フィルポ、フレルス、フアン・ペリネッティが先発メンバーに名を連ね、フレルスとA・オアコが得点した。
ザ・アカデミー [編集]
1911年5月7日にプリメーラ・ディビシオンでの初試合を行い、CAサン・イシドロに1-1で引き分けた。この試合でカルロス・スカローネがクラブ初得点を挙げている。初勝利は6月18日のキルメスAC戦(2-1)であった。このシーズンには伝説的なクラブであるアラムナイACから3-1の勝利を挙げているが、この2ヶ月後にはベルグラーノのチームに1-5で敗れた。アラムナイはこのシーズン終了後に解散したため、敗れた試合が両者の最後の対戦となった[6]。1913年シーズンはリーベルと並んで首位でレギュラーシーズンを終えた。プレーオフ初戦ではリーベルを3-0で下し、プレーオフ決勝ではサン・イシドロを2-0で破ってリーグ初優勝を飾った。この時のラシンにはA・オアコ、マルコベッチオ、ペリネッティ、オチョアなどの名選手が在籍していた。1914年シーズンには12試合を42得点7失点の好成績で終え、2位のエストゥディアンテスを抑えて2連覇を達成した。
1915年シーズンは24試合で95得点5失点という傑出した成績を残し[7]、プレーオフ決勝では2年前と同じくサン・イシドロと顔を合わせたが、1-0で再びサン・イシドロを破って3連覇を果たした。この試合はローカルライバルであるCAインデペンディエンテのスタジアムで行われ、ラシンの先発メンバーはアルドゥイーノ、プレスタ、レジェス、ベトゥラール、オラサール、ペペ、カナベリー、A・オアコ、マルコベッチオ(決勝点を挙げた)、オスピタル、フアン・ペリネッティであった。1916年シーズンには39得点10失点を記録し、21試合で勝ち点34を獲得。2位のCAプラテンセは勝ち点30に留まり、リーグ4連覇を果たした。1917年シーズンには20試合で58得点4失点という圧倒的な成績を残し、勝ち点35でリーグ5連覇を果たした。2位のリーベルは勝ち点30であった。1918年シーズンは49得点9失点であり、19戦無敗で6連覇を果たした。1919年には反体制派のリーグであるアソシアシオン・アマテウルス・デ・フットボールに移り、23試合を無敗で終えて7連覇を果たした。43得点10失点で勝ち点26を獲得した。2位は勝ち点20のCAベレス・サルスフィエルドであった[8]。8連覇を目指した1920年シーズンはリーベルに勝ち点2及ばず2位に終わった。1921年シーズンは73得点16失点を記録し、38試合で勝ち点66を積み上げて王者に返り咲いた。
1925年には24試合で勝ち点39を記録し、アマチュアリーグ時代最後のリーグ優勝を飾った。ラシンは全国リーグ創設後の22年間で9回の優勝(7連覇を含む)を果たしており、この驚くべき成績により他チームからフットボールのお手本と称され、アルゼンチンサッカー界における「ラ・アカデミア」(学院)というニックネームを授かった。リーグタイトルの他には、コパ・デ・オノール・ムニシパリダード・デ・ブエノスアイレスで4回(1912年・1913年・1915年・1917年)、コパ・イバルグレンで5回(1913年・1914年・1916年・1917年・1918年)の優勝を果たしている。国際舞台では1913年にコパ・デ・オノール・コウセニエールで優勝し、1917年と1918年にはコパ・アルダオで優勝した。アマチュア時代の著名選手にはA・オアコ、アルベルト・マルコベッチオ、ペドロ・オチョア(ドリブルキングの異名を取った)、カルロス・ガルデル、ナタリオ・ペリネッティなどがいる。
1930年代から1940年代 [編集]
1932年にはコパ・ベカール・バレーラで優勝し、1933年にはコパ・デ・コンペテンシアで優勝した。1930年代にはリーグ優勝が一度もなく、1932年・1933年・1936年の3位がこの期間の最高位であった。1934年に34得点、1936年に32得点を記録したエバリスト・バレーラが2度得点王に輝いた。バレーラの他にはフェルナンド・パテルノステル、チュエコ・ガルシア、ビセンテ・シトなどが目立った活躍を見せた。1940年代もリーグ優勝から遠ざかり、1946年と1948年の5位が最高位であった。1945年のコパ・デ・コンペテンシア・ブリタニカでは決勝でボカを4-1で破って優勝した。この時代のラシンにはホセ・サロモン、チリ人のセルヒオ・リビングストーネ、パラグアイ人のストライカー、デルフィン・ベニテス・カセレスなどがいた。1948年はストライキが起こるまでインデペンディエンテとリーベルに次ぐ3位につけていたが、反体制派の選手の多くはアルゼンチン国外でプレーしたため、彼らの穴埋めとしてユースカテゴリーから選手を補充せざるを得なかった。その上、CAバンフィエルド戦とCAサン・ロレンソ戦で挙げた勝ち点を除外されたため、優勝争いから脱落し、ライバルのインデペンディエンテにタイトルを持って行かれた。
リーグ3連覇 [編集]
1949年、プロ化後初めてのリーグ優勝を果たし、ジャミル・シメスが得点王に輝いた。1950年にはエスタディオ・フアン・ドミンゴ・ペロンが完成し、ベレス・サルスフィエルドとの落成試合に1-0で勝利を収めた。リーグ戦では2連覇を果たし、20得点のシメスが再び得点王に輝いた。1951年にはリーグ戦プレーオフでバンフィエルドを破り、3連覇を達成。ギジェルモ・スタビレ監督が率いたチームはプロ化後初めて3連覇を成し遂げたチームとなった。1952年シーズンはリーグ最少失点を記録したが、リーベルに次ぐ2位で4連覇を逃した。1953年シーズンも好結果を残して3位となったが、1954年シーズンは優勝したボカに遠く及ばない10位に終わった。1955年シーズンには反体制派の選手も恩赦によってプレーが許された。1958年にはホセ・デリャ・トーレ監督の下で13度目のリーグ優勝を飾り、1959年シーズンは2位となった。この期間にはノルベルト・メンデス、ルベン・ブラボ、シメス、マリオ・ボジェ、アルベルト・ラステッリ、ペドロ・デジャチャ、エスラ・スエド、マヌエル・ブランコ、エルネスト・グティエレス、ペドロ・マンフレディーニ、アルナルド・バライ、フアン・ホセ・ピスッティ、ルベン・エクトル・ソサ、オレステス・コルバッタ(アルゼンチン史上最高の右ウイング)など、多くの名選手がラシンに在籍して成功に貢献した。
国際舞台での成功 [編集]
1960年シーズンはリーグ最多の72得点を記録して4位となった。このシーズンのロサリオ・セントラル戦には11-3で勝利し、リーグ最大得点差勝利記録を更新[9]。サウル・オンガーロ監督が率いた1961年シーズンにもリーグ最多の68得点を記録し、勝ち点47を獲得して14度目のリーグ優勝を果たした。1962年シーズンは9位に終わり、コパ・リベルタドーレスではファーストステージで敗退した。1964年にはサンティアゴ・サコールが新会長に就任。フアン・ホセ・ピスッティ監督に率いられた1966年にはリーグ最多得点(70点)と最少失点(24点)を記録し、勝ち点61を獲得して5年ぶりのリーグ優勝を果たした上に、39試合連続無敗のリーグ記録を樹立。メトロポリターノ1967では決勝に進出したが、エストゥディアンテスに0-3で敗れた。同年のコパ・リベルタドーレスでは順調に勝ち進み、決勝でナシオナル・モンテビデオ(ウルグアイ)を2-1で破って同大会初優勝を飾った。同大会制覇はアルゼンチンのクラブとして2チーム目である。13得点を挙げたノルベルト・ラフォが得点王に輝いている。同年にはインターコンチネンタルカップにも出場し、UEFAチャンピオンズカップ王者のセルティックFC(スコットランド)と対戦した。グラスゴーで行われたファーストレグには0-1で敗れたが、ブエノスアイレスで行われたセカンドレグには2-1で勝利した。1勝1敗となったため、大会規定によりモンテビデオでプレーオフが行われ、フアン・カルロス・カルデナスの得点で1-0と勝利を飾った。当時の選手にはキーパーのアグスティン・マリオ・セハス、ソサ、ロベルト・ペルフーモ、アルフィオ・バシーレ、ラフォ、ルベン・オスワルド・ディアス、ネルソン・チャバイ、ハイメ・マルティノリ、カルデナス、フアン・カルロス・ルリ、フアン・ホセ・ロドリゲス、ウンベルト・マスキオ、フェデリコ・サッチ、コルバッタなどがいた。
プリメーラB・メトロポリターナ降格 [編集]
メトロポリターノ1972ではウバルド・フィジョールがデビューし、このシーズンだけで6度のPK阻止を見せてPK阻止数のリーグ記録を作った。フィジョールは後にアルゼンチンの歴史上最高のキーパーのひとりに数えられるほどに成長している。このシーズンには34試合を戦って勝ち点43を獲得し、サン・ロレンソに次ぐ2位となった。1974年から1978年にかけての期間は酷い成績が続き、1976年には順位表の下から2番目で降格をかろうじて回避[10]。1970年代はいかなるタイトルも獲得できなかった。
1981年にはスタジアムが整備不良のために閉鎖され、1983年にはプリメーラB・メトロポリターナ(当時2部)降格となった。1984年は優勝したデポルティーボ・エスパニョールに次ぐ2位となり、昇格プレーオフに出場。プレーオフではCDモロンとCAラヌースを破ったが、プレーオフ決勝でヒムナシア・ラ・プラタに敗れて昇格の道が途絶えた。バシーレ監督に率いられ、創造的な中盤の選手であるミゲル・コロンバッティが牽引したチームは、1985年にも2年連続で昇格プレーオフに出場。今度の昇格プレーオフではCAアタランタに2試合合計5-1で勝利し、プリメーラ・ディビシオン復帰を決めた[11]。
再び国際舞台へ [編集]
1988年には第1回スーペルコパ・スダメリカーナに出場し、バシーレ監督のチームは決勝でクルゼイロEC(ブラジル)を破って優勝。同年にはスーペルコパ・インテルアメリカーナに出場し、スポルティーボ・エレディアーノ(コスタリカ)を3-0で破った。1989年には久々にコパ・リベルタドーレスに出場したが、アトレチコ・ナシオナル(コロンビア)に敗れた。1992年にもスーペルコパ・スダメリカーナの決勝に進出し、決勝では4年前と同じくクルゼイロと対戦した。アウェーのベロオリゾンテで行われたファーストレグに0-4で敗れ、セカンドレグには1-0で勝利したものの、2試合合計1-4で準優勝に終わった。アペルトゥーラ1993でもタイトルに近づいたが、リーベル・プレートに次ぐ2位に終わった。この時代の主力選手にはフィジョール、グスタボ・コスタス、ネストル・ファブリ、トッティ・イグレシアス、ルーベン・パス(1988年に南米年間最優秀選手賞受賞)、クラウディオ・ガルシア、クラウディオ・ロペス、フェルナンド・キロスなどがいた。
破産と復活 [編集]
ラシンは1998年に財政問題に直面し、1999年の国家的な危機の最中にダニエル・ラニン会長が破産を宣言した。2000年には経営権がブランキセレステ株式会社に譲渡されたが、財政危機がクラブを破産に追いやったにもかかわらず、アペルトゥーラ2001では1966年以来35年ぶりのリーグ優勝を果たした。マキシミリアーノ・エステベス、ガブリエル・ロエシュボル、クラウディオ・ウベダ、アドリアン・バスティア、ラファエル・マセラテシなどがチームを構成し、指揮を執ったレイナルド・メルロ監督はこの偉業によってアイドル的存在となった。これに続く期間はいくつかの例外的なシーズン(3位になったクラウスーラ2005など)を除いて低調な成績が続いた。2000年からの9年間は外部団体の管理の下にあったが、2008年7月には経営権が再び非営利の市民団体の手に移った。12月21日、ロドルフォ・モリーナが新会長に選出され、S.A.という企業がクラブの運営を担うことになった。 リカルド・ロンバルディ監督やミゲル・アンヘル・ルッソ監督が指揮を執り、ゲームメイカーのジオバニ・モレノやストライカーのガブリエル・アウチェなどを獲得したが、依然として成績は低迷した。クラウスーラ2011の最中にはルッソ監督がクラブを去り、ディエゴ・シメオネ監督が就任した。シメオネ監督はアペルトゥーラ2011でも継続して指揮を執ったが、2011年12月に辞任してスペインのアトレティコ・マドリードに去った。2011-12シーズンにはコパ・アルヘンティーナで決勝に進出したが、ボカに1-2で敗れて準優勝に終わった[12]。
ライバル [編集]
ラシン・クラブの最大のライバルは同じアベジャネーダ地区を本拠地とするCAインデペンディエンテである。両者の対戦はクラシコ・デ・アベジャネダと呼ばれ、国内ではボカ・ジュニアーズとCAリーベル・プレートのスーペルクラシコに次ぐ関心を集め、アルゼンチンで2番目に権威のあるダービーマッチである。1970年代にインデペンディエンテが対戦成績で上回り、それ以降は現在に至るまで、インデペンディエンテ優勢である。
ボカ・ジュニアーズ、リーベル・プレート、CAサン・ロレンソとのビッグ5同士の対戦もクラシコと呼ばれ、国内で関心を集める。
2011年、CAベレス・サルスフィエルドがプロ化以降の優勝回数でラシン・クラブを追い越した。これにより、ベレスの選手が、メディアを通して「ビッグ・クラブと言われるラシン・クラブより自分達の方が上」といった挑発を行い、ベレス・サルスフィエルドとの対戦も以前に増してかなり熱気を帯びている。
サポーター [編集]
アルゼンチンで4番目に多くのサポーターを持つ。そして、ラシン・クラブのサポーターはアルゼンチンで最も忠誠心が強いという評判がある。ラシン・クラブに在籍していたクラウディオ・ウベダは「エル・グラフィコ」のインタビューで、「ラシンのサポーターは自分の子供が他のチームのサポーターになることを極度に嫌がり、これはボカやリーベルのサポーターでもここまでではない」と述べている。
最も有名なサポーター・グループの名前はラ・グアルディア・インペリアル(皇帝の護衛)である。この名前の由来は、「皇帝の護衛は皇帝を守るために、死ぬまで戦う」という意味で、「チームをサポートするためなら死ぬまで戦う」という意味が込められている。しかし、このグループは数々の暴力事件を起こしていて、問題があるサポーター・グループでもある。 ラ・グアルディア・インペリアルは観客席全体を覆い尽くす巨大な横断幕を持っている。恐らく、世界一巨大な横断幕であり、大事な試合の場合に披露され、頻繁に使用することはない。
フアン・ドミンゴ・ペロン元大統領はラシン・クラブのサポーターで、そのためクラブ・ハウスには彼の胸像がある。妻のエバ・ペロン(エビータ)の胸像も一緒に並んで置かれている。また、ネストル・キルチネル元大統領もラシン・クラブのサポーターであった。 そして、音楽界ではカルロス・ガルデル、アストル・ピアソラもラシン・クラブのサポーターであった。
アルゼンチンのコルドバにあるクラブ・アトレチコ・ラシン(一般にラシン・デ・コルドバとよく言われる。1924年 創立)は創設者の1人がラシン・クラブのサポーターであったために、名前が同じ「ラシン」となった。このクラブは、ユニフォームのデザインも水色と白の縦縞で、ブエノス・アイレスのラシン・クラブと全く同じである。
スタジアム [編集]
エスタディオ・フアン・ドミンゴ・ペロンをホームスタジアムとしている。このスタジアムの名称はラシン・クラブのサポーターであったフアン・ドミンゴ・ペロン元アルゼンチン共和国大統領に因んでいる。その円筒(英語:cylinder, スペイン語:cilindro)のような外観から、一般にはエル・シリンドロ・デ・アベジャネーダという名称で知られる。エル・シリンドロは1950年に完成した。アルゼンチンで初めて全体をぐるりと覆う屋根付きのスタジアムであった。そして、1997年に改築された[13]。かつては120,000人を収容したが、その後64,161人収容に減らされた[14]。現在は53,000人余りを収容し、エル・モヌメンタルに次いでアルゼンチンで2番目に大きなスタジアムである。エル・シリンドロは、ライバルのCAインデペンディエンテのホームスタジアムであるエスタディオ・リベルタドーレス・デ・アメリカからわずか2ブロックしか離れていない[5]。
ユニフォーム [編集]
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(1) このデザインは1973年に1試合限定で復活した
(2) 伝統あるユニフォームに敬意を示し、2005-06シーズンのアウェー用ユニフォームはこのデザインを模している
近年の成績 [編集]
| シーズン | ディビジョン | 順位 | 試合数 | 勝 | 分 | 敗 | 得点 | 失点 | 勝ち点 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2006–07 | アペルトゥーラ | プリメーラ | 10 | 19 | 7 | 5 | 7 | 22 | 19 | 26 | |
| クラウスーラ | 13 | 19 | 5 | 8 | 6 | 28 | 30 | 23 | |||
| 2007–08 | アペルトゥーラ | プリメーラ | 13 | 19 | 7 | 4 | 8 | 23 | 24 | 25 | |
| クラウスーラ | 20 | 19 | 2 | 9 | 8 | 14 | 22 | 15 | 昇降格プレーオフ出場(残留) | ||
| 2008–09 | アペルトゥーラ | プリメーラ | 14 | 19 | 5 | 7 | 7 | 19 | 22 | 22 | |
| クラウスーラ | 5 | 19 | 8 | 6 | 5 | 23 | 21 | 30 | |||
| 2009–10 | アペルトゥーラ | プリメーラ | 16 | 19 | 4 | 5 | 10 | 17 | 26 | 17 | |
| クラウスーラ | 8 | 19 | 9 | 2 | 8 | 21 | 22 | 29 | |||
| 2010–11 | アペルトゥーラ | プリメーラ | 6 | 19 | 8 | 5 | 6 | 25 | 18 | 29 | |
| クラウスーラ | 15 | 19 | 7 | 2 | 10 | 25 | 26 | 23 | |||
| 2011–12 | アペルトゥーラ | プリメーラ | 2 | 19 | 7 | 10 | 2 | 16 | 8 | 31 | |
| クラウスーラ | 17 | 19 | 5 | 4 | 10 | 19 | 27 | 19 | |||
| 2012–13 | イニシアル | プリメーラ | 5 | 19 | 9 | 6 | 4 | 26 | 12 | 33 | |
| フィナール | 19 | ||||||||||
タイトル [編集]
国内タイトル [編集]
- プリメーラ・ディビシオン : 16回
- (アマチュア時代)1913, 1914, 1915, 1916, 1917, 1918, 1919, 1921, 1925
- (プロ時代)1949, 1950, 1951, 1958, 1961, 1966, アペルトゥーラ2001
- コパ・イバルグレン : 5[3]
- 1913, 1914, 1916, 1917, 1918
- コパ・デ・オノール・ムニシパリダード・デ・ブエノスアイレス : 4[3]
- 1912, 1913, 1915, 1917
- 1932
- 1933
- 1945
- プリメーラB・ナシオナル : 1
- 1910
国際タイトル [編集]
- コパ・リベルタドーレス : 1回
- 1967
- インターコンチネンタルカップ : 1回
- 1967
- スーペルコパ・スダメリカーナ : 1回
- 1988
- スーペルコパ・インテルアメリカーナ : 1回[3]
- 1988
- コパ・アルダオ : 2回[3]
- 1917, 1918
- コパ・デ・オノール・コウセニエール : 1回[3]
- 1913
現所属メンバー [編集]
- 2012年2月25日時点
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個人記録 [編集]
出場試合数 [編集]
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得点数 [編集]
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歴代監督 [編集]
ギジェルモ・スタビレ 1949-1960
ウバルド・フィジョール 1972-1973
ルイス・クビジャ 1994
アルベルト・ホルヘ 2000
オスカール・ロペス 2000
レイナルド・メルロ 2001
オスバルド・アルディレス 2002
エミリオ・コミーソ 2003
ミゲル・アンヘル・カッパ 2003.1-2003.6
ミゲル・アンヘル・コロンバッティ 2003
ウバルド・マティルド・フィジョール 2003
ギジェルモ・リバローラ 2004
フェルナンド・キロス 2005
アルベルト・ファネーシ 2006
ディエゴ・シメオネ 2006.2-2006.5
ミゲル・アンヘル・ミコ 2007
グスタボ・コスタス 2007.4-2007.12
ミゲル・アンヘル・ミコ 2007.12-2008.4
フアン・マヌエル・ジョップ 2008.7-2009.2
カルーソ・ロンバルディ 2009.2-2009.10
フアン・バルバス 2009.9-2009.11(暫定監督)
クラウディオ・ビバス 2009.11-2010.2
ミゲル・アンヘル・ルッソ 2010.2-2011.6
ディエゴ・シメオネ 2011.6-2011.12
アルフィオ・バシーレ 2011.12-2012.4
ルイス・スベルディア 2012.4-
歴代所属選手 [編集]
詳細は「:Category:ラシン・クラブの選手」を参照
GK [編集]
ウバルト・フィジョール 1972-1973,1986-1989
カルロス・ロア 1988-1993
クリスティアン・ルッチェッティ 2004-2005
DF [編集]
アルフィオ・バシーレ 1964-1970
フリオ・オラルティコエチェア 1976-1981,1988-1990
セルヒオ・バスケス 1991-1992
クラウディオ・ウベーダ 1995-2003
グスタボ・カブラル 2003-2007
エドゥアルド・ドミンゲス 2003-2004
ハビエル・ピノラ 2004-2005
レアンドロ・グリミ 2005-2007
ホセ・シャフェル 2006-2009
ガブリエル・メルカド 2006-2010
フリオ・バロッソ 2006
マルコス・カセレス 2007-
ゴンサロ・セバスティアン・ガルシア 2007-
MF [編集]
ホルヘ・ホセ・ベニテス 1969-1973
ルベン・パス 1987-1988,1990-1993
オスバルド・サルバドル・エスクデロ 1989-1990
グスタボ・バロスケロット 2001-2002
マリアーノ・ゴンサレス 2002-2004
フアン・マヌエル・トーレス 2002-2006
ディエゴ・シメオネ 2004-2006
クリスティアン・レデスマ 2005
マキシミリアーノ・モラレス 2005-2007,2008
エマヌエル・クリオ 2006
クラウディオ・ジャコブ 2006-
マティアス・サンチェス 2006-2008
フランコ・スクリーニ 2008-2009
ルーカス・カストロマン 2009-
ジョバンニ・モレノ 2010-2012
FW [編集]
セサル・ルイス・メノッティ 1964
レオポルド・ルケ 1981-1982
ラモン・メディナベージョ 1986-1989
クラウディオ・ロペス 1991-1996,2007-2008
マルセロ・デルガド 1995-1999
エステバン・フエルテス 1996-1997
ディエゴ・ミリート 1999-2003
ガストン・フェルナンデス 2003-2004
リサンドロ・ロペス 2003-2006
ホセ・ルイス・ビジャヌエバ 2005-2006
ゴンサロ・ベルヘッシオ 2006-2007
ニコラス・ビグネリ 2009
脚注 [編集]
- ^ ESTUDIO SOBRE EL HINCHA ARGENTINO
- ^ Los apodos de los clubes en Fútbol de Argentina, 21 September 2008
- ^ a b c d e f g h i Palmarésラシン・クラブ公式サイト
- ^ [1] - Racing Club de Avellaneda Una ¡PASION!
- ^ a b FIFA.com. “Racing Club”. 2012年10月1日閲覧。
- ^ Argentina 1911 RSSSF
- ^ Argentina 1915 RSSSF
- ^ Argentina 1919 RSSSF
- ^ RecordsUniverso futbol.com
- ^ Argentina 1976 RSSSF
- ^ Argentina Second Level 1985RSSSF
- ^ Historiaラシン・クラブ公式サイト
- ^ “Estadio Presidente Perón”. Soccerway. Global Sports Media. 2012年6月18日閲覧。
- ^ Características del estadio at Club's official website.
- ^ Copa Beccar VarelaRSSSF
- ^ 1933 Copa de CompetenciaRSSSF
- ^ Copa de Competencia BritánicaRSSSF
外部リンク [編集]
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