クラウディオ・ロペス
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| クラウディオ・ロペス | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 本名 | クラウディオ・ハビエル・ロペス | |
| 愛称 | ピオホ | |
| カタカナ | クラウディオ・ロペス | |
| ラテン文字 | Claudio Javier López | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1974年7月17日(33歳) | |
| 出身地 | コルドバ州・リオ・テルセオ | |
| 身長 | 178cm | |
| 体重 | 77kg | |
| 選手情報 | ||
| 在籍チーム | カンザスシティ・ウィザーズ | |
| ポジション | FW
|
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| 代表歴 | ||
| 出場 | 58 | |
| 得点 | 10 2006年11月1日現在 |
|
| オリンピック | ||
|---|---|---|
| 男子 サッカー | ||
| 銀 | 1996 | サッカー |
クラウディオ・ハビエル・ロペス(Claudio Javier López、1974年7月17日 - )は、アルゼンチン・コルドバ州・リオ・テルセオ出身の同国代表サッカー選手(FW)。
アルゼンチンと言うサッカー大国の代表選手であり、有力なクラブチームにその籍を置くため日本での知名度も高い。ちょこまかと素早く動き回るそのプレイから「ピオホ(Piojo = のみ、しらみ)」とあだ名される。また、幼少の頃は背が小さかった為ピッコロ= 小さい が変化したとも言われている。「ロペス」という姓はラテン語圏では極めて多いため「クラウディオ・ロペス」とフルネームで呼ばれることが殆どである。また、彼のユニフォームに書かれる名前も単に「LOPEZ」であることは少なく、「C. LOPEZ」、「LOPEZ C」、「CLAUDIO」である。
目次 |
[編集] プレイスタイル
利き足が左であることから、左サイドのウィングやミッドフィルダーをその役割とし、豊かなスピードで敵のディフェンスラインを切り裂く。カウンターからの得点シーンが極めて多い現代サッカーにおいて、彼のような高速アタッカーは起用方法が適切ならば素晴らしい能力を発揮する。タッチライン際を主な戦場としゴールゲッターへのアシストを求められることが多いが、それだけではなく中央に切れ込んでゴールをあげる能力にも長けている。弱点としては利き足の逆の右足でのキックが不得意なこと、調子の波が大きいことがあげられる。
[編集] 略歴
1990年、地元のクラブ ウニベルシダ・コルドバでプロサッカー選手としてのキャリアをスタート。翌年の1991年には同じアルゼンチンのラシン・クラブに移籍。ラシン・クラブで優秀なフォワードに順調な成長を遂げる。1993年5月13日、 対 南アフリカ戦でアルゼンチン代表デビュー。1996年にはアトランタ・オリンピックにアルゼンチン代表として出場、銀メダル獲得に貢献。
そして1995-1996シーズンオフ、スペインのバレンシアCFに移籍。バレンシアのレギュラーとしてプレイするが、移籍1年目を3得点の不本意な結果で終える。しかし1997-1998シーズン、2年目のバレンシアで期待通りの活躍を見せる。その活躍が認められアルゼンチン代表にも定着。W杯フランス大会、アルゼンチン代表の主力としてその全5試合に出場。チームはベスト8止まりだったがクラウディオ・ロペスのスピード溢れるプレイは世界に深く知れ渡る。なお、準々決勝でW杯通算100ゴールとなる節目のゴールをあげたのがクラウディオ・ロペスである。1999年1998-1999シーズン、バレンシアの完全なるエースとなり、好調であった昨シーズンをさらに上回る活躍でリーグでは21得点、さらにはコパ・デル・レイの優勝にも大きく貢献する。 1999-2000シーズン、バレンシアはUEFA CLでも躍進。クラウディオ・ロペスのスピードを活かしたカウンター攻撃で、欧州中のクラブを次々と撃破し準優勝と言う輝かしい結果を残した。
1999-2000シーズンオフには、イタリア・セリエAのラツィオに移籍。2000-2001シーズン、ラツィオでの1年目は左膝靭帯損傷の怪我によりわずか16試合の出場・無得点に終わる。2001-2002シーズン、怪我の癒えたロペスはチームのレギュラーとなり、持ち味のスピードはセリエAでも十分に通用したが、これまでのような得点は思うようにあげられずに苦しむ。2002 FIFAワールドカップにアルゼンチン代表として出場。アルゼンチンは強豪らしからぬ戦いでグループリーグ敗退。大会後のテレビ番組でロペスはアルゼンチン代表のエース バティストゥータを「エースにふさわしくない」と非難、代表で長く一緒にプレイしてきたバティストゥータとの間に溝が生じる。
2002-2003シーズン、財政難のラツィオにありながらコッラーディとのコンビは冴え渡り、14ゴール(リーグ6位)12アシスト(リーグトップ)を記録。すばらしい活躍を見せる。2003-2004シーズン、ラツィオでセリエAとUEFA CLの両方を戦い抜くが、ラツィオの財政難は続いておりチームから去る主力がいるなど前年のような快進撃とはならなかった。
2003-2004シーズン終了後にメキシコリーグのクラブ・アメリカに移籍。2005シーズン 後期リーグ優勝。CONCACAFチャンピオンズカップへの出場権を得る。4月CONCACAFチャンピオンズカップ優勝。FIFAクラブワールドカップへの出場権を得る。12月FIFAクラブワールドカップ出場のため来日。
2007年1月に11年ぶりにラシン・クラブへ復帰。2008年3月に年俸制限のない特別指名選手としてMLSのカンザスシティ・ウィザーズに移籍した。
[編集] エピソード
2004年12月にメキシコ・アカプルコの海で海水浴中、大波に飲み込まれ溺れる。救助隊員に助けられなんとか無事に救出された。
[編集] 所属クラブ
- 1990年-1991年 ウニベルシダ・コルドバ (
アルゼンチン) - 1991年-1992年 ウニベルシダ・コルドバ (
アルゼンチン) → ラシン・クラブ (
アルゼンチン) - 1992年-1996年 ラシン・クラブ (
アルゼンチン) - 1996年-2000年 バレンシアCF (
スペイン) - 2000年-2004年 SSラツィオ (
イタリア) - 2004年-2007年 クラブ・アメリカ (
メキシコ) - 2007年-2008年 ラシン・クラブ (
アルゼンチン) - 2008年- c (
アメリカ合衆国)
[編集] 代表歴(国際大会)
- 1996年 アトランタオリンピック (チーム成績:銀メダル)
- 1998年 W杯フランス大会 5試合出場1得点 (チーム成績:ベスト8)
- 2002年 W杯韓国・日本大会 3試合出場0得点 (チーム成績:グループリーグ敗退)
代表通算キャップ:54試合 得点:10得点 (2003年4月30日時点)
| アルゼンチン代表 - 1998 FIFAワールドカップ | ||
|---|---|---|
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1 ロア | 2 アジャラ | 3 チャモ | 4 ピネダ | 5 アルメイダ | 6 センシーニ | 7 C.ロペス | 8 シメオネ | 9 バティストゥータ | 10 オルテガ | 11 ベロン | 12 ブルゴス | 13 パス | 14 ビバス | 15 アストラーダ | 16 ベルティ | 17 カバジェロ | 18 バルボ | 19 クレスポ | 20 ガジャルド | 21 デルガド | 22 サネッティ | 監督: パサレラ |
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| アルゼンチン代表 - 2002 FIFAワールドカップ | ||
|---|---|---|
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1 ブルゴス | 2 アジャラ | 3 ソリン | 4 ポチェッティーノ | 5 アルメイダ | 6 サムエル | 7 C.ロペス | 8 サネッティ | 9 バティストゥータ | 10 オルテガ | 11 ベロン | 12 カバジェロ | 13 プラセンテ | 14 シメオネ | 15 ウサイン | 16 アイマール | 17 G.ロペス | 18 キリ・ゴンサレス | 19 クレスポ | 20 ガジャルド | 21 カニーヒア | 22 チャモ | 23 ボナーノ | 監督: ビエルサ |
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