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マルセロ・ビエルサ |
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| 名前 |
| 本名 |
Marcelo Alberto Bielsa Caldera |
| 愛称 |
エル・ロコ |
| カタカナ |
マルセロ・アルベルト・ビエルサ・カルデラ |
| ラテン文字 |
Marcelo Bielsa |
| 基本情報 |
| 国籍 |
アルゼンチン |
| 生年月日 |
1955年7月21日(56歳) |
| 出身地 |
ロサリオ |
| 選手情報 |
| ポジション |
DF |
| 獲得メダル |
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マルセロ・ビエルサ(Marcelo Bielsa, 1955年7月21日 - )はアルゼンチン出身のサッカー監督、元サッカー選手。愛称は「エル・ロコ」。
[編集] 来歴
[編集] 初期の経歴
幼少期よりサッカーが好きでニューウェルズ・オールドボーイズの熱烈ファンであった。ビエルサの一族は政治家か法律家になる者が多かったが、これに反しサッカーに携わる職業に就くことを選択する。
1970年代後半にはディフェンダーとしてニューウェルズ・オールドボーイズでプレーするも25歳で引退。すぐにコーチに転身し、オールドボーイズの下部組織の指導者になった。
[編集] 監督へ
1990年よりトップチームの監督に就任すると、初年度にプリメーラ・ディビシオンを制覇。1992年にはコパ・リベルタドーレスで決勝に駒を進めるもPK戦の末にサンパウロFCに敗れ、準優勝に終わった。
その後、メキシコに拠点を移し、CFアトラスおよびクラブ・アメリカの指揮を執った。帰国後はベレス・サルスフィエルドを率いて1997年のアルゼンチン後期リーグを制覇する。
[編集] アルゼンチン代表監督
1998年にはRCDエスパニョールの監督に就任するもほどなくして辞め、ダニエル・パサレラの後任としてアルゼンチン代表監督への就任する。アヤックスの3-4-3システムを発展させた様な3-3-1-3システムを採用し、ロベルト・アジャラ、フアン・セバスティアン・ベロン、エルナン・クレスポらが円熟期に入ったチームは、2002年の日韓W杯南米予選で圧倒的な強さを見せた。両サイドにウイングやセカンドトップの選手を配する形を好んだ為、典型的なセンターフォワードのガブリエル・バティストゥータとエルナン・クレスポが併用される事は無かった。またボカ・ジュニアーズのフアン・ロマン・リケルメの古典的なプレースタイルを好まず、積極的に起用しようとはしなかった。翌年の本大会ではフランス代表と共に優勝候補の一角に挙げられたが、まさかの1次リーグ敗退を喫する。責任を取る形で辞任するものと思われたが、結局は留任した。2004年にはU-23代表を率いてアテネオリンピックで優勝したが、その直後に監督を辞任している。
[編集] チリ代表監督
2007年8月より、チリ代表の監督に就任。南アフリカW杯南米予選ではブラジルに次ぐ2位という好成績でチリを3大会ぶり8回目のW杯出場に導いた。南アフリカW杯でも62年大会以降白星のなかったチリ代表を16強に導いた。W杯後もチリ代表監督を務めていたが、自身を招へいしたチリサッカー協会会長のハロルド・マイネ・ニコルスが会長選挙で再選できなかったため2010年11月17日に行われたウルグアイ代表との親善試合を最後に2011年1月に退任した。
[編集] 人物
- 政治家で2003年から2005年までアルゼンチンの外務大臣を務めたラファエル・ビエルサは実兄。また、実姉のマリア・イウヘニアもサンタフェ州の副知事を務めた[1]。
- 戦術マニアとして知られ[2]、趣味はサッカーの試合のビデオ収集。そのため、「エル・ロコ」(変人の意)のあだ名がついた。
- チリ代表監督に就任後、代表の合宿所の宿泊施設に住み始めてメディアを驚かせた[3]。
[編集] 選手歴
[編集] 指導歴
[編集] タイトル
[編集] クラブ
ニューウェルズ・オールドボーイズ
ベレス・サルスフィエルド
[編集] 代表
アルゼンチン代表
[編集] 受賞歴
[編集] 脚注