パブロ・アイマール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

パブロ・アイマール
名前
本名 パブロ・セサール・アイマール
愛称 西: El Payaso(ピエロ)
カタカナ パブロ・アイマール
ラテン文字 Pablo AIMAR
基本情報
国籍 アルゼンチン
スペイン
生年月日 1979年11月3日(28歳)
出身地 コルドバ州リオ・クアルト
身長 170cm
体重 62kg
選手情報
在籍チーム ベンフィカ
ポジション MF
背番号 10
利き足 右足
代表歴
1999- アルゼンチン 51 (8)


Template(ノート 解説)サッカー選手pj

パブロ・アイマールPablo César Aimar1979年11月3日 - )は、アルゼンチンコルドバ州リオ・クアルト出身のサッカー選手。ポジションはミッドフィールダーポルトガルスーペルリーガベンフィカ所属。

目次

[編集] プレースタイル

パジャッソ(スペイン語でピエロの意)と称されるようにそのプレーはテクニックと独創性に満ち溢れ、かのディエゴ・マラドーナは「今唯一お金を払ってプレーを見たい選手」と語った。

ゲームメーカーの選手に特徴的な個の力で局面を打開するタイプではなく、周囲を上手く使って自分を活かすタイプの選手で、パスを前提に機敏な動きでドリブルやシュートを仕掛けていく。本人曰く「1つのゴールより2つのアシスト」と言うようにゴール数こそ少ないが、高いスルーパス能力を筆頭にフィニッシュへ繋げる展開に非凡な才能を発揮する。ディフェンスはアイマールを止める手段として潰しとパスコースを切ることに労を費やすが、これを逆手に取ったワンタッチプレーとドリブルが非常に有効であり、特にパス&ゴーに集約されたダイレクトプレーは圧巻である。 アルゼンチンの選手らしく足下が巧みであり、ドリブルも速くなくとも上手いボール捌きを見せる。

華奢な体格の為フィジカルが非常に弱く、激しいプレスには簡単に潰され怪我をする事が多い。絶頂期のバレンシア時代にはそういった選手にマンツーマンでディフェンスされ、狩られることが多かった。

[編集] 略歴

[編集] クラブ

1996年にアルゼンチンプロサッカーリーグの名門リーベル・プレートで弱冠16歳にしてデビュー。当時からその才能は高く評価されており、1999-2000シーズンにはMFながら12得点を上げ、前後期のリーグ優勝に貢献した。

2001年1月、約25億円の移籍金でスペインバレンシアCFに移籍。2001-2002シーズンのリーグ優勝およびUEFAチャンピオンズリーグ準優勝に貢献した。2003-2004シーズンには再びリーグ優勝、そしてUEFAカップ優勝の2冠に貢献するなど、クラブの中心選手として活躍した。

しかし、2004-2005シーズンにクラウディオ・ラニエリが監督に就任してからは、本来以外のポジションでプレーさせられたり、先発メンバーを外れることが多くなったりと不遇の時を過ごした。しかし同シーズンに成績不振からラニエリが退任し、アントニオ・ロペスが監督に就任した後は、アイマールを中心に据える戦術によって再び輝きを取り戻した。2005-2006シーズンは負傷やキケ・サンチェス・フローレス監督の起用法の影響からか、本来のプレーを発揮するに至らず、2006年7月に同リーグのレアル・サラゴサへ移籍した。 2008-2009シーズンからはポルトガルのベンフィカに約12億7500万円の移籍金で移籍した。

[編集] 代表

アルゼンチン代表としての経歴はユース時代に遡る。各世代での華々しい活躍は1995年のFIFA U-17世界選手権で3位、1997年にはU‐20南米選手権およびFIFAワールドユース選手権優勝などは広く知られている。フル代表では、1999年6月9日のメキシコ戦で初出場。2002年日韓W杯にも3試合出場したが1次リーグで敗退した。また、2006年に行われたドイツW杯は絶対的な存在であったファン・ロマン・リケルメの控えという立場から出場機会は少なく3試合に途中出場するに留まった。また代表も優勝候補の一角と目されていたがベスト8で敗退した。

[編集] エピソード

  • 2004年にはバレンシアCFの一員として来日、新潟県Jリーグアルビレックス新潟と親善試合を行った際、同県を中心に被災者を出した水害や中越地震に心を痛め、義援金を出したことで有名である。この時の試合は5-2でアルビレックス新潟が勝利しているが、アイマール自身は負傷のため試合には出場しなかった。

[編集] 所属クラブ