セサル・ルイス・メノッティ

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セサール・ルイス・メノッティ Football pictogram.svg
名前
愛称 El Flaco
ラテン文字 César Luis Menotti
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日 1938年11月5日(75歳)
出身地 ロサリオ
選手情報
ポジション FW
代表歴
19??-19?? アルゼンチンの旗 アルゼンチン ? (?)
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

セサール・ルイス・メノッティ(César Luis Menotti、1938年11月5日 - )はアルゼンチン出身のサッカー監督,サッカー選手。攻撃的サッカーの信奉者。 1976年に軍事クーデターが起こり政情が不安定になる中、前回西ドイツ大会経験者のFWマリオ・ケンペスを中心に、それ以外のメンバーは国内からMFオズワルド・アルディレスDFダニエル・パサレラら有能な若手選手を抜擢、国際試合における蛮行で暴力的なイメージが定着した代表チームにクリーンで攻撃的なサッカーを浸透させ、1978年アルゼンチン大会で初優勝に導いたことで知られる。

経歴[編集]

クラブでの成功[編集]

若くして監督のキャリアをスタートさせ、1971年から就任したCAウラカンではアルフィオ・バシーレミゲル・ブリンディシら後に指導者としても活躍する選手や、アルゼンチンW杯代表のレネ・ハウスマンらを率いてメトロポリタン・リーグを制覇。この結果が認められ1975年にFIFAワールドカップ地元開催を控えたアルゼンチン代表監督に就任する事になった。

軍事政権の下で[編集]

1974年に死去したフアン・ペロン大統領の後を継いだ妻のイサベル・マルチネス・デ・ペロンの失政とそれに対する抗議テロにより国内が混乱する中、1976年3月24日軍事クーデターが勃発しホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍が実権を掌握。軍事政府によって左翼家や一般市民が次々と弾圧、処刑(一説には8,000人から30,000人が処刑された)されるなど不穏な空気が流れ亡命者が続出する中、メノッティは国内に留まる事とした。

軍事政府はW杯を成功させ優勝させる事が自分達のPRになると考え全面的に支援する事を約束をしたのだ(ライバルブラジルが3度の優勝を誇るのに対しアルゼンチンは0回だったことなどから優勝を絶対命令にもした)。その一環として選手の海外移籍を禁じ代表強化合宿に集中しやすい状況にした。

メノッティは当時、首都ブエノスアイレスに本拠を置くクラブが絶対的に権威を持つ中、慣例を破り地方のクラブから多数の選手を選出した。オズワルド・アルディレスがその代表格で、彼はそのままチームの中心選手として君臨した。その後、当時17歳のディエゴ・マラドーナが頭角を表し大会直前の合宿メンバーに招集されたが、逸材をプレッシャーの懸かる重要な大会で潰す訳にはいかないとして最終的に22名のメンバーからは外すことになった。メノッティは「彼はまだ若い、次のチャンスまで機会を待とう」と語ったが、この事はマラドーナ本人、相当ショックだったという。

アルゼンチンW杯[編集]

大会を勝ち進み2次リーグではライバルのブラジルと同じ組に入った。直接対決は0-0で引き分けその時点で勝ち点は並ぶものの得失点差は3に開いていた。2次リーグ最終日にブラジルが先に試合を終えた結果(現在の様に最終戦を同時刻に行う決まりが無かった)、アルゼンチンが決勝に進むには4点差以上での勝利が必要になる絶体絶命のピンチに陥った。しかしこの逆境を跳ね除け6-0でペルーに勝利(八百長の疑惑もある)。 この勢いに乗り決勝では前回準優勝の オランダ(エースのヨハン・クライフは軍部の弾圧に抗議し大会不参加)を3-1で下し見事初優勝、メノッティは政府から課せられた優勝の使命を果たした。

その後[編集]

翌1979年、ワールドユース日本大会でもディエゴ・マラドーナを擁しこれを制するなど順調に事は進み、前回優勝メンバーとユース世代の融合が期待されたが、1982年スペイン大会では輝きを見せること無く2次リーグ敗退の結果に終わった。

これ以降も名門FCバルセロナメキシコ代表、アルゼンチン国内のクラブを率いるなど、現役の指導者として活躍している。

備考[編集]

  • 1970年のFIFAワールドカップ・メキシコ大会で優勝したブラジル代表のサッカーに強い影響を受けているという。
  • 後任のアルゼンチン代表監督カルロス・ビラルドとはサッカーに対する考え方の違いから犬猿の仲である。
  • メキシコ代表監督時代の1991年、先進的なプレースタイルで「代表入りは危険」と批判されていたホルヘ・カンポスを、「彼は21世紀のゴールキーパー」と評して代表に初招集した。
  • 生粋の左翼思想家で、「死ぬまで左派に残る」という言葉を残している[1]。メノッティは自身が語るやや難解な攻撃的サッカー哲学とその思想信条を市民生活とフットボールの間で分けることができなかったゆえに、フットボールと政治経済の話が交錯する際にパラドックスに陥る発言がしばしば聞かれる[1]

選手歴[編集]

指導歴[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b ジャック・ティベール 「ON TIME FOOTBALL 新欧州フットボール春秋」 『WORLD SOCCER MAGAZINE 2007 4.19 Vol.160』 第9巻第14号通算160号、ベースボール・マガジン社、2007年、82-84頁。雑誌 29903-7/19

外部リンク[編集]