ジョゼップ・グアルディオラ
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|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | ||||||
| 本名 | ジョゼップ・グアルディオラ・イ・サラ | |||||
| 愛称 | Pep(ペップ) | |||||
| ラテン文字 | Josep Guardiola i Sala | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 | ||||||
| 生年月日 | 1971年1月18日(42歳) | |||||
| 出身地 | カタルーニャ州, サントペドル | |||||
| 身長 | 180cm | |||||
| 体重 | 76kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | MF | |||||
| 利き足 | 右足 | |||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
| 1990-2001 2001-2002 2002-2003 2003 2003-2005 2005-2006 |
263 (6) 11 (2) 4 (0) 13 (1) 18 (2) 10 (1) |
|||||
| 代表歴 | ||||||
| 1991-1992 1991-1992 1992-2001 1995-2005 |
2 (0) 12 (2) 47 (5) 7 (0) |
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| 監督歴 | ||||||
| 2007-2008 2008-2012 |
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| 1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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| オリンピック | ||
|---|---|---|
| サッカー | ||
| 金 | 1992 | サッカー |
ジョゼップ・グアルディオラ・イ・サラ(カタルーニャ語: Josep Guardiola i Sala IPA:[ʒuˈzɛb ɡwəɾðiˈɔɫə][1], 1971年1月18日 - )は、スペイン・サントペドル出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションはMF。
ジョゼップの愛称形であるペップ(Pep)や、ペップ・グアルディオラ(Pep Guardiola)として広く知られる。ドリームチームを築いた1990年代のFCバルセロナの象徴である。
目次 |
選手経歴 [編集]
クラブ [編集]
FCバルセロナでの活躍 [編集]
カタルーニャ地方のサントペドルに生まれ、カム・ノウからわずか100mほどの学校に通った。「幼い頃は、いつもシュスターのユニフォームを着ていた。彼はバルセロナ史上最高のMFの1人だ」と語り、ベルント・シュスターがアイドルであったと語っている[2]。13歳でFCバルセロナの下部組織であるラ・マシアに入寮し[3]、徐々に上位カテゴリーに昇格していった。1990年、カディスCF戦でトップチームデビューを果たし、ヨハン・クライフ監督はギジェルモ・アモール欠場時にグアルディオラを起用した。1991-92シーズンにはレギュラーポジションを獲得し、わずか20歳にしてリーガ・エスパニョーラ、UEFAチャンピオンズカップ優勝の立役者となった。1992年、イタリアのサッカー誌グエリン・スポルティーヴォによってヨーロッパの最優秀若手サッカー選手に贈られるブラヴォー賞を獲得した。
ドリームチームは1992-93シーズン、1993-94シーズンも王座を守り、リーグ4連覇を果たしたが、グアルディオラはいずれのシーズンも中軸としてプレーしている。1993年にロマーリオを獲得したチームは1993-94シーズンにもUEFAチャンピオンズカップで決勝に進出したが、ファビオ・カペッロ率いるACミランに0-4で大敗した。
1994-95シーズンと1995-96シーズンはそれぞれ3位と4位で終えたが、この間もFCバルセロナの中盤のポジションを確保し続けた。1996年にクライフがチームを離れ、1996-97シーズン、ボビー・ロブソン率いるチームはコパ・デル・レイとUEFAスーパーカップとUEFAカップウィナーズカップのトレブル(3冠)を獲得した。ドリームチームの時代は過ぎ去り、チキ・ベギリスタインやフリスト・ストイチコフの役割をルイス・フィーゴやロナウドが引き継いだが、グアルディオラの役割は不変だった。1996-97シーズン終了後、クラブはグアルディオラに対するASローマとパルマFCからの約300万ペセタのオファーを拒否した。契約延長に関する長い交渉の末、2001年までの新契約にサインした。違約金は150億ペセタに設定されたが、これはリーガ・エスパニョーラ史上2番目に高い額だった。
1997-98シーズンのほとんどをふくらはぎの怪我で欠場したが、クラブはルイス・ファン・ハール新監督の下で国内リーグと国内カップの2冠を達成した。1998年6月8日、肉体的な問題を解決するために手術を行い、フランスで開催された1998 FIFAワールドカップを逃した。1998-99シーズンは戦線に復帰し、リバウドやルイス・フィーゴの活躍のおかげもあって再びリーグタイトルを獲得した。1999-2000シーズンは深刻な膝の怪我により、シーズン終盤の3か月に出場できなかった。2000-01シーズンのリーグ戦は4位に終わり、UEFAチャンピオンズリーグではベシクタシュJKとACミランに完敗してグループリーグで敗退し、チームは無冠に終わった。
2001年4月11日、ユース時代から17年間過ごしたクラブを離れることを決意し、6月24日のセルティックFC戦がFCバルセロナでのラストマッチとなった。FCバルセロナでは12シーズンで479試合に出場して16個のタイトルを獲得した。セルティック戦後の記者会見で「長い旅だった。私はとても幸せで、誇りを持っている。たくさんの友人ができた。私はもう幸福を探し求めない。選ばれた者として長い間過ごした」と述べた。得点数は少なかったが、6度のリーグタイトルと1度のUEFAチャンピオンズカップ、バルセロナオリンピックでの金メダル、その他さまざまなトロフィーを獲得した。
2008年にUEFA欧州選手権を制したスペイン代表の中盤の選手の多く、特にシャビ、アンドレス・イニエスタ、セスク・ファブレガスらにとって、グアルディオラは少年時代のアイドルであり、チームを去っても尊敬度は変わらなかった[4]。
セリエA挑戦 [編集]
2001年に31歳でFCバルセロナを離れると、ニューカッスル・ユナイテッドFC、マンチェスター・ユナイテッドFC、ウェストハム・ユナイテッドFC、トッテナム・ホットスパーFC、リヴァプールFC、ACミラン、インテル・ミラノがグアルディオラ獲得に興味を示した。しかし彼はセリエAのブレシア・カルチョとASローマでプレーすることを選んだ。彼はブレシアへの入団会見で「私が移籍を決めたのはロベルト・バッジョがいたからだ。彼とプレーできることはビッグクラブへの移籍よりはるかに魅力的だ」と語っていた。しかしながら彼のイタリアでの挑戦は成功だったとは言えず、2003年までに71試合に出場するのみにとどまった。
ドーピング疑惑と無罪 [編集]
2001年11月には試合後のドーピング検査において、禁止薬物であるナンドロロンに対する陽性反応が出たために4か月間の出場停止処分を受けた。さらに、2005年には執行猶予がついたものの7か月の有罪判決を受けた。これに対してグアルディオラ側は「イタリアのドーピング検査はいいかげんだ」と一貫して無実を主張し、科学的根拠のある反証を数多く提出した。そして2007年10月にブレシア高等裁判所は1審を破棄し、無罪の判決を下した。こうして6年間に渡る闘いの末、グアルディオラの潔白がようやく証明された。
ところが、無罪判決から2年後の2009年8月、イタリアオリンピック委員会(CONI)がグアルディオラを上訴し、ドーピング問題が再燃した[5]。しかし9月の裁判で裁判所はグアルディオラ側の主張を認める判決を下したため、9月29日にCONIが彼の無罪を発表して問題が決着した[6]。
カタールとメキシコでの晩年 [編集]
ストレスのたまるイタリアでの挑戦の後、34歳にして彼が選んだのはカタール・スターズリーグのアル・アハリ・ドーハだった。マンチェスター・ユナイテッドからも誘いがあったが、欧州以外の場所でプレーすることを希望したために中東を選び、レギュラーとしてプレーした。スターズリーグではガブリエル・バティストゥータなどの名選手が何人かプレーしていた。華やかな選手生活に戻る気はなかったため、2005年夏にはマンチェスター・ユナイテッドやマンチェスター・シティFC、チェルシーFCなど欧州のトップクラブからのオファーを断った。
2006年、メキシカン・サッカーリーグのドラドス・シナロアの監督をしていたスペイン人のフアン・マヌエル・リージョは、指導者養成学校に通っていたグアルディオラを誘った。中盤での魔法のようなプレーは健在だったが、半年間プレーした後の2006年11月に現役引退を表明した。
代表 [編集]
スペイン代表 [編集]
1992年にはU-23スペイン代表のキャプテンとしてバルセロナオリンピックに参加し、金メダルを獲得した。
1992年10月14日、ウィンザーパークで行われた1994 FIFAワールドカップ予選北アイルランド戦でスペインA代表デビューした。1994年には1994 FIFAワールドカップに出場し、ベスト8に進出したが、準々決勝でイタリアに1-2で敗れた。ハビエル・クレメンテ監督はしばしばグアルディオラを控え選手として扱い、1996年のUEFA欧州選手権1996ではメンバーから外れた。
度重なる怪我の影響によってフランスで開催された1998 FIFAワールドカップ、日本と韓国で共催された2002 FIFAワールドカップと2大会連続でFIFAワールドカップを棒に振り、選手生活においてワールドカップの舞台での活躍は縁の無いものとなった。2000年のUEFA欧州選手権2000では準々決勝に進出したが、フランスに1-2で敗れた。2001年11月14日のメキシコとの親善試合が彼の代表ラストマッチとなった。
カタルーニャ選抜 [編集]
カタルーニャ選抜としては、1995年から2005年までに7試合に出場した。
指導者経歴 [編集]
FCバルセロナB [編集]
引退後は同世代のルイス・エンリケらと共に指導者の道を選び、2007-08シーズンからFCバルセロナBの監督としてバルセロナに再び戻った。そして就任1年でテルセーラ・ディビシオン(4部)からセグンダ・ディビシオンB(3部)に昇格させた。
FCバルセロナ [編集]
2008-09シーズン [編集]
2008年5月8日、フランク・ライカールトに代わって2008-09シーズンからFCバルセロナのトップチームの監督に就任することが発表された。前日のエル・クラシコで1-4と屈辱的な敗戦を喫してからすぐの就任発表だった[7]。契約期間は2年で、年俸は欧州のトップクラブの指揮官としてはかなりの低額の150万ユーロと言われている[8]。就任会見でそれまでの中核であったロナウジーニョ、デコ、サミュエル・エトオの構想外を宣言し[9](エトオは後に残留)、遅刻1分につき500ユーロ(約6万5000円)の罰金を徴収するなど[10]、2006-07シーズンから2シーズン連続で無冠と不振のクラブに改革を施した。クラブの下部組織出身の選手を重用し[11]、レアル・マドリードとのエル・クラシコで2連勝するなど、リーグの最多勝ち点記録を上回るペースで勝ち点を積み重ね、36節終了後に優勝を決めた。決勝でアスレティック・ビルバオを倒したコパ・デル・レイ、マンチェスター・ユナイテッドを倒したUEFAチャンピオンズリーグと合わせ、就任1年目にして3冠達成を果たした。3冠達成後には「このチームがクラブ史上最強だとは思わないが、最高の成績は残せた」と語った[12]。
2009-10シーズン [編集]
2009年夏にはインテルとの間でサミュエル・エトオとズラタン・イブラヒモビッチをトレードし、さらに4900万ユーロを支払う大型移籍を取りまとめた。また、インテルからマクスウェルを獲得し、FCシャフタール・ドネツクからドミトロ・チグリンスキーを獲得した。エイドゥル・グジョンセンはASモナコに移籍し、シウヴィーニョとアルベルト・ジョルケラは契約満了により移籍し、アレクサンドル・フレブ(→VfBシュトゥットガルト)、マルティン・カセレス(→ユヴェントス)、アルベルト・ボティア(→スポルティング・ヒホン)、ビクトール・サンチェス(→シェレスCD)などはレンタルでチームを離れた。2009-10シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャでビルバオを破り、UEFAスーパーカップでシャフタール・ドネツクを破る絶好なスタートを切り、9月25日のマラガCF戦ではFCバルセロナの監督として50勝目を積み上げた。12月19日にはクラブ初のFIFAクラブワールドカップ優勝を飾り、6つのタイトル(リーガ・エスパニョーラ、コパ・デル・レイ、UEFAチャンピオンズリーグ、スーペルコパ・デ・エスパーニャ、UEFAスーパーカップ、FIFAクラブワールドカップ)を獲得した。6冠達成は史上初であった。
2010年1月に行われたコパ・デル・レイ、ラウンド16でセビージャFCに敗れたが、1月20日にはクラブとの契約を1年間延長し、2010-11シーズン終了まで指揮を執ることが決定した[13]。2月には就任以来の公式戦試合数が100試合に達し、71勝19分10敗(242得点76失点)という好結果を樹立している[14]。4月10日のエル・クラシコで勝利し、FCバルセロナの歴史の中で初めてこの対戦で4連勝を記録した監督となった。UEFAチャンピオンズリーグでは、準決勝のインテル戦に2試合合計2-3で敗れた。リーグ戦では、ホームでレアル・バリャドリードを4-0で破り、ヨーロッパ新記録となる勝ち点99で20回目のリーグ優勝を達成した。監督就任以来7つ目のタイトルとなり、11個のタイトルを獲得しているヨハン・クライフに次ぐ2位タイ(フェルディナンド・ダウシクと並ぶ)のタイトルホルダーとなった。6月8日には、3月6日のUDアルメリア戦中・戦後の言動によりスペインサッカー連盟に15000ユーロの罰金を言い渡された[15]。
2010-11シーズン [編集]
2010年7月14日、クラブとの契約を2011年6月まで延長した[16]。2010年夏には、1年前に加入したばかりの二人の選手がクラブを去った。シャフタール・ドネツクに復帰したチグリンスキーとACミランに移籍したイブラヒモビッチである。さらに、ラファエル・マルケスとティエリ・アンリがニューヨーク・レッドブルズに移籍し、トゥーレ・ヤヤはマンチェスター・シティに移籍した。セビージャからアドリアーノ・コレイア、バレンシアCFからダビド・ビジャ、リヴァプールからハビエル・マスチェラーノを獲得した。
8月21日、スーペルコパ・デ・エスパーニャでセビージャを5-3で破り、2年連続2度目の優勝を果たした。11月29日にはレアル・マドリードとのエル・クラシコで5-0の大勝を飾り、就任から同一カード5連勝となった。2011年2月8日にはクラブが提示した新契約を受け入れ、2012年6月まで契約延長した[17]。5月11日、レバンテUD戦(1-1)に引き分け、3シーズン連続21回目のリーグ優勝を決めた。2008年夏の就任以来、UEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメントのアウェー戦では7戦連続未勝利であったが、準々決勝のシャフタール・ドネツク戦セカンドレグに1-0で勝利し、初のアウェー戦勝利を掴んだ。同大会準決勝はレアル・マドリードと対戦することになった。時同じくしてコパ・デル・レイ決勝でも対戦することになった上、リーグ戦でも対戦が予定されていたため、3週間で4度のクラシコが行われることとなり、クアトロ・クラシコ(Cuatro Clasico、4度のクラシコの意)と呼ばれて白熱した。
2011-12シーズン [編集]
ウディネーゼ・カルチョよりアレクシス・サンチェスを、アーセナルFCより元カンテラーノのセスク・ファブレガスを獲得した。
リーガ開幕前のスーペルコパ・デ・エスパーニャでレアル・マドリード相手にファーストレグは2-2と引き分けるも、セカンドレグで3-2と勝利を収め、2戦合計でスーペルコパ・デ・エスパーニャを獲得。8月26日のUEFAスーパーカップもFCポルトを4-0で破って獲得。また、12月に日本で行われたFIFAクラブワールドカップ2011では、ダビド・ビジャが脛骨骨折の重傷を負うも優勝を果たした。しかし、リーガでは就任後初めてレアル・マドリードとのクラシコに敗れ4連覇を逃すと、チャンピオンズリーグでも準決勝でチェルシーに敗れ、2年前のインテルに続きカンプ・ノウで連覇を逃した。
2012年4月27日、FCバルセロナの監督を退任することを発表した。その理由として、「バルサの監督は信じられないほどのエネルギーを要求される。」、「CL、リーガの試合が辛く、楽しめなくなっていた」など心身の消耗を主に挙げている。退任前最後の試合となったコパ・デル・レイ決勝ビルバオ戦を制し、3季ぶりの優勝を果たし有終の美を飾った。就任してから最も獲得タイトルが少ないシーズンになったが、「サッカーに関して言えば、今季はベストシーズンだった。我々は新しいコンセプトを取り入れたんだ。来シーズンはもっと良くなるだろう」[18]と述べている。指揮を執った4シーズンの間に獲得の可能性があった19個のタイトルのうち、14個ものトロフィーをクラブにもたらした。これはクライフのドリーム・チームを上回る数字となった。後任には、4年間アシスタントコーチを務めたティト・ビラノバが就き、チームのスタイルを継続する事を目指した。
今後に関しては、「遅かれ早かれ監督に復帰するだろうが、今はその意欲はない。ほかにやりたいこともあるし、人生はサッカーだけじゃない。将来どうすべきかは、おのずと明らかになるだろう」[19]と話し、少なくとも1年は家族との時間に費やす予定であるという。バルサ復帰に関しては、「何も決めていない。バルサに戻るかもしれないし、そうならないかもしれない」[20]と述べている。
バイエルン・ミュンヘン [編集]
2013年1月、バイエルン・ミュンヘンは2013年7月からグアルディオラが指揮することを発表。契約は2016年まで。
個人成績 [編集]
選手成績 [編集]
| シーズン | クラブ | ディビシオン | 番号 | リーガ | UEFA CL | 他UEFA | その他 | 通算 | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 1989–90 | セグンダB | ||||||||||||
| 1990–91 | プリメーラ | 4 | 0 | - | - | - | 4 | 0 | |||||
| 1991–92 | セグンダ | 9 | 2 | - | - | - | 9 | 2 | |||||
| 1991–92 | プリメーラ | 26 | 0 | 11 | 0 | - | - | 37 | 0 | ||||
| 1992-93 | 28 | 0 | 4 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 34 | 0 | |||
| 1993-94 | 34 | 0 | 9 | 0 | - | - | 43 | 0 | |||||
| 1994-95 | 24 | 2 | 6 | 0 | - | - | 30 | 2 | |||||
| 1995-96 | 4 | 32 | 1 | - | 8 | 1 | - | 40 | 2 | ||||
| 1996-97 | 38 | 0 | - | 7 | 1 | - | 45 | 1 | |||||
| 1997-98 | 6 | 0 | 5 | 0 | - | - | 11 | 0 | |||||
| 1998-99 | 22 | 1 | 1 | 0 | - | - | 23 | 1 | |||||
| 1999-2000 | 25 | 0 | 12 | 1 | - | - | 37 | 1 | |||||
| 2000-01 | 24 | 2 | - | 7 | 0 | - | 31 | 2 | |||||
| プリメーラ通算 | 263 | 6 | 48 | 1 | 23 | 2 | 1 | 0 | 335 | 9 | |||
監督成績 [編集]
2011年5月25日現在
| シーズン | クラブ | ディビシオン | 国内リーグ | 国内カップ | UEFA CL | スーペルコパ | UEFA SC | CWC | その他 | シーズン通算 | |||||||||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 順位 | 勝 | 分 | 敗 | 勝 | 分 | 敗 | 勝 | 分 | 敗 | 勝 | 分 | 敗 | 勝 | 分 | 敗 | 勝 | 分 | 敗 | 勝 | 分 | 敗 | 試合 | 勝 | 分 | 敗 | 勝率(%) | |||
| 2007–08 | FCバルセロナB | テルセーラ | 1 | 25 | 8 | 5 | - | 3 | 1 | 0 | 42 | 28 | 9 | 5 | 66.66% | ||||||||||||||
| 2008-09 | FCバルセロナ | プリメーラ | 1 | 27 | 6 | 5 | 7 | 2 | 0 | 7 | 5 | 1 | - | 60 | 41 | 13 | 6 | 68.33% | |||||||||||
| 2009-10 | 1 | 31 | 6 | 1 | 3 | 0 | 1 | 6 | 4 | 2 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | - | 59 | 45 | 10 | 4 | 76.27% | ||||
| 2010-11 | 1 | 30 | 6 | 2 | 5 | 2 | 2 | 9 | 3 | 1 | 1 | 0 | 1 | - | 62 | 45 | 11 | 6 | 72.58% | ||||||||||
| 通算 | スペイン | プリメーラ | - | 88 | 18 | 8 | 15 | 4 | 3 | 22 | 12 | 4 | 3 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 181 | 131 | 34 | 16 | 72.38% |
| テルセーラ | - | 25 | 8 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 42 | 28 | 9 | 5 | 66.66% | ||
| 合計 | - | 113 | 26 | 13 | 15 | 4 | 3 | 22 | 12 | 4 | 3 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 223 | 159 | 43 | 21 | 71.30% | ||
タイトル [編集]
選手 [編集]
FCバルセロナ
- リーガ・エスパニョーラ:6回(1990-91, 1991-92, 1992-93, 1993-94, 1997-98, 1998-99)
- コパ・デル・レイ:2回(1996-97, 1997-98)
- UEFAチャンピオンズカップ:1回(1991-92)
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ:4回(1993, 1994, 1996, 1998)
指導者 [編集]
FCバルセロナB
- テルセーラ・ディビシオン:1回(2007-08)
FCバルセロナ
- リーガ・エスパニョーラ:3回(2008-09, 2009-10, 2010-11)
- コパ・デル・レイ:2回(2008-09, 2011-12)
- UEFAチャンピオンズリーグ:2回(2008-09, 2010-11)
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ:3回(2009, 2010, 2011)
- UEFAスーパーカップ:2回(2009, 2011)
- FIFAクラブワールドカップ:2回(2009, 2011)
脚注 [編集]
- ^ カナ表記をするとジュゼッブ・グアルディオーラとなる。なおスペイン語版でのIPA表記は[ʒuˈzɛp ɡwəɾðiˈɔɫə]となっており、カナ表記するとジュゼップ・グアルディオーラとなる。この違いはフォネティカ・シンタクティカによって、語末の内破的位置にある無声子音pが後続語の語頭にある有声子音ɡによる逆行同化によって有声化が起こった結果である。
- ^ “バルセロニスタも嘆いた? クラシコ4日前のシュスター解任劇”. WOWOWオンライン (2008年12月11日). 2009年10月3日閲覧。
- ^ Sports Graphic Number、文藝春秋、2009年10月29日号
- ^ 日本代表の守備的MF稲本潤一は、グアルディオラを憧れの選手であるとした。
- ^ “グアルディオラのドーピング問題が再燃”. Goal.com (2009年8月1日). 2009年10月6日閲覧。
- ^ “【欧州サッカー】グアルディオラ監督のドーピング疑惑晴れる” (2009年9月30日). 2009年10月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年3月25日閲覧。
- ^ “バルセロナ グアルディオラ氏の新監督就任を発表”. AFP BB News (2008年5月9日). 2009年10月3日閲覧。
- ^ “グアルディオラ監督のサラリー”. Goal.com (2009年3月19日). 2009年10月3日閲覧。
- ^ “グアルディオラ監督 エトーの残留を明言”. AFP BB News (2008年8月13日). 2009年10月3日閲覧。
- ^ “38歳グアルディオラ監督3冠”. ニッカンスポーツ (2009年5月29日). 2009年10月3日閲覧。
- ^ “グアルディオラ監督就任1年目の3冠達成”. スポニチ (2009年5月29日). 2009年10月3日閲覧。
- ^ ニッカンスポーツ (2009年5月29日). “38歳グアルディオラ監督3冠”. 2009年10月3日閲覧。
- ^ “Pep Guardiola agrees new Barcelona deal”. ESPN Soccernet. (2010年1月20日)
- ^ “Guardiola: 100 partidos, 71 victorias”. www.sport.es. (2010年2月20日)
- ^ “Guardiola fined 15,000 euros for ref accusation”. Agence France-Presse. (2010年6月8日)
- ^ “Pep Guardiola signs new deal as coach of Barcelona”. BBC Sport (BBC). (2010年7月14日) 2010年7月14日閲覧。
- ^ “Guardiola accepts new deal until 2012”
- ^ “最後もメッシを称賛のペップ-14個のタイトルに満足”. goal.com (2012年5月26日). 2012年5月26日閲覧。
- ^ “バルセロナのグアルディオラ監督退任へ「しばらく休んで力を蓄えたい」”. スポーツナビ (2012年4月28日). 2012年5月28日閲覧。
- ^ “グアルディオラ監督「試合を楽しめなかった」”. スポーツナビ (2012年6月3日). 2012年6月13日閲覧。
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