CAペニャロール

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CAペニャロール
原語表記 Club Atlético Peñarol
愛称 Manyas(ずる賢い奴),
Aurinegros(金色と黒色),
Carboneros(炭焼き職人),
Mirasoles(ひまわり),
Campeón del Siglo XX(20世紀王者)
クラブカラー 黄色と黒
創設年 1891年
所属リーグ プリメーラ・ディビシオン
ホームタウン モンテビデオ
ホームスタジアム エスタディオ・センテナリオ
収容人数 ウルグアイの旗65,235
代表者 ウルグアイの旗 フアン・ペドロ・ダミアーニ
監督 ウルグアイの旗 ホルヘ・フォッサティ
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

CAペニャロール西: Club Atlético Peñarol)は、ウルグアイの首都モンテビデオのペニャロール地区を本拠地とするスポーツクラブ。特にサッカークラブが有名である。ウルグアイ最大のスタジアムであるエスタディオ・センテナリオをホームスタジアムとしているが、エスタディオ・コンタドール・ダミアーニも所有している。

「peñarol」は、ラテン語の名詞「pinarolium」に由来するカスティーリャ語の文語的表現である。英語では「pinewood」に相当し、日本語では「松林」の意味である。イタリア語では「pinerolo」となり、ピエモンテ州トリノ県サン・セコンド・ディ・ピネローロというコムーネが存在する。

リーグ優勝回数はウルグアイ最多である。コパ・リベルタドーレスでは初回大会と第2回大会を連覇し、決勝進出回数9回はボカ・ジュニアーズと並んで最多。計5回の優勝を果たし、インターコンチネンタルカップでは3度優勝している[1][2]国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)によって、「20世紀にもっとも成功を収めたウルグアイのクラブ」「20世紀にもっとも成功を収めた南米のクラブ」に選出されており、南米サッカー連盟(CONMEBOL)に、「中南米でもっとも成功しているサッカークラブ」として認められている。

歴史[編集]

CURCC(1891年–1913年)[編集]

クラブ初タイトルを獲得したCURCCのメンバー(1900年)

1891年9月28日、1878年設立のセントラル・ウルグアイ鉄道で働くイギリス人達によってセントラル・ウルグアイ・レールウェイ・クリケットクラブ(Central Uruguay Railway Cricket Club、CURCC)が設立された[3]。黄色と黒色のクラブカラーは鉄道の信号と踏切の色に由来する。118人の創設メンバーのうち、72人がイギリス人、1人がドイツ人、45人がウルグアイ人だった。セントラル・ウルグアイ鉄道クリケットクラブという長い名称はスペイン語話者には難解だったため、普通は単にCURCCか、ペニャロールと呼ばれた。ペニャロールという名称は、かつて首都機能が置かれたモンテビデオ郊外の村の名前に由来し、さらに言えば、この村の名称はペドロ・ピナローロ(Pedro Pignarolo)という人物の姓の発音間違いに由来する[3]。この村は新しく築かれた村であり、近くには農場やブドウ畑などが広がっていた[3]。新組織の初代会長にはフランク・ヘンダーソンが就任し、1899年まで会長職を務めた[3]。1892年、CURCCはラグビーチーム、クリケットチームに加えてサッカーチームを立ち上げた。初試合はイングランド人学生の混成チームとの間で行なわれ、CURCCが2-0で勝利した。初代キャプテンのジョン・マクレガーも含めて、創設初期は代々イングランド人選手がキャプテンを務めていたが、1895年、フリオ・ネグロンがウルグアイ人として初のキャプテンに選出された。1900年、CURCC、ウルグアイ・アスレティック、ドイッチャーFK、アルビオンの5クラブはウルグアイサッカー協会リーグを設立した。6月10日にアルビオンとの間で行なわれた試合がクラブ初の公式戦であり、フアン・ペーニャとウィリアム・デイヴィスの得点で2-1の勝利を飾った。同年夏にはナシオナル・モンテビデオとの間で初のエル・クラシコ・デル・フトゥボル・ウルグアージョが行なわれた。2-0で勝利を飾った。

1900年シーズンにはウルグアイ・リーグの初代王者となり、1901年シーズンには2連覇を達成した。1902年シーズンには優勝を逃したが、1903年シーズンのトリウンフォ戦(12-0)ではウルグアイ・リーグ史上初めて1試合二桁得点を達成した。1908年シーズンにはモンテビデオ・ワンダラーズFCも同スコアでの勝利を達成している[4]。1902年シーズンにはライバルのナシオナル・モンテビデオが初優勝を飾り、ナシオナルは1903年シーズンに2連覇を果たしたが、ウルグアイ内戦を経た1905年シーズンと1907年シーズンにはCURCCがタイトルを奪い返した。1905年シーズンの優勝は全試合勝利(なおかつ無失点)での完全優勝だった[3]。1908年シーズンには大会スケジュールに抗議してウルグアイ・リーグから撤退したが、1909年シーズンには復帰した。同年には、ライバル選手が移動に使用していたワゴン車を、ペニャロールのサポーターグループが燃やす事件があった。1911年シーズンにも優勝し、クラブの組織改革が行なわれた。CURCCからペニャロールへの名称変更や、セントラル・ウルグアイ鉄道の従業員以外の選手の参加提案が行なわれ、1913年6月にはいったん拒否されたが、11月には従業員以外の選手の参加がクラブによって認められた。12月13日にはCURCCペニャロール(CURCC Peñarol)に名称が変更され、1914年3月12日にはCAペニャロール(Club Atlético Peñarol)となった。3月14日、この名称変更がウルグアイサッカー協会とウルグアイ・リーグ参加全クラブによって承認された。

アマチュア時代(1914年-1931年)[編集]

1914年5月13日、ウルグアイの政権幹部はクラブに対して法的性格を与えた。1910年代には優勝から遠ざかった。1914年シーズンには決勝でリーベル・プレートFCに敗れ、1915年シーズンから1917年シーズンには3シーズン続けてナシオナルに次ぐ2位に終わった。1916年5月19日にはラス・アカシアスと呼ばれるグラウンドが落成した。1918年にはCURCCからCAペニャロールという名称に変更され、1918年シーズンと1920年シーズンに優勝した。しかし1922年、ペニャロールとセントラル・エスパニョールはウルグアイサッカー連盟(FUF)の設立に携わった。1922年から1925年まで、ウルグアイのサッカーは二つの組織に分裂しており、国際サッカー連盟(FIFA)に認可されていたウルグアイサッカー協会(AUF)と、AUFと意見を異にするFUFが存在した。ペニャロールとセントラルはAUFによってリーグから除外され、1923年から1925年までの3シーズンはFUFの大会に参加した。これらの大会はAUFによって認可されていなかったが、ペニャロールはFUFの1925年シーズンに優勝した。1925年にはAUFとFUFの再統合が行なわれ、1926年シーズンは両協会が合併して生まれたコンセホ・プロビソリオによって統制されたが、現在でもAUFはFUFの大会を公式なウルグアイ選手権と認知していない。1927年にはヨーロッパ遠征を行なった。1928年と1929年には再びリーグ優勝し、1929年にはフリオ・マリア・ソサが初代名誉会長に就任した。1930年のオリンピア・アスンシオン(パラグアイ)戦は、モンテビデオのエスタディオ・センテナリオで行なわれた初の公式戦となった。

プロリーグ化と初タイトル(1932年-1950年代)[編集]

リーグ優勝の際のセベリーノ・バレーラ(1938年)

1932年4月29日、AUFは公式にプロリーグ化を行ない、ペニャロール対CAリーベル・プレート戦がウルグアイ初のプロ試合となった。1932年シーズンは27試合を戦って17勝して勝ち点40を獲得し、2位のランプラ・ジュニオールスに勝ち点5差を付けて優勝。ペニャロールはプロリーグ化後初のリーグ戦覇者として歴史に名を刻み、プロリーグ化後初のエル・クラシコには2-0で勝利している。1933年シーズンは2位だったが、33得点を挙げたジョン・ヤングがプロリーグ化後クラブ初のリーグ得点王に輝いた。1935年シーズンから1938年シーズンには4連覇を果たし、この期間にはフランシスコ・トチェッティが第2代の名誉職的な会長を務めた。1939年シーズンはナシオナルと同勝ち点だったが、直接対決の結果で2位となった。このシーズンにはプロ選手たちが初めてのストライキを起こした。5年間優勝から遠ざかったが、1944年シーズンに6回目の優勝を果たし、1945年シーズンに2連覇を達成した。この年には、後にペニャロール・パレスが建設される土地を購入している。1948年にはプロ選手組合が再びストライキを打つことを決定し、18試合で行なわれるはずだったリーグ戦が10試合に短縮された。1949年シーズンにはナシオナルを勝ち点4離してリーグ優勝し、オスカル・ミゲスがリーグ得点王に輝いた。ブラジルで開催された1950 FIFAワールドカップで、ウルグアイ代表は決勝に進出。エスタジオ・ド・マラカナンで行なわれたブラジル代表戦(マラカナンの悲劇またはマラカナッソ)は実質的な優勝決定戦となったが、この試合にはペニャロールの英雄的存在のロケ・マスポリも含めて6人ものペニャロール所属選手が出場し、同点ゴールを決めたフアン・アルベルト・スキアフィーノ、決勝点を決めたアルシデス・ギジャはいずれもペニャロールの選手である。1950年シーズンは2位に終わったが、1951年シーズン、1953年シーズン、1954年シーズンにはリーグ優勝した。1958年シーズンから1962年シーズンには連覇を続け、1939年シーズンから1943年シーズンまで優勝し続けたナシオナルに次いでウルグアイ2クラブ目の5連覇を達成した。

南米王者と世界王者(1960年代)[編集]

コパ・リベルタドーレスを制した1961年のチーム

1960年代はコパ・リベルタドーレスで3回、インターコンチネンタルカップで2回優勝する黄金期となった。ライバルのナシオナルも同期間中に3回世界王者となっている。なお、ペニャロールは同大会で5度準優勝しているが、決勝で敗れた回数が最も多いクラブである。

1959年シーズンのリーグ優勝の結果、1960年には南米クラブ王者を決める第1回コパ・リベルタドーレスの出場権を得た。南米サッカー連盟(CONMEBOL)に加盟する7ヶ国の王者が出場し、ペルー、エクアドル、ベネズエラは大会に参加していない。4月19日のクラブ・ホルヘ・ウィステルマン(ボリビア)戦で大会初出場を果たし、ルイス・ボルヘスのクラブ第1号ゴール(大会自体の第1号ゴールでもある)などで7-1と快勝した。準決勝ではCAサン・ロレンソ(アルゼンチン)を下し、決勝ではオリンピア・アスンシオン(パラグアイ)を下して優勝を決めた。同年末にはやはり新設されたインターコンチネンタルカップに出場し、レアル・マドリード(スペイン)と対戦した。当時の同大会はホーム&アウェー制で行なわれており、ウルグアイで行なわれたファーストレグはスコアレスドローで終えたが、71,872人の大観衆の下スペインで行なわれたセカンドレグには1-5で敗れ、世界王者の称号を逃した。1961年のコパ・リベルタドーレスでも決勝に進出し、SEパルメイラス(ブラジル)を2試合合計2-1で下して2連覇を飾った。同年末のインターコンチネンタルカップではSLベンフィカ(ポルトガル)と対戦し、2試合合計5-1で勝利して同大会初優勝を飾った。1962年のコパ・リベルタドーレスでは3年連続で決勝に勝ち進み、決勝ではペレを擁したサントスFC(ブラジル)と対戦。ファーストレグを0-1で落としたが、セカンドレグには3-2で勝利して試合をプレーオフに持ち込んだ。しかし、中立地のブエノスアイレス(エスタディオ・モヌメンタル)で行なわれたプレーオフには0-3で敗れ、第3回大会で初めて優勝を逃した。1963年シーズンは無冠に終わり、リーグ戦での連覇記録が5連覇で途切れた。しかし、コパ・リベルタドーレスのファーストラウンドではCDエベレスト(エクアドル)に2試合合計14-1(アウェーで5-0、ホームで9-1)と大勝。ホームゲームではアルベルト・スペンセールが4得点を挙げているが、スペンセールはエクアドル出身であり、デビューした1953年から1959年までエベレストに所属していた[5]

1964年シーズンと1965年シーズンには再びリーグ戦で優勝し、後者のシーズンにはコパ・リベルタドーレスで決勝に進出したが、CAインデペンディエンテ(アルゼンチン)に敗れて準優勝に終わった。しかし、1966年シーズンのコパ・リベルタドーレスでは決勝まで勝ち進み、決勝ではCAリーベル・プレート(アルゼンチン)と対戦。ホーム&アウェーの結果は1勝1敗であり、中立地のチリで行なわれたプレーオフに勝利して3回目の優勝を飾った。同年末にはインターコンチネンタルカップでレアル・マドリードと対戦し、ホーム&アウェーともに勝利して6年前の雪辱を遂げた。続く数年間も国内外でいくつかのタイトルを獲得。1969年には、インターコンチネンタルカップの歴代優勝クラブが集ってタイトルを競ったレコパ・インテルコンティネンタルに2年連続で出場。レアル・マドリードとインテル(イタリア)のヨーロッパ勢が出場を辞退したことから不完全な大会となったが、この年限りで廃止された国際タイトルを手にした。2005年、この大会はCONMEBOLによって公式なタイトルと認定された。1966年9月から1968年9月にかけて一度も敗戦を喫せず、1968年9月14日のリベルプールFC戦に0-2で敗れて記録が途絶えるまで[6]、ウルグアイ・リーグ史上最長の56戦無敗の記録を樹立した。この記録はウルグアイのみならず南米のプロリーグ(1部・2部)史上最長の無敗記録である。アマチュアにも対象を広げると、ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)がアマチュアリーグ時代に樹立した記録に次ぐ[7]。この時期の著名選手にはルイス・クビージャペドロ・ビルヒリオ・ロチャ、スペンセール、フアン・ホジャなどがいる。

過渡期(1970年代)[編集]

1970年にはコパ・リベルタドーレスで再び決勝に進出したが、エストゥディアンテス(アルゼンチン)に敗れた。1次リーグのバレンシアFC(ベネズエラ)戦はホーム&アウェー通算で11-2となり、大会史上最高の得失点差記録を達成したことが特筆に値する[5]。1971年シーズンの国内リーグ戦はレギュラーシーズンとプレーオフ(レギュラーシーズンの成績をもとに上位リーグ・下位リーグを形成)の2ステージ制で行なわれた。レギュラーシーズンはナシオナルと同勝ち点だったが、プレーオフではナシオナルに勝ち点1及ばず2位だった。1972年シーズンと1973年シーズンは2位だったが、この年にフェルナンド・モレーナ(ウルグアイ史上最高のスコアラーのひとり)が加入し、1974年シーズンと1975年シーズンに2連覇を果たした。1974年のコパ・リベルタドーレスではブエノスアイレスでCAウラカンを3-0で破り、アウェーでアルゼンチンのクラブに勝利したウルグアイ初のクラブとなった。1976年シーズンと1977年シーズンは2位だったが、1978年シーズンには24回目のリーグ優勝を飾った。モレーナは1シーズン最多得点(36点)と1試合最多得点(ウラカン・ブセオ戦、7点)のリーグ記録を樹立した。

再浮上と2度目の国内リーグ5連覇(1980年代–1990年代)[編集]

1980年シーズンはナシオナル、モンテビデオ・ワンダラーズFCに次ぐ3位だったが、モレーナが102万9000ドルの移籍金で復帰した1981年シーズンにはナシオナルを勝ち点3上回って優勝。ルベン・パスは17得点を挙げて得点王となった。1982年のコパ・リベルタドーレス決勝ではCDコブレロア(チリ)と対戦したが、アウェーゲームではモレーナがロスタイムに決勝点を挙げて勝利し、モレーナは通算7得点で得点王に輝くとともに、4度目の南米制覇を果たした。同年の国内リーグでは2連覇を達成し、モレーナが17得点で得点王となった。同年末に日本の東京で行なわれたインターコンチネンタルカップでは、アストン・ヴィラFC(イングランド)に2-0で勝利して3度目の優勝を果たした。1983年シーズンの国内リーグでは7位と目立たない成績に終わったが、コパ・リベルタドーレスではナシオナルとの同国対決に勝利して決勝に進出。しかし、グレミオFPA(ブラジル)に及ばず準優勝だった。1985年シーズンと1986年シーズンには国内リーグ戦で2連覇を果たしたが、1986年の開幕戦はクラブの財政難から試合を行なえず、不戦敗となる奇妙な出来事があった。24試合を終えてナシオナルに勝ち点1差の2位だったが、優勝プレーオフではナシオナルをPK戦の末に下した。1987年シーズンは深刻な財政難というハンディキャップがあり、また選手の平均年齢が22歳という若いチームだったが、決勝でアメリカ・デ・カリ(コロンビア)を破って5度目のコパ・リベルタドーレス優勝を果たした。決勝はホーム&アウェーの2試合を終えて1勝1敗(当時はまだアウェーゴールルールが採用されていなかった)となったため、中立地のチリでプレーオフが行なわれ、120分にディエゴ・アギーレが決勝点を決めた。同シーズンの国内リーグでは8位に終わり、1988年から1992年までは国内外でタイトルに見放されたが、1993年から1997年にかけて5連覇を達成し、5連覇を2度達成したウルグアイ初のクラブとなった。グレゴリオ・ペレス監督率いるチームは多くの試合で劣勢から逆転勝利を収め、ナシオナルとの試合ではこの期間中に3度も逆転での4-3勝利を収めた。

2強時代の終焉(2000年代)[編集]

アペルトゥーラ2009では優勝したナシオナルに勝ち点10差の5位と躓いたが、クラウスーラ2010は14勝1分の無敗でシーズンを終え、開催方法が現行方式に変更されてからはリーグ初の無敗優勝を達成した。2009-10シーズンの通算成績ではナシオナルに勝ち点6差の首位となり、プレーオフではナシオナルを1勝1敗で破って優勝を果たした。

ライバル[編集]

プレーオフでのサポーター

ナシオナル・モンテビデオとの対戦はクラシコ・デル・フトゥボル・ウルグアージョ(ウルグアージャン・クラシコ)と呼ばれる。エル・クラシコはラテンアメリカで最も歴史のあるダービーマッチである[8]。エル・クラシコの初試合は1900年7月15日に行われ、ペニャロールが2-0で勝利した[9]。2011年1月21日までに504試合が行われ、ペニャロールが181勝、ナシオナルが162勝、引き分けが161試合である[9]。2強の優勝回数を合計すると、リーグ戦開催回数全体の約80%にもなる[3]。アマチュアリーグ時代にはナシオナルがやや優勢であったが、プロリーグ化後にペニャロールが趨勢を逆転させた。サポーターの間ではダービーでの数々のエピソードが語り継がれている。1949年10月9日に行われたコパ・ウルグアイ1回戦におけるダービーは、前半終了時点でペニャロールが2-0とリードしていたが、ナシオナルは後半開始時にピッチに出ずにスタジアムから撤退し、後に主審の判定に対する抗議であると主張している。1987年4月23日にも記憶に残るエピソードが生まれた。1-1と同点の段階でペニャロールは3人の選手が退場処分となり、ナシオナルに比べて3人少ない8人でのプレーを余儀なくされたが、ホルヘ・カブレラが決勝点を挙げて2-1で勝利した。この試合はクラシコ・デル・オチョ・コントラ・オンセ(Clasico del 8 contra 11、8人対11人クラシコ)として知られている。

スタジアム[編集]

エスタディオ・センテナリオ

ペニャロールは国所有のエスタディオ・センテナリオをホームスタジアムとしている。センテナリオは1930年7月18日、バトリェ公園地区にオープンした。65,000人を収容し[10]、ピッチサイズは110m×70mである。ペニャロールの多くの試合はセンテナリオで行われるが、エスタディオ・ホセ・ペドロ・ダミアーニという自前のスタジアムも有している。ホセ・ペドロ・ダミアーニは1916年4月19日にオープンし、12,000人を収容する。収容人数の少なさや設備の乏しさなどから、このスタジアムが一般に使用されることはないが、直近では1997年8月のランプラ・ジュニオールス戦で使用された。現在、フィクス・カプタルという投資グループとクラブの間でスタジアム建設に関する交渉が行われており、この構想によれば、計画中のスタジアムは国内リーグ戦のみならず国際大会にも使用できるという。当初は、約40,000人を収容する新スタジアムを建設するか、ホセ・ペドロ・ダミアーニを再建して約40,000人収容まで増築するという構想だった。

ユニフォーム[編集]

ファーストキット[編集]

CURCC時代のクラブカラーである黄色と黒色を、ペニャロールに名称変更されてからも使用し続けている。1891年にCURCCが初めて着用したユニフォームはシャツの右側半分が黒一色、左側半分が黄色と黒の縦縞であり、パンツとソックスは黒色だった。このユニフォームはクラウスーラ1996で復活し、1998年のコパ・リベルタドーレス開幕戦であるナシオナル・モンテビデオとのエル・クラシコ(2-1)でも着用された。この試合は本拠地のあるモンテビデオではなく、マルドナードにあるカンプス・ムニシパルで行なわれた。このユニフォームは2009年9月にも復活した。1901年と1908年には、黄色と黒色がスクエア上に配されたユニフォームを何試合かで着用した。現在のユニフォームは黄色と黒色の縦縞である。

1891, 1996, 2009
1901
1908
1905–

セカンドキット[編集]

1984年の横縞のユニフォーム、1987年の黄色のシャツと黒色のパンツなど、様々なカラー・デザインのユニフォームを着用している。2000年代には全身黒色、全身灰色、全身黄色などのユニフォームが採用された。これらに加えて、特に1960年代や1970年代の国際親善試合ではその他の色も使用されており、モンテビデオ・カップでのFKインテル・ブラチスラヴァ戦では緑色のユニフォームを着用した。2010年には新しく金色のアウェーユニフォームが採用された。

1891
1984
1987
1995–2009
2001–2008
2004–2008
2010–

1919年6月3日、ブラジルのリオデジャネイロブラジル代表アルゼンチン代表が対戦するロベルト・チェリー・カップが行われた。ブラジル代表はペニャロールのユニフォームを着用し、アルゼンチン代表はウルグアイ代表のユニフォームを着用し、試合は3-3の引き分けとなった。ロベルト・チェリーはペニャロールのキーパーであり、ブラジルで開催されたコパ・アメリカ1919後の同年5月に死去した。

1919年6月3日のブラジル代表
1919年6月3日のアルゼンチン代表

タイトル[編集]

国内タイトル[編集]

主要タイトル
アマチュアリーグ時代(1900-1931) : 11回
1900, 1901, 1905, 1907, 1911(ここまでCURCC時代), 1918(これ以後ペニャロール), 1921, 1925[注釈 2], 1926[注釈 2], 1928, 1929
プロリーグ時代(1932-) : 37回
1932, 1935, 1936, 1937, 1938, 1944, 1945, 1949, 1951, 1953, 1954, 1958, 1959, 1960, 1961, 1962, 1964, 1965, 1967, 1968, 1973, 1974, 1975, 1978, 1979, 1981, 1982, 1985, 1986, 1993, 1994, 1995, 1996, 1997, 1999, 2003, 2009-2010

その他のタイトル[編集]

1916
  • リギージャ : 12回
1974, 1975, 1977, 1978, 1980, 1984, 1985, 1986, 1988, 1994, 1997, 2004
  • コンペテンシア・トーナメント  : 13回
1936, 1941, 1943, 1946, 1947, 1949, 1951, 1953, 1956, 1957, 1964, 1967, 1986
  • オノール・トーナメント : 12回
1944, 1945, 1946, 1947, 1949, 1950, 1951, 1952, 1953, 1956, 1964, 1967
  • クアドゥラングラール・トーナメント : 10回
1952, 1955, 1957, 1959, 1960, 1963, 1965, 1966, 1968, 1970
1901, 1902, 1904, 1905, 1907, 1909, 1910, 1916.
  • コパ・デ・オノール : 4回
1907, 1909, 1911, 1918
  • ウルグアイ選手権F.U.F. : 1回
1924
  • リーガ・マジョール : 1回
1978
  • スペシャル・トーナメント : 1回
1968
  • アペルトゥーラ : 2回
1995, 1996
  • クラウスーラ : 6回
1994, 1999, 2000, 2003, 2008, 2010
  • トルネオ・クラシフィカントリオ : 2回
2001, 2002

国際タイトル[編集]

主要タイトル
1960, 1961, 1966, 1982, 1987
1961, 1966, 1982
1969
その他のタイトル
1909, 1911, 1918
1928
1916
  • コパ・エスコバル – ヘローナ : 1回
1942
1985

近年の成績[編集]

シーズン ディビジョン 順位 試合数 得点 失点 勝ち点 備考
2003 プリメーラ 1 34 24 5 5 73 33 77 プレーオフでナシオナルを破って優勝
2004 プリメーラ 3 17 9 5 3 34 17 32
2005 プリメーラ 3 17 10 5 2 28 19 35
2005–06 プリメーラ 7 33[注釈 3] 11 11 11 42 41 32[注釈 4]
2006–07 プリメーラ 2 30 19 7 4 64 38 64
2007–08 プリメーラ 4 30 16 6 8 61 38 54 プレーオフ準決勝敗退
2008–09 プリメーラ 7 29[注釈 5] 15 6 8 51 29 48[注釈 6]
2009–10 プリメーラ 1 30 21 6 3 68 34 69 プレーオフでナシオナルを破って優勝
2010–11 プリメーラ 3 30 15 7 8 52 37 52
2011–12 プリメーラ 2 30 19 5 6 71 30 62


統計と記録[編集]

対戦成績[編集]

プロリーグ時代の通算成績、アペルトゥーラ2008終了時点
クラブ 試合 得点 失点 点差
バサニェス 4 3 1 0 11 1 +10
CAベジャ・ビスタ 94 64 17 13 201 90 +111
セントラル・エスパニョール 88 67 11 10 230 88 +142
CSセリート 8 4 3 1 13 8 +5
CAセロ 118 82 20 16 268 107 +161
セロ・ラルゴFC 1 1 0 0 3 0 +3
コロンFC 2 2 0 0 8 2 +6
CAダヌービオ 121 79 21 21 234 130 +104
デフェンソール・スポルティング 162 101 39 22 357 175 +182
デポルティーボ・コロニア 6 4 0 2 18 5 +13
デポルティーボ・マルドナード 11 8 2 1 29 13 +16
エル・タンケ・シスレイ 2 1 0 1 2 2 0
CAフェニックス 51 38 10 3 121 48 +73
フロンテーラ・リベーラ 4 3 1 0 10 5 +5
ウラカン・ブセオ 56 31 20 5 110 60 +50
フベントゥ・デ・ラス・ピエドラス 11 8 2 1 24 10 +14
クラブ 試合 得点 失点 点差
リベルプールFC 122 84 22 16 297 114 +183
ミラマール・ミシオネス 36 26 6 4 102 37 +65
ナシオナル 184 70 64 50 252 213 +39
パイサンドゥFC 2 2 0 0 5 2 +3
パイサンドゥ・ベリャ・ビスタ 8 6 2 0 18 5 +13
プラーサ・コロニア 10 6 1 3 19 15 +4
CAプログレッソ 38 21 11 6 69 34 +35
ラシン・クラブ 76 58 11 7 204 76 +128
ランプラ・ジュニオールス 115 77 22 16 257 98 +159
CAレンティスタス 42 26 11 5 84 35 +49
CAリーベル・プレート 121 71 26 24 254 124 +130
ロチャFC 9 7 1 1 26 15 +11
スド・アメリカ 86 61 17 8 222 70 +152
タクアレンボーFC 19 13 5 1 36 15 +21
CSDビリャ・エスパニョーラ 9 6 2 1 20 8 +12
モンテビデオ・ワンダラーズ 138 68 45 25 238 147 +91

記録[編集]

アペルトゥーラ2008終了時点

アマチュアリーグ時代(1900-1931)[編集]

  • プリメーラ・ディビシオン在籍年数 : 27シーズン
  • 最高位 : 1位 (11回)
  • 最低位 : 7位 (1908年)
  • 最長不敗: 30 (1922年, 1926年から1927年)
  • 1シーズン最多得点 : 66 (1928)
  • 1試合最多得点 : 12点(トリウンフォ戦、1903年)
  • 1試合最多失点 : 4点(5試合で記録)
  • 1シーズン最多勝利 : 22勝 (1927)
  • 1シーズン最多引分 : 10分 (1927)
  • 1シーズン最多敗北 : 6敗 (1927)
  • 1シーズン最少勝利 : 5勝 (1913)
  • 1シーズン最少引分 : 0分 (1900, 1902, 1905, 1906)
  • 1シーズン最少敗北 : 0敗 (1900, 1901, 1903, 1905, 1907, 1926)
  • アマチュアリーグ時代の通算順位表 : 2位

プロリーグ時代(1932-)[編集]

  • 最高位 : 1位(38回)
  • 最低位 : 14位(2005–06)
  • 最長不敗 : 56試合 (リーグ記録、1966年から1969年にかけて)
  • 1シーズン最多得点 : 91点 (リーグ記録、2002年)
  • 1試合最多得点 : 9点ランプラ・ジュニオールス戦、1962年)
  • 1試合最多失点 : 7点ダヌービオ戦、2005-06)
  • 1シーズン最多勝利 : 24勝 (2000, 2002, 2003)
  • 1シーズン最多引分 : 12分 (1983, 1984)
  • 1シーズン最多敗北 : 11敗 (2005–06)
  • 1シーズン最少勝利 : 5勝 (1983)
  • 1シーズン最少引分 : 0分 (1994)
  • 1シーズン最少敗北 : 0敗 (1949, 1954, 1964, 1967, 1968, 1975, 1978)

現所属メンバー[編集]

2013年11月3日 現在
No. Pos. 選手名
1 ウルグアイの旗 GK フアン・カスティージョ
2 ウルグアイの旗 DF バルタサール・シルバ
3 ウルグアイの旗 DF ニコラス・ラグーソ
4 ウルグアイの旗 DF ゴンザロ・ビエラ
5 ウルグアイの旗 MF マルセル・ノビック
6 ウルグアイの旗 DF パブロ・リマ
7 ウルグアイの旗 FW エルナン・ノビック
8 ウルグアイの旗 MF アントニオ・パチェコ
9 ウルグアイの旗 FW カルロス・ヌニェス
10 ウルグアイの旗 MF ホルへ・ロドリゲス
11 ウルグアイの旗 FW ファビアン・エストヤノフ
12 アルゼンチンの旗 GK ダニーロ・レルダ
13 ウルグアイの旗 DF ダミアン・マカルーソ
14 ウルグアイの旗 FW ルイス・アギアル
No. Pos. 選手名
15 ウルグアイの旗 DF ホナタン・サンドバル
15 ウルグアイの旗 MF セルヒオ・オルテマン
17 ウルグアイの旗 FW マルセロ・サラジェタ
18 アルゼンチンの旗 FW マウロ・フェルナンデス
20 ウルグアイの旗 MF ホエ・ビセラ
21 ウルグアイの旗 MF ホナタン・ロドリゲス
22 ウルグアイの旗 DF ダリオ・ロドリゲス
23 ウルグアイの旗 DF カルロス・バルデス
24 ウルグアイの旗 FW エミリアーノ・アルビン
27 ウルグアイの旗 MF ミゲル・アマド
33 ウルグアイの旗 FW ガブリエル・レジェス
61 ペルーの旗 MF パオロ・ウルタード
-- アルゼンチンの旗 FW ハビエル・トレド

歴代監督[編集]


歴代所属選手[編集]

GK


DF


MF


FW


サッカー以外のスポーツ[編集]

現在のペニャロールはサッカー、フットサル、ボクシングの競技チームを所有しているが、歴史的には様々な競技チームを抱えており、特にバスケットボールチームと自転車競技チームでは大きな成功を収めた。

バスケットボール
  • ウルグアイ連邦選手権 優勝 : 1944, 1952, 1973, 1978, 1979, 1982
  • 南米クラブ選手権 優勝 : 1982
  • ウィンター・トーナメント 優勝 : 1953, 1955, 1978, 1979, 1982[11]
自転車競技
  • ツアー・オブ・ウルグアイ
チーム優勝 : 1956, 1959, 1990, 1991, 2002
個人優勝 :
ダンテ・スダティ : 1952, アニバル・ドナッティ : 1953, ルイス・P・セーラ : 1954, 1955, フアン・B・ティスコルニア : 1956, フェデリコ・モレイラ : 1990, 1991, グスタボ・フィゲレード : 2002
  • ルート・オブ・アメリカス
個人優勝
ホセ・マリア・オルランド: 1990
  • イースタン・ミラー・マイルズ
個人優勝
アティリオ・フランコイス : 1952, アニバル・ドナッティ : 1953, マリオ・デベネデッティ : 1954, フアン・B・ティスコルニア : 1956, ワルテル・リャード : 1961
自動車競技

自動車競技チームもウルグアイチャンピオンや南米チャンピオンに輝いた経験がある。

フットサル
  • ウルグアイ選手権 : 1995, 1996, 1997, 1999, 2004, 2010, 2011
  • アペルトゥーラ: 2002, 2010, 2011
  • クラウスーラ: 2005, 2010, 2011
  • ウルグアイU-20選手権: 1998, 1999, 2000
  • コパ・デ・オノール: 2007
女子サッカー

古くには女子サッカーチームも所有していた。1933年にエスタディオ・センテナリオで女子チームの初試合が行われ、ライバルのナシオナルに4-0で勝利した。1966年に新方式の女子サッカーリーグが誕生してからは、本格的な参戦は行っていない。

その他の競技
  • チェス – ウルグアイチャンピオン経験あり
  • 卓球 - ウルグアイチャンピオン経験あり、世界チャンピオン経験あり
  • ポケット – ウルグアイチャンピオン経験あり
  • フェンシング – ウルグアイチャンピオン経験あり
  • ショー・ゴル – ウルグアイチャンピオン経験あり、アメリカ大陸チャンピオン経験あり

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ FKインテル・ブラチスラヴァ戦。
  2. ^ a b 1925年と1926年の優勝はウルグアイサッカー協会に認められていない。歴史節を参照のこと。
  3. ^ アペルトゥーラは18クラブ、クラウスーラは17クラブによって争われたため。
  4. ^ 減点されたため。
  5. ^ アペルトゥーラ終了後、財政問題によりビリャ・エスパニョーラがアペルトゥーラ終了後に強制降格となったため、29試合の成績で順位が決定した。
  6. ^ 勝ち点3減点されたため。

脚注[編集]

  1. ^ Copa Libertadores tendrá nuevo patrocinador desde 2008” (Spanish). CopaLibertadores.com (2007年9月28日). 2010年5月18日閲覧。
  2. ^ Competiciones, Copa Santander Libertadores” (Spanish). CONMEBOL (2010年5月18日). 2010年5月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年5月18日閲覧。
  3. ^ a b c d e f CLUBS PeñarolFIFA.com
  4. ^ Double Digits Domestical RSSSF
  5. ^ a b Copa Libertadores trivia RSSSF
  6. ^ Diego Antognazza (2006年). “Peñarol's series of 56 matches unbeaten in the Uruguayan League”. RSSSF. 2008年閲覧。...
  7. ^ Karel Stokkermans (2008年). “Unbeaten in the Domestic League”. RSSSF. 2008年閲覧。...
  8. ^ Montevideo’s ancient Superclasico
  9. ^ a b Uruguayan Derby – Peñarol vs. Nacional RSSSF
  10. ^ Detalle de capacidad locativa por tribunas エスタディオ・センテナリオ公式サイト
  11. ^ [1]

参考文献[編集]

  • クリストファー・ヒルトン&イアン・コール著 『南米サッカーのすべて』 大栄出版

外部リンク[編集]