アルフレッド・ディ・ステファノ

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アルフレッド・ディ・ステファノ Football pictogram.svg
Distefano eg 1958.jpg
名前
本名 アルフレッド・ステファノ・ディ・ステファノ・ラウテ
愛称 ブロンドの矢(La Saeta rubia
ドン・アルフレッド(Don Alfredo
ラテン文字 Alfredo Stefano DI STÉFANO Lauthe
基本情報
国籍 スペインの旗 スペイン
アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日 1926年7月4日
出身地 ブエノスアイレス
没年月日 2014年7月7日(満88歳没)
身長 178cm
体重 76kg
選手情報
ポジション FW
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1943-1949
1946-1947
1949-1953
1953-1964
1964-1966
アルゼンチンの旗 CAリーベル・プレート
アルゼンチンの旗 CAウラカン
コロンビアの旗 ミジョナリオスFC
スペインの旗 レアル・マドリード
スペインの旗 RCDエスパニョール
66 (49)
25 (10)
102 (90)
282 (216)
47 (13)
代表歴
1947
1949
1957-1961
アルゼンチンの旗 アルゼンチン
コロンビアの旗 コロンビア
スペインの旗 スペイン
6 (6)
4 (0)
31 (23)
監督歴
1967-1968
1969-1970
1970-1974
1974
1975-1976
1976-1977
1979-1980
1981-1982
1982-1984
1985
1986-1988
1990-1991
スペインの旗 エルチェCF
アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ
スペインの旗 バレンシアCF
ポルトガルの旗 スポルティング・リスボン
スペインの旗 ラーヨ・バジェカーノ
スペインの旗 CDカステリョン
スペインの旗 バレンシアCF
アルゼンチンの旗 CAリーベル・プレート
スペインの旗 レアル・マドリード
アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ
スペインの旗 バレンシアCF
スペインの旗 レアル・マドリード
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

アルフレッド・ステファノ・ディ・ステファノ・ラウテAlfredo Stefano Di Stéfano Lauthe, 1926年7月4日 - 2014年7月7日)はアルゼンチンブエノスアイレス出身の元サッカー選手

概要[編集]

愛称は『LA SAETA RUBIA (金髪の矢)』。1950年代後半にUEFAチャンピオンズカップ5連覇を達成したレアル・マドリード黄金時代のエースとして活躍し、それまで2度しかリーグ優勝の経験がなかったレアル・マドリードを20世紀最優秀クラブに選ばれるほどのビッグクラブへと変えた選手である[1]。また3ヶ国(アルゼンチンコロンビアスペイン)の代表経験があり、生涯では1126試合、893得点という記録を打ち立てた[2]。一方でFIFAワールドカップでのプレー経験はなく、ジョージ・ベストらと共にワールドカップに出場していないスター選手の代表格として知られる[3]

バロンドールを2度受賞したほか、1989年に歴代最優秀選手としてスーパー・バロンドールに選出された[4]1998年には、盟友フェレンツ・プスカシュらと共にFIFAから偉大なサッカー選手10人に選ばれ、さらにディ・ステファノはそのトップに輝いた[5]ワールドサッカー誌選出の「20世紀の偉大なサッカー選手100人」やペレが選ぶ偉大なサッカー選手100人にも選出され、2003年にはスペイン人としてUEFAジュビリーアウォーズを受賞した。また、2008年から始まったUEFA会長賞の初代受賞者でもある[6]

現役引退後はアルゼンチンスペインなどのクラブで監督を歴任し、2000年から2014年に亡くなるまでレアル・マドリードの名誉会長を務めた。

経歴[編集]

幼少時代[編集]

1926年7月4日イタリア系移民の子供3兄弟の長男としてブエノスアイレスバラカスで生まれる。イタリア系アルゼンチン人であるが、ベアルン出身のフランス人の祖父を持つ[7]。幼少時代、アルフレッドと弟トゥリオはサッカーをしていたが、もう一人の弟ノルマはバスケットボールをしていた[8]。また、10代の頃に実家の自小作農の手伝いをしており、サッカーをする上で武器となるスタミナを鍛えられた[9]

12歳の時に、ラス・カルダレスというクラブに入団。そこでの活躍によりCAリーベル・プレートに目をつけられる。15歳の頃、"La Maquina"(機械)と呼ばれ当時世界トップクラスの強さを誇っていたリーベル・プレートのユースチームに入り、1943年にトップチームとプロ契約を結んだ。

南米時代[編集]

18歳の時に4部リーグでプレーし始め、3部、1部と昇格し、1945年にCAウラカン戦でトップチームデビューした[10]。しかしトップチームではアンヘル・ラブルナら前線に優秀な選手が揃っていたことから、1946年にウラカンへレンタル移籍した。ウラカンでは25試合に出場して10ゴールを記録し、リーベル・プレートとウラカンとの試合では試合開始15秒で得点を挙げた[9]。これらの活躍により、その翌年にリーベル・プレートへ復帰した。

リーベル・プレート時代

ディ・ステファノはアドルフォ・ペデルネラを移籍へと追いやり、そのシーズン27得点を挙げ得点王となる。その内の1点はペデルネラが移籍したCAアトランタ相手にアウェーで決めたものであり、その敗戦でアトランタは降格が決定。試合後に相手サポーターからの襲撃を受けて病院に運ばれた[11]1947年南米選手権ボリビア戦でアルゼンチン代表デビューを果たすと、62分に初得点も記録。同大会ではコロンビア戦でのハットトリックを含む6得点を奪って優勝に貢献し、最優秀選手にも選ばれた。リーベル・プレートでは、2度リーグ優勝を果たした[注釈 1]

1949年のシーズン途中、給料問題や労働条件をめぐるゼネラル・ストライキによりリーベル・プレートを退団。1948年に創立したばかりであり、当時まだFIFAに加盟していなかったコロンビアリーグミジョナリオスFCへ移籍した。当時のミジョナリオスは地元の財界人の出資によって経済力が非常に強く、リーベル・プレートで共にプレーしたペデルネラら有力選手を多く抱えており、"Ballet Azul"(青いバレエ)の異名を持っていた[12]。シーズン途中からの参加であったが、移籍後初シーズンに15試合で16得点を挙げ、クラブのリーグ初優勝に貢献。ミジョナリオスでは4シーズンで292試合に出場、267ゴール記録、1951年(31得点)、1952年(20得点)には得点王になり、3度リーグを制覇したほかコパ・コロンビアなどのタイトルを獲得した。この活躍によりコロンビアサッカー連盟からのコロンビア代表への強い要請を受け(当時は複数の国の代表でプレーが可能だった)、コロンビア国籍を取得しコロンビア代表としても出場した。

1952年にミジョナリオスは親善試合のためにスペイン遠征をした。すでにミジョナリオスのスポークスマンも務めていたディ・ステファノは試合前にミジョナリオスの会長、レアル・マドリードの会長サンティアゴ・ベルナベウと共にラジオに出演。ベルナベウは、この時の感想を「あの男は名選手の匂いがする」と地元記者に語った。ミジョナリオスのほかにノルウェーのクラブであるノルシェーピングも親善試合に招かれ、地元マドリードを本拠地とするレアル・マドリードを含めた3つのクラブで三者間トーナメントが行われた。ノルシェーピングとの試合は2-2の引き分けに終わったが、ミジョナリオスの2得点は共にディ・ステファノによるものであった。レアル・マドリードとの試合では4-2で勝利し、ここでもまた2得点を決めた。この活躍によってベルナベウはディ・ステファノの獲得を目指した。しかし、当時FCバルセロナのチーフスカウトをしていたジョゼップ・サミティエールもレアル・マドリード時代のコネクションでその試合の観戦チケットを入手しており、バルセロナも同選手の獲得に興味を示した[13]。この2クラブの激しい争奪戦の末、1953年にレアル・マドリードへと移籍した。

最初に移籍話を持ちかけたのはバルセロナであり、1954年までディ・ステファノの保有権を持っていたリーベル・プレートに400万ペセタを支払った。その後、レアル・マドリードは同じようにミジョナリオスに150万ペセタを支払った。この件に関して、FIFAは先に交渉を行ったバルセロナの取引を認めた。しかし、その直後にスペインサッカー連盟は外国人選手の移籍に関する規約を改正し、バルセロナへの移籍を阻止。当時のバルセロナの会長であるマルティ・カレトはマドリードへ赴いてベルナベウと話し合いの場を持ち、ユヴェントスFCへの移籍という条件と共にディ・ステファノを手放すことを容認した。その対談後にスペインサッカー連盟はレアル・マドリードとバルセロナで交互に1年ずつプレーさせる共同保有の取引を持ちかけた。この取引を承諾したカレトはカタルーニャのメディアから大きなバッシングを受けて辞任。バルセロナの選手として出場した2つの親善試合であまり活躍できなかったこともありバルセロナはこの取引に応じず、レアル・マドリードから550万ペセタを受け取ることによって選手の全保有権を譲渡した[14]

欧州時代[編集]

9月23日マドリードに到着したディ・ステファノは、その数時間後にFCナンシーとの親善試合でレアル・マドリードデビューした。試合結果は2対4で敗れたが、ディ・ステファノはその試合でヘディングから得点を挙げた[15]。1953-54シーズンの3試合目となるラシン・サンタンデール戦で公式戦デビューを飾ると、公式戦初ゴールも記録。初のエル・クラシコでは2得点を挙げた。リーグ優勝を決めたバレンシア戦ではハットトリックを記録し、ピチーチ賞を受賞した[16]

レアル・マドリード時代

1955年9月8日セルヴェットFC戦でUEFAチャンピオンズカップデビュー。ACミランとの準決勝では、数日前まで喉疾患を患っていたにも関わらずプレーし、そのパフォーマンスにサン・シーロのミランサポーターから拍手を受けた。スタッド・ランスとの決勝戦では開始直後に2得点を奪われるも、反撃の口火を切る1点目を挙げて逆転勝利に導いた[17]。1956-57シーズン、ディ・ステファノはリーグで30試合31得点と1試合1得点以上の得点率を記録してリーグ優勝に貢献。チャンピオンズカップ決勝のACFフィオレンティーナ戦でも後半70分にPKで先制点を挙げた[17]。1959-60シーズンのチャンピオンズカップ決勝アイントラハト・フランクフルト戦では先制点こそ奪われたものの、ディ・ステファノ3得点、フェレンツ・プスカシュ4得点と2人で7点を奪い、5度目の優勝を飾った。5連覇を果たしたチャンピオンズカップの決勝全てで得点を挙げており、5試合で7得点を記録している。また、第4回大会決勝以外の4試合で、レアル・マドリードにおける1点目を奪っている。

1960年から始まったインターコンチネンタルカップにおいて、コパ・リベルタドーレス優勝者のCAペニャロールと対戦。アウェーであるモンテビデオではスコアレスドローとなったが、マドリードでの2戦目では前半10分までにディ・ステファノの得点を含む3得点を記録し、結果5-1でペニャロールを下し初代王者となる[18]

11シーズンで通算307得点、UEFAチャンピオンズカップ通算49得点、リーグ優勝8回、コパ・デル・レイ優勝1回、インターコンチネンタルカップ優勝1回、5度のリーグ得点王、1957年、1959年と2度のバロンドール受賞などの輝かしい成績を残した。またディ・ステファノを擁したこのチームは、1955-1956シーズンから1959-1960シーズンまでチャンピオンズカップ5連覇という偉大な記録を打ち立てた。

また、プレーのみでなくチーム作りにも影響を与えた。フランシスコ・ヘントがレアル・マドリードに移籍してきた当初は他のクラブにレンタル移籍させる予定だったが、ディ・ステファノの強い希望によってクラブはヘントをチームに留まらせた。また、普段の練習では素晴らしいプレーを見せるものの実際の試合ではあまり活躍することができなかったヘントを活かすため、ベルナベルに対して「ヘントがもっとプレーに関われるように、彼にパスを出せる左サイドMFを入れてほしい」と補強を要請し(ベルナベウによると、自分がパスしたボールをまた返してくれるプレーヤーが必要と語り)、アルゼンチン時代の友人であるエクトル・リアルを推薦した[19]。一方で1959年にチームメイトとなったジジ1958年FIFAワールドカップで最優秀選手に選ばれたほどの実力者だったにも関わらず、彼と上手くいかなかったことでたった一年でチームを去っている。

1956年にはスペイン国籍を取得し、1957年1月30日オランダ戦でスペイン代表デビューも果たしている。スペイン代表では4年間しかプレーしていないにも関わらず、エミリオ・ブトラゲーニョが更新するまで代表最多得点を保持していた。1960年に開催された第1回の欧州選手権では、第1回戦はディ・ステファノの3得点を含む2試合合計7-2でポーランド代表を圧倒したが、当時フランシスコ・フランコ総統として君臨していたスペインは、スペイン内戦時代に第二共和政を支援してフランコら反乱軍と敵対していたソビエト連邦との試合を許さず、第2回戦でソ連代表に不戦敗した。1962年、スペイン代表としてFIFAワールドカップに招集されたものの、怪我によって出場することができず[20]、最後までワールドカップには縁がなかった[注釈 2]

1962年、再びチャンピオンズカップ決勝まで駒を進め、前年優勝したSLベンフィカと対戦した。その試合は5-3でレアル・マドリードが敗北を喫し、ディ・ステファノは無得点に終わるも、試合後にエウゼビオから「史上最も完成された選手」と賞賛された[21]。同大会では7得点を挙げ、チームメイトのプスカシュらと共に得点王に輝いた。

息子と共にサッカーをするディ・ステファノ

1963年8月、プレシーズンにスモールワールドカップ参加のためカラカスにいたディ・ステファノは反政府ゲリラFALNによって誘拐される。この事件はヨーロッパのほぼ全ての主要紙で報じられ、ベネズエラ政府が戦車部隊を出動させるほどの騒ぎとなった。事件から3日後にスペイン大使館前で解放された後、トーナメント最終戦のサンパウロFC戦で短時間のみプレーした[22][23]。また、同年イングランドサッカー協会の設立100周年記念試合においては、FIFA選抜チームのキャプテンに指名された[24]

1964年にサンティアゴ・ベルナベウからテクニカルスタッフのオファーを受けるも、自身はまだ現役を続けるつもりであったためそのオファーは決裂し、UEFAチャンピオンズカップ決勝のインテル戦を最後にディ・ステファノはレアル・マドリードを去ることとなった[24]。そして、現役時代はライバルであるバルセロナに所属し、スペイン代表で共にプレーしたこともあるラディスラオ・クバラに誘われ、クバラが監督をしていたエスパニョールに移籍。エスパニョールでのデビュー戦の相手は前所属のレアル・マドリードであり、その試合はエスパニョールが敗北した。

1966年、40歳で現役を引退する。1967年6月7日エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウにチャンピオンズカップ覇者のセルティックFCを招き、アルフレッド・ディ・ステファノ・トロフィー(もしくはアルフレッド・ディ・ステファノ・カップ)と呼ばれる引退試合が行われた[25]

現役引退後[編集]

ボカ・ジュニアーズの監督を務めるディ・ステファノ(1969年)

引退した翌年の1967年には、エルチェCFの監督に就任。さらにその翌年には、現役時代に所属したリーベル・プレートと激しいライバル関係を築いていたボカ・ジュニアーズの監督となり、プリメーラ・ディビシオン優勝に導いた。その後もスペインやポルトガル等のクラブで監督を務め、1979年バレンシアの監督に就任。アーセナルとの決勝ではPK戦を制し、クラブ初のUEFAカップウィナーズカップを獲得した。1981年には古巣リーベル・プレートを率い、ここでもプリメーラを制覇した。1982年に古巣レアル・マドリードの監督に就任。ここではタイトルにこそ恵まれなかったものの、若手のカンテラ選手を積極的に起用して後のキンタ・デル・ブイトレの礎を築いた。この時のことについて、ディ・ステファノは「卵がかえるときにそばにいられた自分は幸運だっただけだ」とだけ語った[26]。また、1990年に再びレアル・マドリードを率いたときには、同クラブでの監督として唯一のタイトルであるスーペルコパ・デ・エスパーニャを手にした。

1989年フランス・フットボールよりヨハン・クライフミシェル・プラティニと共にスーパー・バロンドールの候補に選ばれ、12月24日に同賞を受賞した[27]

2000年11月5日に開かれたクラブ総会でレアル・マドリードの名誉会長に就く。同年12月、レアル・マドリードがFIFAから20世紀最高のクラブに選出されたときにも、フロレンティーノ・ペレスと共にゼップ・ブラッター会長から賞を受け取った[5]

2005年12月に、心筋梗塞バレンシアの病院に緊急入院した。その後バイパス手術を受け、無事退院した[28]。しかし、2005年からは心臓ペースメーカーを着用するようになった[29]

2006年5月マドリード・バルデベバスのレアル・マドリード・カスティージャ専用スタジアム、エスタディオ・アルフレッド・ディ・ステファノが完成した。2008年2月17日UEFAとレアル・マドリードから表彰され、レアル・マドリードの練習場シウダード・レアル・マドリードには自身の像が建てられた[30]。また、2007-08シーズンより自身の名を冠したマルカ誌によるリーガ・エスパニョーラ最優秀選手賞、トロフェオ・アルフレッド・ディ・ステファノが始まった。第1回は、ディ・ステファノが現役時代に所属したレアル・マドリードでキャプテンを務めていたラウル・ゴンサレスが受賞した[31]

2014年7月5日サンティアゴ・ベルナベウ付近のレストランを出た直後に心臓発作を起こし、病院へ緊急搬送された。一時は容態安定も伝えられていたが、2日後の7月7日に死去した[32][33]。88歳没。ディ・ステファノの没後、7月9日に行われた2014 FIFAワールドカップ ブラジル大会準決勝アルゼンチンオランダ戦(アレーナ・デ・サンパウロ)のキックオフに先立ち、両軍選手及び観客により黙祷が捧げられた[34]7月16日には、リーベル・プレートとミジョナリオスがミジョナリオスのホームスタジアムであるエスタディオ・ネメシオ・カマーチョでディ・ステファノ追悼の親善試合を行った[35]

人物[編集]

プレースタイル[編集]

サッカー界最初のトータルフットボーラー、万能型選手のパイオニアと評される[36]ディ・ステファノのプレーの特徴は、プレーエリアの広さにある。ポジションはFWであったが、中盤に下がってのゲームメイクや守備能力にも長けた万能なプレイヤーであり[37]、試合中はそのスタミナを活かして様々なポジションに顔を出した[3][24]レアル・マドリード時代の同僚であるミゲル・ムニョスはその能力を「ディ・ステファノが1人いればあらゆるポジションが2人いるのと同じことだ」と語り、元フランス代表選手、代表監督であり、レキップフランス・フットボールのジャーナリストであったガブリエル・アノは「最高に完成されたプレイヤー。神の摂理のように彼の中心は至る所にあり、彼の周辺はどこにもない」と評した[37]。また、ホセ・マリア・サラガ曰く、GKとしての腕も悪くなかったという[38]

ストライカーとしても左右両足、頭でボールを自在に操り、スピード、嗅覚、戦術眼、テクニックなどサッカー選手に必要な能力をすべて高いレベルで併せ持って高い決定力を誇った[1][24]。しかし、レアル・マドリードにおいてフェレンツ・プスカシュの加入後は攻撃に参加することが減り[39]、キャリア後半はプスカシュにクラブ得点王を譲ることとなった。得点だけでなくチャンスボールを供給することもでき[3]ペレはディ・ステファノについて「両足が使えて空中戦にも長け、まったく穴のない選手」と評している。

人となり[編集]

食事をするディ・ステファノ(1963年)

ディ・ステファノは気難しい性格で知られ、サッカー選手として多くの賞賛を浴びた一方でチームメイトから愛される選手と評されることはなかった[40]。前述のジジの件のほか、長年プレーしたレアル・マドリードとの決別の際も、ディ・ステファノの尊大な態度が一部の人々の反感を買っていたことも要因の一つとされる[41]フランシスコ・ヘントは「ディ・ステファノの関心は2つのみ。試合に勝つことと、儲かる契約をすることだ」と語っている[42]

喫煙者ではあったがや散財に興味を示さず、2000年エル・パイスに掲載されたインタビューでは「自分はタバコは吸うが、他は何もやらない。サッカー選手は身体に気を付けなければいけない」と語った[42]。また、レアル・マドリード監督時代には、バイクで練習に通っていたエミリオ・ブトラゲーニョに対して「身体を気遣い、他の手段で通うべきだ」と諭し、その後友人に会うためにバイクに乗っているブトラゲーニョを見かけたディ・ステファノが罵声を浴びせたというエピソードもある[43]

監督時代にマノーロ・サンチスやブトラゲーニョらカスティージャCF所属選手を次々とトップチームデビューさせたディ・ステファノは、レアル・マドリードがマルセロフェルナンド・ガゴゴンサロ・イグアインら若手選手を外部から補強した際に「自分たちは雌鶏を持っている。しかし卵を外へ買いに行く」とクラブにおけるカンテラ軽視を嘆いた[44]。しかしその後、ジョゼ・モウリーニョ監督時代には「良いカンテラーノは成功を勝ち取るものであり、それが出ないのは運が悪いということだ」とも語っている[45]

評価[編集]

FIFAワールドカップに出ていないことなどから知名度はあまり高くはないが、史上最高のサッカー選手の一人と言われる選手である。2008年に行われたレアル・マドリード史上最高の選手を選ぶ公式サイト上でのインターネット投票では、ジネディーヌ・ジダンラウル・ゴンサレスら21世紀にプレーした選手が上位に名を連ねる中で、ジダンを僅差で抑えて同クラブ史上最高の選手に選ばれた[46]

FIFAの会長であるゼップ・ブラッターは、同選手を「過去50年間では間違いなく最高の選手」と述べている[注釈 3]。また、ボビー・チャールトンは彼を「最も頭の良い選手」と評し[47]、当時ライバルであるFCバルセロナUEFAチャンピオンズカップ 1963-64決勝にてインテルを率いていたエレニオ・エレーラは、ペレを「オーケストラの第1ヴァイオリン奏者」と喩えたのに対し、ディ・ステファノを「オーケストラそのものだ」と語った[47]

1997年RAIの番組に出演したディエゴ・マラドーナは「私がペレより良い選手であったかどうかはわからない、しかしディ・ステファノがペレより良かったことは疑いようがない」と語った。ペレもまた、2009年に受けたインタビューで「史上最高はペレかマラドーナだと皆さんは言うが、わたしにとって最高の選手はアルフレッド・ディ・ステファノだ」と述べている[48]。その他エウゼビオルイス・スアレスサンドロ・マッツォーラジョン・チャールズフランツ・ベッケンバウアーら現役時代のディ・ステファノを知る多くのサッカー選手から、最も完成度の高い選手との評価を受けている[21][49]

エピソード[編集]

  • スペインの伝説的選手であり、バルセロナに所属していたルイス・スアレスの愛称である「アルキテクト」は、ディ・ステファノの「まるでアルキテクト(建築家)のように試合を組み立てる」という発言に由来している。
  • 1955年UEFAチャンピオンズカップ初戦のセルヴェットFC戦にて0-0で迎えたハーフタイム中、当時皇太子であったフアン・カルロス1世がロッカールームで選手たちを激励し、ディ・ステファノへ向けて「さあ、この男こそ王者です」という文句を口にした[50]
  • 1950年に結婚し、6人の子宝に恵まれた[51]2005年に妻を亡くしたディ・ステファノは、2013年にディ・ステファノの個人秘書を務める50歳年下のコスタリカ人女性と結婚した[52]

成績[編集]

シーズン 所属クラブ 所属リーグ 国内リーグ 国内カップ 国際カップ 通算 代表
試合数 得点数 試合数 得点数 大会 試合数 得点数 試合数 得点数 試合数 得点数
1945 CAリーベル・プレート プリメーラ・ディビシオン 1 0 1 0
1946 CAウラカン 25 10 25 10
1947 CAリーベル・プレート 29 27 29 27 6 6
1948 23 13 SA 6 4 29 17
1949 12 9 12 9
アルゼンチン通算 90 59 - - 6 4 96 63 6 6
1949 ミジョナリオスFC カテゴリア・プリメーラA 15 16 15 16 4 0
1950 29 23 29 23
1951 34 32 34 32
1952 24 19 24 19
コロンビア通算 102 90 - - 102 90 4 0
1953-54 レアル・マドリード プリメーラ・ディビシオン 28 27 28 27
1954–55 30 25 LC 2 0 32 25
1955–56 30 24 CC 7 5 37 29
1956-57 30 31 2 3 CC/LC 8/2 7/2 42 43 5 5
1957–58 30 19 3 7 CC 7 10 40 36 5 3
1958-59 28 23 3 5 CC 7 6 38 34 3 3
1959–60 23 12 2 3 CC 6 8 31 23 5 4
1960–61 23 21 5 8 CC/IC 2/2 0/1 32 30 10 7
1961–62 23 11 4 6 CC 9 7 36 24 3 1
1962–63 13 12 6 8 CC 2 1 21 21
1963–64 24 11 1 1 CC 9 5 34 17
1964-65 RCDエスパニョール 24 7 1 1 25 8
1965-66 23 4 1 1 FC 6 0 30 5
スペイン通算 329 227 28 43 - 69 52 426 322 31 23
通算 521 376 28 43 - 75 56 624 475 41 29

代表でのゴール[編集]

アルゼンチン代表でのディ・ステファノ
アルゼンチンの旗 アルゼンチン代表
# 日付 対戦場所 対戦チーム スコア 結果 大会
1. 1947年12月2日 ジョージ・キャプウェル, グアヤキル, エクアドル  パラグアイ 6 - 0 7 – 0 南米選手権1947
2. 1947年12月11日 ジョージ・キャプウェル, グアヤキル, エクアドル  ペルー 2 - 1 3 – 2 南米選手権1947
3. 1947年12月16日 ジョージ・キャプウェル, グアヤキル, エクアドル  チリ 1 - 0 1 – 1 南米選手権1947
4. 1947年12月18日 ジョージ・キャプウェル, グアヤキル, エクアドル  コロンビア 2 - 0 6 – 0 南米選手権1947
5. 1947年12月18日 ジョージ・キャプウェル, グアヤキル, エクアドル  コロンビア 5 - 0 6 – 0 南米選手権1947
6. 1947年12月18日 ジョージ・キャプウェル, グアヤキル, エクアドル  コロンビア 6 - 0 6 – 0 南米選手権1947
スペインの旗 スペイン代表
# 日付 対戦場所 対戦チーム スコア 結果 大会
1. 1957年1月30日 サンティアゴ・ベルナベウ, マドリード, スペイン  オランダ 1 - 0 5 – 1 親善試合
2. 1957年1月30日 サンティアゴ・ベルナベウ, マドリード, スペイン  オランダ 3 - 0 5 – 1 親善試合
3. 1957年1月30日 サンティアゴ・ベルナベウ, マドリード, スペイン  オランダ 5 - 0 5 – 1 親善試合
4. 1957年3月31日 ボードゥアン国王競技場, ブリュッセル, ベルギー  ベルギー 1 - 0 5 – 0 親善試合
5. 1957年3月31日 ボードゥアン国王競技場, ブリュッセル, ベルギー  ベルギー 4 - 0 5 – 0 親善試合
6. 1957年11月24日 スタッド・オランピック・ドゥ・ラ・ポンテーズ, ローザンヌ, スイス  スイス 1 - 0 4 – 1 1958年W杯予選
7. 1957年11月24日 スタッド・オランピック・ドゥ・ラ・ポンテーズ, ローザンヌ, スイス  スイス 3 - 0 4 – 1 1958年W杯予選
8. 1958年4月13日 サンティアゴ・ベルナベウ, マドリード, スペイン  ポルトガル 1 - 0 1 – 0 親善試合
9. 1959年2月28日 スタディオ・オリンピコ, ローマ, イタリア  イタリア 1 - 1 1 – 1 親善試合
10. 1959年6月28日 シレジアン・スタジアム, ホジュフ, ポーランド  ポーランド 2 - 1 4 – 2 1960 欧州ネイションズカップ
11. 1959年6月28日 シレジアン・スタジアム, ホジュフ, ポーランド  ポーランド 4 - 1 4 – 2 1960 欧州ネイションズカップ
12. 1959年10月14日 サンティアゴ・ベルナベウ, マドリード, スペイン  ポーランド 1 - 0 3 – 0 1960 欧州ネイションズカップ
13. 1959年11月22日 エスタディオ・デ・メスタージャ, バレンシア, スペイン  オーストリア 4 - 2 6 – 3 親善試合
14. 1959年11月22日 エスタディオ・デ・メスタージャ, バレンシア, スペイン  オーストリア 5 - 2 6 – 3 親善試合
15. 1960年3月13日 カンプ・ノウ, バルセロナ, スペイン  イタリア 2 - 1 3 – 1 親善試合
16. 1960年7月10日 エスタディオ・ナシオナル, リマ, ペルー  ペルー 1 - 0 3 – 1 親善試合
17. 1960年7月14日 エスタディオ・ナシオナル・デ・チリ, サンティアゴ, チリ  チリ 1 - 0 4 – 0 親善試合
18. 1960年7月14日 エスタディオ・ナシオナル・デ・チリ, サンティアゴ, チリ  チリ 2 - 0 4 – 0 親善試合
19. 1960年7月17日 エスタディオ・ナシオナル・デ・チリ, サンティアゴ, チリ  チリ 1 - 0 4 – 1 親善試合
20. 1960年7月17日 エスタディオ・ナシオナル・デ・チリ, サンティアゴ, チリ  チリ 2 - 0 4 – 1 親善試合
21. 1961年4月19日 ニニアン・パーク, カーディフ, ウェールズ  ウェールズ 2 - 1 2 – 1 1962年W杯予選
22. 1961年6月11日 サンチェス・ピスフアン, セビリア, スペイン  アルゼンチン 2 - 0 2 - 0 親善試合
23. 1961年11月23日 サンティアゴ・ベルナベウ, マドリード, スペイン  モロッコ 2 - 1 3 – 2 1962年W杯予選

獲得タイトル[編集]

選手時代[編集]

アルゼンチンの旗 アルゼンチン代表

アルゼンチンの旗 アルゼンチン

コロンビアの旗 コロンビア

スペインの旗 スペイン

指導者時代[編集]

アルゼンチンの旗 アルゼンチン

  • プリメーラ・ディビシオン : 2回 1969, 1981
  • アルゼンチンカップ : 1回 1969

スペインの旗 スペイン

個人タイトル[編集]

脚注[編集]

  1. ^ ただし、1945年の優勝時はほとんど出場機会はなかった。
  2. ^ アルゼンチンは選手の欧州流出を防ぐため、1950年1954年のワールドカップに参加しなかった。
  3. ^ ちなみに過去25年間ではヨハン・クライフミシェル・プラティニの名前を挙げている。

出典[編集]

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参考文献[編集]

外部リンク[編集]