アルフレッド・ディ・ステファノ
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|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | ||||||
| 本名 | アルフレッド・ステファノ・ディ・ステファノ・ラウテ | |||||
| 愛称 | ブロンドの矢(La Saeta rubia) ドン・アルフレッド(Don Alfredo) |
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| ラテン文字 | Alfredo Stefano DI STÉFANO Lauthe | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 | ||||||
| 生年月日 | 1926年7月4日(86歳) | |||||
| 出身地 | ブエノスアイレス | |||||
| 身長 | 178cm | |||||
| 体重 | 76kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | FW | |||||
| 利き足 | 右足 | |||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
| 1943-1949 1946-1947 1949-1953 1953-1964 1964-1966 |
→ |
66 (49) 25 (10) 102 (90) 282 (216) 47 (13) |
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| 代表歴 | ||||||
| 1947 1949 1957-1961 |
6 (6) 4 (0) 31 (23) |
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| 監督歴 | ||||||
| 1967-1968 1969-1970 1970-1974 1974 1975-1976 1976-1977 1979-1980 1981-1982 1982-1984 1985 1986-1988 1990-1991 |
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アルフレッド・ステファノ・ディ・ステファノ・ラウテ (Alfredo Stefano Di Stéfano Lauthe, 1926年7月4日 - )はアルゼンチン、ブエノスアイレス出身のサッカー選手。
目次 |
概要 [編集]
愛称は『LA SAETA RUBIA (金髪の矢)』。1950年代後半にUEFAチャンピオンズカップ5連覇を達成したレアル・マドリード黄金時代のエースとして活躍し、それまで2度しかリーグ優勝の経験がなかったレアル・マドリードを20世紀最優秀クラブに選ばれるほどのビッグクラブへと変えた選手である[1]。また3カ国(アルゼンチン、コロンビア、スペイン)の代表経験があり、生涯では1126試合、893得点という記録を打ち立てた[2]。一方でFIFAワールドカップでのプレー経験はなく、ジョージ・ベストらと共にワールドカップに出場していないスター選手の代表格として知られる[3]。
バロンドールを2度受賞したほか、1989年に歴代最優秀選手としてスーパー・バロンドールに選出された[4]。1998年には、盟友フェレンツ・プスカシュらと共にFIFAから偉大なサッカー選手10人に選ばれ、さらにディ・ステファノはそのトップに輝いた[5]。ワールドサッカー誌選出の「20世紀の偉大なサッカー選手100人」やペレが選ぶ偉大なサッカー選手100人にも選出され、2003年にはスペイン人としてUEFAジュビリーアウォーズを受賞した。また、2008年から始まったUEFA会長賞の初代受賞者でもある[6]。
現役引退後はアルゼンチンやスペインなどのクラブで監督を歴任し、2000年よりレアル・マドリードの名誉会長に就任した。
経歴 [編集]
幼少時代 [編集]
1926年7月4日、イタリア系移民の子供3兄弟の長男としてブエノスアイレスで生まれる。イタリア系アルゼンチン人であるが、ベアルン出身のフランス人の祖父を持つ[7]。幼少時代、アルフレッドと弟トゥリオはサッカーをしていたが、もう一人の弟ノルマはバスケットボールをしていた[8]。また、10代の頃に実家の自小作農の手伝いをしており、サッカーをする上で武器となるスタミナを鍛えられた[9]。
12歳の時に、ラス・カルダレスというクラブに入団。そこでの活躍によりCAリーベル・プレートに目をつけられる。15歳の頃、"La Maquina"(機械)と呼ばれ当時世界トップクラスの強さを誇っていたリーベル・プレートのユースチームに入り、1943年にトップチームとプロ契約を結んだ。
現役時代 [編集]
18歳の時に4部リーグでプレーし始め、3部、1部と昇格し、1945年にCAウラカン戦でトップチームデビューした[10]。しかしトップチームでは前線に優秀な選手が揃っていたことから、1946年にウラカンへレンタル移籍した。ウラカンでは66試合に出場して55ゴールという高い得点力を示し、リーベル・プレートとウラカンとの試合では試合開始15秒で得点を挙げた[9]。その翌年にリーベル・プレートへ復帰した。
ディ・ステファノはアドルフォ・ペデルネラを移籍へと追いやり、そのシーズン27得点を挙げ得点王となる。その内の1点はペデルネラが移籍したCAアトランタ相手にアウェーで決めたものであり、その敗戦でアトランタは降格が決定。試合後に相手サポーターからの襲撃を受けて病院に運ばれた[11]。1947年南米選手権、ボリビア戦でアルゼンチン代表デビューを果たし、同大会で6得点を上げ優勝に貢献する。同大会では、最優秀選手に選ばれた。リーベル・プレートでは、2度リーグ優勝を果たした[注釈 1]。
1949年のシーズン途中、給料問題や労働条件をめぐるゼネラル・ストライキによりリーベル・プレートを退団。1948年に創立したばかりであり、当時まだFIFAに加盟していなかったコロンビアリーグのミジョナリオスFCへ移籍した。当時のミジョナリオスは地元の財界人の出資によって経済力が非常に強く、リーベル・プレートで共にプレーしたペデルネラら有力選手を多く抱えており、"Ballet Azul"(青いバレエ)の異名を持っていた[12]。シーズン途中からの参加であったが、移籍後初シーズンに15試合で16得点を挙げ、クラブのリーグ初優勝に貢献。ミジョナリオスでは4シーズンで292試合に出場、267ゴール記録、1951年(31得点)、1952年(20得点)には得点王になり、3度リーグを制覇したほかコパ・コロンビアなどのタイトルを獲得した。この活躍によりコロンビアサッカー連盟からのコロンビア代表への強い要請を受け(当時は複数の国の代表でプレーが可能だった)、コロンビア国籍を取得しコロンビア代表としても出場した。
1952年にミジョナリオスは親善試合のためにスペイン遠征をした。すでにミジョナリオスのスポークスマンも務めていたディ・ステファノは試合前にミジョナリオスの会長、レアル・マドリードの会長サンティアゴ・ベルナベウと共にラジオに出演。ベルナベウは、この時の感想を「あの男は名選手の匂いがする」と地元記者に語った。ミジョナリオスのほかにノルウェーのクラブであるノルシェーピングも親善試合に招かれ、地元マドリードを本拠地とするレアル・マドリードを含めた3つのクラブで三者間トーナメントが行われた。ノルシェーピングとの試合は2-2の引き分けに終わったが、ミジョナリオスの2得点は共にディ・ステファノによるものであった。レアル・マドリードとの試合では4-2で勝利し、ここでもまた2得点を決めた。この活躍によってベルナベウはディ・ステファノの獲得を目指した。しかし、当時FCバルセロナのチーフスカウトをしていたジョゼップ・サミティエールもレアル・マドリード時代のコネクションでその試合の観戦チケットを入手しており、バルセロナも同選手の獲得に興味を示した[13]。この2クラブの激しい争奪戦の末、1953年にレアル・マドリードへと移籍した。
最初に移籍話を持ちかけたのはバルセロナであり、1954年までディ・ステファノの保有権を持っていたリーベル・プレートに400万ペセタを支払った。その後、レアル・マドリードは同じようにミジョナリオスに150万ペセタを支払った。この件に関して、FIFAは先に交渉を行ったバルセロナの取引を認めた。しかし、その直後にスペインサッカー連盟は外国人選手の移籍に関する規約を改正し、バルセロナへの移籍を阻止。当時のバルセロナの会長であるマルティ・カレトはマドリードへ赴いてベルナベウと話し合いの場を持ち、ユヴェントスFCへの移籍という条件と共にディ・ステファノを手放すことを容認した。その対談後にスペインサッカー連盟はレアル・マドリードとバルセロナで交互に1年ずつプレーさせる共同保有の取引を持ちかけた。この取引を承諾したカレトはカタルーニャのメディアから大きなバッシングを受けて辞任。バルセロナの選手として出場した2つの親善試合であまり活躍できなかったこともありバルセロナはこの取引に応じず、レアル・マドリードから550万ペセタを受け取ることによって選手の全保有権を譲渡した[14]。1953-54シーズンの3試合目となるラシン・サンタンデール戦でデビューを飾ると、初ゴールも記録。初のエル・クラシコでは4得点を挙げた。
11シーズンで通算307得点、UEFAチャンピオンズカップ通算49得点、リーグ優勝8回、コパ・デル・レイ優勝1回、インターコンチネンタルカップ優勝1回、5度のリーグ得点王、1957年、1959年と2度のバロンドール受賞などの輝かしい成績を残した。またディ・ステファノを擁したこのチームは、1955-1956シーズンから1959-1960シーズンまでチャンピオンズカップ5連覇という偉大な記録を打ち立てた。そして、その年から始まったインターコンチネンタルカップにおいてもコパ・リベルタドーレス優勝者のCAペニャロールを下し初代王者となる。
また、プレーのみでなくチーム作りにも影響を与えた。フランシスコ・ヘントがレアル・マドリードに移籍してきた当初は他のクラブにレンタル移籍させる予定だったが、ディ・ステファノの強い希望によってクラブはヘントをチームに留まらせた。また、普段の練習では素晴らしいプレーを見せるものの実際の試合ではあまり活躍することができなかったヘントを活かすため、ベルナベルに対して「ヘントがもっとプレーに関われるように、彼にパスを出せる左サイドMFを入れてほしい」と補強を要請し(ベルナベウによると、自分がパスしたボールをまた返してくれるプレーヤーが必要と語り)、アルゼンチン時代の友人であるエクトル・リアルを推薦した[15]。一方で1959年にチームメイトとなったジジは1958年のFIFAワールドカップで最優秀選手に選ばれたほどの実力者だったにも関わらず、彼と上手くいかなかったことでたった一年でチームを去っている。
1956年にはスペイン国籍を取得し、1957年1月30日のオランダ戦でスペイン代表デビューも果たしている。スペイン代表では4年間しかプレーしていないにも関わらず、エミリオ・ブトラゲーニョが更新するまで代表最多得点を保持していた。1960年に開催された第1回の欧州選手権では、第1回戦はディ・ステファノの3得点を含む2試合合計7-2でポーランド代表を圧倒したが、当時フランシスコ・フランコが総統として君臨していたスペインは、スペイン内戦時代に第二共和政を支援してフランコら反乱軍と敵対していたソビエト連邦との試合を許さず、第2回戦でソ連代表に不戦敗した。1962年、スペイン代表としてFIFAワールドカップに招集されたものの、怪我によって出場することができず[16]、最後までワールドカップには縁がなかった[注釈 2]。
1962年、再びチャンピオンズカップ決勝まで駒を進め、前年優勝したSLベンフィカと対戦した。その試合は5-3でレアル・マドリードが敗北を喫し、ディ・ステファノは無得点に終わるも、試合後にエウゼビオから「史上最も完成された選手」と賞賛された[17]。同大会では7得点を挙げ、チームメイトのフェレンツ・プスカシュらと共に得点王に輝いた。
1963年8月、プレシーズンにスモールワールドカップ参加のためカラカスにいたディ・ステファノは反政府ゲリラFALNによって誘拐される。この事件はヨーロッパのほぼ全ての主要紙で報じられ、ベネズエラ政府が戦車部隊を出動させるほどの騒ぎとなった。事件から3日後にスペイン大使館前で解放された後、トーナメント最終戦のサンパウロFC戦で短時間のみプレーした[18][19]。
1964年にサンティアゴ・ベルナベウからテクニカルスタッフのオファーを受けるも、自身はまだ現役を続けるつもりであったためそのオファーは決裂し、ディ・ステファノはレアル・マドリードを去ることとなった。そして、現役時代はライバルであるバルセロナに所属し、スペイン代表で共にプレーしたこともあるラディスラオ・クバラに誘われ、クバラが監督をしていたエスパニョールに移籍。エスパニョールでのデビュー戦の相手は前所属のレアル・マドリードであり、その試合はエスパニョールが敗北した。1966年、40歳で現役を引退する。1967年6月7日にエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウにチャンピオンズカップ覇者のセルティックFCを招き、アルフレッド・ディ・ステファノ・トロフィー(もしくはアルフレッド・ディ・ステファノ・カップ)と呼ばれる引退試合が行われた[20]。
現役引退後 [編集]
引退した翌年の1967年には、エルチェCFの監督に就任。さらにその翌年には、現役時代に所属したリーベル・プレートと激しいライバル関係を築いていたボカ・ジュニアーズの監督となり、プリメーラ・ディビシオン優勝に導いた。その後もスペインやポルトガル等のクラブで監督を務め、1979年にバレンシアの監督に就任。アーセナルとの決勝ではPK戦を制し、クラブ初のUEFAカップウィナーズカップを獲得した。1981年には古巣リーベル・プレートを率い、ここでもプリメーラを制覇した。1982年に古巣レアル・マドリードの監督に就任。ここではタイトルにこそ恵まれなかったものの、若手のカンテラ選手を積極的に起用して後のキンタ・デル・ブイトレの礎を築いた。この時のことについて、ディ・ステファノは「卵がかえるときにそばにいられた自分は幸運だっただけだ」とだけ語った[21]。また、1990年に再びレアル・マドリードを率いたときには、同クラブでの監督として唯一のタイトルであるスーペルコパ・デ・エスパーニャを手にした。
2000年11月5日に開かれたクラブ総会でレアル・マドリードの名誉会長に就く。同年12月、レアル・マドリードがFIFAから20世紀最高のクラブに選出されたときにも、フロレンティーノ・ペレスと共にゼップ・ブラッター会長から賞を受け取った[5]。2005年12月に、心筋梗塞でバレンシアの病院に緊急入院した。その後バイパス手術を受け、無事退院した[22]。
2006年5月にマドリード・バルデベバスのレアル・マドリード・カスティージャ専用スタジアム、エスタディオ・アルフレッド・ディ・ステファノが完成した。2008年2月17日、UEFAとレアル・マドリードから表彰され、レアル・マドリードの練習場シウダード・レアル・マドリードには自身の像が建てられた[23]。また、2007-08シーズンより自身の名を冠したマルカ誌によるリーガ・エスパニョーラ最優秀選手賞、トロフェオ・アルフレッド・ディ・ステファノが始まった。第1回は、ディ・ステファノが現役時代に所属したレアル・マドリードでキャプテンを務めていたラウル・ゴンサレスが受賞した[24]。
人物 [編集]
プレースタイル [編集]
ディ・ステファノのプレーの特徴は、プレーエリアの広さにある。ポジションはFWであったが、中盤に下がってのゲームメイクや守備能力にも長けた万能なプレイヤーであり[25]、試合中はそのスタミナを活かして様々なポジションに顔を出した[3]。レアル・マドリード時代の同僚であるミゲル・ムニョスはその能力を「ディ・ステファノが1人いればあらゆるポジションが2人いるのと同じことだ」と語り、元フランス代表選手、代表監督であり、レキップやフランス・フットボールのジャーナリストであったガブリエル・アノは「最高に完成されたプレイヤー。神の摂理のように彼の中心は至る所にあり、彼の周辺はどこにもない」と評した[25]。また、ホセ・マリア・サラガ曰く、GKとしての腕も悪くなかったという[26]。
ストライカーとしても左右両足、頭でボールを自在に操り、スピード、嗅覚、戦術眼、テクニックなどサッカー選手に必要な能力をすべて高いレベルで併せ持って高い決定力を誇った[1]。しかし、レアル・マドリードにおいてフェレンツ・プスカシュの加入後は攻撃に参加することが減り[27]、キャリア後半はプスカシュにクラブ得点王を譲ることとなった。得点だけでなくチャンスボールを供給することもでき[3]、ペレはディ・ステファノについて「両足が使えて空中戦にも長け、まったく穴のない選手」と評している。
人となり [編集]
ディ・ステファノは気難しい性格で知られ、サッカー選手として多くの賞賛を浴びた一方でチームメイトから愛される選手と評されることはなかった[28]。前述のジジの件のほか、長年プレーしたレアル・マドリードとの決別の際も、ディ・ステファノの尊大な態度が一部の人々の反感を買っていたことも要因の一つとされる[29]。フランシスコ・ヘントは「ディ・ステファノの関心は2つのみ。試合に勝つことと、儲かる契約をすることだ」と語っている[30]。
喫煙者ではあったが酒や散財に興味を示さず、2000年にエル・パイスに掲載されたインタビューでは「自分はタバコは吸うが、他は何もやらない。サッカー選手は身体に気を付けなければいけない」と語った[30]。また、レアル・マドリード監督時代には、バイクで練習に通っていたエミリオ・ブトラゲーニョに対して「身体を気遣い、他の手段で通うべきだ」と諭し、その後友人に会うためにバイクに乗っているブトラゲーニョを見かけたディ・ステファノが罵声を浴びせたというエピソードもある[31]。
監督時代にマヌエル・サンチス・オンティジュエロやブトラゲーニョらを次々とトップチームデビューさせたディ・ステファノは、レアル・マドリードがマルセロやフェルナンド・ガゴ、ゴンサロ・イグアインら若手選手を外部から補強した際に「自分たちは雌鶏を持っている。しかし卵を外へ買いに行く」とクラブにおけるカンテラ軽視を嘆いた[32]。しかしその後、ジョゼ・モウリーニョ監督時代には「良いカンテラーノは成功を勝ち取るものであり、それが出ないのは運が悪いということだ」とも語っている[33]。
評価 [編集]
FIFAワールドカップに出ていないことなどから知名度はあまり高くはないが、史上最高のサッカー選手の一人と言われる選手である。2008年に行われたレアル・マドリード史上最高の選手を選ぶ公式サイト上でのインターネット投票では、ジネディーヌ・ジダンやラウル・ゴンサレスら21世紀にプレーした選手が上位に名を連ねる中で、ジダンを僅差で抑えて同クラブ史上最高の選手に選ばれた[34]。
FIFAの会長であるゼップ・ブラッターは、同選手を「過去50年間では間違いなく最高の選手」と述べている[注釈 3]。また、ボビー・チャールトンは彼を「最も頭の良い選手」と評し[35]、当時ライバルであるFCバルセロナ、UEFAチャンピオンズカップ 1963-64決勝にてインテルを率いていたエレニオ・エレーラは、ペレを「オーケストラの第1ヴァイオリン奏者」と喩えたのに対し、ディ・ステファノを「オーケストラそのものだ」と語った[35]。
1997年にRAIの番組に出演したディエゴ・マラドーナは「私がペレより良い選手であったかどうかはわからない、しかしディ・ステファノがペレより良かったことは疑いようがない」と語った。ペレもまた、2009年に受けたインタビューで「史上最高はペレかマラドーナだと皆さんは言うが、わたしにとって最高の選手はアルフレッド・ディ・ステファノだ」と述べている[36]。その他エウゼビオやルイス・スアレス、サンドロ・マッツォーラ、ジョン・チャールズ、フランツ・ベッケンバウアーら現役時代のディ・ステファノを知る多くのサッカー選手から、最も完成度の高い選手との評価を受けている[17][37]。
エピソード [編集]
- スペインの伝説的選手であり、バルセロナに所属していたルイス・スアレスの愛称である「アルキテクト」は、ディ・ステファノの「まるでアルキテクト(建築家)のように試合を組み立てる」という発言に由来している。
- 1955年、UEFAチャンピオンズカップ初戦のセルヴェットFC戦にて0-0で迎えたハーフタイム中、当時皇太子であったフアン・カルロス1世がロッカールームで選手たちを激励し、ディ・ステファノへ向けて「さあ、この男こそ王者です」という文句を口にした[38]。
成績 [編集]
| シーズン | 所属クラブ | 所属リーグ | 国内リーグ | 国内カップ | 国際カップ | 通算 | 代表 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 試合数 | 得点数 | 試合数 | 得点数 | 大会 | 試合数 | 得点数 | 試合数 | 得点数 | 試合数 | 得点数 | |||
| 1945 | CAリーベル・プレート | プリメーラ・ディビシオン | 1 | 0 | — | — | 1 | 0 | — | ||||
| 1946 | CAウラカン | 25 | 10 | — | — | 25 | 10 | — | |||||
| 1947 | CAリーベル・プレート | 29 | 27 | — | — | 29 | 27 | 6 | 6 | ||||
| 1948 | 23 | 13 | — | SA | 6 | 4 | 29 | 17 | — | ||||
| 1949 | 12 | 9 | — | — | 12 | 9 | — | ||||||
| アルゼンチン通算 | 90 | 59 | - | - | 6 | 4 | 96 | 63 | 6 | 6 | |||
| 1949 | ミジョナリオスFC | カテゴリア・プリメーラA | 15 | 16 | — | — | 15 | 16 | — | ||||
| 1950 | 29 | 23 | — | — | 29 | 23 | — | ||||||
| 1951 | 34 | 32 | — | — | 34 | 32 | — | ||||||
| 1952 | 24 | 19 | — | — | 24 | 19 | — | ||||||
| コロンビア通算 | 102 | 90 | - | - | 102 | 90 | — | ||||||
| 1953-54 | レアル・マドリード | プリメーラ・ディビシオン | 28 | 27 | — | — | 28 | 27 | — | ||||
| 1954–55 | 30 | 25 | — | LC | 2 | 0 | 32 | 25 | — | ||||
| 1955–56 | 30 | 24 | — | CC | 7 | 5 | 37 | 29 | — | ||||
| 1956-57 | 30 | 31 | 2 | 3 | CC/LC | 8/2 | 7/2 | 42 | 43 | 5 | 5 | ||
| 1957–58 | 30 | 19 | 3 | 7 | CC | 7 | 10 | 40 | 36 | 5 | 3 | ||
| 1958-59 | 28 | 23 | 3 | 5 | CC | 7 | 6 | 38 | 34 | 3 | 3 | ||
| 1959–60 | 23 | 12 | 2 | 3 | CC | 6 | 8 | 31 | 23 | 5 | 4 | ||
| 1960–61 | 23 | 21 | 5 | 8 | CC/IC | 2/2 | 0/1 | 32 | 30 | 10 | 7 | ||
| 1961–62 | 23 | 11 | 4 | 6 | CC | 9 | 7 | 36 | 24 | 3 | 1 | ||
| 1962–63 | 13 | 12 | 6 | 8 | CC | 2 | 1 | 21 | 21 | — | |||
| 1963–64 | 24 | 11 | 1 | 1 | CC | 9 | 5 | 34 | 17 | — | |||
| 1964-65 | RCDエスパニョール | 24 | 7 | 1 | 1 | — | 25 | 8 | — | ||||
| 1965-66 | 23 | 4 | 1 | 1 | FC | 6 | 0 | 30 | 5 | — | |||
| スペイン通算 | 329 | 227 | 28 | 43 | - | 69 | 52 | 426 | 322 | 31 | 23 | ||
| 通算 | 521 | 376 | 28 | 43 | - | 75 | 56 | 624 | 475 | 37 | 29 | ||
代表でのゴール [編集]
| # | 日付 | 対戦場所 | 対戦チーム | スコア | 結果 | 大会 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1. | 1947年12月2日 | ジョージ・キャプウェル, グアヤキル, エクアドル | 6 - 0 | 7 – 0 | 南米選手権1947 | |
| 2. | 1947年12月11日 | ジョージ・キャプウェル, グアヤキル, エクアドル | 2 - 1 | 3 – 2 | 南米選手権1947 | |
| 3. | 1947年12月16日 | ジョージ・キャプウェル, グアヤキル, エクアドル | 1 - 0 | 1 – 1 | 南米選手権1947 | |
| 4. | 1947年12月18日 | ジョージ・キャプウェル, グアヤキル, エクアドル | 2 - 0 | 6 – 0 | 南米選手権1947 | |
| 5. | 1947年12月18日 | ジョージ・キャプウェル, グアヤキル, エクアドル | 5 - 0 | 6 – 0 | 南米選手権1947 | |
| 6. | 1947年12月18日 | ジョージ・キャプウェル, グアヤキル, エクアドル | 6 - 0 | 6 – 0 | 南米選手権1947 | |
| # | 日付 | 対戦場所 | 対戦チーム | スコア | 結果 | 大会 |
| 1. | 1957年1月30日 | サンティアゴ・ベルナベウ, マドリード, スペイン | 1 - 0 | 5 – 1 | 親善試合 | |
| 2. | 1957年1月30日 | サンティアゴ・ベルナベウ, マドリード, スペイン | 3 - 0 | 5 – 1 | 親善試合 | |
| 3. | 1957年1月30日 | サンティアゴ・ベルナベウ, マドリード, スペイン | 5 - 0 | 5 – 1 | 親善試合 | |
| 4. | 1957年3月31日 | ボードゥアン国王競技場, ブリュッセル, ベルギー | 1 - 0 | 5 – 0 | 親善試合 | |
| 5. | 1957年3月31日 | ボードゥアン国王競技場, ブリュッセル, ベルギー | 4 - 0 | 5 – 0 | 親善試合 | |
| 6. | 1957年11月24日 | スタッド・オランピック・ドゥ・ラ・ポンテーズ, ローザンヌ, スイス | 1 - 0 | 4 – 1 | 1958年W杯予選 | |
| 7. | 1957年11月24日 | スタッド・オランピック・ドゥ・ラ・ポンテーズ, ローザンヌ, スイス | 3 - 0 | 4 – 1 | 1958年W杯予選 | |
| 8. | 1958年4月13日 | サンティアゴ・ベルナベウ, マドリード, スペイン | 1 - 0 | 1 – 0 | 親善試合 | |
| 9. | 1959年2月28日 | スタディオ・オリンピコ, ローマ, イタリア | 1 - 1 | 1 – 1 | 親善試合 | |
| 10. | 1959年6月28日 | シレジアン・スタジアム, ホジュフ, ポーランド | 2 - 1 | 4 – 2 | 1960 欧州ネイションズカップ | |
| 11. | 1959年6月28日 | シレジアン・スタジアム, ホジュフ, ポーランド | 4 - 1 | 4 – 2 | 1960 欧州ネイションズカップ | |
| 12. | 1959年10月14日 | サンティアゴ・ベルナベウ, マドリード, スペイン | 1 - 0 | 3 – 0 | 1960 欧州ネイションズカップ | |
| 13. | 1959年11月22日 | エスタディオ・デ・メスタージャ, バレンシア, スペイン | 4 - 2 | 6 – 3 | 親善試合 | |
| 14. | 1959年11月22日 | エスタディオ・デ・メスタージャ, バレンシア, スペイン | 5 - 2 | 6 – 3 | 親善試合 | |
| 15. | 1960年3月13日 | カンプ・ノウ, バルセロナ, スペイン | 2 - 1 | 3 – 1 | 親善試合 | |
| 16. | 1960年7月10日 | エスタディオ・ナシオナル, リマ, ペルー | 1 - 0 | 3 – 1 | 親善試合 | |
| 17. | 1960年7月14日 | エスタディオ・ナシオナル・デ・チリ, サンティアゴ, チリ | 1 - 0 | 4 – 0 | 親善試合 | |
| 18. | 1960年7月14日 | エスタディオ・ナシオナル・デ・チリ, サンティアゴ, チリ | 2 - 0 | 4 – 0 | 親善試合 | |
| 19. | 1960年7月17日 | エスタディオ・ナシオナル・デ・チリ, サンティアゴ, チリ | 1 - 0 | 4 – 1 | 親善試合 | |
| 20. | 1960年7月17日 | エスタディオ・ナシオナル・デ・チリ, サンティアゴ, チリ | 2 - 0 | 4 – 1 | 親善試合 | |
| 21. | 1961年4月19日 | ニニアン・パーク, カーディフ, ウェールズ | 2 - 1 | 2 – 1 | 1962年W杯予選 | |
| 22. | 1961年6月11日 | サンチェス・ピスフアン, セビリア, スペイン | 2 - 0 | 2 - 0 | 親善試合 | |
| 23. | 1961年11月23日 | サンティアゴ・ベルナベウ, マドリード, スペイン | 2 - 1 | 3 – 2 | 1962年W杯予選 | |
獲得タイトル [編集]
選手時代 [編集]
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指導者時代 [編集]
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個人タイトル [編集]
- アルゼンチンリーグ得点王 1947
- コロンビアリーグ得点王 1951, 1952
- スペインリーグ得点王 1954, 1956, 1957, 1958, 1959
- 南米ゴールデンブーツ 1947, 1951
- UEFAチャンピオンズカップ得点王 1958, 1962
- コパ・アメリカ最優秀選手賞 1947
- スペイン最優秀選手賞 1957, 1959, 1960, 1964
- 南米最優秀選手賞 1947, 1953
- 欧州最優秀選手賞 1957, 1959
- 歴代最優秀選手賞 1989
- 20世紀ワールドチーム 1998
- 20世紀世界最優秀選手 4位 (1999年、国際サッカー歴史統計連盟)[39]
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人 - 6位 1999
- UEFAジュビリーアウォーズ 2003
- UEFAゴールデンジュビリーポール - 6位 2004
- FIFA 100 2004
- all time legend 2004
- マルカ・レジェンダ 2008
- UEFA会長賞 2008
脚注 [編集]
- ^ ただし、1945年の優勝時はほとんど出場機会はなかった。
- ^ アルゼンチンは選手の欧州流出を防ぐため、1950年、1954年のワールドカップに参加しなかった。
- ^ ちなみに過去25年間ではヨハン・クライフとミシェル・プラティニの名前を挙げている。
出典 [編集]
- ^ a b 『GREATEST TEAM』、ワールドサッカーマガジン、ベースボール・マガジン社、Vol.148 2007年1月18日号
- ^ ボール 2002 166頁
- ^ a b c “特集 各国歴代最強イレブン【11】アルゼンチン(1)”. 時事ドットコム. (2011年5月12日) 2012年11月17日閲覧。
- ^ “Le foot n'est plus ce qu'il sera”. レキップ. (2010年1月7日) 2012年11月17日閲覧。
- ^ a b “歴史 1991-2000”. レアル・マドリード公式サイト 2012年11月17日閲覧。
- ^ “El fútbol mundial homenajea a Alfredo Di Stéfano”. マルカ. (2008年2月16日) 2012年11月17日閲覧。
- ^ “Portrait d'Alfredo Di Stéfano par François Thébaud”. MIROIR DU FOOTBALL 2012年11月17日閲覧。
- ^ “Jugadores de leyenda”. レアル・マドリード公式サイト 2012年11月17日閲覧。
- ^ a b ボール 2004 163頁
- ^ “ディ・ステファノ85歳の誕生日”. レアル・マドリード公式サイト. (2011年7月4日) 2012年11月17日閲覧。
- ^ ボール 2004 164頁
- ^ “millonariosFC”. ミジョナリオス公式サイト 2012年11月17日閲覧。
- ^ ボール 2004 153-154頁
- ^ ボール 2004 160-161頁
- ^ ボール 2004 170-172頁
- ^ “1962 Chile”. CBC 2012年11月17日閲覧。
- ^ a b “Football world honors Real Madrid legend Di Stefano”. CHINA dairy. (2008年2月19日) 2012年11月17日閲覧。
- ^ “歴史 1961-1970”. レアル・マドリード公式サイト 2012年11月17日閲覧。
- ^ ボール 2004 208-210頁
- ^ “The Alfredo Di Stefano Trophy”. McMillan, Anna. (2005年11月16日) 2012年11月17日閲覧。
- ^ ボール 2004 274頁
- ^ “ディ・ステファノ氏が心臓を手術”. UEFA.com 2012年3月25日閲覧。
- ^ “ディ・ステファノ UEFAとレアル・マドリードから功績を称えられる”. AFPBB News. (2008年2月18日) 2012年11月17日閲覧。
- ^ “Raúl wins the Di Stéfano Trophy”. レアル・マドリード公式サイト. (2008年5月20日) 2012年11月17日閲覧。
- ^ a b 『クラブ スター列伝』、ワールドサッカーマガジン、ベースボール・マガジン社、Vol.153 2007年4月5日号
- ^ ボール 2004 166頁
- ^ ボール 2004 194頁
- ^ ボール 2002 170頁
- ^ ボール 2004 218頁
- ^ a b ボール 2004 158頁
- ^ ボール 2004 275頁
- ^ “隣の芝生は青く見える。レアル首脳陣の迷走ぶり。”. Number Web. (2008年12月9日) 2012年12月23日閲覧。
- ^ “ディ・ステファノ氏:「良いカンテラーノは成功をつかむ」”. Goal.com. (2012年11月6日) 2012年12月23日閲覧。
- ^ “R・マドリー史上最高の選手はディ・ステファノ”. livedoor スポーツ. (2008年4月16日) 2012年11月17日閲覧。
- ^ a b ボール 2004 165頁
- ^ “ペレ氏 「史上最高の選手はマラドーナではなくディ・ステファノ」”. AFPBB News. (2009年9月18日) 2012年3月25日閲覧。
- ^ “ベッケンバウアー氏「歴代最高の選手はメッシでもC・ロナウドでもなくペレだ」”. スポーツナビ. (2012年3月16日) 2012年3月25日閲覧。
- ^ ボール 2004 176頁
- ^ IFFHS' Century Elections 1999年の国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)による20世紀最優秀選手選定。
参考文献 [編集]
- フィル・ボール著、近藤隆文訳 『バルサとレアル スペイン・サッカー物語』 NHK出版、2002年。ISBN 978-4140806739。
- フィル・ボール著、野間けい子訳 『レアル・マドリー ディ・ステファノからベッカムまで』 ネコパブリッシング、2004年。ISBN 978-4777050369。
外部リンク [編集]
- Alfredo Di Stéfano レアル・マドリード公式サイト (英語) (スペイン語)
- アルフレッド・ディ・ステファノ - FIFA主催大会成績
- Di Stéfano's high five UEFA.com
- Di Stéfano's golden memories UEFA.com
- Madrid salute Di Stéfano UEFA.com
- Detail of international appearances by RSSSF
- European Champions Cup/UEFA Champions League Winning Squads
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