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| ユルゲン・クリンスマン |
 |
| 名前 |
| 愛称 |
クリンスィー, 黄金の隼 |
| ラテン文字 |
Jürgen KLINSMANN |
| 基本情報 |
| 国籍 |
ドイツ |
| 生年月日 |
1964年7月30日(44歳) |
| 出身地 |
ゲッピンゲン |
| 身長 |
182cm |
| 体重 |
73kg |
| 選手情報 |
| ポジション |
FW |
| 利き足 |
右足 |
| 代表歴 |
| 1987–1998 |
ドイツ |
108 (47) |
| 監督歴 |
2004-2006
2008-2009 |
ドイツ代表
バイエルン・ミュンヘン |
| ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ユルゲン・クリンスマン(Jürgen Klinsmann, 1964年7月30日 - )は、ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州ゲッピンゲン出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはセンターフォワード。2006年に開催されたFIFAワールドカップドイツ大会ではドイツ代表監督を務めた。
[編集] 略歴
[編集] 選手として
1978年に西ドイツのクラブチーム・SVシュトゥットガルター・キッカーズに入団してキャリアをスタート。1984年にVfBシュトゥットガルトへ移籍し、1987年/1988年シーズンには得点王を獲得。西ドイツ代表に招集され、1987年12月12日のブラジル戦でデビューを飾った。ドイツでの活躍が認められて1989年にはセリエA・インテルへ移籍した。その後モナコ、トッテナムと各国のリーグでプレーし、1995年に母国バイエルン・ミュンヘンに移籍して返り咲く。最終所属クラブはかつて在籍していたトッテナムで、1998年に現役を引退した。
代表としては、西ドイツ代表のストライカーとして1990年のワールドカップ・イタリア大会で優勝。UEFA欧州選手権1992で準優勝、UEFA欧州選手権1996では優勝を果たすなど、ドイツのタイトル獲得に貢献するとともに、長年にわたり主将を務めた。通算成績は108試合47得点。
[編集] 指導者として
代表引退後は、コーチライセンスを取得し2004年にルディ・フェラー辞任を受けてドイツ代表監督に就任した。監督就任後若手選手を積極的に起用したが、なかなか結果を出せず、親善試合でも苦戦が続いた。このため、後述するように母国を留守にしていることも相まってドイツ国民から批判を受けることが多かったが、地元開催のFIFAワールドカップ・ドイツ大会で下馬評を覆す試合内容、成績を収めたため評価は好転。3位決定戦ではポルトガルを3-1で破って3位に導いた。大会終了後監督を辞任すると発表、退任後はドイツの有料テレビで解説者を務めていた。
2008年1月、2007-08シーズン終了後にオットマー・ヒッツフェルトの後任としてバイエルン・ミュンヘンの監督に就任することを発表[1]。 チームの大胆な改革を進めてきたが、2009年4月27日、リーグ戦の成績不振やチャンピオンズリーグの惨敗を理由にバイエルン・ミュンヘンの監督を解任された[2]。
[編集] エピソード
- パン職人の息子であり、本人もパン職人の資格を取得している(現在は父は他界し、母と兄が後を継いで経営している)。その華やかな実績とは裏腹に私生活はきわめて地味であり、スター選手となった後も、クルマは中古、カバンはリュックを愛用している。現役時代から、高額な年俸の遣い道を聞かれ「将来に備えて貯蓄しているところ」と答えている。
- 一年の大半をアメリカ合衆国カリフォルニア州で過ごしている。ドイツ代表監督を務めていたときもカリフォルニアから試合や合宿のたびにやってくる生活だったため、しばしば批判の対象とされた。アマチュアクラブのオレンジ・シティ・ブルー・スターズでは、ジェイ・ゲッピンゲンの偽名でプレーを続けていた。「ジェイ」は彼のファーストネームの頭文字、「ゲッピンゲン」は出身地のゲッピンゲンから取ったものと想像される。
[編集] 選手経歴
[編集] 指導歴
- 2004-2006 :
ドイツ代表
- 2008-2009 :
バイエルン・ミュンヘン
[編集] 獲得タイトル
[編集] 代表
[編集] クラブ
[編集] 個人タイトル
[編集] 監督
[編集] 脚注
[編集] 外部リンク