エドガー・ダーヴィッツ
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| 名前 | ||||
| 本名 | エドガー・スティーヴン・ダーヴィッツ | |||
| 愛称 | 闘犬 | |||
| ラテン文字 | Edgar Steven Davids | |||
| 基本情報 | ||||
| 国籍 | ||||
| 生年月日 | 1973年3月13日(38歳) | |||
| 出身地 | ||||
| 身長 | 169cm | |||
| 体重 | 68kg | |||
| 選手情報 | ||||
| ポジション | MF | |||
| 利き足 | 左足 | |||
| 代表歴 | ||||
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エドガー・スティーヴン・ダーヴィッツ(Edgar Steven Davids、1973年3月13日 - )は元サッカー選手。ポジションはMF。元オランダ代表。
目次 |
[編集] クラブでの実績
アムステルダムにあるオランダの名門サッカークラブ、アヤックスの下部組織、アヤックス・アカデミーを経た後91-92シーズンデビュー。
94-95シーズンにはパトリック・クライファート、ヤリ・リトマネン(フィンランド代表)等と共に20歳の若さで、ACミランを下しUEFAチャンピオンズリーグを制覇する。その後トヨタカップにも来日、グレミオをPK戦の末下して世界一の称号も手にする。翌年のUEFAチャンピオンズリーグも決勝まで勝ち進んだが、ユベントスに敗れた。
その活躍が認められ1996年にはイタリア、セリエAのビッグクラブ、ACミランに移籍。入団一年目は15試合に出場。しかし、二年目は開幕直後にペルージャ戦でGKと交錯して骨折してしまう。その後、1997年にミラン首脳陣はシーズン半ばに彼との確執を理由に彼を放出、同セリエAのユヴェントスに移籍させる。
名門に加入した彼は、1997-1998年シーズン途中加入ながらスクデット(当時25回目)に多大な貢献をしてチームメイトの皆が信頼を寄せた。
1999年、 ワールドサッカー誌の20世紀の偉大なサッカー選手100人で81位に選出された。2000年には薬物使用(筋肉増強剤ナンドロロン)に引っかかり出場停止となってしまう。本人は「緑内障の治療薬に含まれる成分が原因」とコメントしているがオランダ代表だったフランク・デ・ブールも同時期に同様の薬を服用したとして出場停止処分を受けている。
ユーベとの契約は2001年までの予定であった。しかしながら、2004年6月まで延長となる。この契約更新後、両者の関係は悪化していく。CLでのアーセナル戦において、当時監督のマルチェロ・リッピが彼を休養させる為、クロアチア代表でもあるイゴール・トゥドールを起用すると、この起用策に怒りを露わにした彼は生中継中のカメラに「ゲームに出さないなら、チームを俺は離れるだけだ!!」とぶちまけた。これにユーベ首脳陣はダービッツに多額の罰金を科し、関係はますます悪化する。
2002年、ダーヴィッツはローマにもラブコールを送っているなどともささやかれた。ローマは高く彼を評価し、一時は移籍も話に出たがモッジGMはそうはさせず白紙となる。03-04シーズンはブレシアから、若手のガーナ人、ステファン・アッピアーの入団によりポジションを奪われ、プレーするのは重要度の低い試合ばかりとなる。プレミアシップの強豪、チェルシーの大物会長ロマン・アブラモビッチからの多額のオファーもあったが、彼は首を縦に振らなかった。
一方、当時の代表監督ディック・アドフォカートはアヤックス時代エドガーが共にプレーしたこともある、元FCバルセロナの監督のフランク・ライカールトにレンタルという名案を提案する。これを首脳陣も快く納得しスペイン、リーガ・エスパニョーラのFCバルセロナへと新天地も求めた。こうして2004年1月11日に正式に移籍が発表される。これでダーヴィッツはEUROまでの十分な環境を手に入れた。これは両チームにおいても効果的であったことは間違いない。1月17日、アスレティック・ビルバオ戦(結果1-1)にデビュー。その後も活躍し、不振に苦しむチームをリーグ2位に押し上げる最大の原動力となった。
その後2004年7月、シーズン終了後に大量補強をにらんだイタリア、セリエAのインテルへ完全移籍、その戦場を移す事となる。しかし、序盤戦はスタメン出場をしたものの、徐々に戦術の関係で出場機会は少なくなり、同ポジションの豊富な選手層もそれに追い討ちをかけた。次第にマンチーニ監督との関係も悪化し、インテルを退団。2005年にイングランドのトットナムに移籍した。入団一年目はトットナムの好成績を後押しする形での貢献をしたが、2年目になると、コートジボワール代表で”パスマイスター”の異名を持つディディエ・ゾコラの入団、台頭もあって出場機会が減少。そのこともあってか、出場機会を求め、2007年1月に古巣アヤックスへ11年ぶりに復帰した。2007-2008シーズン開幕前のプレーシーズンマッチゴー・アヘッド・イーグルス戦にプロテクターを付けずに出場、案の定左足脛骨を骨折し長期の離脱を余儀なくされた。2008年6月にアヤックスからリリースされ、約2年間のブランクを経て2010年8月にイングランド、フットボールリーグ・チャンピオンシップのクリスタル・パレスへ移籍するも、同年11月に退団した。
[編集] 代表での実績
オランダ代表デビューは1994年4月20日アイルランド戦。
1998年のフランスワールドカップでは6試合に出場、決勝トーナメント一回戦ユーゴ戦では試合終了間際に強烈なミドルシュートを叩き込み勝利に貢献している。
EURO2000にもフランク・ライカールト監督に率いられて全試合に出場しベスト4進出に貢献した。
しかし、ルイス・ファン・ハール監督に率いられた2002年W杯欧州予選ではチームの低迷(ファン・ニステルローイの離脱等)からその姿を日本、韓国に現す事は出来なかった。
2004年EURO2004 ポルトガル大会では、準決勝ポルトガル戦まで駒を進めた。その後、代表監督ディック・アドフォカートが退任し1990年代の伝説的選手でもあったマルコ・ファン・バステンが代表監督に就任。彼はエドガーを代表キャプテンに指名したが、インテルでの出場機会の激減により、代表の座から遠ざかっていった。また、2006年ワールドカップでは、代表候補まで選ばれたが、最後に落選して出場することはなかった。
[編集] 人物
国籍はオランダであるが、生まれは南米のスリナム共和国出身。代表のチームメイトでもあるクラレンス・セードルフやジミー・フロイド・ハッセルバインクも同国出身である。
2000年、左目に緑内障を発症し失明の危険もあったが、手術により克服し特殊防護ゴーグルを着用することとなった。そのゴーグルは彼のトレードマークとなっている。(以前はOAKLEY社のwater jacketを使用していた。このモデルは本来、サーフィン用である。)
FCアウクスブルクに、甥のロレンゾ・ダーヴィッツが所属している。
[編集] 所属クラブ
- →2004.1 - 5
FCバルセロナ (loan)
- 2004-2005
インテル・ミラノ - 2005-2007.1
トッテナム・ホットスパー - 2007.2-2008.6
アヤックス - 2010.8-2010.11
クリスタル・パレス
[編集] 背番号
- 11(1996 - 1997年)
- 26(1997 - 2004年)
- 3(2004年1月 - 5月)
- 5(2005年8月 - 2006年)
- 13(2007年 - 2008年)
- 20(2010年)
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