ラウル・ゴンサレス
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|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | ||||||
| 本名 | ラウル・ゴンサーレス・ブランコ Raúl González Blanco |
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| 愛称 | エル・ニーニョ(神の子) スペインの至宝 |
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| 基本情報 | ||||||
| 国籍 | ||||||
| 生年月日 | 1977年6月27日(35歳) | |||||
| 出身地 | マドリード | |||||
| 身長 | 178cm | |||||
| 体重 | 74kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| 在籍チーム | ||||||
| ポジション | FW / MF | |||||
| 背番号 | 7 | |||||
| 利き足 | 右[注 1] | |||||
| ユース | ||||||
| 1990-1992 1992-1994 |
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| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
| 1994 1994 1994-2010 2010-2012 2012- |
7 (13) 1 (0) 550 (228) 66 (28) 22 (9) |
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| 代表歴2 | ||||||
| 1994 1995 1995-1996 1996 1996-2006 |
2 (4) 5 (3) 9 (8) 4 (2) 102 (44) |
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| 1. 国内リーグ戦に限る。2011年9月24日現在。 2. 2006年9月6日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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ラウル・ゴンサーレス・ブランコ(Raúl González Blanco、1977年6月27日 - )は、スペインのサッカー選手。ポジションはFW、MF。
目次 |
概要 [編集]
レアル・マドリードの下部組織出身であり、同クラブの歴代最多出場、最多得点の記録保持者。またUEFAチャンピオンズリーグにおける通算得点記録保持者であり、欧州カップ戦における通算得点記録保持者でもある。その他スペイン代表でも102試合に出場して44得点を挙げ、当時の歴代最多得点記録も持っていた。2002 FIFAワールドカップ後から最後の代表招集まで主将を務めた。ドン・バロン・アワードでは、最多の5度最優秀スペイン人選手に選ばれており、2004年にはFIFA 100にも選ばれている。この賞に選ばれたスペイン人は、ラウルの他にはエミリオ・ブトラゲーニョ、ルイス・エンリケの2人のみである。その知名度の高さから、2016年オリンピックのマドリード招聘のためにコペンハーゲンにて最終プレゼンを任された[注 2]。また、FAOの大使としての活動も行なっている[1]。
レアル・マドリード、シャルケ04、スペイン代表とキャリアのほとんどで背番号7を背負ってきた。マンチェスター・ユナイテッドで背番号7を付けていたデビッド・ベッカムやクリスティアーノ・ロナウドも、レアル・マドリードではラウルが7を付けていることから別の番号を背負ってプレーした[注 3]。シャルケでは、背番号7はラウルの番号として永久欠番とされている[2]。
来歴 [編集]
生い立ち [編集]
スペインの首都マドリードに生まれる。父親ペドロはエンジニアで職場がアトレティコの本拠地の近所だったため、ラウルは幼少の頃から身近にサッカーがあったという。10歳でカランサスという学校のクラブチームに入る。ずば抜けたゴール感覚は当時から際立っていたという。当時アトレティコのユースを指揮していたフランシスコ・デ・パウラが入団を申し出に訪問。父親ペドロがアトレティコのファンであったことからも、すぐさま承諾し、アトレティコ下部組織の一員となる[3]が同クラブのユース経営終了に伴い放出される。
レアル・マドリード時代 [編集]
1992年にレアル・マドリードのユースに移籍。その2年後、当時監督をしていたホルヘ・バルダーノによってトップチームに昇格し、1994年10月のサラゴサ戦でクラブ最年少記録の17歳と4ヶ月でトップチーム・デビュー。しかし、その試合ではあまり活躍できず、さらにはチームも負けてしまい、ラウルとバルダーノは批判を浴びた。しかし翌週のアトレティコ・マドリード戦に先発出場したラウルは、初得点を含む全3得点に絡む活躍を見せる。その後、チームの中心人物であったエミリオ・ブトラゲーニョからポジションを奪った[4]。1995年にはスペイン代表としてワールドユース選手権に出場。5試合で3得点を挙げた。また、1996年に行われた自国開催のUEFA U-21欧州選手権にも出場、9試合で8得点を挙げる活躍をし、スペインの準優勝に貢献した。ラウルは各世代の代表ユースで、合計17得点を記録した。
1998-99シーズンと2000-01シーズンの2度、リーガ・エスパニョーラの得点王に輝き、UEFAチャンピオンズリーグでも1999-2000シーズンと2000-01シーズンに得点王になっている。2001年には、バロンドールにおいて2位、FIFA最優秀選手賞では3位にそれぞれ選ばれた。また、1999-00シーズンから2001-02シーズンまでの3年間、UEFA年間最優秀FW賞に選ばれた。
スペイン代表として臨んだUEFA欧州選手権2000の予選では、オーストリア代表との試合で4ゴールを挙げ、さらにその4日後に行われたサンマリノ代表戦でもハットトリックを記録した。また、フェルナンド・イエロの代表引退、アル・ラーヤンSC移籍後はそれぞれでキャプテンを引き継いだ。
しかし、2002-03シーズン、クラブの銀河系政策により、コンビを組むFWが最高の連携を見せていたフェルナンド・モリエンテスやグティからロナウドへシフトし、翌2003-04シーズンには、主力の守備的選手が移籍してチームバランスを失うという事態が生じ、運動量豊富なラウルは運動量のないロナウドのサポート的な役割が増大して組み立てや守備に走り回ることとなり、次第に自身の得点が減少していった。2003年11月には、マドリード市内に所在するレイ・フアン・カルロス大学 (Universidad Rey Juan Carlos) のスポーツ施設入り口にエスタディオ・ラウル・ゴンサレス・ブランコ (El Estadio Raúl González Blanco) が設立された[5]。
2005-06シーズン、UEFAチャンピオンズリーグのグループステージ第2節、オリンピアコス戦で通算50ゴールを記録し歴代1位になった。また、スペイン代表の最多得点記録もかつて持っており、スペイン代表の800得点目と900得点目を決めたのも彼である。2006年8月15日のアイスランドとの親善試合(0-0)で史上2人目の代表通算100試合出場を達成した。
レアル・マドリードでは国内リーグ制覇6回、UEFAチャンピオンズリーグ制覇3回、トヨタカップ勝利2回などのタイトルを獲得しているが、コパ・デル・レイは獲得していない。また、ナショナルチームでは当時のスペイン代表歴代最多得点を記録している一方、大一番で不発に終わることが多く、タイトルを獲得できていない。ここ数シーズンは所属するレアル・マドリードの不調と共にラウル自身の得点数が減っており、2004年の欧州選手権後はついに国内外から非難が集中し、2006年のワールドカップ後の2006年10月よりスペイン代表に招集されていない。それについてレアル・マドリードのチームメイトであるグティは現在ラウルが代表に招集されていない事をおかしいとし「スペインの恥」と発言している。この頃はメディアでラウルの放出についての報道が相次いだがチーム、ラウル本人ともこれを否定し残留している。この際ラウルは「チームに必要とされている限り、ここ(レアル・マドリード)を出るつもりはない。」と語っている。
2006-07シーズン前、当時調子を落としていたラウルをクラブ上層部がレンタル移籍させる事で話を進めていたが、ファビオ・カペッロ監督が反対し放出を免れた。カペッロは精神的な部分でクラブを支えるラウルの存在は絶対不可欠であると上層部を説得した、とカペッロ自ら語っている。そしてそれまで迷走中だったマドリーはシーズン終盤戦に立て直り4シーズンぶりに優勝を飾った。
2007-08シーズン、シーズンを通して本来のセカンドトップで起用されるようになるとかつてのような得点力を取り戻し、前シーズンを大きく上回る得点を記録、リーグ優勝の原動力となった。また、このシーズンより始まったトロフェオ・アルフレッド・ディ・ステファノの最初の受賞者となった[6]。 2009年2月15日のスポルティング・ヒホン戦で2ゴールをあげ公式戦通算ゴール数を309とし、クラブ歴代の最多得点記録を持つ伝説的選手のアルフレッド・ディ・ステファノの307をも超えた[7]。
2009年2月、2010-2011シーズン限りで現役引退あるいは欧州の舞台から退く可能性を示唆した。2009-10シーズン開幕前に再びフロレンティーノ・ペレスがレアル・マドリードの会長となり、大型補強を行った。その影響もあり出場機会が減少した。
2010年2月に行われたテネリフェとの試合に途中出場したラウルは、ロスタイムにファン・デル・ファールトのクロスからリーガ・エスパニョーラ通算227ゴール目となるゴールを決めた。これにより、ディ・ステファノと並びリーガ・エスパニョーラの得点記録歴代3位となり、テルモ・サラの持つ最多得点記録251まであと24と迫った。また同時に、フランシスコ・ブーヨのリーガ・エスパニョーラ542試合出場と並んで出場試合数においても歴代3位タイとなった[8]。デビューしたスタジアムでもあるラ・ロマレーダで行われたサラゴサ戦では、ラウルにとってレアル・マドリードでの最後の得点となる先制点を挙げた。7月、レアル・マドリードを退団。
シャルケ04時代 [編集]
レアル・マドリードを退団後、シャルケ04と2年契約を結んだ。シャルケでの初試合となった8月1日のバイエルン・ミュンヘンとの非公式親善試合で初得点を記録し、チームも勝利した。公式戦デビューは7日のDFLスーパーカップで、再びバイエルン・ミュンヘンとの試合であった。しかしその試合では得点を挙げることができず、チームも敗れた。21日のハンブルガーSV戦でブンデスリーガデビューを果たした。
10月20日、ハポエル・テルアビブ戦での2ゴールで自身の持つCL最多得点を68に更新した。2011年2月、UEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦1stレグバレンシアCF戦において、自身のCL最多得点を69に更新し、欧州カップ戦の合計でもフィリッポ・インザーギを抜いて単独最多の71得点とした。またこの試合でCL出場試合数も139となり、パオロ・マルディーニの最多記録に並んだ[9]。2012年2月19日のVfLヴォルフスブルク戦ではシャルケでの33得点目を記録し、レアル・マドリードでの323得点及びスペイン代表での44得点と合わせてキャリア通算400得点を達成した[10]。
2012年で契約満了となるラウルに対してシャルケは1年間の契約延長を提示したが、新たな2年契約を望んでいたとされる[11]ラウルとの間で交渉は決裂。ラウルが家族との時間を多く確保したいと希望したこともあり[12]、2011-12シーズン終了後に退団することが公式HPで発表された[13]。また、シャルケのスポーツディレクターを務めるホルスト・ヘルトは、2年しかプレーしていないにも関わらずラウルの背番号7を永久欠番とする意向を発表した[2]。
アル・サッド時代 [編集]
2012年5月13日、カタールリーグのアル・サッドが公式HP上で、ラウルが1年契約で加入することを発表した[14]。ラウルはクラブの副キャプテンを任され、8月5日のシェイク・ジャシムカップで公式戦初出場、PKから得点も挙げた[15]。
ラウルはリーグ9得点を挙げ、アル・サッドのリーグ優勝に貢献した。
プレースタイル [編集]
ゲルト・ミュラーやエミリオ・ブトラゲーニョのように、派手さはないが素早い思考やスペース活用の上手さ、ゴールへの嗅覚を活かしたプレーが持ち味。その他にも、滅多にしないがヘディングも得意であり、ループシュートなどのテクニカルなシュートやペナルティエリア外からのミドルシュート、ドリブルからの得点などあらゆる形で得点することができた。タックルやディフェンスもでき、様々なタイプのFWとコンビを組むことができた[16]。パスの受け手にも送り手にもなれる器用さを持ち、セカンドストライカーとしての他にもサイドハーフとしてもプレーできるほか[17]、1997-98シーズンなど攻撃的MFとしてプレーすることもあった。また、運動量も豊富であり、自宅に低酸素室を設置して心肺の強化に努めている。
エピソード [編集]
ゴールを決めた際に、結婚指輪にキスするパフォーマンスは有名[18]。ワールドサッカーダイジェストのインタビューにて、試合前審判に指輪を外すよう言われたことは何度もあるが、そのたび隠して持ち込んでいたと話している。他にはゴールを決めた際に背番号を指したりアシストした選手を指差して称えるパフォーマンスがある。
家族は、妻のマメン・サンスと息子4人と娘1人(三男と四男は双子)。長男の名前は彼をトップチームでデビューさせた当時の監督ホルヘ・バルダーノに、次男の名前はラウルのアイドルでレアル・マドリードのストライカーだったウーゴ・サンチェスにそれぞれ因んでいる。また、三男はレアル・マドリードに所属したエクトル・リアルに、四男はドイツの名手ローター・マテウスに因んで名付けている[19]。フェルナンド・モリエンテスとは大の親友であり、レアル・マドリードとスペイン代表で抜群に息の合った2トップを形成していた。2005-06シーズン、ラウルが負傷していた頃にモリエンテスが所属していたリヴァプールのホームスタジアムアンフィールドにも数回観戦に訪れている。また、2002年8月30日のUEFAスーパーカップのフェイエノールト戦では、ロナウドの加入問題によって試合に出場できなかったモリエンテスのユニフォームを自らのユニフォームの下に着こんで試合に臨んだ。ラウルはその試合でゴールを決めることは出来なかったものの、試合は3対1で勝利しクラブ史上初のスーパーカップ制覇を成し遂げた。
試合中にラウルに対してエキサイトする選手や演技を指摘する選手は滅多におらず、彼が倒れた場合や接触した場合はほとんどの選手が手を差し出すほど紳士的とされているプレーヤーである。また未だかつてシミュレーションを取られたことはない。2006-07シーズンのFCバルセロナ戦ではシュートを空振った際に足を痛め倒れかけた(その後の診断で靱帯の断裂と判明)ラウルに即座にエジミウソンが手を貸し、その後両チームの選手が駆け寄り心配している姿が放映された。ラウルは重傷にも関わらずゲームを再開させる為に担架を待たずにピッチの外へ片足で移動した。シャルケで同僚となった内田篤人は「献身的で守備もしてくれるがそれでいて点も取る。ああいう選手がいると後ろが楽」「ラウルはスターだが意見も聞いてくれる、そういう人間性が凄い」といった評価をしている[20][21]。内田がマインツ戦で怪我をして走れない時に、内田がドリブルしようとした所、内田のボールをかっさらい「お前は止まっておけ」と気遣いもした。一方ハビエル・ポルティージョの父親が「息子が放出されたのはラウルのせい」と発言したと報じられたり[22]、シシーニョはレアル・マドリード退団から3年後、「(レアル・マドリードの)ロッカールームの中はラウル・マドリード」「ロベルト・カルロスやロナウドがいなくなった後、ブラジル人の立場は悪くなり迫害された」と批判されたこともある[23]。
読書家であり、愛読書はアルトゥーロ・ペレス=レベルテ。また、狩りやスペイン音楽、闘牛も好む[24]。優勝時には、スペインの国旗をムレータに見立てて闘牛のパフォーマンスを行ったこともある。
最多得点 [編集]
2012年4月14日時点で下記の歴代最多得点記録を保持している。
- UEFAチャンピオンズリーグ最多得点(71得点)
- 欧州カップ戦最多得点(75得点)
- レアル・マドリード歴代最多得点(741試合に出場、323得点)
個人成績 [編集]
2012年5月9日の時点
下部クラブでの成績 [編集]
| シーズン | クラブ | カテゴリー | 出場 | 得点 |
|---|---|---|---|---|
| 19??-90 | サン・クリストバル・デ・ロス・アンヘレス C.D San Cristóbal de los Ángeles |
アレビン、インファンティル | ||
| 1990-91 | アトレティコ・マドリード | インファンティル | 65 | |
| 1991-92 | カデーテ | |||
| 1992-93 | レアル・マドリード | カデーテA | 26 | 59 |
| 1993-94 | フベニールB | 3 | 6 | |
| 1993-94 | フベニールA | 17 | 43 | |
| 1993-94 | Sub-19 | 8 | 6 | |
| 1994–95 | C | 9 | 16 | |
| 1994–95 | B セグンダ・ディビシオン |
1 | 0 |
トップリーグ成績 [編集]
| シーズン | クラブ | 番号 | 国内リーグ | 国内カップ | UEFA1 | その他2 | 通算 | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 試合数 | 得点数 | 試合数 | 得点数 | 試合数 | 得点数 | 試合数 | 得点数 | 試合数 | 得点数 | |||
| 1994-95 | レアル・マドリード | 28 | 9 | 2 | 1 | — | — | 30 | 10 | |||
| 1995-96 | 17 | 40 | 19 | 2 | 1 | 8 | 6 | 2 | 0 | 52 | 26 | |
| 1996–97 | 7 | 42 | 21 | 5 | 1 | — | — | 47 | 22 | |||
| 1997–98 | 35 | 10 | 1 | 0 | 11 | 2 | 2 | 3 | 49 | 15 | ||
| 1998–99 | 37 | 25 | 2 | 0 | 8 | 3 | 2 | 1 | 49 | 29 | ||
| 1999–00 | 34 | 17 | 4 | 0 | 15 | 10 | 4 | 2 | 57 | 29 | ||
| 2000–01 | 36 | 24 | 0 | 0 | 12 | 7 | 2 | 1 | 50 | 32 | ||
| 2001–02 | 35 | 14 | 6 | 6 | 12 | 6 | 2 | 3 | 55 | 29 | ||
| 2002–03 | 31 | 16 | 2 | 0 | 12 | 9 | 2 | 0 | 47 | 25 | ||
| 2003–04 | 35 | 11 | 7 | 6 | 9 | 2 | 2 | 1 | 53 | 20 | ||
| 2004–05 | 32 | 9 | 1 | 0 | 10 | 4 | — | 43 | 13 | |||
| 2005–06 | 26 | 5 | 0 | 0 | 6 | 2 | — | 32 | 7 | |||
| 2006–07 | 35 | 7 | 1 | 0 | 7 | 5 | — | 43 | 12 | |||
| 2007–08 | 37 | 18 | 1 | 0 | 8 | 5 | 2 | 0 | 48 | 23 | ||
| 2008–09 | 37 | 18 | 1 | 3 | 7 | 3 | 2 | 0 | 47 | 24 | ||
| 2009–10 | 30 | 5 | 2 | 0 | 7 | 2 | — | 39 | 7 | |||
| レアル・マドリード通算 | 550 | 228 | 37 | 18 | 132 | 66 | 22 | 11 | 741 | 323 | ||
| 2010-11 | シャルケ04 | 7 | 34 | 13 | 4 | 1 | 12 | 5 | 1 | 0 | 51 | 19 |
| 2011–12 | 32 | 15 | 3 | 2 | 11 | 4 | 1 | 0 | 47 | 21 | ||
| シャルケ04通算 | 66 | 28 | 7 | 3 | 23 | 9 | 2 | 0 | 98 | 40 | ||
| 2012-13 | アル・サッド | 7 | 22 | 9 | 6 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 28 | 11 |
| アル・サッド通算 | 22 | 9 | 6 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 28 | 11 | ||
| 通算 | 638 | 265 | 50 | 23 | 155 | 75 | 24 | 11 | 867 | 374 | ||
1UEFAチャンピオンズリーグ, UEFAヨーロッパリーグ.
2スーペルコパ・デ・エスパーニャ, UEFAスーパーカップ, インターコンチネンタルカップ、FIFAクラブワールドカップ.
代表 [編集]
- Sub-18 1993-94 2試合 4得点
- Sub-20 1994-95 5試合 3得点
- Sub-21 1994-95 9試合 8得点
- オリンピック 1995-96 4試合 2得点
102試合 / 44得点
- 1998年 1998 FIFAワールドカップ・フランス大会 - 1次リーグ敗退
- 2000年 EURO2000・白蘭大会 - ベスト8
- 2002年 2002 FIFAワールドカップ・日韓大会 - ベスト8
同大会終了後、フェルナンド・イエロの代表引退に伴い、キャプテンを引き継いだ。
2003年1月、イエロの持っていたスペイン代表の歴代得点記録を更新。
- 2004年 EURO2004・ポルトガル大会 - 1次リーグ敗退
- チームは決勝トーナメントに進めなかったが、ギリシャ代表戦でフェルナンド・モリエンテスのゴールをアシストした。
- 2006年 2006 FIFAワールドカップ・ドイツ大会 - ベスト16
代表でのゴール [編集]
| # | 日付 | 対戦場所 | 対戦チーム | スコア | 結果 | 大会 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1. | 1996年12月14日 | エスタディオ・デ・メスタージャ, バレンシア, スペイン | 2 - 0 | 2 – 0 | 1998年W杯予選 | |
| 2. | 1998年3月25日 | バライードス, ビーゴ, スペイン | 3 – 0 | 4 – 0 | 親善試合 | |
| 3. | 1998年6月13日 | ラ・ボージョワール, ナント, フランス | 2 - 1 | 2 – 3 | 1998年W杯 | |
| 4. | 1998年9月5日 | ツィリオン・スタジアム, リマソール, キプロス | 2 - 1 | 3 – 2 | EURO 2000予選 | |
| 5. | 1998年11月18日 | スタディオ・アレキ, サレルノ, イタリア | 2 – 2 | 2 – 2 | 親善試合 | |
| 6. | 1999年3月27日 | エスタディオ・デ・メスタージャ, バレンシア, スペイン | 1 - 0 | 9 – 0 | EURO 2000予選 | |
| 7. | 1999年3月27日 | エスタディオ・デ・メスタージャ, バレンシア, スペイン | 2 - 0 | 9 – 0 | EURO 2000予選 | |
| 8. | 1999年3月27日 | エスタディオ・デ・メスタージャ, バレンシア, スペイン | 6 - 0 | 9 – 0 | EURO 2000予選 | |
| 9. | 1999年3月27日 | エスタディオ・デ・メスタージャ, バレンシア, スペイン | 7 - 0 | 9 – 0 | EURO 2000予選 | |
| 10. | 1999年3月31日 | スタディオ・オリンピコ, セラヴァッレ, サンマリノ | 0 - 2 | 0 – 6 | EURO 2000予選 | |
| 11. | 1999年3月31日 | スタディオ・オリンピコ, セラヴァッレ, サンマリノ | 0 - 4 | 0 – 6 | EURO 2000予選 | |
| 12. | 1999年3月31日 | スタディオ・オリンピコ, セラヴァッレ, サンマリノ | 0 - 5 | 0 – 6 | EURO 2000予選 | |
| 13. | 1999年6月5日 | エル・マドリガル, ビジャレアル, スペイン | 5 - 0 | 9 – 0 | EURO 2000予選 | |
| 14. | 1999年9月4日 | エルンスト・ハッペル, ウィーン, オーストリア | 0 - 1 | 1 – 3 | EURO 2000予選 | |
| 15. | 1999年10月10日 | カルロス・ベルモンテ, アルバセテ, スペイン | 3 - 0 | 3 – 0 | EURO 2000予選 | |
| 16. | 2000年1月26日 | エスタディオ・カルタゴノバ, カルタヘナ, スペイン | 1 - 0 | 3 – 0 | 親善試合 | |
| 17. | 2000年6月18日 | アムステルダム・アレナ, アムステルダム, オランダ | 0 – 1 | 1 – 2 | EURO 2000 | |
| 18. | 2000年8月16日 | ニーダーザクセンシュタディオン, ハノーファー, ドイツ | 4 - 1 | 4 – 1 | 親善試合 | |
| 19. | 2001年3月24日 | エスタディオ・ホセ・リコ・ペレス, アリカンテ, スペイン | 4 - 0 | 5 – 0 | 2002年W杯予選 | |
| 20. | 2001年6月2日 | カルロス・タルティエレ, オビエド, スペイン | 3 – 1 | 4 – 1 | 2002年W杯予選 | |
| 21. | 2001年6月6日 | ラマト・ガン・スタジアム, テルアビブ, イスラエル | 1 - 1 | 1 – 1 | 2002年W杯予選 | |
| 22. | 2001年9月5日 | ラインパーク・シュタディオン, ファドゥーツ, リヒテンシュタイン | 0 - 1 | 0 - 2 | 2002年W杯予選 | |
| 23. | 2001年11月14日 | エスタディオ・ヌエボ・コロンビーノ, ウエルバ, スペイン | 1 - 0 | 1 – 1 | 親善試合 | |
| 24. | 2002年4月17日 | ウィンザー・パーク, ベルファスト, 北アイルランド | 0 – 1 | 0 – 5 | 親善試合 | |
| 25. | 2002年4月17日 | ウィンザー・パーク, ベルファスト, 北アイルランド | 0 – 3 | 0 – 5 | 親善試合 | |
| 26. | 2002年6月2日 | 光州ワールドカップ競技場, 光州広域市, 大韓民国 | 1 - 0 | 3 – 1 | 2002年W杯 | |
| 27. | 2002年6月12日 | 大田ワールドカップ競技場, 大田広域市, 大韓民国 | 0 - 1 | 2 – 3 | 2002年W杯 | |
| 28. | 2002年6月12日 | 大田ワールドカップ競技場, 大田広域市, 大韓民国 | 2 - 3 | 2 – 3 | 2002年W杯 | |
| 29. | 2002年9月7日 | アポストロス・ニコライディス・スタジアム, アテネ, ギリシャ | 0 - 1 | 0 - 2 | EURO 2004予選 | |
| 30. | 2003年2月12日 | イベロスター・エスタディ, パルマ・デ・マリョルカ, スペイン | 1 - 0 | 3 - 1 | 親善試合 | |
| 31. | 2003年2月12日 | イベロスター・エスタディ, パルマ・デ・マリョルカ, スペイン | 2 - 1 | 3 - 1 | 親善試合 | |
| 32. | 2003年3月29日 | オリンピスキ・スタジアム, キエフ, ウクライナ | 1 - 1 | 2 – 2 | EURO 2004予選 | |
| 33. | 2003年9月10日 | マヌエル・マルティネス・バレロ, エルチェ, スペイン | 1 - 0 | 2 – 1 | EURO 2004予選 | |
| 34. | 2003年9月10日 | マヌエル・マルティネス・バレロ, エルチェ, スペイン | 2 - 0 | 2 – 1 | EURO 2004予選 | |
| 35. | 2003年10月11日 | リパブリカン・スタジアム, エレバン, アルメニア | 0 - 2 | 0 – 4 | EURO 2004予選 | |
| 36. | 2003年11月15日 | エスタディオ・デ・メスタージャ, バレンシア, スペイン | 1 - 1 | 2 – 1 | EURO 2004予選 | |
| 37. | 2003年11月19日 | ウレヴォール・スタディオン, オスロ, ノルウェー | 0 - 1 | 0 – 3 | EURO 2004予選 | |
| 38. | 2004年3月31日 | エル・モリノン, ヒホン, スペイン | 2 - 0 | 2 – 0 | 親善試合 | |
| 39. | 2004年9月3日 | エスタディオ・デ・メスタージャ, バレンシア, スペイン | 1 - 1 | 1 – 1 | 親善試合 | |
| 40. | 2004年10月9日 | エル・サルディネーロ, サンタンデール, スペイン | 2 - 0 | 2 – 0 | 2006年W杯予選 | |
| 41. | 2005年2月9日 | フエゴス・メディテラネオス, アルメリア, スペイン | 3 - 0 | 5 – 0 | 2006年W杯予選 | |
| 42. | 2005年9月7日 | サンティアゴ・ベルナベウ, マドリード, スペイン | 1 - 0 | 1 – 1 | 2006年W杯予選 | |
| 43. | 2006年6月3日 | マヌエル・マルティネス・バレロ, エルチェ, スペイン | 1 - 0 | 2 – 0 | 親善試合 | |
| 44. | 2006年6月19日 | メルセデス・ベンツ・アレーナ, シュトゥットガルト, ドイツ | 1 - 1 | 3 – 1 | 2006年W杯 |
タイトル [編集]
クラブ [編集]
- リーガ・エスパニョーラ - 1994-95, 1996-97, 2000-01, 2002-03, 2006-07, 2007-08
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ - 1997-98, 2001-02, 2003-04, 2008-09
- UEFAチャンピオンズリーグ - 1997-98, 1999-00, 2001-02
- UEFAスーパーカップ - 2002-03
- トヨタ ヨーロッパ/サウスアメリカ カップ - 1998, 2002
- DFBポカール - 2010-11
- DFLスーパーカップ - 2011
- カタール・スターズリーグ - 2012-13
個人 [編集]
- 最優秀新人選手(リーガ・エスパニョーラ) - 1995
- 最優秀スペイン人選手 - 1997, 1999, 2000, 2001, 2002
- リーガ・エスパニョーラ得点王 - 1998-99, 2000-01
- UEFAチャンピオンズリーグ得点王 - 1999-00, 2000-01
- UEFA年間最優秀FW - 1999-00, 2000-01, 2001-02
- UEFAチャンピオンズリーグ最優秀FW - 2000-01, 2002-03
- インターコンチネンタルカップ マン・オブ・ザ・マッチ - 1998
- UEFA欧州選手権2000 チーム・オブ・ザ・トーナメント - 2000
- IFFHS 世界得点王 - 1999
- FIFA 100 - 2004
- トロフェオ・アルフレッド・ディ・ステファノ - 2007-08
- マルカ・レジェンダ - 2009
- ドイツ ゴール・オブ・ザ・イヤー - 2011
脚注 [編集]
注釈 [編集]
- ^ 重要な場面やセットプレーでも左足で蹴るが、ワールドサッカーダイジェスト2003年3月20日号にて「単に左足が得意なだけで右利き、右足でも左足レベルのキックが出来る」とフリオ・サリナスのface to faceでラウル自身が語っている。
- ^ 結局マドリードは最終2都市にまで残るもリオデジャネイロに敗れた。ちなみに、リオデジャネイロはペレをプレゼン役に抜擢していた。
- ^ クリスティアーノ・ロナウドは、ラウルが移籍した翌シーズンから背番号7に変更した。
出典 [編集]
- ^ Number Web (2012年6月10日). “国境を超えて愛される、スペインの“特別な存在”。 ~ラウールをめぐるエピソード~”. 2012年8月26日閲覧。
- ^ a b sofoot.com (2012年4月19日). “Schalke : le numéro 7 au Panthéon”. 2012年5月9日閲覧。
- ^ 金子義仁 『2005~2006ワールドサッカーすごいヤツ全集』フットワーク出版社〈フットワーク出版株式会社〉、2004年、190頁を参考。
- ^ スポーツナビ (2010年2月9日). “ラウルとともに失われつつあるクラブへの忠誠”. 2010年9月1日閲覧。
- ^ Raúl estrena estadio en el sur (スペイン語) エル・パイス 2003.11.25付記事
- ^ RealMadrid.com (2008年5月20日). “Raúl wins the Di Stéfano Trophy”. 2009年11月22日閲覧。
- ^ AFP BB News (2009年2月16日). “レアル・マドリード ラウールがクラブ記録を更新しヒホンに快勝”. 2009年7月14日閲覧。
- ^ Real Madrid C.F. (2009年2月28日). “ラウールがディ・ステファノのリーガ得点記録に並ぶ”. 2009年3月1日閲覧。
- ^ CLでラウルがヨーロッパ記録更新 Livedoorスポーツ 2011年2月16日
- ^ スポーツナビ (2012年3月14日). “シャルケのラウル、400ゴールの記念ボールとユニホームを独サッカー博物館に寄付”. 2012年4月19日閲覧。
- ^ goal.com (2012年4月3日). “「ラウールはまだ契約延長を決めていない」”. 2012年9月16日閲覧。
- ^ スポーツナビ (2012年4月20日). “シャルケ退団のラウール「家族との時間を大事にしたい」”. 2012年9月16日閲覧。
- ^ schalke04.de (2012年4月19日). “Raul verlässt den FC Schalke 04 am Saisonende”. 2012年4月19日閲覧。
- ^ ラウール、新天地はカタール-Goal.com日本語版2012年5月13日
- ^ goal.com (2012年8月5日). “Real Madrid legend Raul scores on Al Sadd debut”. 2012年8月26日閲覧。
- ^ フィル・ボール 『レアル・マドリー ディ・ステファノからベッカムまで』 野間けい子、ネコパブリッシング、2004年。ISBN 4-7770-5036-X。
- ^ Livedoorスポーツ (2011年4月26日). “【杉山茂樹コラム】バロンドールに見放された“ミスターチャンピオンズリーグ””. 2012年5月9日閲覧。
- ^ Livedoorスポーツ (2007年11月3日). “ラウルがゴールパフォーマンスを変えた理由とは?”. 2012年9月16日閲覧。
- ^ Das Vorzeigespielerpaar um Raúl González Blanco
- ^ シャルケ・内田、ラウル弾“アシスト”!
- ^ ラウールに助けられた内田「後ろの選手からすれば、すごく楽」
- ^ Livedoorスポーツ (2004年9月15日). “ポルティージョの父親、「息子の放出はラウールのせい」”. 2009年2月2日閲覧。
- ^ Cicinho diz que 'Raul' Madrid persegue estrangeiros
- ^ RealMadrid.com. “ラウル1992 - 2010”. 2012年10月6日閲覧。
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