ラウル・ゴンサレス
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|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | |||||||
| 本名 | Raúl González Blanco | ||||||
| 愛称 | エル・ニーニョ(神の子) スペインの至宝 |
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| カタカナ | ラウル・ゴンサーレス・ブランコ | ||||||
| 基本情報 | |||||||
| 国籍 | |||||||
| 生年月日 | 1977年6月27日(34歳) | ||||||
| 出身地 | マドリード | ||||||
| 身長 | 178cm | ||||||
| 体重 | 74kg | ||||||
| 選手情報 | |||||||
| 在籍チーム | |||||||
| ポジション | FW / MF | ||||||
| 背番号 | 7 | ||||||
| ユースクラブ1 | |||||||
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| クラブチーム1 | |||||||
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| 代表歴 2 | |||||||
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| 1. 国内リーグ戦に限る。2011年9月24日現在。 2. 2006年9月6日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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ラウル・ゴンサーレス・ブランコ(Raúl González Blanco、1977年6月27日 - )は、スペインのサッカー選手。ポジションはFW、MF。
レアル・マドリードの下部組織出身であり、同クラブの歴代最多出場、最多得点の記録保持者。またUEFAチャンピオンズリーグにおける通算得点記録保持者であり、欧州カップ戦における通算得点記録保持者でもある。その他スペイン代表でも102試合に出場して44得点を挙げ、当時の歴代最多得点記録も持っていた。2002 FIFAワールドカップ後から最後の代表招集まで主将を務めた。ドン・バロン・アワードでは、最多の5度最優秀スペイン人選手に選ばれており、2004年にはFIFA 100にも選ばれている。この賞に選ばれたスペイン人は、ラウールの他にはエミリオ・ブトラゲーニョ、ルイス・エンリケの2人のみである。
レアル・マドリード、シャルケ04、スペイン代表とキャリアのほとんどで背番号7を背負ってきた。マンチェスター・ユナイテッドで背番号7を付けていたデビッド・ベッカムやクリスティアーノ・ロナウドも、ラウールが7を付けていることから別の番号を背負ってプレーした[1]。
目次 |
[編集] 来歴
スペインの首都マドリードに生まれる。父親ペドロはエンジニアで職場がアトレティコの本拠地の近所だったため、ラウールは幼少の頃から身近にサッカーがあったという。10歳でカランサスという学校のクラブチームに入る。ずば抜けたゴール感覚は当時から際立っていたという。当時アトレティコのユースを指揮していたフランシスコ・デ・パウラが入団を申し出に訪問。父親ペドロがアトレティコのファンであったことからも、すぐさま承諾し、アトレティコ下部組織の一員となる[2]。
しかし、同クラブのユース経営終了に伴い放出され、1992年にレアル・マドリードのユースに移籍。その2年後、当時監督をしていたホルヘ・バルダーノによってトップチームに昇格し、1994年10月のサラゴサ戦でクラブ最年少記録の17歳と4ヶ月でトップチーム・デビュー。しかし、その試合ではあまり活躍できず、さらにはチームも負けてしまい、ラウールとバルダーノは批判を浴びた。しかし翌週のアトレティコ・マドリード戦に先発出場したラウールは、初得点を含む全3得点に絡む活躍を見せる。その後、チームの中心人物であったエミリオ・ブトラゲーニョからポジションを奪った[3]。1998-99シーズンと2000-01シーズンの2度、リーガ・エスパニョーラの得点王に輝き、UEFAチャンピオンズリーグでも1999-2000シーズンと2000-01シーズンに得点王になっている。2001年には、バロンドールにおいて2位、FIFA最優秀選手賞では3位にそれぞれ選ばれた。また、1999-00シーズンから2001-02シーズンまでの3年間、UEFA年間最優秀FW賞に選ばれた。
スペイン代表として臨んだUEFA欧州選手権2000の予選では、オーストリア代表との試合で4ゴールを挙げ、さらにその4日後に行われたサンマリノ代表戦でもハットトリックを記録した。また、フェルナンド・イエロの代表引退、アル・ラーヤンSC移籍後はそれぞれでキャプテンを引き継いだ。
しかし、2002-03シーズン、クラブの銀河系政策により、コンビを組むFWが最高の連携を見せていたフェルナンド・モリエンテスやグティからロナウドへシフトし、翌2003-04シーズンには、主力の守備的選手が移籍してチームバランスを失うという事態が生じ、運動量豊富なラウルは運動量のないロナウドのサポート的な役割が増大して組み立てや守備に走り回ることとなり、次第に自身の得点が減少していった。2003年11月には、マドリード市内に所在するレイ・フアン・カルロス大学 (Universidad Rey Juan Carlos) のスポーツ施設入り口にエスタディオ・ラウール・ゴンサレス・ブランコ (El Estadio Raúl González Blanco) が設立された[4]。
2005-06シーズン、UEFAチャンピオンズリーグのグループステージ第2節、オリンピアコス戦で通算50ゴールを記録し歴代1位になった。また、スペイン代表の最多得点記録もかつて持っており(ダビド・ビジャが更新)、スペイン代表の800得点目と900得点目を決めたのも彼である。2006年8月15日のアイスランドとの親善試合(0-0)で史上2人目の代表通算100試合出場を達成した。
レアル・マドリードでは国内リーグ制覇6回、UEFAチャンピオンズリーグ制覇3回、トヨタカップ勝利2回などのタイトルを獲得しているが、コパ・デル・レイは獲得していない。また、ナショナルチームでは(スペイン代表歴代最多得点を記録するなどしているが)大一番で不発に終わることが多く、タイトルを獲得できていない。ここ数シーズンは所属するレアル・マドリードの不調と共にラウル自身の得点数が減っており、2004年の欧州選手権後はついに国内外から非難が集中し、2006年のワールドカップ後の2006年10月よりスペイン代表に招集されていない。それについてレアル・マドリードのチームメイトであるグティは現在ラウルが代表に招集されていない事をおかしいとし「スペインの恥」と発言している。この頃はメディアでラウルの放出についての報道が相次いだがチーム、ラウール本人ともこれを否定し残留している。この際ラウールは「チームに必要とされている限り、ここ(レアル・マドリード)を出るつもりはない。」と語っている。
2006-07シーズン前、当時調子を落としていたラウールをクラブ上層部がレンタル移籍させる事で話を進めていたが、ファビオ・カペッロ監督が反対し放出を免れた。カペッロは精神的な部分でクラブを支えるラウルの存在は絶対不可欠であると上層部を説得した、とカペッロ自ら語っている。そしてそれまで迷走中だったマドリーはシーズン終盤戦に立て直り4シーズンぶりに優勝を飾った。
2007-08シーズン、シーズンを通して本来のセカンドトップで起用されるようになるとかつてのような得点力を取り戻し、前シーズンを大きく上回る得点を記録、リーグ優勝の原動力となった。また、このシーズンより始まったトロフェオ・アルフレッド・ディ・ステファノの最初の受賞者となった[5]。 2009年2月15日のスポルティング・ヒホン戦で2ゴールをあげ公式戦通算ゴール数を309とし、クラブ歴代の最多得点記録を持つ伝説的選手のアルフレッド・ディ・ステファノの307をも超えた[6]。
2009年2月、2010-2011シーズン限りで現役引退あるいは欧州の舞台から退く可能性を示唆した(後日グティも同時期にレアル・マドリードを去る考えを表明した)。2009-10シーズン開幕前に再びフロレンティーノ・ペレスがレアル・マドリードの会長となり、大型補強を行った。その影響もあり出場機会が減少した。
2010年2月に行われたテネリフェとの試合に途中出場したラウルは、ロスタイムにファン・デル・ファールトのクロスからリーガ・エスパニョーラ通算227ゴール目となるゴールを決めた。これにより、ディ・ステファノと並びリーガ・エスパニョーラの得点記録歴代3位となり、テルモ・サラの持つ最多得点記録251まであと24と迫った。また同時に、フランシスコ・ブーヨのリーガ・エスパニョーラ542試合出場と並んで出場試合数においても歴代3位タイとなった[7]。
2010年7月、10年以上在籍したレアル・マドリードを退団し、ドイツのシャルケ04と2年契約を結んだ。シャルケでの初試合となった8月1日のバイエルン・ミュンヘンとの非公式親善試合で初得点を記録し、チームも勝利した。公式戦デビューは7日のDFBスーパーカップで、再びバイエルン・ミュンヘンとの試合であった。しかしその試合では得点を挙げることができず、チームも敗れた。21日のハンブルガーSV戦でブンデスリーガデビューを果たした。
そして10月20日、ハポエル・テルアビブ戦での2ゴールで自身の持つCL最多得点を68に更新した。2011年2月、UEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦1stレグバレンシアCF戦において、自身のCL最多得点を69に更新し、欧州カップ戦の合計でもフィリッポ・インザーギを抜いて単独最多の71得点とした。またこの試合でCL出場試合数も139となり、パオロ・マルディーニの最多記録に並んだ[8]。
[編集] プレースタイル
ゲルト・ミュラーやエミリオ・ブトラゲーニョのように、派手さはないが素早い思考やスペース活用の上手さ、ゴールへの嗅覚を活かしたプレーが持ち味。その他にも、滅多にしないがヘディングも得意であり、ループシュートなどのテクニカルなシュートやペナルティエリア外からのミドルシュート、ドリブルからの得点などあらゆる形で得点することができた。タックルやディフェンスもでき、様々なタイプのFWとコンビを組むことができた[9]。また、運動量も豊富であり、自宅に低酸素室を設置して心肺の強化に努めている。ここ一番での勝負強さを持っており、開幕戦やビッグゲームなどではよく得点をする。特にUEFAチャンピオンズリーグに強く、3度決勝に進みその全てで優勝を勝ち取り、144試合出場で71ゴールを上げている(2010-2011シーズン終了時点、最多出場、最多得点記録を保持)。
ゴールを決めた際に、結婚指輪にキスするパフォーマンスは有名。ワールドサッカーダイジェストのインタビューにて、試合前審判に指輪を外すよう言われたことは何度もあるが、そのたび隠して持ち込んでいたと話している。他にはゴールを決めた際に背番号を指したりアシストした選手を指差して称えるパフォーマンスがある。
[編集] エピソード
家族は、妻のマメン・サンスと息子4人と娘1人(三男と四男は双子)。長男の名前は彼をトップチームでデビューさせた当時の監督ホルヘ・バルダーノに、次男の名前はラウールのアイドルでレアル・マドリードのストライカーだったウーゴ・サンチェスにそれぞれ因んでいる。また、三男はレアル・マドリードに所属したエクトル・リアルに、四男はドイツの名手ローター・マテウスに因んで名付けている。フェルナンド・モリエンテスとは大の親友であり、レアル・マドリードとスペイン代表で抜群に息の合った2トップを形成していた。2005-06シーズン、ラウールが負傷していた頃にモリエンテスが所属していたリヴァプールのホームスタジアムアンフィールドにも数回観戦に訪れている。また、2002年8月30日のUEFAスーパーカップのフェイエノールト戦では、ロナウドの加入問題によって試合に出場できなかったモリエンテスのユニフォームを自らのユニフォームの下に着こんで試合に臨んだ。ラウールはその試合でゴールを決めることは出来なかったものの、試合は3対1で勝利しクラブ史上初のスーパーカップ制覇を成し遂げた。
試合中にラウールに対してエキサイトする選手や演技を指摘する選手は滅多におらず、彼が倒れた場合や接触した場合はほとんどの選手が手を差し出すほど紳士的とされているプレーヤーである。また未だかつてシミュレーションを取られたことはない。2006-07シーズンのFCバルセロナ戦ではシュートを空振った際に足を痛め倒れかけた(その後の診断で靱帯の断裂と判明)ラウールに即座にエジミウソンが手を貸し、その後両チームの選手が駆け寄り心配している姿が放映された。ラウールは重傷にも関わらずゲームを再開させる為に担架を待たずにピッチの外へ片足で移動した。シャルケで同僚となった内田篤人は「献身的で守備もしてくれるがそれでいて点も取る。ああいう選手がいると後ろが楽。」「ラウールはスターだが意見も聞いてくれる、そういう人間性が凄い」といった評価をしている[10][11]。内田がマインツ戦で怪我をして走れない時に、内田がドリブルしようとした所、内田のボールをかっさらい「お前は止まっておけ」と気遣いもした。一方ハビエル・ポルティージョの父親が「息子が放出されたのはラウルのせい」と発言したと報じられたり[12]、シシーニョはレアル・マドリード退団から3年後、「(レアル・マドリードの)ロッカールームの中はラウール・マドリード」「ロベルト・カルロスやロナウドがいなくなった後、ブラジル人の立場は悪くなり迫害された」と批判されたこともある[13]。
- 愛読書はアルトゥーロ・ペレス=レベルテ。
- 2016年に開かれるオリンピックのマドリード招聘のためにコペンハーゲンにて最終プレゼンを行った[14]。
[編集] 最多得点
2011年4月14日時点で下記の歴代最多得点記録を保持している。
- UEFAチャンピオンズリーグ最多得点(71得点)
- 欧州カップ最多得点(73得点)
- レアル・マドリード歴代最多得点(741試合に出場、323得点)
[編集] 個人成績
2011年10月8日の時点
[編集] 下部クラブでの成績
| シーズン | クラブ | カテゴリー | 出場 | 得点 |
|---|---|---|---|---|
| 19??-90 | サン・クリストバル・デ・ロス・アンヘレス C.D San Cristóbal de los Ángeles |
アレビン、インファンティル | ||
| 1990-91 | アトレティコ・マドリー | インファンティル | 65 | |
| 1991-92 | カデーテ | |||
| 1992-93 | レアル・マドリード | カデーテA | 26 | 59 |
| 1993-94 | フベニールB | 3 | 6 | |
| 1993-94 | フベニールA | 17 | 43 | |
| 1993-94 | Sub-19 | 8 | 6 | |
| 1994–95 | C | 9 | 16 | |
| 1994–95 | B セグンダ・ディビシオン |
1 | 0 |
[編集] トップリーグ成績
| シーズン | クラブ | 番号 | 国内リーグ | 国内カップ | UEFA CL | その他1 | 通算 | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 試合数 | 得点数 | 試合数 | 得点数 | 試合数 | 得点数 | 試合数 | 得点数 | 試合数 | 得点数 | |||
| 1994-95 | レアル・マドリード | 28 | 9 | 2 | 1 | — | — | 30 | 10 | |||
| 1995-96 | 17 | 40 | 19 | 2 | 1 | 8 | 6 | 2 | 0 | 52 | 26 | |
| 1996–97 | 7 | 42 | 21 | 5 | 1 | — | — | 47 | 22 | |||
| 1997–98 | 35 | 10 | 1 | 0 | 11 | 2 | 2 | 3 | 49 | 15 | ||
| 1998–99 | 37 | 25 | 2 | 0 | 8 | 3 | 2 | 1 | 49 | 29 | ||
| 1999–2000 | 34 | 17 | 4 | 0 | 15 | 10 | 4 | 2 | 57 | 29 | ||
| 2000–01 | 36 | 24 | 0 | 0 | 12 | 7 | 2 | 1 | 50 | 32 | ||
| 2001–02 | 35 | 14 | 6 | 6 | 12 | 6 | 2 | 3 | 55 | 29 | ||
| 2002–03 | 31 | 16 | 2 | 0 | 12 | 9 | 2 | 0 | 47 | 25 | ||
| 2003–04 | 35 | 11 | 7 | 6 | 9 | 2 | 2 | 1 | 53 | 20 | ||
| 2004–05 | 32 | 9 | 1 | 0 | 10 | 4 | — | 43 | 13 | |||
| 2005–06 | 26 | 5 | 0 | 0 | 6 | 2 | — | 32 | 7 | |||
| 2006–07 | 35 | 7 | 1 | 0 | 7 | 5 | — | 43 | 12 | |||
| 2007–08 | 37 | 18 | 1 | 0 | 8 | 5 | 2 | 0 | 48 | 23 | ||
| 2008–09 | 37 | 18 | 1 | 3 | 7 | 3 | 2 | 0 | 47 | 24 | ||
| 2009–10 | 30 | 5 | 2 | 0 | 7 | 2 | — | 39 | 7 | |||
| レアル・マドリード通算 | 550 | 228 | 37 | 18 | 132 | 66 | 22 | 11 | 741 | 323 | ||
| 2010-11 | シャルケ04 | 7 | 34 | 13 | 4 | 1 | 12 | 5 | 1 | 0 | 51 | 19 |
| 2011–12 | 8 | 4 | 1 | 2 | - | - | 1 | 0 | 10 | 3 | ||
| シャルケ04通算 | 42 | 17 | 5 | 3 | 12 | 5 | 2 | 0 | 61 | 25 | ||
| 通算 | 592 | 245 | 42 | 21 | 144 | 71 | 24 | 11 | 802 | 348 | ||
1スーペルコパ・デ・エスパーニャ, UEFAスーパーカップ, インターコンチネンタルカップ、FIFAクラブワールドカップ.
[編集] 代表
- Sub-18 1993-94 2試合 4得点
- Sub-20 1994-95 5試合 3得点
- Sub-21 1994-95 9試合 8得点
- オリンピック 1995-96 4試合 2得点
102試合 / 44得点
- 1998年 1998 FIFAワールドカップ・フランス大会 - 1次リーグ敗退
- 2000年 EURO2000・白蘭大会 - ベスト8
- 2002年 2002 FIFAワールドカップ・日韓大会 - ベスト8
同大会終了後、フェルナンド・イエロの代表引退に伴い、キャプテンを引き継いだ。
2003年1月、イエロの持っていたスペイン代表の歴代得点記録を更新。
- 2004年 EURO2004・ポルトガル大会 - 1次リーグ敗退
- チームは決勝トーナメントに進めなかったが、ギリシャ代表戦でフェルナンド・モリエンテスのゴールをアシストした。
- 2006年 2006 FIFAワールドカップ・ドイツ大会 - ベスト16
[編集] タイトル
[編集] クラブ
- 1994-95 リーガ・エスパニョーラ 優勝
- 1996-97 リーガ・エスパニョーラ 優勝
- 1997-98 スペイン・スーパーカップ 優勝
- 1997-98 UEFAチャンピオンズリーグ 優勝
- 1998-99 インターコンチネンタルカップ 優勝
- 1999-2000 UEFAチャンピオンズリーグ 優勝
- 2000-01 リーガ・エスパニョーラ 優勝
- 2001-02 スペイン・スーパーカップ 優勝
- 2001-02 UEFAチャンピオンズリーグ 優勝
- 2002-03 インターコンチネンタルカップ 優勝
- 2002-03 リーガ・エスパニョーラ 優勝
- 2002-03 UEFAスーパーカップ 優勝
- 2003-04 スペイン・スーパーカップ 優勝
- 2006-07 リーガ・エスパニョーラ 優勝
- 2007-08 リーガ・エスパニョーラ 優勝
- 2008-09 スペイン・スーパーカップ 優勝
- 2010-11 DFBポカール 優勝
[編集] 個人
- 1994-95 最優秀新人選手
- 1996-97 リーガ・エスパニョーラ 最優秀スペイン人選手
- 1998-99 リーガ・エスパニョーラ 最優秀スペイン人選手・得点王(25得点)
- 1999-2000 リーガ・エスパニョーラ 最優秀スペイン人選手
- 1999-2000 UEFAチャンピオンズリーグ 得点王(10得点)
- 1999-2000 UEFA年間最優秀FW
- 2000-01 リーガ・エスパニョーラ 最優秀スペイン人選手・得点王(24得点)
- 2000-01 UEFAチャンピオンズリーグ 得点王・最優秀FW(7得点)
- 2000-01 UEFA年間最優秀FW
- 2001-02 リーガ・エスパニョーラ 最優秀スペイン人選手
- 2001-02 UEFA年間最優秀FW
- 2002-03 UEFAチャンピオンズリーグ 最優秀FW
- 2007-08 トロフェオ・アルフレッド・ディ・ステファノ
[編集] 脚注
- ^ クリスティアーノ・ロナウドは、ラウルが移籍した翌シーズンから背番号7に変更した。
- ^ 金子義仁 『2005~2006ワールドサッカーすごいヤツ全集』フットワーク出版社〈フットワーク出版株式会社〉、2004年、190頁を参考。
- ^ RealMadrid.com (2010年2月9日). “ラウルとともに失われつつあるクラブへの忠誠”. 2010年9月1日閲覧。
- ^ Raúl estrena estadio en el sur (スペイン語) エル・パイス 2003.11.25付記事
- ^ RealMadrid.com (2008年5月20日). “Raúl wins the Di Stéfano Trophy”. 2009年11月22日閲覧。
- ^ AFP BB News (2009年2月16日). “レアル・マドリード ラウールがクラブ記録を更新しヒホンに快勝”. 2009年7月14日閲覧。
- ^ Real Madrid C.F. (2009年2月28日). “ラウールがディ・ステファノのリーガ得点記録に並ぶ”. 2009年3月1日閲覧。
- ^ CLでラウルがヨーロッパ記録更新 Livedoorスポーツ 2011年2月16日
- ^ フィル・ボール 『レアル・マドリー ディ・ステファノからベッカムまで』 野間けい子、ネコパブリッシング、2004年。ISBN 4-7770-5036-X。
- ^ シャルケ・内田、ラウル弾“アシスト”!
- ^ ラウールに助けられた内田「後ろの選手からすれば、すごく楽」
- ^ ポルティージョの父親、「息子の放出はラウールのせい」
- ^ Cicinho diz que 'Raul' Madrid persegue estrangeiros
- ^ 結局マドリードは最終2都市にまで残るもリオデジャネイロに敗れた。ちなみに、リオデジャネイロはペレをプレゼン役に抜擢していた。
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1 フェールマン | 2 サーペイ | 3 エスクデロ | 4 ヘーヴェデス | 6 ホーグラント | 7 ラウル | 8 マリカ | 10 ホルトビー | 11 バウムヨハン | 12 ヘーガー | 13 ジョーンズ | 14 パパドプーロス | 16 モラヴェク | 17 ファルファン | 18 フラド | 20 プッキ | 21 メッツェルダー | 22 内田 | 23 フックス | 24 クルゲ | 25 フンテラール | 26 ヴィーゲル | 28 モリッツ | 30 ケニア | 31 ドラクスラー | 32 マティプ | 33 ショーバー | 34 ヒルデブラント | 36 ウンナーシュタル 監督: ステフェンス |
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