アグスティン・サウト・アラーナ

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バタ
名前
本名 アグスティン・サウト・アラーナ
愛称 バタ、アグスティン・サウトゥ、エル・ベルタ・ビルバイーノ、サン・マメスの恐怖、怒れるライオン[1]
カタカナ アグスティン・サウト・アラーナ
ラテン文字 Agustín Sauto Arana
基本情報
国籍 スペインの旗 スペイン
生年月日 1908年5月8日
出身地 ビスカヤ県バラカルド
没年月日 1986年8月21日(78歳)
選手情報
ポジション フォワード
ユース
不明 スペインの旗 サン・ビセンテ・バラカルド
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1925-1929 スペインの旗 バラカルド
1929-1936 スペインの旗 アスレティック・ビルバオ 118 (105)
1938-1942 スペインの旗 バラカルドCF 42 (18)
1942 スペインの旗 オサスナ 0 (0)
1942-1944 スペインの旗 バラカルド 13 (6)
代表歴2
1931 スペインの旗スペイン 1 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。2019年1月12日現在。
2. 2019年1月12日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

バタ(Bata)ことアグスティン・サウト・アラーナ(Agustín Sauto Arana、1908年5月11日 - 1986年8月21日)は、スペインビスカヤ県バラカルド出身のサッカー選手。ポジションはフォワード

ラフエンテ、イララゴーリ、チッリ2世、ゴロスティサなどと共にアスレティック・ビルバオの第一黄金期の攻撃陣を形成した。1931年2月8日にFCバルセロナを相手に決めた個人1試合7得点は、ラディスラオ・クバラと並ぶリーグ歴代最多記録タイである[2]

経歴[編集]

クラブ経歴[編集]

彼は子供の頃から「バタ」の名で呼ばれてきた。これは幼少時に、彼の母親が服を清潔に保つためにこしらえてくれた特製のローブ状の服(スペイン語でBata)を、頑固に着用し続けたことが理由と言われる[3]

1929年にユース時代から所属した故郷のバラカルドCFから、21歳の時に同じビスカヤ県の強豪で、リーガ・エスパニョーラプリメーラ・ディビシオン所属のアスレティック・ビルバオに移籍。1929-1930年シーズン開幕戦、本拠地サン・マメスでのレアル・マドリード戦でトップリーグにデビュー。試合は2-1で勝利した。バタが所属した時代にクラブは初優勝を含む4回のリーグ制覇と2回のカップ戦制覇を成し遂げた。そのうち2シーズンは2冠であった。

バタ個人は2回目の優勝をした1930-1931年シーズンに27ゴールで得点王を獲得。のちに創設されたピチーチ賞の系譜にも名を連ねた。同シーズンの第10節、1931年2月8日のホームでの対FCバルセロナ戦において、バタは7得点を決めチームは12-1で大勝した。これは後にバルサのクバラが1試合7得点を決めるまで、個人の1試合最多得点記録の単独トップであった[2][4]1935-1936年シーズンを最後にプリメーラの舞台から去り、古巣のバラカルドCFに移籍。だが以降スペイン内戦のためリーグ戦は3シーズン開催されなかった。

プリメーラでの通算成績は118試合108得点。リーグ再開以降は、バラカルドで毎シーズンのように首の皮1枚でセグンダ・ディビシオン残留を続ける苦しいキャリア晩年となった。現役引退をした1943-44年シーズンのセグンダ・ディビシオンで選手兼任監督をしながら11ゴールで得点王となった[5]。しかしチームは入れ替え戦出場の11位で終わり、昇降格プレーオフに勝って何とか残留した。

代表経歴[編集]

バタはスペイン代表に1930-1931年シーズン得点王となった直後に召集され、ビルバオで開催された4月19日のイタリア代表との試合に出場。試合は0-0の引き分けで、これがバタの唯一の国際Aマッチのキャップとなった。

タイトル[編集]

チームタイトル[編集]

アスレティック・ビルバオ

個人タイトル・記録[編集]

アスレティック・ビルバオ

脚注[編集]

外部リンク[編集]