プシュカーシュ・フェレンツ
| この項目では、ハンガリー語圏の慣習に従い、名前を姓名順で表記していますが、ヨーロッパ風にフェレンツ・プシュカーシュと表記することもあります。 |
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| 名前 | |||||||
| 愛称 | Öcsi [ˈøʧi]「エチ」(弟)、Higany [ˈhiɡɒɲ]「ヒガニュ」(水銀)、Sváb [ˈʃvɑ̈ːb]「シュヴァーブ」(シュワーベン人、ドイツ人)、Száguldó Őrnagy [ˈsɑ̈ːɡuldoːˌøːrnɒɟ]「サーグルドー・エールナジュ」(疾走少佐)、Pancho [ˈpɒnʧoː]「パンチョ」(ハンガリー語名のフェレンツにあたるスペイン語の愛称形)、Cañoncito Pum [kaɲõɴˈθiːtoˈpum]「ドッカーン大砲」、Boss [ˈbosː]「ボス、親分」 | ||||||
| ラテン文字 | Puskás Ferenc | ||||||
| ハンガリー語 | Puskás Ferenc | ||||||
| 基本情報 | |||||||
| 国籍 | |||||||
| 生年月日 | 1927年4月2日 | ||||||
| 出身地 | |||||||
| 没年月日 | 2006年11月17日(満79歳没) | ||||||
| 身長 | 172cm | ||||||
| 体重 | 75kg | ||||||
| 選手情報 | |||||||
| ポジション | FW | ||||||
| 利き足 | 左足 | ||||||
| クラブチーム1 | |||||||
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| 代表歴 | |||||||
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| 監督歴 | |||||||
| 1967 1967 1968 1968-1969 1970-1974 1975 1975-1976 1976-1977 1978-1979 1979-1982 1985-1986 1986-1989 1989-1992 1993 |
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| 獲得メダル | |||||||
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| 1. 国内リーグ戦に限る。現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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プシュカーシュ・フェレンツ(Puskás Ferenc [ˈpuʃkɑ̈ːʃˈfɛrɛnʦ]、1927年4月1日 - 2006年11月17日)は ハンガリー・ブダペスト出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード(インサイドレフト)。日本では英語表記からフェレンツ・プスカシュという表記も見られる。4月1日の生まれだが、その日はエイプリルフールなので、からかわれるのを避けるために4月2日に誕生日を祝っていた。 父も同姓同名のプシュカーシュ・フェレンツ(1903-1952)でキシュペシュト・サッカー・クラブの選手で、後にブダペシュティ・ホンヴェード(ブダペスト国防軍)のコーチとなった。母親はビーロー・マルギット(Bíró Margit [ˈbiːroːˈmɒrɡit]) (1904-1976) で縫製工場で働いていた。プシュカーシュ家はドイツ系少数民族の家庭で、父親も、息子も最初はフランツ・プルツェルト (Franz Purzeld [ˈfʀanʦˈpʊʀʦld̥]) であったが、一家は1937年に姓をプルツェルトからハンガリー風のプシュカーシュ(「銃兵」の意味)に改姓した。なお、ハンガリーのファンたちからは親しみを込めてプシュカーシュ・エチ(Puskás Öcsi [ˈpuʃkɑ̈ːʃˈøʧi]) と呼ばれていた。(エチはハンガリー語で「弟」の愛称形。)
目次 |
[編集] 人物
1950年前半から1954年にワールドカップ・スイス大会の決勝で敗れるまで4年間無敗を続け、「マジック・マジャール」と呼ばれたハンガリー代表の主将として活躍した。ハンガリーと1950年代のヨーロッパを代表する名選手である。
テクニカルかつパワフルな左足シュートで、第2次大戦後の混乱期にあるヨーロッパを席捲し、「疾走少佐」(Száguldó Őrnagy, Gallopping Major)と呼ばれた。またキックフェイントや足の裏を使った引き技からの技巧的なシュートも得意とした。ハンガリー代表などで共に戦ったチボル・ゾルターンからは「1度ボールをけっただけで2点を奪った」と評され、同じくグロシチ・ジュラは「単にワールドクラスではなく、夢の世界の選手だった」と語った[1]。
ハンガリー代表通算84試合出場83得点の記録を持つ。代表通算83得点はハンガリー歴代最多得点記録であると共に、21世紀に至るまで長い間世界記録であった(現在はイランのアリ・ダエイに抜かれたが、プシュカーシュは実質的に29歳までしか代表歴がないことを考慮すると、驚異的な数字と言える)。
ワールドサッカー誌選出の「20世紀の偉大なサッカー選手100人」7位に選出された。また、国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)には20世紀で最も偉大な選手の6位に選ばれた[2]。
[編集] 略歴
[編集] 生い立ち
ブダペストの労働者階級地区で生まれ、近郊のキシュペシュトで育った[3][4]。一家はドイツに起源を持ち、元々はプルツェルトという苗字だったが、1930年代にプシュカーシュに改めた[5]。父親のフェレンツ(息子と同名)はセミプロのサッカー選手であり、鉄道の整備工や屠殺場の簿記係として働く傍ら、ヴァシャシュやキシュペシュトFCでセンターハーフとしてプレーした[5]。引退後はキシュペシュトで指導者となり、やがてトップチーム監督も任されるようになった[6]。
一家はキシュペシュトのホームグラウンドの隣接地に建つアパートに住んでいた[7][5]。4歳でサッカーを始めた[8]プシュカーシュは、後にクラブおよbハンガリー代表でチームメイトとなる隣のアパートのボジク・ヨージェフとボールを蹴り合っていた[6][9]。1936年、9歳のときにボジクと揃ってキシュペシュトのジュニアチームに入団した[7][10](1938年、11歳とする情報源もある[6])。プシュカーシュはクラブの定める下限年齢に満たなかったため、12歳になるまでコヴァーチ・ミクローシュという偽名を使って年齢を詐称してプレーした[9][7]。
[編集] キシュペシュト/ホンヴェード
1943年12月に16歳でキシュペシュトのトップチームにデビューし[11]、3試合目のコロズヴァールとの試合で初ゴールを記録した[11]。
第二次世界大戦が終わると、ハンガリーでは1946年に本格的に国内リーグが再開された[12]。キシュペシュトはプシュカーシュの父親が監督に復帰し[12]、プシュカーシュもキャプテンを任されるようになっていた[7][12]。1946-47シーズンはウーイペシュトに次ぐ2位でシーズンを終えた。1947-48シーズンは50ゴールで初めての得点王に輝いた。その後は1949-50(31ゴール)、1950(25ゴール)、1953(27ゴール)シーズンにも得点王となった[13]。
1949年、共産党の一党独裁体制となったハンガリーで、キシュペシュトは陸軍のクラブとして再編され、ホンヴェード(「祖国の守護者」の意味)と改名された[14]。実態は殆どプロフェッショナルでありながら名目上はアマチュア化され、ホンヴェードの選手たちは軍人の身分となった[15]。
この時期にハンガリー代表の監督に就任したシェベシュ・グスターヴは、有力選手を一つのチームに集中させることが代表チームの強化に繋がると考え[7][16]、その強権を活かして国内最高のタレント、GKのグロシチ・ジュラ、FWのコチシュ・シャーンドル、ウィンガーのチボル・ゾルターンとブダイ・ラースローらを軍に徴発してホンヴェードの一員にした[16]。ホンヴェードは1949-50、1950、1952、1954、1955シーズンにリーグを制した。
プシュカーシュはキシュペシュトおよびホンヴェードでは通算354試合に出場して357ゴールを挙げた[17]。
[編集] ハンガリー代表
ハンガリー代表には、1945年8月20日のオーストリア戦でデビューを飾り、5-2で勝利したこの試合で代表初ゴールも記録した[12][18]。1946年、アウェーのルクセンブルク戦(7-2で勝利)で初のハットトリックを達成した[18]。1947年5月のイタリア遠征にて、チームは2-3でイタリアに敗れたものの、プシュカーシュはユヴェントスの代理人から接触を受け、10万ドルを提示された[14]。
1952年ヘルシンキオリンピックでは、準決勝でスウェーデンに6-0で圧勝した後、決勝でユーゴスラビアを2-0で退けて、ハンガリーは金メダルを獲得した。決勝でプシュカーシュはペナルティキックに失敗もしたが[19]、チボルとそれぞれ1ゴールを挙げた。この大会よりセンターフォワードが引き気味に位置取る(プシュカーシュを含む2人のインサイドフォワードがその前でプレーする)新システムがチームに導入された[20][21][22]。
1948年から1953年にかけて開催された中央ヨーロッパインターナショナルカップでプシュカーシュは10ゴールで得点王になり、チームは優勝した[23]。
1953年11月にロンドンのウェンブリー・スタジアムで開催されたイングランド戦で、ハンガリーは6-3の有名な勝利を収めた[24]。
イングランドにとって、これがウェンブリーで初めて海外チームに敗れた試合になった。プシュカーシュは24分と27分にゴールを挙げた。イングランドの申し出に応じてブダペストで再戦が行われたが、それにも7-1で勝利した。
[編集] 1954 FIFAワールドカップ
ポーランドが辞退したため、ハンガリーは予選を経ずに1954 FIFAワールドカップ本大会に出場した。彼らは優勝候補の大本命だった[25]。グループステージ第1試合で韓国に9-0(現在も破られていない大会最多得点差試合の1つ)、第2試合で控え選手主体の西ドイツに8-3と快勝したが、プシュカーシュは西ドイツ戦の後半にヴェルナー・リープリッヒによって右足を傷めつけられ[22][25]、その後の試合の欠場を余儀なくされた[26]。
ハンガリーはプシュカーシュを欠いていたにもかかわらず、準々決勝でブラジル、準決勝でウルグアイを降し、決勝戦で再び西ドイツの対戦した。試合前の予想ではハンガリーの勝利は間違いないと考えられていた[8][27]。
プシュカーシュの状態はまだ万全ではなく、出場が危ぶまれていたが[28]、準決勝ウルグアイ戦で良い働きを見せたブダイに代わって[28](伝えられるところによれば、ブダイを外すように自ら進言して[3])3試合ぶりに出場メンバーに名を連ねた。プシュカーシュは6分に味方のシュートのこぼれ球を蹴り込んで先制点を挙げた[28][29]。直後にチボルが加点したが、西ドイツも18分までに同点に追い付き、2-2のまま試合は終盤まで進んだ。プシュカーシュは足首の負傷のせいで動きが重く、好機をふいにする場面も見受けられた[28]。84分に西ドイツのヘルムート・ラーンが決勝点となる3点目を決めた。その2分後、トート・ミハーリからのスルーパスを受けたプシュカーシュのシュートが西ドイツのゴールを破ったが、これはウェールズ人線審マーヴィン・グリフィスとイングランド人主審ビル・リングによってオフサイドと判定された[3][28][29]。プシュカーシュはこの判定が誤りだったと考えており[3]、現在でも議論が続いている[28]。枠内シュートの数では西ドイツの8に対し、ハンガリーは25と圧倒していた[30]。1950年のオーストリア戦以来となったこの敗戦により、ハンガリーの連続無敗記録は31試合で終わった[30][25]。
試合後にプシュカーシュは西ドイツの選手たちが競技能力を向上させる禁止薬物を使用していたと訴えた[31][32]。ドイツサッカー連盟(DFB)は自国のチームとプシュカーシュの対戦を禁止した[32]。1960年にアイントラハト・フランクフルトとのチャンピオンズカップ決勝を前にして、プシュカーシュは対戦相手が試合放棄しないように、自らの過去の言動を陳謝する手紙をDFBに送った[31][32]。
ハンガリー国民の失望は大きく、帰国したチームは大きな批判を浴びた[33]。プシュカーシュにも色々な良からぬ噂が流布され[33]、アウェーの試合ではブーイングが飛んできた[33]。
ハンガリーは西ドイツに敗れた後はすぐに持ち直し、1956年にトルコに敗れるまで18試合無敗を続けた[31]。プシュカーシュは1956年10月14日にウィーンで行われたオーストリア戦がハンガリー代表としての最後の試合になった[18]。通算成績は85試合84ゴール[18]。
[編集] 亡命
ハンガリー動乱が1956年10月23日に勃発したとき、プシュカーシュはハンガリー代表の一員として練習場にいた[34]。
1956-57シーズン、ホンヴェードは初めて欧州チャンピオンズカップに参加していた。動乱は11月上旬にはひとまず落ち着いていたが、ホンヴェードの選手たちは11月23日にビルバオで行われたアスレティック・ビルバオとの第1試合(2-3でホンヴェードが敗れる)を終えてもまだハンガリーに帰ろうとせず、帰国を求める本国からの呼びかけを拒否してスペインで親善試合を続けた[35][34]。11月に行われたマドリード選抜チームとの試合(プシュカーシュによれば、フランシスコ・フランコの妻が開催した試合[36])はレアル・マドリードの会長サンティアゴ・ベルナベウも観戦していた[36]。ハンガリーの国内情勢への配慮から、第2試合はベルギーのブリュッセルをホンヴェードの“ホーム”として12月20日に開催された[34][35]。GKのファラゴが負傷してプレーできなかったため、故障を抱えた左ウイングのチボルが代役としてゴールマウスに立ったホンヴェードは、3-3でアスレティックと引き分け、この時点でトーナメントから敗退した[34][35][37]。
FIFAは1957年1月3日に全ての連盟にホンヴェードとの対戦を禁止する通達を発したが[35]、それからもブラジルのフラメンゴからの誘いに応じて南米に遠征した[34]。2月22日にヨーロッパへ戻り[35]、ホンヴェードの選手たちが仮の本拠としていたウィーンで、彼らはハンガリーサッカー協会の役員から、国に帰って制裁を受けるように告げられた[34]。プシュカーシュに科された制裁は18ヵ月間の出場停止処分だった[34]。プシュカーシュ、チボル、コチシュは自分たちに帰国の意志がないことを明らかにした[35]。ハンガリーサッカー協会はFIFAに彼らの処分を求め、その結果、プシュカーシュは向こう2年のあいだ世界のどのクラブでもプレーできなくなった[34][35]。後にこの処分は15ヵ月に短縮された[34]。プシュカーシュはイタリアのインテル・ミラノの練習に参加していたが、この処分によってインテル入りはなくなった[34]。
1958年7月の出場停止期間終了が近づいても、プシュカーシュはまだなおスイスのアマチュアクラブでトレーニングをしているような状況だったが[34]、かつてのホンヴェード財務部長にして当時はレアル・マドリードの技術部長に就いていた彼の旧友エミル・エステライヒャーが、プシュカーシュとの契約を結ぶように現在の上司を説得した[25][34]。マドリードと10万ドルの4年契約[34]を交わしたプシュカーシュは、6週間で18キロの減量に成功した[34]。
[編集] レアル・マドリード
プシュカーシュは1958-59シーズンよりレアル・マドリードに加入した。多くの人々は31歳で肥え太ったプシュカーシュとの契約には懐疑的だった[38]。当初こそブランクに苦労したが[36]、1959年1月のラス・パルマス戦ではアルフレド・ディ・ステファノと揃ってハットトリックを達成し、10-1で圧勝した[36]。プシュカーシュは既にチームに君臨していたディ・ステファノの引き立て役を演じることを厭わず[39][40]、2人のコンビネーションは抜群だった[10]。スペインでは彼に「小さなキャノン」というニックネームが付けられた[38]。
マドリードでの最初の監督だったアルゼンチン人のルイス・カルニグリアとは折り合いが悪く[40][39]、1959年のチャンピオンズカップでは準決勝での活躍にも関わらず、プシュカーシュは決勝スタッド・ランス戦の出場メンバーから外された[39]。カルニグリアは1959年夏にチームを去り、以降の監督とはより良い関係を築いた[39]。
加入2年目の1959-60シーズン、チームはリーグでバルセロナに次ぐ2位だったが、プシュカーシュは24試合に出場して試合数を上回る26ゴールを挙げ、スペインでは初めての得点王に輝いた[41]。ハムデン・パークで行われた同年のチャンピオンズカップ決勝アイントラハト・フランクフルト戦で、プシュカーシュは左足で2点、PKで1点、ヘディングで1点、計4ゴールを挙げた[39]。これは現在も最多得点記録として残っている。ディ・ステファノも3ゴールを挙げて7-3で勝利を収め、マドリードは大会5連覇を果たした[42]。この年からヨーロッパと南米のチャンピオンクラブが対戦するインターコンチネンタルカップも始まり、マドリードはウルグアイのペニャロールと対戦した。アウェーの1stレグを0-0で引き分けた後、サンティアゴ・ベルナベウでの2ndレグでプシュカーシュは、試合開始から8分間に2点を奪い、5-1で勝利した[43]。1960年のバロンドールはプシュカーシュが受賞の本命候補だったが、亡命者の彼は共産主義諸国の審査員たちから好まれなかったため、ルイス・スアレスが受賞した[44]。
1962年のチャンピオンズカップ決勝ベンフィカ戦で彼は前半にハットトリックを達成したが、その後逆転されて3-5で敗れた[45][39]。1964年の決勝ではインテルに1-3で敗れた。マドリードは1966年に再びチャンピオンズカップに優勝したが、この頃には既に若い選手を主体とするチーム(当時の若者風俗から「イエイエ」と呼ばれた)に変貌しており、プシュカーシュは登録されてはいたがたまに試合に出る程度になっていた[46]。それでも1回戦のフェイエノールト戦では、2試合で5ゴール(2ndレグに4ゴール)を挙げている[47]。
1967年6月30日[38]にプシュカーシュは引退した。その2年後にエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウで開催された彼のための記念試合には、8万人の観客が集まった[48]。レアル・マドリードでは528試合に出場して512ゴールを挙げ[17]、ピチーチ賞(リーグ得点王)を4度輝いた。1回のインターコンチネンタルカップ優勝、3回のチャンピオンズカップ優勝、5回の国内リーグ優勝、1回の国内カップ優勝といったタイトルをチームにもたらした[38]。
[編集] スペイン代表
プシュカーシュは1961年にスペイン国籍を取得し[38][42]、1961年11月12日の1962 FIFAワールドカップ予選ヨーロッパ=アフリカ間プレーオフのスペイン対モロッコ戦でスペイン代表にデビューした[49][50]。翌年にはチリで開催されたFIFAワールドカップ本大会の3試合すべてに出場した。スペインはグループ最下位でワールドカップを終えた。
[編集] 監督として
選手引退後、彼はマドリードにレストラン(バル[51])を開いたが[52]繁盛せず、すぐに店を閉め[51][52]、以後は指導者としての道を歩むようになる。1970年代前半にはギリシャのパナシナイコスで監督を務め、1971年チャンピオンズカップ準優勝に導いた[52]。ウェンブリーで行われた決勝では、ヨハン・クライフ擁するアヤックスに1-2で敗れた[52]。ギリシャ国内リーグでは1970-71と1971-72シーズンを連覇した。1978年には別のギリシャのビッグクラブAEKアテネの監督として、1978-79シーズンのリーグ優勝に導いた。
監督としてのプシュカーシュはスペイン、ギリシャ、ルーマニア、エジプト、パラグアイ、チリ、カナダ、アメリカ合衆国のクラブ、そしてサウジアラビアのナショナルチームを指揮した。
[編集] 晩年および没後
1981年、ハンガリー代表の黄金時代の終焉から四半世紀を記念した祝典に招かれたプシュカーシュは、25年ぶりにハンガリーへの帰国を果たし[52]、大勢の人々から歓迎された[52]。その後はしばしばハンガリーに帰るようになり、1992年にブダペストへの定住を決意した[52]。1993年に4試合だけハンガリー代表を指揮した後、彼はハンガリーサッカー協会から名誉職的な地位を与えられた[52]。
ブダペストで開かれたプシュカーシュの70歳を祝う誕生祭には、IOC会長フアン・アントニオ・サマランチ、UEFA会長レナート・ヨハンソン、ディ・ステファノやヘントといったレアル・マドリードでの同僚たち、さらにプシュカーシュによる西ドイツのドーピング指摘以来、険悪な関係にあった当時の西ドイツの主将フリッツ・ヴァルターも訪れ、互いに打ち解けた[44]。
2000年、ホンヴェードはプシュカーシュが背負った背番号10を永久欠番とした[53]。国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)によってプシュカーシュは「20世紀の得点王」に選定された[53][38]。2003年にプシュカーシュはハンガリーサッカー協会によって同国の過去50年間最優秀選手(ゴールデンプレイヤー)に選ばれた[10][54]。2002年、ハンガリー代表のホームスタジアムでもある国立のネープシュタディオンが、彼の功績を称えてプシュカーシュ・フェレンツ・シュタディオンに改名された。
晩年はアルツハイマー病を患い、6年間病院で過ごした[42]。晩年は経済的に困窮し[55][53]、家族は彼の治療費を捻出するためにワールドカップ準優勝メダルやゴールデンブーツを含む100以上の品々を競売にかけたりした[56][53][57]。2005年10月、FIFA会長ゼップ・ブラッターは、プシュカーシュと彼の妻への財政援助を発表した[57]。
2006年11月17日、肺炎のためブダペストで死去した[10][58] [59]。79歳であった。その後、遺体は聖イシュトバーン大聖堂に安置された[60]。
2009年、FIFAは一年間に世界で生まれた最も美しいゴールに与えられる新たな賞の名前をFIFAプスカシュ賞と名付けた[61][62]。
[編集] エピソード
- レアル・マドリードの会長サンティアゴ・ベルナベウは、プシュカーシュを誘う際にサッカーの試合ではなく闘牛に招待した[63]。
[編集] 語録
- 「自分の左足はあまりに出来がいいから、その左足がしたいことを断るわけにはいかない」 ―右足には一切ボールが触れない試合もあるほど利き足である左足を多用することに対して[63]
- 「ボールは人より速いものなのだから、目的もなく狂ったように走るのは意味がない」
[編集] 獲得タイトル
[編集] チームタイトル
ブダペスト・ホンヴェードFC
- ハンガリーリーグ: 1949-50, 1950, 1952, 1954, 1955
レアル・マドリード
- リーガ・エスパニョーラ: 1958, 1961, 1962, 1963, 1964
- コパ・デル・ヘネラリシモ: 1962
- UEFAチャンピオンズカップ: 1958-59, 1959-60, 1965-66
- インターコンチネンタルカップ: 1960
ハンガリー代表
- オリンピック: 1952
- 中央ヨーロッパインターナショナルカップ: 1953
- FIFAワールドカップ準優勝: 1954
[編集] 個人タイトル
キシュペストAC/ブダペスト・ホンヴェードFC
- ハンガリーリーグ得点王 1947-48, 1949-50, 1950, 1953
レアル・マドリード
- ピチーチ賞(スペインリーグ得点王) 1959-60, 1960-61, 1962-63, 1963-64
- FIFA 100
- ワールドサッカー選定20世紀の偉大なサッカー選手100人 7位
- IFFHS選定20世紀最優秀選手 6位
- ゴールデンフット賞 (all time legend)
[編集] 監督としてのタイトル
パナシナイコス
- ギリシャリーグ: 1970–71, 1971–72
- チャンピオンズカップ
- 準優勝: 1970-71
AEKアテネ
- ギリシャリーグ: 1978–79
ソル・デ・アメリカ
- パラグアイリーグ: 1986
サウス・メルボルン・ヘラス
- ナショナルサッカーリーグ: 1990-91
- NSLカップ: 1989–90
- ドカーティ・カップ: 1989, 1991
[編集] 出典
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- ^ a b c d e f g h ウィリアムズ 2007 55頁
- ^ a b c d ウィリアムズ 2007 47頁
- ^ Márton Dinnyés (2011年1月26日). “Puskás the goalscoring major” (英語). UEFA. 2011年7月8日閲覧。
- ^ ティベール 2007 90-91頁
- ^ Duncan Mackay (2005年10月13日). “Lineker tees up another nice little earner” (英語). The Guardian. 2011年7月8日閲覧。
- ^ a b “FIFA to help the Galloping Major” (英語). FIFA (2005年10月11日). 2011年7月8日閲覧。
- ^ “Ferenc Puskas dies aged 79” (英語). The Guardian (2006年11月17日). 2011年7月8日閲覧。
- ^ “往年の名選手 プシュカーシュ氏が死去 - ハンガリー”. AFP BB News (2006年11月17日). 2009年10月18日閲覧。
- ^ “プシュカーシュ氏の遺体が聖イシュトヴァン聖堂に安置される”. AFP BB News (2006年12月7日). 2009年10月18日閲覧。
- ^ “Blatter unveils FIFA Puskas Award” (英語). FIFA (2009年10月21日). 2011年7月8日閲覧。
- ^ “FIFA introduces new FIFA Puskás Award to honour the "goal of the year"” (英語). FIFA (2009年10月20日). 2011年7月8日閲覧。
- ^ a b ハンス・ブリッケンスデルファー 『カルチョ・ワールド』 大栄出版、1994年。ISBN 4-88682-576-1。
[編集] 参考文献
- リチャード・ウィリアムズ著、町田敦夫訳 『背番号10のファンタジスタ』 ベースボール・マガジン社、2007年。ISBN 978-4583100104。
- ジャック・ティベール著、中村一夫訳 『欧州チャンピオンズリーグ・クロニクル ワールドサッカーマガジン別冊初夏号』 ベースボール・マガジン社、2003年。
- ジャック・ティベール著、中村一夫訳 「フェレンツ・プスカシュ」『B.B.MOOK (472) スポーツシリーズ No.347 ワールドサッカーの神々』 ベースボール・マガジン社、2007年。ISBN 978-4583614601。
- アンドレ・リベイロ、ヴラジール・レモス著、市之瀬敦訳 『背番号10 サッカーに「魔法」をかけた名選手たち』 白水社、2008年。ISBN 978-4560026403。
- フィル・ボール著、野間けい子訳 『レアル・マドリー ディ・ステファノからベッカムまで』 ネコパブリッシング、2004年。ISBN 978-4777050369。
- フィル・ボール著、近藤隆文訳 「マジック・マジャール「世界を震撼させたハンガリー人」」『Sports Graphic Number PLUS 欧州蹴球記―辺境から来た偉人たち。』 文藝春秋、2005年。ISBN 978-4160081406。
- 北條聡著 『B.B.MOOK92 スポーツ伝説シリーズ…6 サッカー世界遺産』 ベースボール・マガジン社、1999年。ISBN 9784583610504。
- ブライアン・グランヴィル著、賀川浩監修、田村修一・土屋晃・田邊雅之訳 『決定版ワールドカップ全史』 草思社、1998年。ISBN 978-4794208187。
- ブライアン・グランヴィル著、Katsumi honda訳 「フェレンツ・プスカシュ/驚異の左足を持つ怪物」『スポーツ20世紀(1) サッカー 英雄たちの世紀』 ベースボール・マガジン社、2000年。ISBN 978-4583610849。
[編集] 外部リンク
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