フアン・ゴメス・ゴンサレス

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フアニート Football pictogram.svg
名前
本名 フアン・ゴメス・ゴンサレス
愛称 フアニート、マタドール[1]、オンラード[2]
ラテン文字 Juanito
基本情報
国籍 スペインの旗 スペイン
生年月日 1954年11月10日
出身地 フエンヒローラ, マラガ県
没年月日 1992年4月2日(満37歳没)
身長 169cm
選手情報
ポジション FW
代表歴
1976-1982 スペインの旗 スペイン 34 (8)
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

フアニートことフアン・ゴメス・ゴンサレスJuan Gómez González "Juanito"1954年11月10日 - 1992年4月2日)は、スペインの元同国代表サッカー選手。ポジションはFW

現役時代はレアル・マドリードで10年間プレー。背番号7を背負い、284試合に出場して84得点を挙げた。スペイン代表では6年間で34キャップを数え、1978 FIFAワールドカップ1982 FIFAワールドカップにも出場した。

レアル・マドリードのサンティアゴ・ベルナベウでの試合では、フアニートの背番号7から7分に「イジャ・イジャ・イジャ! フアニート・マラビージャ!(¡ Illa, illa, illa, Juanito maravilla!)」というコールが行われる[1]

略歴[編集]

5人兄弟の長男として産まれたフアニートはUDフエンヒローラのユースで育ち、年齢を詐称してフベニール(15〜18歳)のチームでプレー。13歳でアトレティコ・マドリードユースに加入し、15歳の誕生日の日にフベニールデビューした。その後もクラブ、代表のユースで活躍したが、アトレティコ・マドリードBチームの監督が変わったことにより戦力外となる。クラブはカルボ・ソテロへのレンタル移籍を提案したが、それに不満を持ったフアニートはフエンヒローラの実家へと帰ってしまった。その出来事がきっかけとなり、トップチームの監督であるマックス・メルケルによってプロ契約を行った[1]

しかし、プロ初シーズンとなる1972-73シーズンのSLベンフィカ戦で脛骨腓骨を骨折。完治後はメルケルに変わって指揮を執っていたフアン・カルロス・ロレンソとは衝突を繰り返し、ブルゴスCFへとレンタル移籍された。移籍後初シーズンではピッチ内外で荒れたが、翌年に完全移籍した後はセグンダ・ディビシオン優勝に貢献する活躍を見せ、1976年にはモントリオールオリンピックでもプレー。1976-77シーズンにはドン・バロン・アワードの最優秀スペイン人選手に選ばれた。その活躍によって古巣であるアトレティコ・マドリードをはじめ、同じくマドリードに本拠地を置くレアル・マドリードFCバルセロナのスペイン3大クラブと呼ばれる3クラブが獲得に乗り出した。1976年11月、契約金2700万ペセタでレアル・マドリードに移籍[1]

5月27日アトラス・グアダラハラ戦でデビュー。2日後のUNAMプーマス戦では初ゴールも挙げた。レアル・マドリードでは5度のプリメーラ・ディビシオンや2度のコパ・デル・レイ、2度のUEFAカップなどを獲得。1983-84シーズンには17得点を記録してホルヘ・ダ・シルバと共にピチーチ賞に輝いた。1986-87シーズンのUEFAカップ準決勝では、ジュゼッペ・メアッツァでの1stレグインテル戦での敗戦後、「ベルナベウでの90分はとても長い」とイタリア語で発言してチームを鼓舞。その後、2ndレグで逆転し、決勝に進出した[2]

一方、1978-79シーズンのチャンピオンズカップグラスホッパー・クラブ・チューリッヒ戦では、敗退決定後に主審に襲いかかり、2年間の国際大会出場禁止が言い渡された。また、1986-87シーズンのUEFAカップ準決勝バイエルン・ミュンヘン戦でローター・マテウスの背中を踏むなどの行為を行い、5年間の国際大会出場禁止が言い渡された。これがきっかけの一つとなり、10年間所属したレアル・マドリードを退団することとなった[2]1987年CDマラガへと移籍し、1990年レアル・ハエンでキャリアを終えた。

引退後、1991-1992シーズン途中までメリダUDの指揮を執った。1992年4月2日マルティン・バスケスのレアル・マドリード凱旋試合となるUEFAカップ準決勝トリノ戦観戦後、愛車プジョー・405で帰宅途中にトラックと事故を起こし死去。

選手経歴[編集]

獲得タイトル[編集]

チームタイトル[編集]

個人タイトル[編集]

脚注[編集]

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外部リンク[編集]