ハンガリー動乱

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ソ連軍侵攻の中ラジオで演説するナジ・イムレ首相
ソ連軍侵攻の中ラジオで演説するナジ・イムレ首相
共産主義
共産主義のシンボル“鎚と鎌”

共産主義思想
マルクス主義 · レーニン主義
スターリン主義 · トロツキー主義
毛沢東思想 · ユーロコミュニズム


国際組織
コミンテルン · コミンフォルム
第四インターナショナル


主な社会主義国
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ユーゴスラビア


人物
マルクス · エンゲルス
レーニン · トロツキー
スターリン · 毛沢東


出来事
ロシア革命 · 大粛清
スターリン批判 · ハンガリー動乱
中ソ対立 · 文化大革命
プラハの春 · 天安門事件
東欧革命 · ソ連崩壊


  

ハンガリー動乱(ハンガリーどうらん)[1] とは1956年ハンガリーで起きたソビエト連邦の権威と支配に対する民衆による全国規模の蜂起をさす。 蜂起は直ちにソビエト軍により鎮圧されたが、その過程で数千人の市民が殺害され、25万人近くの人々が難民となり国外へ逃亡した。今日のハンガリーでは1956年革命("1956-os forradalom")と呼称されている

目次

[編集] 概要

1956年10月23日、ハンガリーの人々は政府に対して蜂起した。彼らは多くの政府関係施設や区域を占拠し、自分たちで決めた政策や方針を実施しはじめた。ソビエト軍は1956年10月23日と停戦をはさんだ1956年11月1日の2回、このような反乱に対して介入した。1957年の1月にはソビエト連邦は新たなハンガリー政府を任命し、ハンガリー人による改革を止めようとした。

[編集] 蜂起に至る経緯

ハンガリーは、戦後ヨシフ・スターリンに忠実だったラーコシ・マーチャーシュが全権を握っていたが、経済政策の失敗から生活水準は低いままに置かれていた。労働者の不満は、工場の自主管理労働組合の結成の自由の要求という形となり、それはサッカー場での暴動という形で現れていた。また、農民たちも政府の強制的な集団化から悲惨な状況にあり、農地の私有と耕作の自由を要求していた。ジャーナリストや文筆家からも労働環境の改善や言論の自由が要求され、学生も大学の狭き門と学ぶ環境を改善しようとして当局から独立した学生の組織を設立していた。国民全体から不平不満が巻き起こる中、独裁政党であったハンガリー勤労者党内でもラーコシらスターリン主義者を批判する改革派が台頭。そこへソヴィエト共産党内部で行われたニキータ・フルシチョフのスターリン批判演説が、幹部たちに大きな議論を呼び起こした。

1956年7月18日、ソ連の圧力によりラーコシは党書記長の辞任に追い込まれた。しかしその後任には、スターリン主義者のゲレー・エルネーが選出された。これに反発した市民は、集会禁止令にもかかわらず、ブダペストで大規模なデモを行なった。ソ連指導部は急遽、党幹部会アナスタス・ミコヤンミハイル・スースロフの派遣を決定したが、事態を収拾する間もなく、蜂起が勃発する事態に至った。

ミコヤンとスースロフがハンガリーに出かけている間に、ソ連指導部はハンガリーに対する出兵を決定する。ハンガリーから戻って真相を知ったミコヤンは、フルシチョフの自宅に押しかけて、自らの自殺をほのめかして派兵の撤回を求めたが、フルシチョフはこれを拒否した。[2]

[編集] 経緯

[編集] 10月23日から11月3日

1956年10月23日の一斉蜂起
1956年10月23日の一斉蜂起

1956年10月23日、ゲレーの退陣を求めて学生たちがブダペストをデモ行進し、多数の労働者もそれに加わった。夜になりデモ隊と秘密警察との間で衝突が始まると、ハンガリー勤労者党指導部は急遽、大衆に人気のあった前首相ナジ・イムレを復職させる決定をした。

翌24日、ナジは正式に首相に任命されたが、その頃ブダペストの町はすでに民衆とソビエト軍の戦闘状態にあった。他の地域はソビエト軍と革命派との間の停戦が行われたりソビエト軍が革命の動きを阻止した管区もあるなど、平穏な状態が保たれていた。その後ブダペストのソビエト軍も結局は戦闘を停止した。

夜のうちに労働者評議会[3]と国民評議会[4]が組織された。また1945年や1949年の弾圧以来、始めて政治的な要求を行う政党が結成されたが、大多数の民衆は社会主義を維持しようとする政党を支持した[5]。このような中で教会の名士たちを含む多くの政治囚たちが釈放された。また大衆はワルシャワ条約機構からの脱退をナジ政府に迫ったが、このことは再びソビエト連邦の介入を招くこととなった。

10月25日、ナジは戒厳令を取り下げる。街の人々の中には、ソビエト軍の戦車に近付き、兵士と話し合う者もいた。説得に応じたソビエト兵らは、ハンガリー人を戦車に載せ、国会前広場へと移動し約700人集まった。しかし、突然発砲が始まった。国会前広場は血の海と化し約100人が死亡、約300人が負傷した。この事件については秘密警察の発砲が原因であるとの見解もある。

最も激しい戦闘はコルビン劇場のあるコルビン広場で起こった。民衆は火炎瓶を用いてソビエト軍部隊に抵抗した。ミシュコルツでは労働者によるストが起きブダペストでナジ首相と直談判をおこなっている。

10月27日夜には、ミコヤンの報告によると、彼とナジとの会談が行われ、その結果ソビエト軍の撤退が宣言された。

10月29日には警察、軍隊、市民による国民防衛隊が結成。翌10月30日にはミコヤンが、ハンガリー軍に統制を任せるべきと報告している。これを受けて、ソビエト軍撤退が開始された。しかし同日午前9時頃共産党ブダペスト地区本部で秘密警察隊員と民衆との間で衝突が始まり、建物から出る武器を持たない秘密警察隊員らが次々と民衆により射殺。その後も命乞いをしながら出てくる秘密警察隊員や勤労者党書記らがリンチされた挙句、遺体が街路樹に晒し者にされる事態に。この事件を聞いたミコヤンは10月31日に反ソビエト活動の活発化を報告している。

フルシチョフはチトー大統領との会談で軍事介入の可能性に言及し、ナジは中立を宣言したが、国連や西側諸国からの具体的支援はなかった。

[編集] 11月4日以降

侵攻するソ連軍戦車
侵攻するソ連軍戦車

11月4日に新たなソビエト軍部隊(戦車2500両・15万人の歩兵部隊)が侵攻した[6]。11月10日に労働者評議会や学生・知識人たちが休戦を呼びかけるまで、ハンガリーの労働者階級はソビエト軍との戦闘で重要な役割を演じた。11月10日から12月19日の間、労働者評議会はソビエトの占領軍と直接交渉し、結果として何人かの政治犯の釈放はできたが、ソビエト軍を撤退させることはできなかった。加えて、ソビエト連邦に支援されたカーダール・ヤーノシュが新しい共産主義政府を組織し、1956年以降ハンガリーを統治していくこととなった。散発的な武力抵抗やストライキは1957年の中頃まで続いた。一方でナジユーゴスラビア大使館に避難したが、安全確保を保障されて大使館を出たところをソ連軍に捕まり、ルーマニアに連行されて2年後に処刑されたほか、政権の閣僚や評議会を指導していた多くの市民がカーダール政府によって処刑された。1960年代に発表されたCIAの推定によると、およそ1200人が処刑。このとき逮捕された政治囚は1963年までにカーダール政府によってほとんどが釈放された。この一連の戦闘の結果として、ハンガリー側では死者が17000人に上り、20万人が難民となって亡命した[7]ソビエト側も1900人の犠牲者を出した。

[編集] 革命の性質についての議論

ハンガリー事件についての歴史的・政治的意味については、当時の体制の位置づけや民衆による蜂起の意義に関して、今もなお様々な見解がある。以下に、革命の性質についての主要な見方を列挙する。

[編集] 社会主義に対する肯定的な見解からのもの

  • ソビエト連邦や中華人民共和国を含む社会主義陣営の共産党に一般的な見解としては、かつてのホルティ・ミクローシュ政権のような軍事独裁的な政府と封建的な資本主義経済を復活させようとした聖職者やファシストによる試みだという見解が公認されている[8]
  • 新左翼の一部やアナーキストの立場からは、ハンガリー労働者評議会を基にした新しい構造の社会を作ろうとした自由主義的な社会主義者によるアナーキズム的な革命という見方もある。
  • この他、スターリン社会主義、ソ連型社会主義による社会主義体制を否定し、新たな社会主義革命を目指す動きとみなすものがある。

[編集] 社会主義に対する批判的な見解からのもの

  • 社会民主主義的な立場や共産主義でも自主管理的な志向を持ったり、民主主義政体を維持しようとする傾向が強い立場(=ユーロコミュニズム)からは、社会民主主義国家であるユーゴスラビアスウェーデンのように改革しようとした社会主義者による民主的な革命であったという見解がある[9]
  • 反共保守自由主義の立場からは、資本主義経済を目指そうとした民族主義者による民主的な革命と見ている[10]
  • 当時の独裁体制を打破し、自由主義、民主主義の体制を確立するための革命とするものである。

このような事件の評価との兼ね合いで呼称に関する論争があるが、日本においては呼称について「動乱」「事件」「革命」のいずれかとするかは現段階において定まっていない。なお、呼称に関する論争については、シンポジウムを参照のこと。

[編集] 日本における評価

ハンガリー事件についての日本の思想的状況については、小島亮の『ハンガリー事件と日本』に詳しい。そこには日本の政治家や思想家のハンガリー事件に関する評価があり、保守・右翼・反共の立場からは佐々淳行が自分はハンガリーの警察が民衆を弾圧したやり方で弾圧するようなやり方を取りたくないという論を(実際に佐々がそのようなスタンスで警察官僚として臨んでいたのかという議論は別にして)展開しているほか、西尾末廣芦田均らが反共、民社の立場から、ハンガリー事件におけるソ連の行動について、スターリニズムのソ連と今のソ連が異なるというのが事実ではないと批判し、ハンガリー難民の救済を名目に、日本ハンガリー救援会を組織した。

しかし、これらの活動や思想は、真にハンガリーの民主主義やハンガリーの政治難民を救うことを目的としているというよりも反共主義的な立場が強調されていること、またハンガリー難民の救済などもソ連を刺激しないという政治的理由から次第に沈静化したことなどもあって、進歩左翼の立場の人たちの大半は冷たい態度を取った。大内兵衛が雑誌『世界』における「歴史のなかで」(1957年4月号)におけるハンガリー事件でのソ連介入止む無しの発言の背景にあったのは社会主義国の総本山とも言えるソ連への畏敬の念と同時に保守・右翼の反共に対する反発というのが混ざった形で表れており、中野重治もハンガリー救援会に対する皮肉めいた文章を残している。これは社会主義者だけに限らず、進歩的知識人と呼ばれた人にも見られ、野上弥生子のハンガリー救援会に対する冷たい態度や(『中央公論』1957年2月号「地球儀とハンガリア」)にもあり、上原専禄も先に引用した「歴史のなかで」において神経質な国民との差別めいた発言を述べている。

これら進歩・左翼の知識人に見られるハンガリーへの冷淡さは社会主義に対するシンパシーであると同時にハンガリー自体に対する差別意識もあったとされる。大内は「歴史のなかで」においてハンガリーを百姓国と蔑視めいた言葉遣いをしており、山川均も当初はハンガリー事件に対して同情的なスタンスであったものの(『世界』1957年2月号「ハンガリア動乱をめぐって」など)、「歴史のなかで」では(農民主体の国だから)労働者はそれほどいない(だから革命などありようがない)という物言いをしており、社会主義シンパシーへの進歩性と同時にそれにそぐわない国であるハンガリーは遅れた国という独善的な偏見とみなされてもやむをえない態度を示した。

その一方、新左翼(小島亮は「ニューレフト」と称している)は日本社会党日本共産党が政治的理由からハンガリー事件について反革命であるとのスタンスを取ったこと[11]に失望し、黒田寛一大池文雄はハンガリー事件におけるソ連の軍事介入を批判するとと同時に日本共産党における宮本顕治主導の共産党体制をスターリニズムに基いていると批判した。彼らのスタンスではハンガリーの人民民主主義と称されるものは人民の基盤に基いていないソ連の都合に合わせた体制である[12]とし、ソ連の軍事介入を非難しハンガリー事件を革命と評している。

ハンガリー事件の思想をめぐる日本における難しさは、ハンガリー事件が政治的、イデオロギー的な理由から左右両翼の政治闘争と化してしまったことも一因とされる。ハンガリー事件をハンガリー動乱と呼ぶのか、ハンガリー事件と呼ぶのか、はたまたハンガリー革命と称するのかはこれらの動きと密接に関係がある。ただし、右派が動乱という言葉を使っているケースもあれば、左派が革命、事件といった言葉を使っているケースもあり必ずしも定義づけられてはいない。

[編集] 再評価

ペレストロイカの影響でハンガリー社会主義労働者党でも改革派の勢力が強まり、1989年に至り動乱の評価を修正し復権させた。ハンガリー社会主義労働者党の自らの自己批判は、後の東欧革命への導火線となった。

  • 1989年2月の総括文書「四十年間に関する報告」の中に「1956年10月の大衆蜂起」と動乱を武装大衆蜂起とする規定に定めた。反革命と言う表記を改め、「大衆の目からは、一種の民族独立運動」に転化したと指摘した。また、ソ連軍の第二次介入(11月)中にも社会主義の徹底的民主改革と革新への努力が力となり、それは動乱中にも存在し続けた。と記述している。結局、ナジ政権は、その努力にもかかわらず、情勢へのコントロールを失い、逆に情勢に押し潰されたと分析した。
  • 1989年3月のナジの遺体発掘により、再評価は決定的となった。再埋葬式の式典に際し、表明が載せられた。
    • 式典は再埋葬を歴史的、象徴的出来事と捉えている。 
    • ナジと裁判で有罪となった政治家の正当な評価。
    • ハンガリー事件の正当な評価及び、外国への事件の資料の公表許可。
    • ナジはハンガリー史において重要な人物であり、国家救済の為に闘い、スターリン主義を抑え、不正を許さず反革命と闘った。彼は道筋は誤ったが、民主的複数政党制を認める社会主義の道と一体化した。
    • 事件のすべての犠牲者はハンガリー国民である。この国民的損失を、ナジの再埋葬式典で、国民和解のシンボルとならなければならない。

ハンガリーはこの年を持って社会主義独裁を放棄した。それはナジの理想その物であり、冷戦の終結にも重要で計り知れない役割を演じた。ハンガリー政府は、自国の国民和解のみ為らず、西欧資本主義社会とも和解を演出した(鉄のカーテン撤去。汎ヨーロッパ・ピクニックへの協調)。1968年の「プラハの春」にも社会主義国家で唯一最初に正当に評価を下した。そして1989年10月23日、ハンガリーは一滴の血を流す事もなく社会主義を捨て、ハンガリー共和国を建国し、ヨーロッパへ回帰するのである。この日は、ハンガリー革命が起きたその日である。

[編集] 脚注

  1. ^ その他に、日本語文献中に用いられる呼称としては、ハンガリー事件ハンガリー革命、が存在するが、wikipedia日本語版においては、ノートにおける呼称に関する議論が解決するまでの間は、報道機関などで慣習的に使われる「ハンガリー動乱」と基本的に表記する。
  2. ^ 草思社「フルシチョフ 封印されていた証言」
  3. ^ 1905年のロシアや1917年ロシア革命で結成されたソビエトと酷似し、1919年クン・ベーラが率いた革命政権でも主導的な役割を果たした
  4. ^ 国民評議会は労働者評議会と似ていたが、地理的な面で統治を行った
  5. ^ 殆どの国民は、ソビエト軍の撤退・伝統的な民族のシンボルの使用・民主的な議会・カトリック教会の自由・法整備を要求したが、一方で社会主義体制自体については継続を望んでいた
  6. ^ の侵攻作戦に参加した兵士の多くは中央アジアから連れてこられた読み書きのできない人かロシア語の話せない人であり、 彼らはベルリンにナチスの反乱を壊滅しに来たのだと信じていた。1956年に起こっていたスエズ戦争エジプトイギリスフランスと戦っていると信じていた兵士すら存在した
  7. ^ ラカトシュ・イムレヘッレル・アーグネシュリゲティ・ジェルジなど
  8. ^ この見方は歴史的信憑性があまりないのだが、この傾向は革命について書かれた多くの文書で見受けられる
  9. ^ 日本社会主義協会も非難声明を出している
  10. ^ この見方はアメリカで一般的で、特にTIME誌は1956年のマン・オブ・ザ・イヤーにハンガリー動乱で蜂起に参加した市民をノミネートしている
  11. ^ 日本社会党は右派はソ連の社会主義が問題を抱えたものであることの露呈であるとみなし、左派は反革命であるとみなした。結局最終的にはハンガリーの自由化運動についてソ連の武力干渉を許さないとした一方反動勢力に利用された面があるという妥協的な文章に終わった。また日本共産党はハンガリー事件について当初は沈黙し、ソ連のハンガリーへの武力介入を機にハンガリー事件を反革命としたほか、党内の異論を弾圧した。
  12. ^ 実際にソ連占領後のハンガリー政府の指導者は親ナチス派のダールノーキ・ミクローシュ・ベーラであり、ハンガリーの治安警察は親ナチス派のホルティ・ミクローシュの下で民衆を弾圧していたメンバーがそのまま残存していた。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  • 小島亮『ハンガリー事件と日本―1956年・思想史的考察』中公新書、1987年 ISBN 978-4121008442 (増補復刻版:現代思潮新社、2003年 ISBN 978-4329004291

[編集] 外部リンク