リゲティ・ジェルジュ

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Flag of Hungary.svg この項目では、ハンガリー語圏の慣習に従い、名前を姓名順で表記していますが、ヨーロッパ風にジェルジュ・リゲティと表記することもあります。

リゲティ・ジェルジュ・シャーンドル(Ligeti György Sándor [ˈligɛti ˌɟørɟ ˌʃɑ̈ːndor]、1923年5月28日 - 2006年6月12日)は、ハンガリー現代音楽作曲家クラシック音楽で実験的な作品を多く残したほか、スタンリー・キューブリック監督作「2001年宇宙の旅」や「シャイニング」などに音楽が使用されたことで知られる。

略歴と作風[編集]

ハンガリー脱出まで(-1954)[編集]

トランシルヴァニア中南部のトゥルナヴェニ(ディチェーセントマールトン)に生まれる。ディチェーセントマールトンはシュテットルの一つであった。両親はユダヤ系。第二次世界大戦の折には、家族はバラバラに強制収容所に入れられた。父はアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で、弟はマウトハウゼン強制収容所で命を落とした。

終戦後リゲティは、ブダペスト音楽院でゾルタン・コダーイカドシャ・パールヴェレッシュ・シャーンドルファルカシュ・フェレンツらのもとで音楽を学んだ。1949年に卒業。1950年から母校で教えていたが、ハンガリー動乱ソ連に鎮圧された2ヵ月後の1956年12月にウィーンへ亡命し、オーストリアの市民権を取得。

ハンガリーは当時共産圏統治下で最も強くクラシック音楽への弾圧が行われており、場合によっては声楽家がバッハのカンタータすら法律違反で歌えないという有様であった(出典:細川俊夫からジグムント・サットマリーへのインタビューによる・音楽芸術,音楽の友社)。その当時の彼は、バルトークの影響を受けつつ、彼もまた民謡の編曲や、民謡を取り入れた作品を発表する中で革新的な作風を模索していたが、一部の作品(《パーパイ夫人》や《アラーニの5つの歌》など)は当局により演奏を禁止された。

この頃のハンガリーでは新ウィーン楽派の音楽は厳しく規制されていたが、彼は妻の協力により十二音技法に関する情報を得ることができ、その音楽に強く惹かれるようになった。自身の音楽環境の貧しさから、「素材の貧しさ、稀少さとは何か」を定義するユニークなアイデアを生み出した。このアイデアが「ムジカ・リチェルカータ」に結実している。

ミクロポリフォニーの開発(-1965)[編集]

西側に渡った彼はカールハインツ・シュトックハウゼンヘルベルト・アイメルトなどの知遇を得て、ケルンの電子音楽スタジオにおいて1957年に《グリッサンディ》、翌年には《アルティクラツィオーン》を作曲。1960年のケルン国際現代音楽祭において初演された管弦楽曲《アパリシヨン》、および1961年のドナウエッシンゲン音楽祭で発表された《アトモスフェール》によって一躍、前衛作曲家としての地位を確立した。リゲティは「トータルセリーの技法は通過していない」と弁明した(出典:現代音楽のパサージュ・青土社)が、実は徹底的にセリーの習作を通過した上でのミクロポリフォニーであったことが判明している。

この頃の彼の関心は十二音技法やそれを発展させたトータル・セリーではなく、トーン・クラスターやリズムにあった(もっとも、ブダペストにいた頃から関心を抱いていた)が、1960年代の「反音楽」にも積極的に挑戦し、「本をペラペラとめくる」などの特殊奏法の連発で構成される「アヴァンチュール」、「新しいアヴァンチュール」で当時の音楽状況を告発している。オルガンの機能の限界に挑戦した「ヴォルーミナ」、ピアニストが一音しか弾かない「ディヴィッド・チューダーのための三つのバガテル」ではアナーキズムにも興味を示し、この属性は超絶技巧を伴う名人芸に内包されて、挑発性が顕著となってゆく。

こうした1960年代が「技法の実験による作曲家の高慢」と揶揄されているのを感じ取った彼は、とっさに宗教性の鉱脈を掘り当て、それが「レクイエム」に結実する。いまだ、サクレド・ミニマリズムが流行になる以前のことであった。この作品の質で、リゲティは世界的な名声を手に入れることとなった。楽譜の段数が極端に多い故、紙筒の中に巻かれて販売されると言う方式も話題を取った。この「レクイエム」の世界初演の際に甲斐説宗が楽屋まで弟子入りを志願し、たった一回の簡易な形のレッスンではあったものの、甲斐がリゲティの一番弟子になった。その後ハンブルク音楽演劇大学の教授に就任。リゲティ本人は自作の演奏のできばえに大変厳しかったが、そのジャッジを乗り越えた全作品の音源の販売がWERGO社から行われる。

前衛の停滞と不振(-1981)[編集]

ウィーンに渡った後、ミクロポリフォニーと呼ばれる技法で知られるようになった彼は、クラスターに重きを置かなくなり、「旋律群」のように調性的な傾向へシフトするなど、常に時代への挑発を失わなかった。弦楽四重奏曲第二番では「音色のカノン」がはじめて導入されるが、これをジャチント・シェルシは「盗作だ!」と憤慨。リゲティの作品がスタンダードナンバー化したことに伴い、シェルシとの仲は、これで回復しなかった。この頃から彼のオリジナリティに翳りが生まれる。

「室内協奏曲」、「二台ピアノの為の三つの小品」ではオクターブとパルスに作曲上の問題を集中させ、なおかつ音選択も極めて厳格に行われている為に傑作の誉れが高い。とはいえ第三期に入っても原則的に一拍を等分するリズム語法のままで書かれており、この書法のままでリズム語法を探究するのは当初から限界があった。「サンフランシスコ・ポリフォニー」で見られるように、トーンクラスターの暴力は最早聴かれなくなった。「スランプだ」という意見もあった。当時の主流になりつつあった「即興」や「ライヴエレクトロニクス」に順応することが出来なかったためである。

「ロンターノ」や「二重協奏曲」ではオーケストラのテクスチャーの精緻な堆積から生まれる柔らかい音色は、60年代の衝撃音の連続とは全く違い、クラシック音楽を好んで聴く層にまで訴えるものがあった。しかしながら、「過去の音楽文化」への退行は隠せないものになった。オクターブを自由に重ねる技法もヘンリク・ミコワイ・グレツキが元祖であり、「誰からでも影響を受ける」とまで批判されることもあったと言う。

ニッコロ・カスティリオーニからの影響を感じさせるオペラ「大いなる死者」では、「レクイエム」とは正反対にナンセンス音楽の集大成を図り、役名から音楽上の素材まで悪ふざけの極致で聴衆を圧倒した。このオペラ完成後は素材が枯渇し、創作ペースが落ち込むなど「過去の人」扱いされる事態にまで陥った。その窮地を救ったのがコンロン・ナンカロウ作曲の「自動ピアノの為の習作」と、自由に音程を変えられるシンセサイザーYAMAHAのDX7であった。「一緒にナンカロウを聴こう」と弟子のマンフレート・シュターンケと毎日のように聞いた(出典:カイル・ガン著・ナンカロウの音楽)といわれる。

ナンカロウの再発見(1982-2006)[編集]

これらの素材による刺激から彼は創作態度を取り戻し、「ピアノ協奏曲」、「ヴァイオリン協奏曲」、「ピアノ練習曲集」などで全く新しいポリリズムを追求し続けた。ピアノ練習曲集の第一巻の初版のテンポ設定は人間を無視した極論であった為に、多くのピアニストが自由にテンポを変更して演奏する時期があったなど挑発性が復帰し、様々な点に於いて才気が蘇った。「ナンセンス・マドリガルズ」や「マージャル・エチュード」のような声楽作品でも、アンサンブルの限界とユーモアが追求されている。

この時期には、第二期と第三期には忌避していた民族性と積極的に向かい合ったのも大きな特徴で、複雑な変拍子や自然倍音の使用も民族的な始原性を濃厚に想起させる。結局リゲティがセント単位で複雑な音律を使用することはなかったが、全音階的なパターンに予期せぬ自然倍音を挿入し、騙し絵のように聴感覚を揺さぶる。「無伴奏ヴィオラソナタ」でも見られるストレートな自然倍音の使用は、東欧からの血統を想起せざるを得ない。

作曲家本人も満足しており、多くの賛辞を集めることとなった「ヴァイオリン協奏曲」においても自然倍音と平均律の拮抗が見られるが、ラストで思い出したように「アヴァンチュール」のようなテクスチュアが引用されるなど、自己様式の最終的な統合をこの作品で図った感が濃厚である。

「ナンカロウからアイデアを貰って若返っただけではないのか」という批判もあったが、結果的には「ピアノ練習曲集」はどこの国際コンクールでも競って演奏するピアニストが現れるなど、ポピュラリティにおいて完全に勝利した。練習曲第13番「悪魔の階段」では、半音階を駆け上がる快感が多くのピアニストに評価され、その勝利がラスト二分に刻印されている。この時期から、音源の体系的かつ集中的なリリースがWERGO,SONY,TELDECでなされたことも特筆される。特にSONYのシリーズは最強のメンバーによる演奏陣として宣伝されたにもかかわらず、リゲティ本人のクレームでいきなり中断されるなど、話題に困らない側面も健在であった。

晩年の数年間は病気を患っており、京都賞の授賞式の際も車椅子が手放せない状態だった。ピアノ練習曲も、まだいくつかの作品を追加する意向が示されていたが、2006年6月12日、ウィーンで死去した。83歳没。死因は遺族が公表していない。

備考[編集]

  • 人前での公的なレクチャーでは、お笑い芸人顔負けのユーモア振りであり、自作のオペラでブーイングを率先して叫んでライブ音源リリースを阻止するなど音楽家離れした態度もあった。亡命生活の苦渋の故か、私的な場においてなかなかに接するのが困難であったといわれている。いきなり弟子に向かって直に欠点をいうことも多々あり、アメリカ人初の弟子アンナ・レバーロンに対して「君はアメリカ時代の経験を全て忘れなさい」と一喝した。
  • その性格の故か、自身の作品の演奏のできばえには極めて厳しく(出典:たかの舞俐のブログ)、本番で間違えたピアニストを即クビ、正しくオーケストラが演奏できないとブーイング(出典:大いなる死者の初演評)、など容赦なかった。しかし、より正確に出来る演奏家を見つけると仕事は速く、ピエール=ローラン・エマールとのコラボレーションでは、彼にふさわしくないできばえのエチュードは捨てたといわれる。その捨てられた作品にピアノのための「心臓抜き」がある。
  • 自身が審査を勤めた武満徹作曲賞は、全員の応募作を却下した。その理由は「クラシックからなにも学んでいない。もっとハイドンのスコアを読め」とのこと。しかし、東洋人には極めて親切な態度でレッスンなどに応じ、マスタークラスでは「必ず、自分の国をもっとよく考えた創作をしなさい」と命じた。東京都制施行50周年記念国際作曲コンクールの受賞作に選んだのは、ふたつとも東洋人の作品であった。日本初演が迫るピアノ練習曲の新作も、出来上がり次第すぐにFAXで送った。
  • 創作態度の硬直を嫌い、自由に流行を眺めて勝ち組へ移るのが好きだった。創作にかなりのブランクがあいた時期があったのも、傑作を生むために慎重に待っていたからであった。「私は大編成が流行る(60年代)とそれに乗り、小編成が流行る(80年代)とそれに乗り換え、結構いいかげんで日和見主義なんですよ」、「私のオーケストレーションは滅茶苦茶でね、今でもリムスキー=コルサコフの著書で勉強してます」と武満徹に語っている。

作品[編集]

オペラ[編集]

管弦楽曲[編集]

  • アトモスフェール(1961年)
  • ロンターノ(1967年)
  • アパリシオン(1959年)
  • 13人の器楽奏者のための室内協奏曲(1970年)
  • メロディーエン(1971年)
  • サンフランシスコ・ポリフォニー(1974年)

協奏曲[編集]

室内楽曲[編集]

  • 無伴奏チェロソナタ(1968年)
  • 木管五重奏のための6つのバガテル(1953年)
  • 弦楽四重奏曲第1番(1953-54年)
  • 弦楽四重奏曲第2番(1968年)
  • 木管五重奏のための10の小品(1968年)
  • ヴァイオリン、ホルン、ピアノのための三重奏曲(1982年)
  • 無伴奏ヴィオラソナタ(1991–94年)

声楽曲[編集]

電子音楽[編集]

  • グリッサンディ(1957年)
  • アルティクラツィオーン(1958年)

ピアノ曲[編集]

  • ムジカ・リチェルカータ(1953年)
  • ピアノのための練習曲 第一巻(1985年)
  • ピアノのための練習曲 第二巻(1988-94年)
  • ピアノのための練習曲 第三巻(1995-2001年)

その他[編集]

関連項目[編集]

参考文献[編集]