第四次中東戦争

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第四次中東戦争
(ヨム・キプル戦争、十月戦争)
Bridge Crossing.jpg
スエズ運河を通過するエジプト軍(1973年10月7日
戦争中東戦争
年月日1973年10月6日 - 10月26日
場所ゴラン高原シナイ半島
結果:イスラエルがシナイ半島の非軍事化に合意し、エジプトとの平和条約が締結された
交戦勢力
エジプトの旗 エジプト
シリアの旗 シリア
アラブ連盟の旗アラブ遠征軍
 イラクの旗 イラク
 ヨルダンの旗 ヨルダン
 モロッコの旗 モロッコ
 サウジアラビアの旗 サウジアラビア
 リビアの旗 リビア
 クウェートの旗 クウェート
 アルジェリアの旗 アルジェリア
 スーダンの旗 スーダン
その他の支援国
 キューバの旗 キューバ
 朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮
 パキスタンの旗 パキスタン
イスラエルの旗 イスラエル
支援国
 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指揮官
エジプトの旗アンワル・アッ=サーダート
シリアの旗ハーフェズ・アル=アサド
イスラエルの旗ゴルダ・メイア
イスラエルの旗モーシェ・ダヤン
戦力
エジプトの旗 エジプト
兵士:650,000~800,000名
戦車:1,700輌
装甲車輌:2,400輌
火砲:1,120門
航空機:400機
攻撃ヘリ:140機
海軍艦船:104隻
対空砲:150門
シリアの旗 シリア
兵士:150,000名
戦車:1,200輌
装甲車輌:800~900輌
火砲:600門
アラブ連盟の旗 アラブ遠征軍
兵士:100,000名
戦車:500~670輌
装甲車輌:700輌
キューバの旗 キューバ
兵士:1,500~4,000名
イスラエルの旗 イスラエル
兵士:375,000~415,000名
戦車:1,700輌
装甲車輌:3,000輌
火砲:945門
航空機:440機
損害
戦死:8,000~18,500名
負傷:18,000~35,000名
捕虜:8,783名
戦車:2,250~2,300輌 損失
航空機:341~514機 損失
海軍艦船:19隻 撃沈
戦死:2,521~8,000名
負傷:7,250~8,800名
捕虜:293名
戦車:1,063輌 損失
装甲車輌:407輌 損失
航空機:102~387機 損失
第四次中東戦争
シナイ半島方面
バーレブ線 - バドル作戦 - スエズ運河渡河 - ミトラ峠 - ギデイ峠 - 10月14日の機甲戦 - 中国農場 - 逆渡河 - スエズ西岸
ゴラン高原方面
第1次ヘルモン山 - 涙の谷 - ダマスカス平原 - 第2次ヘルモン山
航空戦
オフィラ航空戦
海戦
ラタキア沖海戦 - タルトス港襲撃 - ダミエッタ沖海戦
米ソの動向
第四次中東戦争間におけるアメリカ合衆国とソビエト連邦の各種援助

中東戦争の全体については、中東戦争を参照

第四次中東戦争(だいよじちゅうとうせんそう)とは、1973年10月にイスラエルエジプトシリアなどの中東アラブ諸国との間で行われた戦争

概要[編集]

第三次中東戦争(六日戦争)の時、先手を打って圧勝したイスラエルに対し、今回はアラブ側が先制攻撃をしかけた。アラブ側はソ連製の比較的優秀な武器などを使用したこともあって、一時イスラエルはスエズ運河ゴラン高原にて苦戦を強いられたものの、その後イスラエルが巻き返して逆にアラブ側が苦戦することとなり、両国の提案で停戦となった。

イスラエルは序盤の劣勢から巻き返し、カイロダマスカスへも侵攻できる位置にまで軍を進めたところで停戦したものの、敗北が与えたショックは大きく、建国以来連戦連勝を続けてきたという自信は失われた。ショックは政治にも及び、建国以来の与党であった労働党は劣勢に立たされ、1977年には下野するに至った。一方エジプトは緒戦での攻勢で世界、とりわけアメリカに強さを示すことができ、強国イスラエルのみを見てきたアメリカの中東政策を見直させることに成功した。以後は対米接近を進め、イスラエルとも平和条約を結ぶに至った。

第二次世界大戦以降の戦争で、両陣営がほぼ同等の兵器をもって対峙した数少ない例である(当時の米ソの新鋭戦車M60T62の対決など)。特にクルスクの戦い以来とも言われる大規模な戦車戦が展開されたこと、エジプト軍によりソ連考案の対戦車ミサイルを主軸とした対戦車戦術が本格運用されたことなどから、その戦訓は各国の戦車開発に大きな影響を及ぼすこととなった。

名称[編集]

イスラエル側では「ヨム・キプル戦争ヘブライ語: מלחמת יום הכיפורים‎、Milẖemet Yom HaKipurim、מלחמת יום כיפור、Milẖemet Yom Kipur)」、アラブ側では「十月戦争アラビア語: حرب أكتوبر‎、ħarb Octōber、حرب تشرين、ħarb Tishrīn)」、「ラマダン戦争」と呼ばれる。欧米では「1973年中東戦争(1973 Arab–Israeli War)」とも呼ばれる。欧米の一部文献やイスラエル軍では「消耗戦争英語版」を第四次中東戦争とし、この戦争を第五次中東戦争とする場合もある。

背景[編集]

サーダートの戦争計画[編集]

エジプト革命の立役者ガマール・アブドゥン=ナーセル1970年9月28日心臓病で急死した。後継の大統領アンワル・アッ=サーダートはナーセルの同志であったが、対イスラエル戦争に集中するあまりに経済成長がないがしろにされたと感じていた。そして就任してからは、イスラエルと早期に講和し、安定したエジプトを経済成長させようと構想していた。

サーダートはまず、アラブ同士の結束を高めることに努力した。1971年9月にシリアリビアアラブ共和国連邦[1]という緩やかな連邦を結成し、翌1972年4月にはヨルダンとの国交を断絶した。パレスチナ解放機構(PLO)を追放した裏切り者と断交することによって、アラブの盟主の地位を固めようとした。一方で、この年7月にソ連軍事顧問を国外退去させ、ソ連との繋がりを絶とうとした。これによってイスラエルに影響力のある米国が中東和平に本腰を入れるのではないかと期待した。しかし米国はベトナム問題やウォーターゲート事件で手が一杯で動かなかった。

この年、日本赤軍テルアビブ空港乱射事件を起こし、ミュンヘンオリンピック事件が起こったりと、何かとアラブの評判を下げる事件が続き、その中でエジプトの都合の良い講和(シナイ半島の全面返還)に導くには、穏便路線では大国に与える衝撃が足りないように思えた。

1973年3月にサーダートは首相を兼任し、強権体制を固めた。サーダートはここにおいて、イスラエルへ侵攻してシナイ半島を攻略し、戦況有利なままイスラエルとの講和へ導こうと構想していた。そのためにはアラブの結束を固め、各国がイスラエルと同時開戦し、イスラエル軍が多方面に気を取られてエジプト軍に集中できなくしなければならなかった。シリアのアサド、リビアのカダフィと特に連携し合い、73年8月にはリビアとの国家統合構想を発表した。またソ連の軍事顧問を復活させ、ソ連から最新兵器の購入を進めた。

一方、イスラエル諜報特務庁(モサッド)は、サーダートの戦争計画に関する情報を逐次イスラエル本国に知らせていた。しかし、イスラエル政府と軍参謀はサーダートはナーセルと違って強硬手段は取れないと考えており、エジプトの侵攻は無いとしていた。加えて国内では、これまでの中東戦争での連戦連勝からアラブ諸国に対する油断が生じており、軍の士気も低下していた。

イスラエルを取り巻く国際情勢も変化していた。先の第三次中東戦争での「奇襲」による勝利と引き換えに、イスラエルとユダヤ人はホロコースト以来の国際的な同情と信頼を失っていた。加えてこの勝利により中東の軍事的均衡が崩れることを危惧したフランスイギリスは、アラブ側の経済制裁の影響もあってイスラエルへの武器供給停止などの措置をとり、米国も表立った援助ができなくなっていた。

1973年10月、エジプト・シリア軍はイスラエルへの侵攻を、イスラエル人が1年の罪を悔い改めるヨム・キプルの日に決定、10月6日に「バドル作戦(アラビア語で満月の意)」を実行した。

戦争の推移[編集]

奇襲の成功[編集]

シナイ半島戦線1
左:1973年10月6日~13日、右:同14~15日
赤:エジプト軍、青:イスラエル軍

1973年10月6日、当日はユダヤ教の最も重要な休日であるヨム・キプル(贖罪日)であり、イスラエルの警戒が緩む日でもあった。この日にエジプトシリアの連合軍はイスラエル国防軍に対して奇襲攻撃を行った。

エジプト軍はスエズ運河対岸から激しい砲撃を行い、イスラエル軍が陣地を張り巡らせた「バーレブ・ライン英語版」を、やすやすと突破してシナイ半島へ進出、イスラエル拠点を占領した。イスラエルは奇襲に対する備えが整っておらず、緒戦で決定的な敗北を喫した。エジプト軍はソ連製地対空ミサイルSA-6ゲインフル自走対空砲ZSU-23-4を装備してイスラエル空軍機を多数撃墜し、運河地帯上空の制空権を確保した。またエジプト軍の歩兵や装甲車により運用されるRPG-7対戦車ミサイルAT-3サガーによって、歩兵の支援を受けていなかったM48パットン主力とするイスラエル戦車隊は大きな損害を出し、壊滅した。10月8日のイスラエルの反撃も撃破されており、開戦から3日間でイスラエル軍は戦車400輌以上、死傷者3,000名以上という大損害を被った。

ゴラン高原のシリア軍は、イスラエル国防軍の二個旅団および11の砲台に対し五個師団および188の野砲で攻撃した。緒戦ではおよそ180両のイスラエル軍戦車(改良型M4シャーマンを含む、主力は105mm砲センチュリオン)がおよそ1,400輌のシリア軍戦車(内115mm滑空砲T-62は約400両)と対峙した。圧倒的な戦力差およびシリア軍車両の大半が夜戦用の装備を行っていたにもかかわらず、戦争初期でゴラン高原に展開したイスラエル軍戦車は奮戦した。中でもベンガル大佐が指揮する精鋭の第7装甲旅団は延べ4日間に渡って奮戦し戦線を維持したが、ついに稼動戦車が7両にまで減少した時点で後退を余儀なくされた。シリア軍はゴラン高原の拠点都市アル・クネイティラを回復し、ヘリコプター降下したシリア軍コマンド部隊は様々な監視設備を擁するヘルモン山のイスラエル軍拠点、ジャバル・アル・シャイク(Jabal al Shaikh)の制圧に成功した。またイスラエル戦車隊の一部が包囲されて全滅することも起こった。

アラブ諸国の参戦[編集]

ゴラン高原戦線
左:1973年10月6~10日、右:同11~12日
青:イスラエル軍、赤:シリア・アラブ諸国軍

アラブ諸国は武器の供給と資金融資によってこの戦争に関与した。どの程度の支援が成されたかは定かでないが、複数の情報筋によると、イラクはエジプトへホーカー ハンターの小隊を派遣し、戦争が始まると18,000名の兵士からなる師団と、数百台の戦車、ミグ戦闘機が派遣された。戦車部隊はゴラン高原中央部に展開した。サウジアラビアクウェートは金融支援を行い、幾つかの戦闘部隊を派遣した。サウジアラビアは少数の部隊(特殊部隊もしくはコマンド部隊といわれる)をシリアに派遣し、ヨルダンは武装師団をシリアへ派兵し、イスラエル軍とゴラン高原で交戦した。

1971年から73年までリビアミラージュ5戦闘機と約10億ドルの支援を蜜月関係のエジプトに行った。アルジェリアは戦闘機と爆撃機の部隊、武装旅団、多数の戦車を派遣した。チュニジアは1,000名を越える兵士を派遣し、彼らはエジプト国防軍と共にナイル川三角州で配置された。スーダンは3,500名の兵士を派遣し、モロッコは三個旅団を最前線に派遣した。

イスラエル反攻[編集]

イスラエルは奇襲攻撃からわずかの期間にシナイ半島西部とゴラン高原の一部を失い、逆に自国領土にまで侵攻の危険が出るほどの状態となった。しかし、予備役の招集による兵員の増強やアメリカから兵器の供給を受けるなど態勢を整えて反撃に出る。10月10日からイスラエル軍はゴラン高原のシリア軍に大攻勢をかけ、師団の一部は壊滅、防戦一方となったシリア軍は自国領内に撤収するが、イスラエル軍は追撃を止めずに首都ダマスカスへ接近した。しかし、ダマスカスのわずか手前で進軍を止め、突入しなかった。ダマスカスを陥落させると、ソ連軍がイスラエルに対して宣戦する用意があるとの情報がもたらされたからとされている。

シリアのアサドはサーダートに対して、シリアの窮状を救うために、シナイ半島西部からより内陸へ侵攻するように要請したが、サーダートはそれ以上侵攻するつもりは無かった。サーダートの目的はイスラエル占領ではなく、シナイ半島を返還すればイスラエルには手を出さないと世界に誇示することだったからである。

シナイ半島戦線2
左:1973年10月15~17日、右:同18~23日
赤:エジプト軍、青:イスラエル軍

シリアでの進軍を止めたイスラエル軍は、転じてシナイ半島でも攻勢をかけた。緒戦の教訓から歩兵との連携を強めて対戦車ミサイルへの対策を講じたイスラエル軍戦車部隊はシナイ半島西岸中央部で激戦を展開、T-62を先頭に進撃して来たエジプト軍が撃破された。スエズ運河中央部をイスラエル軍が10月16日に逆渡河し、運河ごしにエジプト軍の半数を包囲し、首都カイロへの進撃姿勢をみせた。ただし、ここでもソ連の参戦を恐れて突入しなかった。

海戦[編集]

ラタキア沖海戦は、ミサイル艇が相互に対艦ミサイルを用いた史上初のものである。 この海戦は、イスラエル軍とシリア軍との間で10月7日に開始された。2日目で大勢はイスラエル軍の勝利と決まった。これは、電子戦対応の高速なミサイル艇の活躍によるものである。この後、シリア海軍は戦争終結までのほとんどの期間、港に留まり、制海権を保てなかった。 第2のより小さな海戦(バルティム沖海戦)が完全にイスラエル海軍の勝利を決定づけたが、その戦いでイスラエル海軍はエジプト軍のミサイルをジャミングで回避し、エジプト軍の船を3隻沈めた。

海戦の結果、ソ連製の多数の対艦ミサイルの標的にされたにもかかわらず、イスラエル海軍は一隻も船を失わなかった。

中東研究家のベニー・モリス(Benny Morris)によると、エジプト側は7隻のミサイル艇、1隻の掃海艇、4隻のその他の艦船を失った。イスラエル側は死者3名(奇襲の目的でポートサイドに潜入を試みた工作員2名、スエズ沿岸で起きた海戦で死亡した艦船の乗組員1名)。

西側の多くの研究者たちはイスラエル軍の戦術的な勝利という見解だが、エジプト側の研究者ハッサン・エル=バドリ(Hassan El Badri)によると、エジプト海軍は10月8日にイスラエルの艦船を4隻沈めたとのことだが、この結果は彼のレポートのみに出てくる。

エジプト海軍はバブ・エル・マンデブ海峡の制海権を欲した。何故なら毎年1,800万トンもの石油がこの海峡を通ってイランからイスラエルへ輸出されていたからである。イスラエルへの海上を封鎖できたのは11月1日までだった。スエズ運河も同様に機雷によって封鎖された。48,000トンおよび2,000トンのタンカーが触雷でスエズ運河に沈んだ。これに対抗してイスラエル側もシャルム・エル・シェイクおよびシナイ沿岸を封鎖したため、エジプトの経済に影響した。

石油戦略と石油危機[編集]

アラブ主要国は重要な産油国でもあり、1971年から73年までの間にリビアイラクといった産油国が次々に石油資源の国有化を発表していた。10月16日、これら以外の石油輸出国を含め、アラブ石油輸出国機構はイスラエルを支援している国(アメリカとオランダ)に対する石油の輸出を禁止すること、アラブ非友好国への段階的石油供給削減を決定した。また、同時期、オイルメジャー代表と原油価格交渉を行っていたOPECのペルシャ湾岸産油国(非アラブ・ペルシャのイランを含む)は原油公示価格の大幅引き上げを一方的に決定した。長期にわたる先進諸国の高度成長による石油需給の引き締まりを背景に徐々に上昇していた原油価格は、これを契機に一機に高騰した。その後、OPECは加盟国の原油価格(公式販売価格)を総会で決定すると言う方式を定着させ、国家間カルテルに転じた。高騰した原油価格は、石油禁輸や供給削減という政策が停止した後も、高止まりし、世界経済にも深刻な影響を与えることとなった(オイルショック)。

それまで欧米のオイルメジャーが独占的に原油価格を操作してきた実情をみれば、自国の資源を自国で管理したいという資源ナショナリズムの高まりがもたらした結末であり、この事件をきっかけにして、原油価格と原油生産の管理権はメジャーからOPECへ移った。すでに、1960年代後半から欧米で顕在化していたスタグフレーションは、石油危機によって、先進国全体に一挙に拡大、深化することとなった。

停戦[編集]

イスラエル反攻に国際世論は停戦の方向へ向かい、ようやく立ったアメリカとソ連の仲裁によって10月22日停戦が宣言された。

初めてアラブの侵攻を受けたイスラエル社会は激しく揺さぶられた。奇襲を予想しなかった国防の準備不足は、国防大臣モーシェ・ダヤンの責任となり、世論は彼の辞職を要求した。最高裁長官は紛争中にダヤンの職務調査を指示した。委員会は首席補佐官の辞職を推奨したが、ダヤンの判断を尊重した。翌1974年にダヤンはゴルダ・メイア首相に辞表を提出した。

一方、スエズ逆渡河作戦を成功させた陸軍指揮官アリエル・シャロンは国民的人気を博し、後の首相就任に繋がることとなった。またエジプトでも、前の戦争にて壊滅したエジプト空軍を再建して緒戦の勝利をもたらした空軍司令官ホスニー・ムバーラクがやはりヒーローとなり、1975年にはサーダートの下で副大統領に就任、後の大統領職に繋がっている。

1974年1月、イスラエルとエジプトはスエズ運河地帯の兵力引き離し協定に調印した。安保理決議340に基づき第二次国際連合緊急軍(UNEF II)がエジプトとイスラエルの停戦を監視し、二国間の国境巡回警備を行うこととなった。

ゴラン高原についても、1974年に安保理決議350により国際連合兵力引き離し監視軍(UNDOF)が設立され、停戦監視にあたっている。

損失[編集]

停戦後の占領地の変化。
左中央の濃赤色はエジプト軍、左中央と右上ゴラン高原の焦茶色はイスラエル軍により新たに占領された。

イスラエルの統計によれば2,688名のイスラエル兵が戦死し、それ以上の者が負傷した。314名のイスラエル兵が降伏しアラブ側の捕虜となった(242名がエジプト軍の捕虜となり、68名がシリア軍、4名がレバノン軍の捕虜となった)。アラブ兵は8,738名がイスラエルに降伏、捕虜となった(8,372名がエジプト兵、392名がシリア兵、13名がイラク兵、6名がモロッコ兵)。全ての戦時捕虜は1974年中頃までに交換された。

特にイスラエル機甲師団の損失は(同国の人口を考えれば)甚大であった。イスラエルの第188「バラク」機甲旅団はゴラン高原南部における対シリア国境防衛で重要な役割を果たしたが、112名の兵士が同地で戦死した。これはイギリスからの新型戦車チーフテン購入計画が頓挫して更新計画に狂いが生じていたこと、航空部隊がエジプトの対空兵器の餌食となり航空支援が不十分だったこと、エジプト・シリアが使用したソ連製対戦車ミサイルに対する対抗手段を持っていなかったことなどに起因している。この教訓から同国は乗員の生存性と完全国産化を優先させた新型戦車の開発を推進し、主力戦車メルカバを生み出すこととなる。またミサイル対策として爆発反応装甲を実用化した。

合計約19,000人のエジプト人、シリア人、イラク人およびヨルダン人もこの紛争で死亡したと推測される。エジプトとシリアの空軍はその対空防御により114機のイスラエルの航空機を撃墜し、自軍の航空機を442機失った。その中には数十機に及ぶ自軍の対空ミサイルの誤射で撃墜された物を含む。なお戦闘機パイロットとして出撃したサーダート大統領の弟も緒戦で戦死している。

戦後[編集]

和平の構築へ[編集]

10月6日にシナイ半島で撃墜されたエジプト空軍のSu-7の残骸(イスラエル空軍博物館所蔵)

この戦争によってエジプトのイスラエルに対する立場を明確に表したサーダートは、いよいよイスラエルとの和平構築へと歩みだす。1975年6月に第三次戦争以来8年ぶりにスエズ運河の通航が再開され、同時に両国は第二次兵力引き離し協定に調印し、シナイ半島の非軍事化を進めることとなった。

1976年3月、シリアがレバノン内戦に足を踏み入れるころ、エジプトは対ソ友好条約の破棄を通告し、ソ連との決別を内外に強調した。同時にアメリカに接近し、国内では経済自由化を進め、冷戦の西側に位置するようになっていったが、同時に貧富の差が広がった。

1977年6月、イスラエルにメナヘム・ベギン内閣が成立すると、サーダートは急速に接近する。11月、彼はアラブ首脳として初めて公式にイスラエルのエルサレムを訪問し、12月に入ってイスマイリアでベギンと首脳会談を行った。これに激怒したのはリビアカダフィーやシリアのアサドなどである。会談直後にトリポリ宣言を発し、エジプトを批判した。

1978年9月、キャンプ・デービッドにおいてアメリカ、エジプト、イスラエル代表が会談し、ついにサーダートの念願である和平の合意(キャンプ・デービッド合意)に至った。合意は、長年の敵であるイスラエルとの和解のみならず、過去の中東戦争でイスラエルに奪われていたシナイ半島の返還に結び付くものであった。11月、エジプトを除くアラブ12カ国は首脳会談を開催して「バグダッド宣言」を発表し、エジプトを裏切り者として中東和平を激しく非難した。

サーダート暗殺[編集]

1979年3月、遂にエジプト・イスラエル間で中東和平条約が調印され、サーダートの希望は完成した。ベギンとサーダートは共に79年のノーベル平和賞を受賞した。しかしこのころ、世界はイラン革命に注目し、翌1980年9月に革命イランイラクの間で戦端が開かれた。一方、リビアとシリアは対エジプトで結びついて同じく9月に単一国家樹立を宣言した。中東が新たな混乱でゆれる1981年10月6日、対イスラエル戦勝記念パレードの最中に、サーダートはイスラム過激派ジハード団に所属する陸軍中尉ハリド・イスランブリに暗殺された。皮肉にも、対米協調のためにナーセルの社会主義路線を覆し、イスラム的な右派を復興させたのは彼自身の政策によるものだった。

サーダートが打ち立てた対米・イスラエル協調政策は後継者ムバーラクに引き継がれ、彼の独裁の下でエジプトは安定した成長を遂げた。また、サーダートの願いであったシナイ半島は1982年4月から返還が始まり、1989年に全面返還が完了した。一方でシリアのゴラン高原については、イスラエルが81年12月に自国領編入を宣言して国際的非難を浴び、翌年2月に国連から侵略と規定された。ゴラン高原についての交渉が始まるのはレバノン内戦が収束する1995年になってからであった。

なお、エジプトとイスラエルの和平成立後、エジプト産の原油がイスラエルへ輸出されるようになった。原油の安定した取引先を確保したいエジプトと、安定した供給源を確保したいイスラエルの思惑が完全に一致していることから、サーダートの最大の狙いは石油取引にあったとの見方もある。

第四次中東戦争を題材とした作品[編集]

映画

ボードゲーム

  • 「コマンドマガジン日本語版」第65号付録ゲーム「ヨム・キプール:第四次中東戦争」 国際通信社

コンピュータシミュレーションゲーム

  • スーパー大戦略メガドライブ) - 複数収録されているマップの中に「Yom Kippur War」という名前のシナイ半島戦線を再現したマップがあり、プレイヤーは「イスラエル」か「エジプト」を選択してゲームを進める。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

注記[編集]

  1. ^ リビアの国旗がエジプトと同じなのはこの同盟のため。