ミュンヘンオリンピック事件

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ミュンヘンオリンピック事件
MunichIsraeliOlympicFront.jpg
事件現場のイスラエル選手宿舎
場所 西ドイツの旗 西ドイツ ミュンヘン
標的 オリンピックイスラエル選手団
日付 1972年9月5日 - 9月6日
5日4時30分(UTC+1) – 6日0時4分(UTC+1)
攻撃手段 殺人人質
死亡者 17名(人質11名、犯人5名、警官1名)
犯人 黒い九月
容疑者 アリ・ハッサン・サラメ
動機 パレスチナ人の釈放

ミュンヘンオリンピック事件(ミュンヘンオリンピックじけん)は、1972年9月5日、旧西ドイツミュンヘンパレスチナ武装組織黒い九月」により行われた人質事件。実行グループの名前から「黒い九月事件」とも呼ばれる。ミュンヘンオリンピック開催中に発生し、イスラエルアスリート11名が殺された殺人事件として知られる。

事件の概要[編集]

発覚[編集]

1972年9月5日4時40分頃[1]ミュンヘンオリンピック選手村黒い九月のメンバー8名が、敷地のフェンスを乗り越えて侵入した。メンバーは、持ち込んだAK-47等の自動小銃や手榴弾などで武装・覆面した上で、午前4時頃選手村内のイスラエル選手団宿舎へ突入した[2]。この時彼らがフェンスを乗り越えているのを目撃している警備員がいたものの、夜間に外出した選手達が人目を忍んで戻ってきただけだと思い気に留めなかったという。

犯人グループは上階のイスラエル選手団居住フロアに侵入、抵抗したユダヤ系アメリカ人選手とレスリングのコーチ、モシェ・ワインバーグの2名を殺害し、死亡したワインバーグを庭先へ放置した後、9名を人質に取った[2]。なおこの襲撃時に1人は窓から飛び出して脱出しており、彼が一時拘束された中での唯一の生存者である。

午前5時30分ごろ、警察官がワインバーグの遺体を発見、その際に立てこもる黒い九月側に気づき、事件が発覚した。黒い九月の占拠部隊は宿舎から2ページの宣言文からなる犯行声明を警察側へ投げ入れ、イスラエルに収監されているパレスチナ人234名(日本人の岡本公三も含む)を午前9時までに解放するよう要求した[1]。この事件は、午前6時20分にはテレビの生中継で報道が始まり、事件の最後まで実況中継されることとなる[2]

交渉[編集]

やむを得ず、地元警察は時間稼ぎのため交渉を行なうことにした。午前8時45分ごろ、ミュンヘン警察本部長はオリンピック関係者2人とともに玄関先で占拠部隊のリーダーと交渉を行い、まだイスラエル当局と協議中であることにし、期限を午後0時まで延長させた。ただし、解放されなければ人質2人を射殺する条件であった[2]。西ドイツは、事件発覚直後からイスラエルとの交渉を開始したが、イスラエルの首相ゴルダ・メイアはこの要求を拒否すると共に、イスラエル軍部隊による事態解決を西ドイツに打診するが、西ドイツの法律は外国軍の国内での活動を制限していたこともあり、西ドイツ側は自国で対応するとして拒否した(イスラエルの特殊部隊派遣は西ドイツ側に侮辱だとして受け取られてしまうと思ったために、打診すらしなかったという説もある)。

これにより西ドイツ当局は交渉による解決を一切断念することに追い込まれ、武力のみの解決を強要されることになった。しかし、この時点では当局側は占拠部隊の正確な人数が判っていなかったため、イスラエルと交渉中であると騙し、何度も期限延長させていた。午後5時頃、当局側はオリンピック関係者を人質の確認と称して宿舎へ潜入させることに成功した。このオリンピック関係者がそのとき見た占拠部隊のメンバーの人数は5人であることから、当局側は5人と断定して突入の準備を行い、地元警察側に突入部隊を編成して突入直前までいったが、テレビやラジオで実況中継されていたため、占拠部隊に気がつかれてしまい中止することになった。その後、交渉が行なわれ、占拠部隊は飛行機エジプトの首都カイロへ脱出することを要求し、当局はそれに合意した。午後10時ごろ、占拠部隊と人質は宿舎の地下から当局が用意したバスで宿舎から200m離れた草地へ移動、そこから2機のヘリコプターで空港まで行き、その後は用意された飛行機に乗り移って国外に脱出する手筈であった[2]。だがこれは表向きの話で、実際はバスでの移動途中、もしくは空港で犯人グループを狙撃し、人質を解放する計画であった。

終結[編集]

ルフトハンザ航空のボーイング727

午後10時30分、占拠部隊と人質を乗せたヘリコプターがフュルステンフェルトブルック空軍基地(Fürstenfeldbruck)に着陸した。基地には、占拠部隊を狙撃するために警察官が待ち構えていた。狙撃する警察官は軽装で、H&K G3の一般警察用モデルを使用し、管制塔バルコニーに3人と滑走路上に2人が向かい合うように配置されていた。占拠部隊のリーダーと副リーダーは、安全の確認のために、用意されたルフトハンザドイツ航空ボーイング727へ入ったが、誰もいない機内を不審に思い、ヘリコプターへ走って逃げた。その時、滑走路上の狙撃手の1人が発砲し副リーダーは太ももを負傷したが、リーダーがヘリコプターまでたどり着き、双方が応戦を始めて銃撃戦になった。占拠部隊はヘリコプターに立てこもり、狙撃手も応援部隊を待つことにした[2]

午後11時30分頃、警察の応援部隊が到着した。ゲリラの1人が手投げ弾で自爆し、人質が乗ったヘリコプターが爆発、炎上した。人質たちは、両手を後ろ手に縛られ、目隠しのまま、数珠つなぎにされていたため逃げることができなかった[3]。結果的に人質9名全員と警察官1名が死亡するなどして事件は最悪の結果で終結した。犯人側は8名のうちリーダーを含む5名が死亡し、残りの3名は逃走を図るが、その後逮捕された[2]。だがこの3名は同年10月29日ルフトハンザ航空615便ハイジャック事件で解放されることになる[4]

イスラエルではオリンピックの中止を求めるデモも起きたが、反ユダヤ的言動で知られたアベリー・ブランデージIOC会長により続行が指示された。

9月6日午前10時からオリンピック・スタジアムで8万人の観衆を集めて、イスラエル選手団の追悼式が行われた。同日午後4時50分、オリンピックは34時間ぶりに再開された[5]

犠牲者[編集]

ミュンヘンオリンピック公園に設置された犠牲者の慰霊プレート

人質[編集]

  • モシェ・ワインバーグ - レスリングコーチ
  • ユセフ・ロマーノ - ウェイトリフティング選手
  • ゼエブ・フリードマン - ウェイトリフティング選手
  • ダヴィド・バージャー - ウェイトリフティング選手
  • ヤコブ・スプリンガー - ウェイトリフティング審判員
  • エリゼル・ハルフィン - レスリング選手
  • ユセフ・ガットフルンド - レスリングレフェリー
  • ケハト・ショーア - 射撃コーチ
  • マーク・スラヴィン - レスリング選手
  • アンドレ・スピッツァー - フェンシングコーチ
  • アミツール・シャピア - 陸上コーチ

警察官[編集]

  • アントン・フリーガーバウアー

犯人[編集]

  • ルッティフ・アフィフ
  • ユスフ・ナザール
  • アフィフ・アハメド・ハミド
  • カリド・ジャワード
  • アハメド・チク・ター

人質救出作戦の失敗要因[編集]

この事件では、以下の失敗が被害拡大を招いたとされる[2]

主な要因としては、

  • 人質救出作戦に従事した警察官のほとんどは地元警察の一般警察官であり、現場指揮官や実行者には、テロ対策などの高度な専門訓練を受けた経験がほとんど無かった
  • 情報が不足していた上、マスコミの実況中継で警察の動きは犯行グループ側に筒抜けだった
  • 基地には簡易な作業灯しかなく、強力な照明装置や暗視スコープ等が無かったにもかかわらず深夜の狙撃を断行した
  • 当時は携帯型無線が大型で、運用には大規模設備と専門要員が必要であったため部署や現場間での連絡が困難であった
  • 狙撃手の銃はスコープの付いていない一般用アサルトライフルH&K G3)であったため、まともに狙撃できる状況ではなかった
  • 犯人は5人しか居ないという間違った情報から作戦をたてたために5人の狙撃手しか用意しておらず、その「狙撃手」にしても射撃の成績が良いという理由で集められた警察官達で狙撃の専門的な訓練を受けていなかった
  • ヘリコプターが所定の位置とは異なる場所に着陸したため、着陸段階から狙撃が不可能になっていたにもかかわらず計画をそのまま続行させた
  • 犯人を油断させるために用意したルフトハンザ機には、待ち伏せした警察官が準備していたが、直前で抗命されたので、急遽、多数決を行い、反対多数であったので、警察官達は逃げてだれもいなくなっていたので警戒されてしまった

などが挙げられている。

これらの多くは、ボン基本法上の制約で平時における西ドイツ軍のドイツ国内での軍事行動が認められていなかったことに起因する。

その後[編集]

1973年12月28日、イスラエル選手団居住棟が、マックス・プランク研究所に寄付され、集会所などとして利用されることになった[6]

1977年1月、PLOのメンバーで、黒い九月の創始者の1人、アブ・ダウドがパリで逮捕された[7]

西ドイツ当局はこの事件について、公式に調査・検証を行うことなどはしていない[2]

西ドイツ政府はこの事件の結果を受け、対テロ特殊部隊国境警備隊第9グループを創設。狙撃に失敗した教訓を取り入れて、銃器メーカー各社にセミオートの狙撃用ライフル設計を依頼。これに応じH&KPSG-1を開発した。ワルサーWA2000を開発したが、採用には至っていない。また、この事件が要因で、先進国が対物ライフルの遠距離からの狙撃が行える50口径クラスのライフルの開発を行った(対物ライフル#歴史を参照)。

イスラエルによる報復作戦[編集]

この事件に対し、イスラエル政府は報復として空軍PLOの基地10カ所の空爆を命じた(イスラエルによるシリア・レバノン空爆 (1972年)英語版)。これにより、65名から200名が死亡した。

神の怒り作戦[編集]

ゴルダ・メイア首相

イスラエルは空爆に続いて、さらなる報復および同様のテロの再発を防ぐことを名目に、黒い九月メンバーの暗殺を計画。ゴルダ・メイア首相と上級閣僚で構成される秘密委員会を設置した。委員会はイスラエル諜報特務庁(モサド)に対して、ミュンヘンオリンピック事件に関与した者の情報収集を行なわせ、これに基づき委員会は暗殺の対象を決定、モサドの「カエサレア」と呼ばれる特殊部隊に暗殺を指示していたとされる。この秘密作戦には「神の怒り作戦英語版」もしくは「バヨネット作戦」というコードネームがつけられているとされる。

最初に暗殺されたのはアラファト議長のいとこで翻訳家のワエル・ズワイテルで、ローマの自宅アパート内で射殺されている。その後もモサド工作員はターゲットを銃、あるいはリモコン式の爆弾で次々と暗殺した。だが、黒い九月も反撃を開始し、モサドの工作員、協力者などを殺害している。

イスラエル軍とモサドは1973年4月9日ベイルートにあるPLOと黒い九月の幹部らが宿泊していたアパートを奇襲した(イスラエルによるレバノン襲撃 (1973年)英語版)。カマル・ナサラユーセフ・ナジャールカマル・アドワンの幹部3名を殺害。この時、暗殺部隊はイスラエルから船でベイルートに移動し、敵の目を欺くために半数は女装していたが、警備兵に気付かれて銃撃戦になり、強行突入の末に幹部を射殺したとされる。当時のベイルートはPLOの本拠地であり、敵中における軍事作戦であった。部隊を指揮していたのは後のイスラエル首相となるエフード・バラクで、彼も女装して幹部らのアパート襲撃に加わった。

モサドによる暗殺計画は、人違いにより無関係な一般市民を射殺したことから明るみに出ることになる。ノルウェーリレハンメル1973年7月21日、モサドはミュンヘンオリンピック事件の黒幕とされるアリ・ハッサン・サラメらしき男性がバス停にいるところを射殺したが、この男性は全く無関係のモロッコ人であった。この事件でモサド工作員5名はノルウェー捜査機関に逮捕され、車や名簿などが押収された。この時逮捕された工作員が、ヨーロッパ各国におけるモサドの暗殺計画を自白したため、ヨーロッパ各国はイスラエルの行動に懸念を示すことになるが、モサドによるサラメの暗殺計画は続行された。

その後、モサドはベイルートにサラメがいることを突き止めると、イギリス国籍を持つ女性工作員のエリカ・チャンバースをベイルートへ派遣する。チャンバースは難民を支援する慈善活動家を名乗ってベイルートで活動し、サラメの行動確認を行った。1979年1月22日、暗殺部隊とチャンバースは彼の車が通る場所に車爆弾を仕掛け、通過した際に彼を車ごと爆破して殺害した。チャンバースは暗殺後すぐに出国して姿を消し、サラメの殺害により作戦は終結したとされる。

これらの作戦についてイスラエルとモサドは正式な発表を行なっていないが、20名以上のパレスチナ武装組織の人間が暗殺されたといわれる。

2005年に公開されたスティーヴン・スピルバーグ監督の映画『ミュンヘン』はこの「神の怒り作戦」に関わったアヴナー(仮名)という工作員の実話に基づくものとされている。しかし、イスラエル政府やモサドの元高官などはこの事を否定している。

関連作品[編集]

書籍[編集]

  • 『標的(ターゲット)は11人 モサド暗殺チームの記録』 ジョージ・ジョナス著、新潮社
  • 『暗殺チーム』 デヴィッド・ティニン著、集英社
  • 『ミュンヘン・オリンピック テロ事件の黒幕を追え』 マイケル・バー=ゾウハー、アイタン・ハーバー共著、横山啓明訳、ハヤカワ文庫NF、2006年
  • 『ミュンヘン 黒い九月事件の真実』 アーロン・J・クライン著、富永和子訳、角川文庫、2006年

映画[編集]

放送[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b 人質10人の氏名発表/ミュンヘン五輪選手村襲撃事件 読売新聞 1972年9月6日 朝刊 1頁
  2. ^ a b c d e f g h i ナショナルジオグラフィックチャンネル 衝撃の瞬間4 第3話「ミュンヘンオリンピック事件」による
  3. ^ 西独、救出強行し失敗 人質のヘリ爆発 ゲリラが手投げ弾 ミュンヘンの空港銃撃戦 読売新聞 1972年9月6日 夕刊 1頁
  4. ^ ミニ解説 ミュンヘン五輪事件 読売新聞 1979年1月24日 朝刊 5頁
  5. ^ オリンピックは続行 会期一日延長、今暁再開 読売新聞 1972年9月7日 朝刊 1頁
  6. ^ イスラエル選手村が集会所に"変身" 読売新聞 1973年12月30日
  7. ^ PLO最高幹部パリで逮捕 ミュンヘン五輪事件の首謀者 読売新聞 1977年1月10日 朝刊 4頁

関連項目[編集]

外部リンク[編集]