アリー・ハサン・サラーマ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

アリー・ハサン・サラーマアラビア語: علي حسن سلامة‎、Ali Hassan Salameh1940年? - 1979年1月22日)は、黒い九月の作戦に関わり(コードネームはアブー・ハサン)、ミュンヘンオリンピック事件(1972年)などの襲撃の中心人物で、フォース17の創設者でもある。日本では英語式にアリ・ハッサン・サラメと呼ばれることが多い。

生涯[編集]

アリー・ハサン・サラーマはパレスチナの町、クラにあった裕福な家庭に生まれた。1948年にジャッファの北でイスラエルとの戦闘で死亡したシャイフ・ハサン・サラーマの息子であった。ドイツで教育を受け、カイロモスクワで軍事教練を受けたと考えられている。

「赤い王子」という愛称から分かるように、彼はパレスチナの若者から非常に幅広い人気を得た。イスラエルと戦う間も、「赤い王子」は美女に囲まれ、スポーツカーを乗り回すことで財産を誇示した。1978年には、1971年度のミス・ユニバースだったレバノンの有名人、ジョルジーナ・リザーク(Georgina Rizk)と結婚した。別れた妻との間に子供がいた。

ミュンヘンオリンピック事件以後、神の怒り作戦でイスラエル諜報特務局(モサド)に狙われることになった。1973年モサドは間違えて無関係のモロッコ人給仕Ahmed Bouchikiノルウェーで殺した。

その後、モサドは1979年1月22日にベイルートでサラーマを暗殺。爆発で別の8人も死亡した[1]

サラーマはPLOとアメリカCIAの間を1970年から死ぬまで取り持っていたといい、アメリカ人の安全を金銭面や政治的な支援で保証していたという[1]。ベイルートのアメリカ人の保護を手助けし、アメリカからのパレスチナへの支援を得る目的でパレスチナとアメリカの接触を容易にする役割があった。

アリー・ハサン・サラーマは暗殺の標的の一人としてスピルバーグの映画「ミュンヘン」に取り上げられている。スパイ小説「無実のエージェント」でJamal Ramlawiという名前で出ている[2]

死去[編集]

モサドは、1972年のミュンヘンオリンピック事件の対抗措置としての神の怒り作戦(Operation Wrath of Godを実施するに当たり、サラーマを最重要の標的としていた。

サラーマがベイルートに在住しているという情報をもとに、モサドイギリス国籍を持つ女性工作員のエリカ・チェンバース(Erika Chambers)をベイルートへ派遣した。チェンバースはパレスチナ難民を支援する慈善活動家を名乗ってベイルートで活動し、レバノン政府に匿われていたサラーマの所在を確認する。

チェンバースはサラーマの自宅近くにあるマンションに視察拠点を設置し、マンションのバルコニーからサラーマの外出と帰宅の様子を視察していた。チェンバースはサラーマが昼食時に一時帰宅する日課があることを割り出した。

1979年1月22日、チェンバースはカエサレア(モサド特殊部隊)隊員とともに、サラーマの通る道に自動車爆弾をセットした。サラーマの車列が通り過ぎると、チェンバースはリモコンで爆弾を爆発させ、サラーマと他の8人を殺害した。この爆発で彼のボディーガードの他に近くを歩いていた市民も死亡した[2]

当時のPLO議長ヤーセル・アラファートは「我々はライオンを失った」と述べてその死を悼んだという。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • Massacre in Munich: The Manhunt for the Killers Behind the 1972 Olympics Massacre, Michael Bar Bar-Zohar, Eitan Haber.
  • BBC News article on the Bayonet/Wrath of God operation [3]

脚注[編集]

  1. ^ Shalev, Noam 'The hunt for Black September'BBC News Online、2006年1月26日、2006年3月14日にアクセス。
  2. ^ アラファト議長の腹心重体 自動車に爆弾 読売新聞 1979年1月23日 朝刊7頁

外部リンク[編集]