日本人
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日本人(にほんじん、にっぽんじん)とは一般に日本国の国籍を持つものである。しかし、日本国内では大和民族以外の民族が非常に少ないため、日本人という単語は一般に大和民族を指す人種的ないし民族的な範疇としても流通している。このことから、学術的、また、政治的にも議論の争点となることがある。以下、各項目で詳細を記述する。
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[編集] 概要
日本では、国籍、文化・習俗・民族、遺伝的形質のそれぞれを基準とした分類による「日本人」の対象が重なる割合が比較的高いと認識されているため、概念的にもどの基準によるものかは日常的には明確にされず、しばしば混同される。
[編集] 分類
日本人は、大方、以下のように分類される。
- 国家による分類 - 日本国民[1][2]。
- 地理的分類 - 日本列島に居住する者。
- 人類学的分類 - モンゴロイドの一つ。皮膚は白色または黄色、虹彩は黒褐色、毛髪は黒色で縮毛または直毛。言語は日本語[1]。旧石器時代または縄文時代以来、現在の北海道から沖縄諸島(南西諸島)までの地域に住んだ集団を祖先に持つ[3]。
- 民族的分類[4]:日本国において98.5%の多数派[5]を占める民族である大和民族(日本民族また和人ともいう[6])のこと[7]。
[編集] 民族としての形成
以下、上記民族的分類による日本人について概説する。なお、近年の科学的研究の進展により従来の見方は大きく見直しがすすんでいる。
[編集] 縄文人と弥生人
先史時代の日本列島に住んでいたものを縄文人とよんでいる[8]。縄文時代末期・弥生時代に日本列島に移住したものを弥生人といい、その移動ルートについては諸説ある(下記「学説」参照)。
弥生人と縄文人は他の地域(ユーラシア大陸やサフル大陸など)での混合よりもその度合いが高いことから、比較的穏やかに交わっていったと推定されている。無論、部族間戦争は多数あったと推定される。時代は下るが、例えば、倭国大乱などが中国の歴史書に記されている。
ヤマト王権など倭(後年、大和と改名される)民族を中心とした社会が台頭するとともに、他の住民たちは征服されていった。東方の蝦夷、南方の熊襲と呼ばれた在来人と推定される部族は抵抗したが、隼人の反乱の失敗や、坂上田村麻呂の活躍などによって征服され、後に大和に同化した。後年には、白村江の戦い以後、倭国の同盟国百済からの亡命者も移住し、大和民族に溶け込んでいった。
このように、縄文人も弥生人もそのルーツはユーラシア大陸や南方から移住・渡来した人々にあり、それぞれがハイブリッドとしての日本の民族集団を形成する一部となっていった。大和民族が朝廷権力とともに勢力を拡大した後に「日本」という枠組みの原型がつくられ、その後、文化的・政治的意味での日本民族が徐々に形作られていくとされる。もっとも、完全に同化されない少数民族は常に存在したし、「日本民族」というような認識(アイデンティティ)が多数者に浸透していくのは明治時代(近代国民国家の成立期)ともいわれる(小熊英二『日本単一民族神話の起源』『「日本人」の境界』)。なぜならば、19世紀当時、アメリカ・ヨーロッパ各国の白人を主体とする列強諸国が東南アジアを中心に植民地を広げている社会情勢から、国民の意識の統一を目指して列強諸国に対抗できる国にしてゆかなければならなかったのである。
旧琉球王国地域については大和民族の一支族とする主張が伊波普猷などによって提起される一方、文化・歴史の違いなどを抽出して、独自の民族としての琉球民族とする考えもある(沖縄学や琉球語などを参照のこと)。
[編集] ネーションステート下の認識
日本が近代ネーションステート(国民/民族国家)として朝鮮半島、台湾島、南樺太などを領有していた時代には、日本人という語は、公式には、朝鮮人、台湾人など日本国籍を付与された植民地の先住民族を含む国籍的概念であった。大日本帝国が多民族国家であることは強く意識され、現在の日本国民に相当する人々は内地人と呼ばれた。ただし、当該の先住民族の間では日本人が内地人と同義として使われることが多かった。
南樺太に住んでいたロシア人、ポーランド人、ウクライナ人、ドイツ人、朝鮮人、ウィルタやニヴフのなかには日本国籍をもっていたものもいた。そのため、第二次世界大戦後、ソ連によって「日本人」として北海道に強制送還された朝鮮人、ウィルタ、ニヴフがいた。また、反ソ分子として抑留された者もいた。ポーランド系日本国民の多くはポーランド国籍を取得しポーランドに移住した。
[編集] 学説による説明
[編集] 縄文人からの連続を示す説
東大人類学教室の長谷部言人、鈴木尚は豊富な発掘調査をもとに、日本人が時代を通じて変化してきたこと、明治以降の例でもわかるように、混血等がなくとも急激に形質が変化しうることを示し、一見、形質が大いに異なる縄文人と弥生人の間でも、実は連続していて、外部からの大きな遺伝子の流入を仮定する必要はないと主張し、1980年代半ばまで有力な説であった(これは「変形説」と呼ばれる)。
現代では、松本秀雄がGm遺伝子の観点から、日本人の等質性を示す「日本人バイカル湖畔起源説」を提唱しており[9]、また、ヒト白血球型抗原の遺伝子分析により、現代日本人は周辺の韓国人や台湾人よりも等質性が高い民族であるとの報告もある[10]。 加えて、日本人(アイヌを含む北海道から沖縄県まで)は遺伝学的には大差はなく、比較的均一性が高いとする説がある。根井正利は、「現代人の起源」に関するシンポジウム(1993 京都)にて、(アイヌを含む北海道から沖縄県までの)日本人は約3万年前から北東アジアから渡来し、弥生時代以降の渡来人は現代日本人の遺伝子プールにはほんのわずかな影響しか与えていないという研究結果を出した[11][12]。
考古学の観点からは、弥生早期の遺跡に外来系の土器が玄界灘に面した大きな遺跡からしか発見されていないことから、弥生人(渡来系)の人数を一割程度に見積もる研究者が多い[13]。一方で、人類学者による研究では大量の渡来があったとされ(埴原和郎で100万人、宝来聰で65%が渡来系)、この両者の違いがあったが、人類学者の中橋孝博らによる人口シミュレーションにより、農耕民の弥生人は狩猟民である縄文人よりも人口増加率が高いことが示され、渡来が少数でも数百年で圧倒的な数になることが示された[13][14]。また、逆に少数派が多数派に4-5世代のうちに取り込まれることが世界各地で確認されており、うえの説が成り立つには縄文系と弥生系の完全な隔離や縄文系が行っていた稲作などの問題点も推察できる。
[編集] 二重構造説
一方、日本人が混血によって成立したという考えも、幕末、明治のシーボルトやモースの考察に早くからみられ、記紀神話などを参考に、在来の原住民を天孫族が征服して日本人が形成されたという論は盛んであった。京都大学の清野謙次の論などが「混血説」の代表である。第二次世界大戦後、長谷部=鈴木ラインの説が唱えられると、一時期、表だって主張されにくい傾向があったが、おなじ東大系の鈴木尚の弟子である埴原和郎が、1980年代半ばに日本人の起源は南方系の縄文人と北方系の弥生人であるとする二重構造説を唱えるに至って、一躍重層構造説が息を吹き返した。もとより、縄文人(アイヌ含む)を南方系、弥生人を北方系とする仮説は異論も多いが、日本人の重層性は有力視されるに至っている。尾本恵市が1995年に出した系統図では、日本人は朝鮮人、チベット人と同じ枝に位置づけられ、アイヌ人とは異なるとしており、1997年に出した系統図では、本土日本人はアイヌや沖縄県人、チベットと近く、韓国人、中国人とは離れているという結果を出しているが、いずれにせよある種の二重構造論となっている。しかし、同時に埴原の原日本人(アイヌを含む縄文人)の南方起源説には賛成しかねると述べている[15][16]。篠田謙一は、現代日本人のハプログループ頻度は韓国や中国東北部に非常に近く(北東アジア集団)、これは縄文人も弥生人も大陸から渡来し広がったことを裏付けているとする[17]。 宝来聰は、前出の根井らの研究に対して、ミトコンドリアDNAだけでも65%は渡来系由来であると反論しており、また、Y染色体の研究とも両立せず、縄文人は弥生人より歯が小さいことから、後者は前者の子孫ではあり得ないとするアメリカのブレイスらの研究とも両立しないと主張している[11]。
日本人が重層構造であることは人類学者・考古学者の間では支持する意見が強く、また、分子人類学的なDNA解析(ハプログループによる地域的分布の解析)もあくまで生物学的データであり、文化的な交流や、実際の移動の実態および移動の理由などについては、今後も、文化人類学、歴史学、考古学など周辺諸科学の総合的な調査が求められる。
[編集] 分子人類学による説明
[編集] ミトコンドリアDNA
1980年代からのミトコンドリアDNA研究の進展により、ヒトの母系の先祖を推定できるようになった(ミトコンドリア・イブ参照)。これにより、アフリカ単一起源説がほぼ証明され、また民族集団の系統も推定できるようになった。ただし、ミトコンドリアDNAは形態の生成に関与しない遺伝子であり、DNAタイプ(ハプロタイプ)と形質的特徴(骨格、体格、顔、皮膚など)とは必ずしも対応しないとされている[18]。
[編集] Y染色体による系統分析
母系をたどるミトコンドリアDNAに対して、父系をたどるY染色体は長期間の追跡に適しており、1990年代後半から研究が急速に進展した[19][20][21]。ヒトのY染色体のDNA型はAからRの18系統があり、これらはアフリカ限定のA系統とB系統、出アフリカのC系統、DE系統、FR系統に分けられる[22]。崎谷満の分析によれば、これら5系統のうち、世界の多くの地域ではせいぜい2系統しか見られないが、日本人にはC,DE,FRの出アフリカ3系統すべてがみられ、従来の予想に反して日本人の遺伝子は多様であることが分かった。以下にY染色体のDNA型の比率を示す[22]。複数の研究成果をまとめたものなので[22]、合計が100%にならない。空欄は資料なしで、必ずしも0%の意味ではない。
| C | DE | FR | |||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| C1 | C3 | D1 | D2 | D3 | N | O1 | O2a | O2b | O3 | ||
| 日本 | アイヌ | 0 | 13 | 0 | 88 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 青森 | 8 | 0 | 0 | 39 | 0 | 8 | 0 | 0 | 31 | 15 | |
| 東京 | 1 | 2 | 1 | 40 | 0 | 0 | 3 | 1 | 26 | 14 | |
| 静岡 | 5 | 2 | 0 | 33 | 0 | 2 | 0 | 0 | 36 | 20 | |
| 徳島 | 10 | 3 | 0 | 26 | 0 | 7 | 0 | 0 | 33 | 21 | |
| 九州 | 4 | 8 | 0 | 28 | 0 | 4 | 2 | 0 | 36 | 26 | |
| 北琉球 | 4 | 0 | 0 | 39 | 0 | 0 | 0 | 0 | 30 | 16 | |
| 南琉球 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 67 | |||||
| 北アジア | オロチョン | 91 | 0 | 0 | 0 | ||||||
| エヴェンキ | 68 | 17 | |||||||||
| 満州 | 27 | 4 | 0 | 4 | 38 | ||||||
| ブリヤート | 84 | 28 | 0 | 2 | 2 | ||||||
| ハルハ(モンゴル) | 52 | 1 | 1 | 0 | 0 | 23 | |||||
| ユカギル | 50 | 25 | |||||||||
| コリャーク | 33 | 33 | |||||||||
| チュクチ | 25 | 25 | |||||||||
| ケット | 17 | ||||||||||
| ニヴフ | 38 | ||||||||||
| 東アジア北部 | 朝鮮 | 12 | 3 | 0 | 51 | 38 | |||||
| 漢民族(華北) | 5 | 2 | 0 | 66 | |||||||
| 回 | 6 | 0 | 0 | 28 | |||||||
| チベット | 3 | 16 | 33 | 0 | 0 | 33 | |||||
| 東アジア南部・ 東南アジア |
漢民族(華南) | 5 | 15 | 30 | 0 | 33 | |||||
| 漢民族(台湾) | 11 | 7 | 0 | 60 | |||||||
| 台湾 | 65 | ||||||||||
| イー | 16 | 9 | 0 | 33 | |||||||
| トゥチャ | 18 | 3 | 0 | 0 | 53 | ||||||
| ミャオ | 4 | 7 | 7 | 11 | 0 | 71 | |||||
| ヤオ | 2 | 2 | 3 | 0 | 52 | ||||||
| シェ | 2 | 35 | 0 | 63 | |||||||
| チワン | 11 | 68 | 0 | 16 | |||||||
| タイ | 47 | 6 | |||||||||
| ベトナム | 4 | 3 | 6 | 36 | 14 | 41 | |||||
| マレー | 11 | 3 | 9 | 28 | 0 | 31 | |||||
| ジャワ | 23 | 42 | |||||||||
| フィリピン | 41 | 1 | |||||||||
日本人は、D2系統とO2b系統を中心に、多様な系統が混じり合っていることが分かる。 また、このD系統はYAP型ともいわれ、 アジア人種よりも地中海沿岸や中東に広く分布するE系統の仲間であり、 Y遺伝子の中でも非常に古い系統である。 東アジアの地域全体にはアジア系O系統が広く分布し、 島国の日本や山岳のチベットにのみD系統が残ったと考えられる。
[編集] 崎谷満に対する説明
以下、前掲崎谷の分析に依拠して説明する。最初に日本列島に到達し、後期旧石器時代を担ったのはシベリアの狩猟民であるC3系統である(2-3万年前)。バイカル湖周辺からアムール川流域およびサハリンを経由して、最終氷期の海面低下により地続きとなっていた北海道に達した。また、一部はさらに南下し、北部九州に達した。細石刃石器を用い、ナウマンゾウを狩っていたと考えられる。
その後、一万数千年前に、大陸からD2系統が入ってきた。これが縄文人である。D2は日本だけで見られる系統であり、アイヌ88%、沖縄県56%、本州42-56%で、朝鮮半島では0%である。近縁のD1,D3がチベットで見られる。D系統は華北で東西に分かれ、東がD2、西がD1,D3になったと考えられる。
同じころ、経路は不明であるが、インドに起源を持つC1系統が南方から入ってきた。貝文土器を用い、縄文人とは異なる文化を南九州に築いた。
O1系統は台湾が起源であり、オーストロネシア語族との関連が想定されている。台湾と近いにも関わらず、日本列島ではO1はごく少数に過ぎない。
O2a/O2b系統は長江文明の担い手だと考えられている。O2b系統が移動を開始したのは2800年前である。長江文明の衰退に伴い、O2aおよび一部のO2bは南下し、百越と呼ばれた。残りのO2bは北上し、山東省、朝鮮半島、日本列島に達したと考えられる[23]。長江文明の稲作を持ち込んだと考えられる[24]。
O3系統は黄河中上流を起源とし、漢民族に典型的に見られる他、周辺の諸民族にも広く見られる。歴史的にO3は一貫して拡大しており、このためにD系統およびO2系統が駆逐されたと考えられる。
日本列島の特異な点は、D2やO2bなど、大陸で敗者となった集団、または新しい地を求めて移動して来た集団が、絶滅せずに混じり合って存在していることである。その他にもC1,O1,O3など多様な遺伝子集団を吸収し、保持し続けている。
一方、ミトコンドリアのハプログループに注目すると、日本には世界で(主に)日本人にしか見られないM7aというグループがある[25]。これは台湾付近で発生したと考えられ、沖縄・アイヌに多く本州で少ないという特徴的な分布をしている(Mグループについて、M7aは台湾沖縄から朝鮮半島中国北東部への北上。M7b,cは南方及び中国沿岸へ)。
[編集] 稲作の起源とその考古学的分析
日本人の渡来ルートを知るために稲作の渡来ルートを考える研究があり、いくつかの説が存在している。
かつて、佐々木高明らによる照葉樹林文化論は、稲作が中国雲南省などの山間部における陸稲を発祥としていると主張していたが、近年、長江文明の全貌が明らかにされるにつれ、稲作は長江下流域の水稲耕作を発祥とする説が有力視されつつある。
従来、稲作は弥生時代に朝鮮半島経由で来たとされてきたが、2005年岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲のプラントオパールがみつかっており[26]、縄文中期には稲作をしていたとする学説が多数出た[27][28][29][30]。それに加え、遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代までみつからないこと、朝鮮半島で確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり、畑作米の確認しか取れず、日本よりさかのぼれないこと、極東アジアにおけるジャポニカ種の稲の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部からジャポニカ種の遺伝子の一部が確認されないことなどの複数の証拠から、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート)による伝来である学説が見直され、逆に、日本から朝鮮半島へ伝わった可能性を指摘する佐藤洋一郎の説が有力視されている[31]。一方、これらに対して農学者の池橋宏は、従来の「縄文稲作農耕」説は農学的にみても疑わしく、日本の稲作は江南を起源とし、朝鮮半島南部を経由して最初から完成された形で北九州に持ち込まれた可能性が高いと主張している[32]。ただし、稲作自体は縄文時代からあったものであり、池橋説には確かな考古学的確証は見当たらない。
[編集] 言語
詳細は「日本語の起源」を参照
日本語の起源は、従来、アルタイ諸語やオーストロネシア語族との関連が想定されてきたが、比較言語学的にはまだ証明されていない。長江文明の担い手のO2系統はオーストロアジア語族だったと考えられ、南下したO2a系統では言語を保持しているが、北上したO2b系統では朝鮮半島でも日本でも元の言語を失い、移住した土地の言語を受け入れたと考えられる。
[編集] その他
- 日本人の標準体型(国民健康・栄養調査報告 平成15年度)
- 「邦人(ほうじん)」という言葉は元来「自国の人」という意味である。日本においては一般的に日本人のことを指し、特に、日本国外に居留する日本人に対して使われることが多い。例として、日本国外で事件や事故、天災などが起こった場合、ニュースなどで「邦人」の言葉が使われ、彼らの被害や消息を伝えている。邦人といった場合、日本在住の外国人や日系人は含まないことが多い。
- リュドミラ・スキルダ(ウクライナの詩人でキエフ大学准教授、ユリー・コステンコ前駐日大使夫人)が著書『日本の国民性』で述べたところによれば、“日本人は快楽主義である”という[33]。
[編集] 脚注
- ^ a b “日本人”. 広辞苑().
- ^ 日本国憲法第10条
- ^ “日本人”. マイペディア. 平凡社().
- ^ 小熊英二『日本単一民族神話の起源』(1995)、『「日本人」の境界』(1998)
- ^ "The World Fact Book -- Japan". CIA. 2008-04-11 閲覧。
- ^ “大和民族”. 広辞苑. 岩波書店().
- ^ この用法の場合は国家的分類と異なり、アイヌ民族等の他民族は含まない。また、国内外の日系人も含まない事が多い。
- ^ なお、佐原真はこの語の原義である「縄紋土器を使用していた人間」ということを強調するために「縄紋人」という呼称を提唱している。
- ^ 松本秀雄 (1992), 日本人は何処から来たか — 血液型遺伝子から解く, 日本放送出版協会, ISBN 978-4140016527
- ^ 李成柱 (2001), “血液分析により民族の移動経路を判明する”, 東亜日報 2008-04-14 閲覧。
- ^ a b 宝来聰『DNA 人類進化学』(岩波書店、1997)』要ページ表記
- ^ 月刊誌「選択」2007年12月号
- ^ a b 篠田謙一『日本人になった祖先たち 』(2007)p185
- ^ 『日本人はるかな旅・5/そして日本人が生まれた』(NHK出版)
- ^ 尾本恵市 (1996), 分子人類学と日本人の起源, 裳華房, ISBN 978-4785386382 要ページ表記
- ^ 斉藤成也『DNAからみた日本人』筑摩書房 p56
- ^ 篠田謙一 (2007), 日本人になった祖先たち - DNAから解明するその多元的構造, 日本放送出版協会, ISBN 978-4140910788要ページ表記
- ^ 篠田謙一 (2007), 日本人になった祖先たち - DNAから解明するその多元的構造, 日本放送出版協会,p.32.
- ^ McDonald, J. D. (2005), Y chromosome and Mitochondrial DNA haplogroups 2008-04-14 閲覧。
- ^ National Geographic, ed., Atlas of the Human Journey 2008-04-14 閲覧。
- ^ International Society of Genetic Genealogy, ed. (2007), Y-DNA Haplogroup Tree 2006, 1.24 2008-04-14 閲覧。要引用
- ^ a b c 崎谷満 (2008), DNAでたどる日本人10万年の旅, 昭和堂, ISBN 978-4-8122-0753-6
- ^ 水稲の伝播とあわせて考えると、稲作の伝播が従来の半島経由なら北上した後日本に到達、新説の場合は大陸からの直接ルート。
- ^ O2a/O2bは現在のタイ・ベトナムに住む人たちに当たり、長江文明を築いた現在のタイ系などに当たる人々が黄河文明の担い手であった漢民族(03系統)に駆逐され、南方・北方に散ったということ。日本人とタイ人が遠縁ともいえ、この時代は日本の弥生時代に相当する。
- ^ Haplogroup M7. http://www.ianlogan.co.uk/discussion/hap_M7.htm
- ^ 2005年2月18日共同通信「岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から、稲のプラントオパール大量発見」
- ^ 2005年7月20日読売新聞、西谷正(九州大名誉教授;考古学)の論など
- ^ 「2005年02月19日読売新聞」稲のプラント・オパールが見つかったことは縄文前期の稲の栽培の証拠となるもの(高橋護・元ノートルダム清心女子大考古学教授)
- ^ 新聞「農民」2002.3.11
- ^ 2005年7月17日朝日新聞プラントオパールの発見により少なくとも縄文中期には稲作があったことが確実となった(考古学者;山崎純男)
- ^ 佐藤洋一郎『稲のきた道』裳華房/『DNAが語る稲作文明』日本放送出版協会
- ^ 池橋宏『稲作の起源』講談社
- ^ 当該部分:
- 「永遠の問題をあまり思索せず、すばらしい束の間のはかなさを、これほどまでに重んじる国民を私は知らない。
- 日本人は快楽主義者である。
- そしてこれは議論の余地がありません。」

