ムジャーヒディーン

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ムジャーヒディーンمجاهدين mujāhidīn)とは、アラビア語で「ジハードを遂行する者」を意味するムジャーヒド(مجاهد mujāhid)の複数形。一般的には、イスラム教の大義にのっとったジハードに参加する戦士たちのことを指す。最近はイスラム教による連携した民兵を指すことが多い。

目次

[編集] 起こり

歴史的には、個々のムスリム(イスラム教徒)たちがジハードに対する意識を常にもっていたわけではなく、むしろ近代に至ってイスラム世界に対する侵略に対抗する民衆の抵抗運動において、ムジャーヒド意識が発揮されてきた。19世紀インドで起こった対英ジハード「ムジャーヒディーン運動」は、その代表的なものである。

[編集] アフガニスタン紛争

ムジャーヒディーンの兵士達(1987年)

アフガニスタンで1978年にアフガニスタン人民民主党による共産政権が成立すると、各地で組織された反政府ゲリラが蜂起した。彼らは自分たちの闘争をアフガニスタンのイスラムを防衛するジハードと位置付け、自らムジャーヒディーンと名乗った。代表的な組織にはブルハーヌッディーン・ラッバーニーが組織し、アフマド・シャー・マスードが軍事的に率いた「イスラム協会」や、グルブッディーン・ヘクマティヤールが率いる「ヒズビ・イスラーミー」などがある。1979年ソビエト連邦軍が軍事介入すると、ムジャーヒディーンはこれにも対抗した。彼らはパキスタン軍統合情報局などからの支援を受け、ソ連軍に激しく抵抗した。

アフガニスタンのムジャーヒディーンには、アフガニスタンのみならずイスラム世界の各地から志願兵として若者が集まってきたが、その中心人物がアブドゥッラー・アッザームで、ウサーマ・ビン=ラーディンもその志願兵の1人だったということが知られている。

アメリカもCIAを通じてこのようなゲリラ組織に武器や装備(有名なものではスティンガー対空ミサイルなど)を提供していたが、東側の兵器に比べメカニズムが高度かつ高価であるため、損耗しても修理や補充がきかず次々に失われていったようである。ただし、西側製の装備は上掲のスティンガー [1] や通信機器 [2] など代替が難しいものに限られ、現実的にはAK-47RPG-7など旧ソ連系の兵器 [3] が供与されていた。

ムジャーヒディーンはこれらの援助に対する見返りの手段の一つとして、自分たちがソ連軍との戦闘で鹵獲したAK-74GP-25AGS-172B9自動迫撃砲などのソ連製の最新型歩兵用兵器のサンプルを提供した。

尚、ムジャーヒディンと言われる勢力には親ソ派もおり、人民ムジャヒディン(People's Mujahedin)がよく知られている。

ソ連軍の撤退以降、ムジャーヒディーン各派はアフガニスタンでの主導権をめぐり対立、軍閥化していった。後にパキスタン軍統合情報局が支援するターリバーンが台頭すると、ムジャーヒディーンの諸派は連合し北部同盟としてこれに対抗した。

[編集] 脚注

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  1. ^ 当時、旧ソ連製のSA-7はカンボジア駐留ベトナム軍から多数流出しており入手は容易だったが、SA-7には航空機からのフレア放射で効果的に防御されてしまう欠点があり、駐留ソ連軍も早期にフレア投射による防御を行っていた事から、SA-7供与の効果は低いと考えられていた。
    また、ムジャーヒディーンによって撃墜されたヘリは中国製の高射機関砲によるものが大半と言われており、熱源追尾機能が正常に動作するスティンガーも初期に供与された数本だけで、拡散を恐れた示威的な要素が大きい供与だったとも言われている。
  2. ^ ムジャーヒディーンが装備した無線機や建設用重機、ピックアップ・トラックなどは、大半が日本製のものだった。
    マスード司令官などは、根拠地としたパンジシール渓谷から産出する宝石や貴石などを、日本の甲府へ持ち込んで現金化し、日本でこうした装備を購入していた。
  3. ^ これらの兵器は、ソ連と対立しながらソ連系兵器体系を保持していた諸国から調達されていた。
    初期においては、北朝鮮から中東・アフリカのイスラム圏諸国へ輸出されたものが転売・供与されたものが多かったが、1982年頃から日本の対中援助で技術力・品質が一挙に向上した中華人民共和国の製品が増えた。
    中東で唯一、ソ連系兵器を国産していたエジプトは、1981年にサダト大統領がイスラム原理主義者に暗殺され、国内でのテロ活動も頻発していたため、同じ原理主義者が多く参加していたムジャーヒディーンへの兵器供与には消極的だった。

[編集] 関連項目

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