ヘンリー・キッシンジャー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ヘンリー・キッシンジャー
Henry Kissinger Shankbone Metropolitan Opera 2009.jpg
キッシンジャー、2009年
生年月日 1923年5月27日(90歳)
出生地 ドイツの旗 ドイツバイエルン州フュルト
出身校 ニューヨーク市立大学シティカレッジ
ハーバード大学
現職 外交官
学者
所属政党 共和党
配偶者 アン・フライシャー (1949-1964)
ナンシー・マギネス (1974-現在)
サイン Henry A Kissinger Signature.svg

任期 1973年9月22日 - 1977年1月20日
元首 リチャード・ニクソン
ジェラルド・フォード

任期 1969年1月20日 - 1975年11月3日
元首 リチャード・ニクソン
ジェラルド・フォード
テンプレートを表示
ノーベル賞受賞者 ノーベル賞
受賞年:1973年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:ベトナム戦争の和平交渉

ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャーHenry Alfred Kissinger, 1923年5月27日 - )は、ドイツ出身でアメリカニクソン政権およびフォード政権期の国家安全保障問題担当大統領補佐官国務長官国際政治学者

人物・来歴[編集]

生い立ち[編集]

1923年に、ドイツヴァイマル共和国フュルトに生まれる。本来の姓名はHeinz Alfred Kissingerハインツ・アルフレート・キッシンガー)で、苗字はバート・キッシンゲンBad Kissingen)に由来。父ルイス・キッシンガーは女子高で歴史地理を教え、母パウラ(旧姓シュテルン)はアンスバッハ近郊ロイタースハウゼン出身の富裕な家畜業者の娘。両親ともにドイツ系ユダヤ人である。

亡命[編集]

ハインツは1歳下の弟ヴァルターと共に幸福な少年時代を過ごしたが、1933年に、アドルフ・ヒトラーを党首に擁き反ユダヤ人政策を推し進めるナチス党が、多くのドイツ人の支持を受けて自由選挙の末に政権を掌握したために運命が一変した。

一家は多くのドイツ人が支持した反ユダヤ人政策を嫌って1938年アメリカへ移住し、第二次世界大戦中の1943年に同国に帰化(ドイツに残った親類はドイツ人に殺害されたとされる。親類が本当に存在したか、殺されたかの詳細は不明)。ただし、当時のドイツにおける反ユダヤ主義についてキッシンジャーは「特に不愉快に感じたと思ったことはない」と告白している。

移住後はジョージ・ワシントン高校に3年半通う。後半2年間は夜間クラスで、昼間は髭そり用ブラシの工場で働き、週約15ドルの賃金が一家のアパート住まいの生活を助けていた。高校卒業後は、工場で働く一方職場近くにあったニューヨーク市立大学シティカレッジ経営・行政管理学部(ニューヨーク市立大学バルーク校の前身)にもパートタイム学生として通った。特に会計学で優秀な成績を修めた。

軍歴[編集]

第二次世界大戦中の1943年、大学での学業を中断してアメリカ陸軍に入隊する。陸軍ではドイツ語の能力を生かしヨーロッパ戦線の対諜報部隊軍曹として従軍した。1945年5月のヨーロッパ戦線の終戦後は母国ドイツに駐留し、多くのドイツ軍戦犯の処遇にあたった。これにあたって、多くのユダヤ人のアメリカ陸軍兵士が戦犯への激しい憎悪をむき出しにしていた中でキッシンジャーは「報復しようとは考えなかった。彼らがどうしてこのようなことをしたのかを知りたかった」と発言している。

ハーバード大学教授[編集]

1946年に復員し、ハーバード大学に入学。1950年、政治学の学士学位を取得し最優等で同大学を卒業する。引き続き同大学大学院に進学し、ウィリアム・Y・エリオットの指導のもと19世紀ヨーロッパ外交史を研究し、1952年に修士学位を、1954年にはウィーン体制についての研究で博士学位を取得する[1]

この論文では、その後の100年間 欧州で大きな戦争が防がれた国際秩序がどのようにして作られたかが論じられている。その要因の一つとして、敗れたナポレオンフランスに対して、メッテルニヒカスルリーらが、懲罰よりも力の均衡の回復を重視したことを上げている。

1951年には日米学生会議に参加している。大学院生時には指導教授の庇護を受け、世界各国の有望な若手指導者をハーバード大学に集めて国際情勢について講義や議論を行うサマー・セミナーの幹事役となり、国内外にその後のワシントン入りにも繋がる人脈を形成した。日本からの参加者としては、中曽根康弘(元日本国首相。当時衆議院議員・改進党所属・当選4回、1953年参加)などがいる。

博士課程修了後もハーバード大学政治学部で教鞭をとっていたが、外交問題評議会への参加を通じて、同時代の外交政策にも積極的な提言をはじめる。特にキッシンジャーはアイゼンハワー政権の採用した核戦略(「大量報復戦略」)の硬直性を辛辣に批判し、のちのケネディ政権が採用する「柔軟反応戦略」のひな型ともいえる、核兵器・通常兵器の段階的な運用による制限戦争の展開を主張した[2]。1960年代にはケネディ政権の外交政策立案に一時的に関与することとなる[3]

政権入り[編集]

ニクソン政権[編集]

1968年の大統領選挙では共和党の大統領候補指名選に立候補したネルソン・ロックフェラーの外交顧問を務めていた。しかしロックフェラーの敗北後に、アイゼンハワー政権の副大統領であったリチャード・ニクソンから直々のスカウトを受け、政権誕生とともに国家安全保障問題担当大統領補佐官として政権中枢に入り、ニクソン外交を取り仕切る。キッシンジャーの大統領補佐官指名は、国務長官国防長官の指名の前になされた。ここにニクソンのキッシンジャーへの期待を読み取る論者も少なくない。

ジョンソン政権までの外交政策は、国務長官が決定権を握り、国家安全保障問題担当大統領補佐官は調整役とされてきた。しかしニクソンとキッシンジャーは国家安全保障会議(NSC)が外交政策の決定権を握るべきだと考えていた。ニクソンの命を受けたキッシンジャーは国家安全保障会議(NSC)のスタッフ(特別補佐官)に若手の外交官、軍将校、国際政治学者をスカウトし、国家安全保障会議(NSC)を組織した。

キッシンジャーから国家安全保障会議(NSC)特別補佐官にスカウトされた人物には、アンソニー・レイクローレンス・イーグルバーガーアレクサンダー・ヘイグブレント・スコウクロフトなどがいる。

キッシンジャーは、国務省などと激しい権力闘争を行い、ニクソン政権では、国家安全保障会議(NSC)が外交政策の決定権を独占することとなる[4]。とくに、ウィリアム・ロジャース国務長官を重要な外交政策から排除してしまった。キッシンジャーは、国家安全保障会議(NSC)特別補佐官のほかに、大使駐在武官CIA支局長などを国家安全保障会議(NSC)の手足として用いていた。

後述する1971年の極秘訪中の際も、キッシンジャーはロジャース国務長官国務省に一切知らせずに、フランスルーマニアパキスタンなどに勤務している駐在武官CIA支局長を利用して秘密裏に北京に到着した。北京では、中国側の英語通訳に依存して交渉が行われた。

冷戦政策の再構築を意図したニクソン政権期の外交の中で、キッシンジャーは重要な位置を役割を果たした。1971年にはニクソンの「密使」として、当時ソ連との関係悪化が進んでいた中華人民共和国を極秘に二度訪問、周恩来と直接会談を行い、米中和解への道筋をつける[5]。一方で、この中華人民共和国との和解を交渉カードとして、ベトナム戦争終結に向けた北ベトナムとの秘密停戦交渉や、ソ連とも第一次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結するなどデタント政策を推進した。

またこのような大国間関係の動きと連動して、ニクソンとキッシンジャーは1960年代から1970年代初頭のアメリカにとって最大の外交問題であったベトナム戦争の終結にも成果を納めた。アメリカが中ソと関係改善を行い、その結果、ベトナム戦争において中ソ両国の支援を受けてアメリカと対峙していた北ベトナムを国際的に孤立させたことで、アメリカはジョンソン政権末期の1968年5月よりパリで行われていた和平交渉妥結に成功した。1973年にはパリ協定が調印され、ベトナム戦争終結への道筋をつけることとなった(事実上は単なるアメリカ軍のベトナム戦争からの撤退であり、その後も南ベトナム軍と北ベトナム軍の戦闘は継続されたため、ベトナム戦争自体は1975年4月まで続いた)。これを功績としてアメリカ交渉団の代表であったキッシンジャーはノーベル平和賞を受賞することとなる(北ベトナム側の代表であるレ・ドゥク・トは受賞を辞退した)。

ニクソンとド・ゴールの会談に臨席するキッシンジャー(後列右から2人目、1969年)
ニクソン大統領、フォード副大統領とヘイグ首席補佐官とともに(1973年)
フォード大統領とロックフェラー副大統領とともに(1975年)

フォード政権[編集]

これら種々の成果を得たキッシンジャーは、1973年には大統領補佐官に留任したまま国務長官に就任し、フォード政権の退陣まで外交政策の全般を掌握することとなった(翌1974年、ジェラルド・R・フォード政権の成立に伴い、補佐官は退任する)。

フォード政権でも外交政策に明るくない大統領を尻目に、補佐官時代の部下であった国家安全保障問題担当大統領補佐官のブレント・スコウクロフトや、国務省参事官ヘルムート・ゾンネンフェルトら側近を活用しながらデタント政策をリードした。一方でより厳しい対ソ連認識を抱き、デタント政策に批判的なドナルド・ラムズフェルド(大統領首席補佐官・国防長官を歴任)などとは閣内で対立していた。

周恩来毛沢東とともに(1972年)

退任後[編集]

1977年、キッシンジャーはフォード政権の退陣と共に国務長官を退任した。コロンビア大学から教授就任の誘いを受けたが、学生の激しい反対に会い、就任を断念する。その後ジョージタウン大学戦略国際問題研究所(CSIS)に招かれ、在職中次々と政権時代の回想録を発表し、話題を呼ぶこととなった。

1982年、国際コンサルティング会社「キッシンジャー・アソシエーツ」を設立し、社長に就任。同社にはジョージ・ブッシュ(父)政権で国務副長官を務めたローレンス・イーグルバーガー(後に国務長官)や、国家安全保障担当大統領補佐官を務めたブレント・スコウクロフトなどが参加している。また、バラク・オバマ政権で財務長官に就任したティモシー・ガイトナーも、一時同社に籍を置いていた。

現在は「現代外交の生き字引的存在」として多くの著書を持つほか、世界各国で講演活動を行っている。また、ニクソン以降のアメリカの歴代大統領をはじめとする世界各国の指導層と親交を持っており、国務長官退任から30年以上たった現在でもその国際的影響力は「最大級」と評価されている。

最近では、ジョージ・W・ブッシュ政権において指南役として活躍した。ブッシュはキッシンジャーとは定期的に会談の機会を設けており、政権外で最も信頼する外交アドバイザーであった。キッシンジャーはブッシュ政権下で行われているイラク戦争も基本的に支持していた[6]

また、2007年1月4日にはジョージ・シュルツウィリアム・ペリーサム・ナンらと連名で「核兵器のない世界に(A World Free of Nuclear Weapon)」と題した論文を『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙上に発表した。同論文はイラン北朝鮮などが核開発を試み、また国際テロリスト・グループによる核保有の可能性すら存在する現代において、核兵器に過去のような抑止効果は存在しないとして核兵器廃絶をアメリカが唱道すべきことを訴えており、注目を集めている[7]

2009年4月20日、岡山大学にて特別講演会を実施[8]。この模様は後日岡山放送でも放映された。2011年11月11日夜には、首相官邸を訪問、野田佳彦首相と会談し、「TPP交渉参加方針を歓迎する」と述べた[9]

ロシアのウラジミール・プーチン大統領とともに(2001年)

日本に関して[編集]

日本については、経済大国である以上政治・安全保障両面でも大国として台頭しようとする欲求を持つだろうとの見方を一貫して示している。特に、1971年の周恩来との会談で日米安全保障条約に基づく在日米軍の駐留が日本の「軍国主義」回帰を抑えており、同盟関係を解消すれば日本は手に負えない行動を取り始めると警戒感を示した「瓶の蓋」論は有名である[10]。冷戦後間もない時期の著書である『外交』でも将来日本が政治的に台頭するとの予測を示した[11]。2008年1月の「日高義樹のワシントン・レポート」でも変わらず、「日本は10年後に強力な軍隊を保有しているだろう」と述べ、日本の憲法改正核武装については「日本が決めることだ」と発言している。

評価[編集]

ロナルド・レーガン大統領とともに(1981年)

キッシンジャーがニクソン政権で推進した外交の特徴はその現実主義にあった。これはアメリカの国益を外交の中心に据え、世界的なバランス・オブ・パワーに配慮しつつ、国際秩序をアメリカにとって受け入れられる形の安定へと導くことを目的としていた。このような国際秩序像の背景にはかつてキッシンジャーが研究し、その安定性を高く評価していたウィーン体制が一つのモデルとして存在していたことが、多くの研究で指摘されている[12]。キッシンジャーらの発想は冷戦と、そしてそれが熱い形で具体化されたベトナム戦争という構図の中で、従来アメリカが基本的国策としていた孤立主義理想主義という外交姿勢がもはや機能しなくなったことを端的に表すものだった。

キッシンジャーの推進したデタント政策は、ベトナム戦争からの脱出という短期的な意味と、米ソ二超大国間の対立という約20年間継続されてきた従来の冷戦構造に、ソ連との関係悪化と時を同じくして台頭してきた中華人民共和国を新たな同次元のプレイヤーに組み入れること(「米中ソ三角関係」などとも評される)、ソ連が核戦力の面でアメリカと対等な立場にあることを明示的に認めることによって、大国間の勢力バランスを現状に即したものへと安定的に再編成するという、長期的な意味を持った戦略の組み合わせだった。

中華人民共和国の中国共産党政府との和解を進めたことにより、同国と対立する中華民国中国国民党政府との関係悪化を招くが、その後の中華人民共和国との国交樹立後も中華民国と事実上の軍事同盟を結び続けるなど、ここでも勢力バランスを重視した外交政策を取ることとなる。

キッシンジャーは、国家安全保障担当補佐官時代から国務長官(1973年8月23日指名)時代に至るまで、その独特な風貌やドイツ風のアクセント、さまざまなパーティで有名女優を同伴して登場するなどの派手なパフォーマンス、日本で「忍者外交」などと形容された神出鬼没の外交スタイル、さらにベトナム戦争終結への貢献によるノーベル平和賞受賞などといったさまざまな理由から、歴代の前任者たちとは比較にならないほど目立つ存在だった。今日では「ドクター・キッシンジャー」は20世紀後半を代表する外政家とする認識が一般的である。しかし、このような「外交の達人」という一般的な評価は、キッシンジャーが国務長官退任後繰り返し発表してきた著書や回想録に拠るところが大きく、沖縄返還交渉にあたって佐藤栄作総理の密使としてキッシンジャーと交渉した若泉敬は「キッシンジャーの回想録を鵜呑みにするな」と語っている。

近年ではニクソン外交の実態について、公開された文書史料をもとに「外交政策の構想者・決定者は、外交通だった大統領・ニクソンであり、キッシンジャーはそのメッセンジャー・ボーイに過ぎなかった」などとし、ニクソンの比重をより重く見る研究も現れている[13]。ニクソンとキッシンジャーは「厚い信頼で結ばれていた」とされるが、個人的には決して親しい友人ではなかった。ドイツ系のニクソンが他の側近の前でキッシンジャーのことをその出自(ユダヤ系ドイツ人でアメリカに帰化)を背景に侮蔑的に呼んだことが数回確認されており、キッシンジャー自身も「一度として二人きりで食事を取ったことはなかった」と語っている。

ベトナム戦争時のカンボジア侵攻、チリ・クーデター工作、インドネシアによる東ティモール侵攻へのアメリカの協力を指揮したキッシンジャーに対して、クリストファー・ヒッチンスシーモア・ハーシュらは「人道に対する罪」「戦争犯罪人」として糾弾した[14]

家庭生活[編集]

ナンシーとともに

高校時代、アン・フライシャー(Ann Fleischer)と知り合い交際をしていたが、戦争の影響でしばらく疎遠となった2人が結婚したのは1949年2月6日で、ヘンリーが25歳、アンが23歳だった。結婚式はワシントンハイツにあるヘンリーのアパートで行われ、12名ほどが出席した。ユダヤ教正統派に則って式が行われた。長女が1959年、長男が1961年に生まれたが、1963年別居状態となり、1964年に離婚する。

その後 アンは女性解放運動に参加。1973年に化学者のソール・コーエン(Saul Cohen)と再婚。一方のキッシンジャーは1974年、ハーバード時代の教え子でネルソン・ロックフェラーの秘書だったナンシー・シャロン・マギネス(Nancy Sharon Maginnes、1933年生まれ)と再婚した。式には 前妻との2人の子供も出席した。

キッシンジャーは離婚から再婚までの間に少なからぬロマンスを報じられていたこともあり、この際UPI通信は、「浮名を流したヘンリー年貢を納める(Swinging Henry Ends His Days of Bachelorhood)」と報じている。

逸話[編集]

  • 歴代国務長官の肖像画を省内に飾る予定でキッシンジャーの肖像画をガードナー・コックスに依頼したが、背を低めに寸詰まりに描写されたと本人はいたく気に病み、描き直しの要請までしたが、コックスはそのままでいいと相手にしなかった。ただしコックスにも製作料が払われず、喧嘩両成敗となった模様。
  • 強いドイツ訛りの英語について聞かれた時「私は外国語を流暢に話す人間を信用しない」と切り返したことがある。
  • 国連難民高等弁務官事務所のテレビCMでは、ソ連から亡命したルドルフ・ヌレエフや、同じドイツからの亡命者のマレーネ・ディートリッヒとともに、身近にいる難民(亡命者)の例として紹介されている。
  • テレビ東京の番組「日高義樹のワシントン・リポート 」に年1回出演し、1月に放送されるのが恒例であった。
  • 愛人としてハリウッド女優のジル・セント・ジョン(IQ162、14歳で飛び級でUCLAに入学)の名前が挙がったこともある。

著書[編集]

単著[編集]

  • A World Restored: Metternich, Castlereagh and the Problems of Peace, 1812-22, (Weidenfeld & Nicolson, 1957).
伊藤幸雄訳『回復された世界平和』(原書房, 1976年/新装版, 2009年)[15]
  • Nuclear Weapons and Foreign Policy, (Harper & Brothers, 1957).
田中武克桃井真訳『核兵器と外交政策』(日本外政学会, 1958年)
森田隆光訳『核兵器と外交政策』(抄訳版, 駿河台出版社, 1988年)
  • The Necessity for Choice: Prospects of American Foreign Policy, (Harper, 1961).
  • The Trobled Partnership: A Reappraisal of the Atlantic Alliance, (McGraw-Hill, 1965).
森田隆光訳『二国間の歪んだ関係――大西洋同盟の諸問題』(駿河台出版社, 1994年)
  • American Foreign Policy, (Weidenfeld and Nicolson, 1969).
  • White House Years, (Little, Brown, 1979).
斎藤彌三郎ほか訳『キッシンジャー秘録(1-5)』(小学館, 1979-1980年)
  • For the Record: Selected Statements 1977-1980, (Weidenfeld and Nicolson and Joseph, 1981).
  • Years of Upheaval, (Weidenfeld and Nicolson, 1982).
読売新聞調査研究本部訳『キッシンジャー激動の時代(1-3)』(小学館, 1982年)
  • Observations: Selected Speeches and Essays, 1982-1984, (Little, Brown, 1985).
  • Diplomacy, (Simon & Schuster, 1994).
岡崎久彦監訳『外交(上・下)』(日本経済新聞社, 1996年)[16]
  • Years of Renewal, (Simon & Schuster, 1999).
  • Does America Need a Foreign Policy?: Toward a Diplomacy for the 21st Century, (Simon & Schuster, 2001).
  • Ending the Vietnam War: A History of America's Involvement in and Extrication from the Vietnam War, (Simon & Schuster, 2003).
  • Crisis: the Anatomy of Two Major Foreign Policy Crises, (Simon & Schuster, 2003).
  • On China, (Allen Lane, 2011).
塚越敏彦ほか訳『中国――キッシンジャー回想録』(岩波書店, 2012年)

編著[編集]

  • Problems of National Strategy: A Book of Readings, (Praeger, 1965).

公刊史料[編集]

  • The Kissinger Transcripts: the Top Secret Talks with Beijing and Moscow, ed. by William Burr, (New Press, 1999).
鈴木主税浅岡政子訳『キッシンジャー<最高機密>会話録』(毎日新聞社, 1999年)

対談本(日本語オリジナル)[編集]

  • 池田大作)『「平和」と「人生」と「哲学」を語る』(潮出版社, 1987年)
  • 中曽根康弘)『世界は変わる――キッシンジャー・中曽根対談』(読売新聞社編, 読売新聞社, 1990年)
  • 日高義樹)『キッシンジャー・世界はこう動く』(日本放送出版協会, 1991年)
  • (日高義樹)『2000年日本が再起する条件――キッシンジャーからの警告!』(青春出版社, 1999年)
  • (日高義樹)『キッシンジャー博士日本の21世紀を予言する』(集英社インターナショナル, 2000年)
  • (日高義樹)『キッシンジャー10の予言――9.11後の世界と日本』(徳間書店, 2002年)

キッシンジャーに関する作品[編集]

参考・関連文献[編集]

  • 渡辺恒雄『大統領と補佐官――キッシンジャーの権力とその背景』(日新報道, 1972年)
  • 高坂正堯桃井真編『多極化時代の戦略(上・下)』(日本国際問題研究所, 1973年)
  • Marvin L. Kalb and Bernard Kalb, Kissinger, (Little Brown, 1974).
高田正純訳『キッシンジャーの道(上・下)』(徳間書店, 1974年)
  • William Shawcross, Sideshow: Kissinger, Nixon, and the Destruction of Cambodia, (Simon and Schuster, 1979).
鎌田光登訳『キッシンジャーの犯罪』(パシフィカ, 1980年)
  • Seymour M. Hersh, The Price of Power: Kissinger in the Nixon White House, (Summit Books, 1983).
  • Michael Joseph Smith, Realist Thought from Weber to Kissinger, (Louisiana State University Press, 1986).
押村高訳『現実主義の国際政治思想――M.ウェーバーからH.キッシンジャーまで』(垣内出版, 1997年)
  • Robert D. Schulzinger, Henry Kissinger: Doctor of Diplomacy, (Columbia University Press, 1989).
  • Gerry Argyris Andrianopoulos, Kissinger and Brzezinski: the NSC and the Struggle for Control of US National Security Policy, (Macmillan, 1991).
  • Walter Isaacson, Kissinger: A Biography, (Simon and Schuster 1992).
別宮貞徳監訳『キッシンジャー――世界をデザインした男(上・下)』(抄訳, 日本放送出版協会, 1994年)
  • William Bundy, A Tangled Web: the Making of Foreign Policy in the Nixon Presidency, (Hill and Wang, 1998).
  • Christopher Hitchens, The Trial of Henry Kissinger, (Verso, 2001).
井上泰浩訳『アメリカの陰謀とヘンリー・キッシンジャー』(集英社, 2002年)
  • G.R. Berridge, Maurice Keens-Soper and T.G. Otte (eds.) Diplomatic Theory from Machiavelli to Kissinger, (Palgrave, 2001).
  • Jussi Hanhimaki, The Flawed Architect: Henry Kissinger and American Foreign Policy, (Oxford University Press, 2004).
  • David J. Rothkopf, Running the World: The Inside Story of the National Security Council And the Architects of America's Power. (Public Affairs, 2005).
  • Bruce Kuklick, Blind Oracles: Intellectuals and War from Kennan to Kissinger, (Princeton University Press, 2006).
  • Jeremi Suri, Henry Kissinger and the American Century, (Harvard University Press, 2007).
  • Robert Dallek, Nixon and Kissinger: Partners in Power, (Harper Collins, 2007).
  • Holger Klitzing: The Nemesis of Stability. Henry A. Kissinger's Ambivalent Relationship with Germany. (WVT 2007).

関連項目[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 日本語訳『回復された世界平和』がこれに該当。
  2. ^ 日本語訳『核兵器と外交政策』がこれに該当、当時の代表的な核戦略論文をまとめたアンソロジー『多極化時代の戦略 上』(高坂正堯桃井真編、日本国際問題研究所、1973年)にも当時のキッシンジャーによる論文が複数収録されている。
  3. ^ ウォルター・アイザックソン著(別宮貞徳監訳)『キッシンジャー――世界をデザインした男(上)』(日本放送出版協会, 1994年)。
  4. ^ David J. Rothkopf, Running the World: The Inside Story of the National Security Council And the Architects of America's Power. (Public Affairs, 2005), chap.6.
  5. ^ この際の会談記録を編纂したものが、『周恩来・キッシンジャー機密会談録』。
  6. ^ ボブ・ウッドワード(伏見威蕃訳)『ブッシュのホワイトハウス(下)』(日本経済新聞社、2007年)、248-256ページ。
  7. ^ A World Free of Nuclear Weapons(Hoover Institution - Hoover Digest)スタンフォード大学フーバー研究所による再掲。2008年1月15日号にも同趣旨の論文を発表した。
  8. ^ http://osaka.yomiuri.co.jp/university/topics/20090421-OYO8T00336.htm
  9. ^ http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111111/plc11111123380029-n1.htm
  10. ^ 前掲『周恩来・キッシンジャー機密会談録』 を参照。
  11. ^ キッシンジャー『外交(上)』(日本経済新聞社、1994年)、第1章を参照。
  12. ^ 関係するエピソードとして、キッシンジャーが大学院生時代のものがある。キッシンジャーが研究を行っていた1940年代から1950年代の時点でも、「核兵器登場以前の19世紀の外交史を研究することは役に立たない」と一般に認知されていたが、キッシンジャーは「ウィーン体制を理解すれば、現在の国際政治の構造も説明できる」と語っていたといわれる。アイザックソン『キッシンジャー(上)』。国際政治を概観した著書『外交』においても、キッシンジャーはウィーン体制を高く評価している。
  13. ^ 田久保忠衛『戦略家ニクソン』(1996年、中公新書)、米国での研究動向を紹介した石井修「“ニクシンジャー”と日本」『外交史料館報』20号(2006年10月)などを参照。
  14. ^ クリストファー・ヒッチンス、井上泰浩訳『アメリカの陰謀とヘンリー・キッシンジャー』(集英社, 2002年),映画The Trials of Henry Kissinger(2002)
  15. ^ ナポレオン戦争によって破壊されたヨーロッパの秩序を再構築し、その後ほぼ一世紀にわたる安定を確保したオーストリア宰相メッテルニヒを中心に描いた力作。正当性とバランスオブパワーの確保が国際秩序の樹立に必要だという見方を示した。
  16. ^ ウェストファリア条約からソ連崩壊後の時代までの「外交」の歴史を書き記した著作。リシュリュー枢機卿やメッテルニヒ、ビスマルクなどの現実主義的外交を賞賛しつつも、アメリカの理想主義のもつエネルギーにもふれるなどその考察の深さが際だつ大著。
  17. ^ 邦訳。井上泰浩訳『アメリカの陰謀とヘンリー・キッシンジャー』(集英社, 2002年)。

外部リンク[編集]

司法職
先代:
ウォルト・ロストウ
国家安全保障問題担当大統領補佐官
1969-1974
次代:
ブレント・スコウクロフト
公職
先代:
ウィリアム・P・ロジャーズ
アメリカ合衆国国務長官
Served under: リチャード・ニクソンジェラルド・フォード

1973-1977
次代:
サイラス・ヴァンス
学職
先代:
マーガレット・サッチャー
ウィリアム・アンド・メアリー大学総長
2000 - 2005
次代:
サンドラ・デイ・オコナー