クリスティアン・アーチボルド・ハーター

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クリスティアン・アーチボルド・ハーター
Christian Archibald Herter
Christian Archibald Herter (politician).jpg
クリスティアン・アーチボルド・ハーター
生年月日 1895年3月28日
出生地 フランスの旗 フランスパリ
没年月日 1966年12月30日(満71歳没)
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ワシントンD.C.
出身校 ハーヴァード大学
所属政党 共和党
配偶者 メアリー・キャロライン・プラット

アメリカ合衆国の旗 第53代国務長官
任期 1959年4月22日 - 1961年1月20日
大統領 ドワイト・アイゼンハウアー

任期 1962年 - 1966年
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クリスティアン・アーチボルド・ハーターChristian Archibald Herter1895年3月28日 - 1966年12月30日)は、アメリカ合衆国外交官政治家である。1953年から1956年までマサチューセッツ州知事を、1959年から1961年まで国務長官を務めた。

生い立ち[編集]

ハーターはフランスパリで、海外在住のアメリカ人アーティストである両親、アルバート・ハーター (Albert Herter) とアデル・マクギニス (Adele McGinnis) との間に出生した。同市のÉcole Alsatienneに入学し(1901年-1904年)、ニューヨーク市へ移住してからはブラウニング・スクールへ通った(1904年-1911年)。 1915年にハーヴァード大学を卒業し、のちにベルリンの米国大使館に駐在する外交官となった。1919年、のちに米国外交問題評議会となる会議に参加した。

私生活[編集]

1917年、ハーターは裕福な遺産相続人であるメアリー・キャロライン・プラット (Mary Caroline Pratt) と結婚した。彼女はプラット研究所所長を長く務めたフレデリック・B・プラット (Frederic B. Pratt、1895年-1980年) の娘にして、スタンダード石油の大物チャールズ・プラット (Charles Pratt) の孫娘であった。夫婦の間には3人の息子と1人の娘がおり、その中には国際関係に精力的に取り組んだクリスティアン・ハーター・ジュニアがいた。

政治家としての経歴[編集]

ハーターは1943年にマサチューセッツ州選出の下院議員となり、1953年まで5期にわたり在職したが、ジョージ・H・ティンカム(彼の孤立主義的見解は、第二次世界大戦中に批判を浴びた)が確保していた米国下院マサチューセッツ州第10選挙区の議席を巡る選挙運動を展開した。ハーターが選挙戦に加わるや、ティンカムは出馬を撤回し、これによりハーターは1942年の当選の道を開かれた。ハーターはフランクリン・ローズヴェルトニュー・ディール政策の批判者であったが、1943年から1953年にかけて、主にその外交的立場によって、特に1947年のいわゆるハーター委員会によって著名になった。同委員会の報告書は、ハリー・S・トルーマンマーシャル・プランに繋がる提案を主導した。この頃、彼は非米活動を調査する議会の常任委員会への協力を拒否した。1947年、ハーターは中東学者ジョージ・キャンプ・カイザーと共に中東研究所を設立した。1953年、彼はマサチューセッツ州知事に選出され、議員職を辞した。

ハーターは、1956年の知事選には立候補しなかった。1957年2月21日、彼は第2期アイゼンハウアー政権の国務次官に任命された。後にジョン・フォスター・ダレスが重病に陥ると、1959年4月22日、国務長官に任命された。ダレスはその 1ヶ月後に死去した。1961年、ハーターは大統領自由勲章を受章した。

1960年の選挙後は、ハーターは無職の"政界の長老"として様々な審議会や委員会に参加し、また初代通商代表としてケネディジョンソン両大統領に仕えたが、1966年にワシントンD.C.で死去した。71歳。亡骸はマサチューセッツ州ミリスのプロスペクト・ヒル墓地に埋葬された。

存命中のクリスティアン・ハーターは、国際主義者として、殊に欧州の政治的・経済的関係を向上させたことで名高い。

遺産[編集]

ハーターは1943年、結婚により遠戚となったポール・H・ニッツェと共に、 ポール・H・ニッツェ高等国際問題研究院 (SAIS) を共同設立した。同研究院は1950年、ジョンズ・ホプキンス大学に吸収された。現在、大学院はワシントンD.C.イタリアボローニャ、及び中国南京にキャンパスを有し、国際関係論経済学、及び政策研究に関する世界的リーダーとして認知されている。

米国外交協会は1968年、現状について忌憚なく論じたり、あるいは現状に挑戦した上級外交官を顕彰するため、クリスティアン・A・ハーター賞を創設した。1948年、ハーターはベイツ大学から法学博士号を授与された。

クリスティアン・ハーターが1940年代に設立を支援したボストン世界情勢評議会(2002年、「ワールドボストン」に改称)は、国際関係に対する個人の貢献を顕彰するクリスティアン・A・ハーター賞を有する。

マサチューセッツ州ブライトンのハーター公園は、ハーターに敬意を表して命名された。歴史教育その他のリベラルアーツのために建設されたアマーストマサチューセッツ大学アマースト校の建物は、ハーターにちなんで「ハーター・ホール」と命名された。

著書[編集]

  • Christian Herter, Toward an Atlantic Community (1963)

参考文献[編集]

  • G. Bernard Noble, Christian A. Herter (Cooper Square, 1970)
  • Herter, Christian Archibald, in American National Biography, 2000, American Council of Learned Societies.

外部リンク[編集]

先代:
ポール・A・ディヴァー
マサチューセッツ州知事
1953年 – 1957年
次代:
フォスター・ファーコロ
先代:
ハーバート・チャールズ・フーヴァー
アメリカ合衆国国務次官
1957年 - 1959年
次代:
C・ダグラス・ディロン
先代:
ジョン・フォスター・ダレス
アメリカ合衆国国務長官
1959年 – 1961年
次代:
ディーン・ラスク
先代:
-
アメリカ合衆国通商代表
1962年 - 1966年
次代:
ウィリアム・M・ロス