ルーホッラー・ホメイニー

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ルーホッラー・ホメイニー
ルーホッラー・ホメイニー

アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニーآیت‌الله روح‌الله خمینی, Āyatollāh Rūhollāh Khomeinī、1900年5月17日 - 1989年6月3日)は、イランシーア派12イマーム派)の精神的リーダーであり、1979年にイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーを追ったイラン・イスラム革命の指導者である。イランの現在の政体、イスラム共和制は彼によって打ち立てられた。日本ではホメイニ師ではない)と表記されることが多い。








[編集] プロフィール

ホメイニーは、1900年頃にイラン中部のホメインの町でシーア派第七代イマーム、ムーサーの子孫を称するサイイドの家系に生まれ、当初の名をルーホッラー・ムーサーヴィーと言った。のちに「ホメイン出身の者」を意味するホメイニーを名乗る。ホメイニーが幼い頃に亡くなった父はイスラム法学者で、彼もイランのシーア派の聖地コムイスラム法学を修め、シーア派の上級法学者を意味するアーヤトッラーの位階を得た。一方、1941年以来、皇帝の西欧化政策に対する不満を表明する。

1963年、皇帝が宣言した「白色革命」に対する抵抗運動を指導し、逮捕される。このときは釈放されるものの、政府批判を続け、翌年ついに国外追放処分を受けた。イラクのシーア派の聖地ナジャフに入ったホメイニーは、ここで「法学者の統治論」を唱え、シーア派のイスラム法学者がお隠れ(ガイバ)中のイマームに代わって信徒の統治を行わなければならないとする理論を構築した。1978年にイラクを離れ、フランス亡命するが、一貫して国外から皇帝への抵抗を呼びかけつづけた。

1979年1月16日に反体制運動の高まりに耐えかねた皇帝が亡命したのを受けて、ホメイニーは2月1日にフランスから15年ぶりの帰国を果たしてイスラム革命評議会を組織した。2月11日、評議会は皇帝政府から権力を奪取し、唯一の公式政府となると、イスラム共和国への移行の是非を問う国民投票を行い、98%の賛意を得た。4月1日、ホメイニーはイラン・イスラム共和国の樹立を宣言し、「法学者の統治論」に基づいて、任期四年制の大統領の上に立つ最高指導者となった。

アメリカ大使館占拠事件イラン・イラク戦争などの対外危機や、大統領アボルハサン・バニーサドルと、議会与党イスラム共和党の対立など困難が続く中で、ホメイニーは革命イランの最高指導者として政治・司法・文化をイスラーム原理主義に染め上げる政策に強い影響力を発揮した。

ホメイニーは革命の期間中かつてのシーア派イマーム達の殉教を『被抑圧者』(モスタズアフィーン)の抵抗の象徴とし、皇帝の独裁に対抗するシーア派社会主義の理念を取り入れ、この革命を『イスラームに基づく被抑圧者解放』と主張したことでも知られている。この主張によって彼は元来社会主義の支持者だった貧困層や世俗的中産階級からも支持を取り付け革命を達成した。しかし革命達成後は一転して世俗主義者や社会主義者を『イスラームの敵』『カーフィル』として弾圧した。[1]

1989年6月3日、死去。最期の言葉は「灯りを消してくれ。私はもう眠い。」。最高指導者の座はアリー・ハーメネイーが継承した。葬儀の日には、事故により彼の遺体が棺から飛び出し、多くの参列者が殺到し、騒動になった。

著作に於いてたびたび『イスラムの支配下に於いて異教徒は一定程度の人権を守られるだけで満足するべきであり、政治的権利など与えられない。』と主張した事でも知られている。またバハーイー教徒に対してはズィンミー程度の人権すら与えず、完全に排斥するべきだと説いたこともある。

[編集] 参照

  1. ^ ジル・ケペル 『ジハード-イスラム主義の発展と衰退』第五章「イラン革命とホメイニーの遺産」

[編集] 関連項目

先代:
-
イランの最高指導者
初代 : 1979年-1989年
次代:
アリー・ハーメネイー
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