ジズヤ

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ジズヤ (jizya または jizyahアラビア語: جزْية; トルコ語:cizye)は、イスラム諸王朝における人頭税

概要[編集]

ジズヤは、イスラーム草創期にイスラーム政権の庇護を受けたズィンミーから徴収される貢納や租税一般を指したものであった。内容は地域差がおおよそあったが、大体においては地租と人頭税を併せたものであった。しかし、ウマイヤ朝末期以降にイスラームへの改宗者が増大すると、ジズヤをズィンミーから徴収される人頭税、ハラージュを地租・土地税とする用語法上の区別が定着するようになった。つまり、イスラーム政権が「ズィンマの民(ahl al-Dhimma)=ズィンミー」に対して下す「庇護(ズィンマ)の賦課」として租税という性格が明確化されるようになった。ウマイヤ朝では、首都ダマスクスのあるシリア近辺に住む改宗ペルシャ人などは、イスラーム大征服時代の初期段階でムスリムとなったにもかかわらず、アラブ人ムスリムとのあいだに税負担の不平等があることに大きな不満をつのらせていた。同王朝第8代カリフウマル2世は、こうした不満をみてとり、また、ズィンミー(異教徒)のイスラームへの改宗を奨励しようとして、ズィンミーとマワーリー(非アラブ人改宗者)の租税負担に差を設ける必要をうったえ、マワーリーからのジズヤ徴収を停止しようとした。ホラーサーン総督ジャラーに対して「メッカの方向をむいて礼拝する者には、すべてジズヤを免ぜよ」と命じたのは、そのあらわれである。その命令によって集団的な改宗が起こり、税収が打撃を受けたため、ジャラーは、税金のがれのための手段として改宗しているだけだから、その証しとして割礼を義務づけるべきだと申し出た。しかし、ウマル2世は「神は割礼のためにムハンマドをつかわしたのではない」と応えたという[1]

8世紀半ばのアッバース革命によって、「神の前におけるムスリムの平等」が実現し、それまでの非アラブ人に対する税制上の差別待遇が撤廃された。ムスリムであれば非アラブ人であってもジズヤは課されず、その一方で「アラブの特権」は排されて、アラブ人であっても土地を所有していればハラージュ(土地税)が課されるようになったのである。こうして、ジズヤはもっぱら非ムスリムに対するものとなったが、16世紀以降イスラーム王朝としてインドを支配したムガル帝国第3代皇帝のアクバルは、インドにおいて多数派であるヒンドゥー教徒の宥和のため、1564年、ジズヤの徴収を廃止した。ただし、第6代アウラングゼーブは非ムスリムに対するジズヤを復活している。

非ムスリムはジズヤを支払うことにより、制限つきではあるもののズィンミー(庇護民)として一定の生命財産・宗教的自由の保証が得られた。ジズヤは本来聖書を奉ずるユダヤ教徒キリスト教徒、いわゆる啓典の民に対するもので、それ以外の非ムスリムには改宗を迫ることが原則だったが、イスラーム世界の拡大によって実質的にはすべての非ムスリムに対するものとなった[2]

ジズヤはイスラーム社会ではムスリムより下位に位置づけられた非ムスリムにとって厳しい負担となり、またイスラーム政権に対する服従の証でもあったため[3]、多くの非ムスリムはジズヤを屈辱と捉えた。このような金銭的負担と社会的差別を逃れるため、多くのズィンミーが他地域への逃亡やイスラームへ改宗を選択することもあった。他地域に逃亡した例としては、ムンバイ方面に逃れた旧サーサーン朝ペルシャのゾロアスター教徒があり、かれらはインドにおいてはペルシャ人の意味で「パールスィー」と呼ばれている。

ジズヤによる厳しい負担は、非ムスリムに対し暗に改宗を迫るものであったが、ジズヤが重要な財源になった事から、むしろ税収減少を懸念してムスリムへの改宗を好まない風潮も生まれ、イスラム政権下の多くの国民が非ムスリムに留まるような事例もあった。これが、イベリア半島におけるレコンキスタの成功の原因のひとつにもなった。

現在でもイスラーム原理主義者の中には、シャリーアに基づく祭政一致の国家を樹立した暁には非ムスリムに対してジズヤを課すことを標榜している団体があり、問題視されている。

ジズヤを課せられる対象[編集]

ジズヤを課せられるのはズィンミー身分に属する健康な自由人の成人男性であると、11世紀のイスラーム法学者マーワルディーは述べる。家父長制の元で一家の主たりえない婦人、子供、奴隷には課せられない。両性具有の疑いのあるものにも課せられないが、彼が男性と判明した場合は過去に遡って課税される。また精神異常者にも課されないとマーワルディーは述べる[4]

ズィンミー身分に属する自由人の成人男性であっても、老人や病人、貧困者の場合には見解が分かれる。マーワルディーは貧困者を除きジズヤが課されると述べるが、この場合いずれもジズヤは課されないと述べる説もある[5]

ジズヤの額[編集]

ズィンミー1人当たりに課せられるジズヤの最高額と最低額については、法学派の間で見解が分かれている。ハナフィー学派は富裕なものからは48ディルハム、中流のものからは24ディルハム、下層階級からは12ディルハムのジズヤを徴収すべきとする。マーリキー学派は最高額も最低額も支配者の自由であるとする。シャーフィイー学派は最低額は1ディナールであるとし、最高額は支配者の自由であるとする[6]

ジズヤの貢納儀礼[編集]

ジズヤについては税金の多寡がズィンミーの経済的負担に直結したのは無論だが、その納税の仕方にもズィンミーに屈辱を与える様々な仕組みがほどこされた。例えば、ジズヤの納税は、地方の有力者のもとに納税者が直接届けにいくことが多いが、その際に、公衆の面前で暴力を振るわれることが少なくなかった。これは「異教徒はイスラム教徒よりも下である」という、一種のデモンストレーションであった。暴力だけでなく、体に「不信仰の輩」と焼印を押されることさえもあった。このようなデモンストレーションについては、何人ものムスリムの学者たちが記している。

ジズヤの徴収者は椅子に座り、不信仰者は立ち続ける……彼の頭はたれ、背中は曲がる。徴収者がそのあごひげを持ち、両方の頬を平手打ちにする間に、不信仰者は金銭を秤の上に乗せなくてはならない。

アル・ナワーウィ[7]

ユダヤ教徒、キリスト教徒、そしてマギ教徒はジズヤを支払わなければならない……ジズヤを差し出すにあたっては、役人がそのあごひげをつかみ、耳の下の出っ張った骨を打つ間に、そのズィンミーは頭を垂れていなくてはならない(たとえば、下顎……)。

ガザーリー[8]

これ(ジズヤの手渡し)に続き、アミールはズィンミーの首を彼のこぶしで打つ。ズィンミーを早急に追い払うために、アミールの近くに1人男が控える。そして、二番目と三番目のズィンミーがやって来て、同じような扱いを受け、すべてのズィンミーがそうなる。すべてのムスリムはこの見世物を楽しむことを許されている。

アフマド・アル・ダールディー・アル・アダーウィー[9]

貢納の日には、彼らズィンミーは公の場に集められなければならない・・・彼らはそこにたちつづけ、最も卑しく汚い場所で待ち続けなければならない。法を体現する現場の役人たちは彼らズィンミーの上に立ち、威圧的な態度をとらなくてはならない。そうすれば、彼らズィンミーや、他の人々に、われわれの目的は、彼らズィンミーの財産をとることを装って、彼らをさげすむことだと見せつけることになる。彼らは以下のことを悟るであろう、即ちジズヤを彼らから取り立てるに当たり、われわれは彼らに善行を行っているのであり、彼らを自由にさせているのだと。それから彼らはジズヤを納めるために一人ずつ連行されていかねばならない。貢納に当たっては、ズィンミーは殴られ、脇に投げられる。そして、彼はこれで彼は剣を逃れたと考えるようになる。 力は神とその視と、そして信仰者たちに属するがゆえに、これこそ、主の友、最初と最後の世代の友が彼らの不信仰の敵を扱う方法である。

ムハンマド・アブドゥルカリーム・マギリー[10]

ジズヤの徴収に当たってのズィンミーのとるべき姿勢– イブン・アッバースによれば、手で歩くことによりいやいや身を低める。

タバリー[11]

ただし貢納の際のこのような侮辱的な儀礼に対して異を唱えた学者もいる。課税に関する古典的な論文を書いたアブー・ウバイドは、ジズヤの課税がズィンミーの経済的能力を超えたり、ズィンミーの負担となるようなことはあるべきではないと考えた[12]。カリフ、ハールーン・アッラシードの主席判事であった法学者のアブー・ユースフは、ジズヤの徴収の方法に関する次のような判決を下した[12]

ジズヤの支払いに当たって、ズィンマの民の誰一人として、殴られてはならない。また暑い日差しの中立たされたり、彼らの体に忌むべき行為がなされたしてもならない。それだけでなく、それに類するあらゆる行為がなされてはならない。そのような扱いでなく、彼らは寛大さをもって扱われなければならない。

このような意見が唱えられたのは、上述の通り、イスラム政権にとってジズヤがむしろ税収源として重要になった事が背景にある。

脚注[編集]

  1. ^ 岩村(1975)p.246-247
  2. ^ コーランの中でのジズヤへの言及としては第9章29節の「アッラーも、終末の日をも信じない者たちと戦え。またアッラーと使徒から、禁じられたことを守らず、啓典を受けていながら真理の教えを認めない者たちには、かれらが進んで税〔ジズヤ〕を納め、屈服するまで戦え。」という文言などがある
  3. ^ マーワルディーはジズヤをズィンミーのイスラーム政権への隷属の証と述べている(マーワルディー『統治の諸規則』湯川武訳、2006年、pp.346-347)
  4. ^ マーワルディー(2006)、pp.350-351
  5. ^ マーワルディー(2006)、p355
  6. ^ マーワルディー(2006)、p351
  7. ^ Al-Nawawi, Minhadj, quoted in Bat Ye’or (2002), p. 70
  8. ^ Kitab al-Wagiz fi Fiqh Madhab al-Imam al-Safi’i, English translation cited in Andrew Bostom (2005), p. 199.
  9. ^ Ahmad ad-Dardi el-Adaoui. Fetowa [1772]: ‘Réponse à une question’ Translated into French by François-Alphonse Belin. Journal Asiatique, 4th ser. 19 (1852): 107–8. English translation from Bat Ye’or (1996), pp. 361–362.
  10. ^ Georges Vajda. “Un Traité maghrébin ‘Adversus Judaeos’. Ahkam ahl al-Dhimma [Laws relating to the dhimmis] du Shaykh Muhammad b. Abd al-Karim al-Maghili.” In Etudes d’Orientalisme dédiées à la mémoire de Lévi-Provençal. 805–813. Paris: Masionneuve & Larose. English translation from Bat Ye’or (1996), p. 361
  11. ^ Tabari, Ja: mi ’al-Baya:n …, ed. M. Sha: kir (Beirut, 1421/2001), vol. 10, pp. 125–6. English translation from Andrew Bostom (2005), p. 128.
  12. ^ a b Lewis (1984), p. 15

参考文献[編集]

  • 岩村忍『世界の歴史5 西域とイスラム』中央公論社<中公文庫>、1975年1月。
  • マーワルディー 『統治の諸規則』 湯川武訳、慶應義塾大学出版会(協力 社団法人日本イスラム協会)、2006年5月。ISBN 4-7664-1238-9
  • Bat Ye'or (2002). Islam and Dhimmitude. Where Civilizations Collide. Madison/Teaneck, NJ: Fairleigh Dickinson University Press/Associated University Presses. ISBN 0-8386-3943-7. 
  • Bat Ye'or (1996). The Decline of Eastern Christianity under Islam. From Jihad to Dhimmitude. Seventh-Twentieth Century. Madison/Teaneck, NJ: Fairleigh Dickinson University Press/Associated University Presses. ISBN 0-8386-3688-8. 
  • Bostom, Andrew, ed. (2005). The Legacy of Jihad: Islamic Holy War and the Fate of Non-Muslims. Prometeus Books. ISBN 1-59102-307-6. 
  • Lewis, Bernard (1984). The Jews of Islam. Princeton: Princeton University Press. ISBN 0-691-00807-8. 

関連項目[編集]