アクバル

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アクバル
اکبر
ムガル帝国第3代君主
Akbar1.jpg
アクバル
在位 1556年 - 1605年
戴冠 1556年2月14日
別号 パードシャー
全名 ジャラールッディーン・ムハンマド・アクバル
جلالالدین محمد اكبر
出生 1542年11月23日
ウマルコート
死去 1605年10月13日
ファテープル・シークリー
埋葬 アーグラアクバル廟
配偶者 ルカイヤ・スルターン・ベーグム
  サリーマ・スルターン・ベーグム
  マリアム・ウッザマーニー
子女 ジャハーンギールムラードダーニヤール、シャカルン・ニサー・ベーグム、アーラム・バーヌー・ベーグム、シャーフザーダ・ハーヌム
王朝 ムガル朝ティムール朝
父親 フマーユーン
母親 ハミーダ・バーヌー・ベーグム[1]
宗教 スーフィズム
ディーネ・イラーヒー英語版
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アクバルペルシア語: جلالالدین محمد اكبر , Jalāl'ud-Dīn Muhammad Akbar)は、北インドムガル帝国の第3代君主(在位:1556年 - 1605年)。アクバル1世アクバル・シャーアクバル大帝اکبر کبیر , Akbar-e kabīr)とも呼ばれる

アラビア語で「偉大」を意味するアクバルの名にふさわしく、中央アジアからの流入者であった祖父バーブルの立てたムガル朝を真に帝国と呼ばれるにふさわしい国家に発展させた。そのため、マウリヤ朝アショーカ王に並び称されることもあり[2]、大帝の称号を与えられている。

アクバルは、先述のアショーカ王やスール朝シェール・シャーとともに最も成功した君主であり、インドの最も偉大な王であり融和の象徴として、現在のインドでも人気が高い。

生涯[編集]

出生から即位まで[編集]

ゾウに乗る幼少期のアクバル

ムガル帝国第2代君主の父フマーユーンパシュトゥーン人(アフガン人)の将軍シェール・シャー北インドの帝位を追われて流浪している時代に西インドのシンド地方で生まれた[3][4]。誕生名はバドルッディーン・ムハンマド・アクバル(Badruddin:満月の意、満月の夜に誕生したため。アクバルの名は外祖父のシャイフ・アクバル・アリー・ジャーミーにちなむ)[5]

やがてサファヴィー朝の支援を受けて1555年にスール朝を滅ぼしてインドを再征服したフマーユーンが再即位の翌1556年に事故死すると、父の残した重臣バイラム・ハーンに支えられて13歳の若さで即位した[6]

即位当初はシェール・シャーの開いたスール朝などの敵対勢力がデリーの近辺にも残り活発な活動を行っており、フマーユーン死後すぐ、スール朝の武将だったヒンドゥー武将ヘームー英語版が混乱に乗じてデリーを占領した[7][8]。ヘームーはもともと野菜売りの出であったが、スール朝の武将から宰相にまで上りつめた人物であった[9]

これに対し、アクバルは兵力で劣っていたにもかかわらず、1556年11月5日にデリー北郊のパーニーパットでヘームーの軍を撃破し(第二次パーニーパトの戦い)、フマーユーンの再建した王朝を安定させることに成功した[10][11][12]

大帝国の建設[編集]

アクバル率いる戦象

即位後はバイラム・ハーンが実権を握っていたが、やがてアクバルが成人すると対立するようになり、1560年にはバイラム・ハーンにメッカ巡礼を命じて引退を勧告[13]。バイラム・ハーンもこれに従った[14]。しかしバイラム・ハーン引退後も、自身の乳母であったマーハム・アナガ英語版とその一族が行政権を握ったために、アクバルは実権を握ることはできなかった[15][16]

1562年にマーハム・アナガの息子であるアドハム・ハーン英語版を誅殺してその一族を打倒し、ここに自らの権力の確立に成功した[17]

アクバルは実権を握ると、さまざまな出自から自身の信頼できる人材を登用して権力と軍事力を高め、自ら帝国の勢力の拡大に乗り出した[18]。1562年にアンベール[要曖昧さ回避]王の娘と結婚してアンベール王国と同盟したのを皮切りに、アンベールをはじめとするラージプートの王侯を次々に連合・平定して傘下に加えていった[19]

1564年、ウズベク貴族が反乱を起こした後、この傾向はさらに強化された[20]。それまでウズベク人ペルシア人からなっていた支配層に、アクバルはラージプート諸侯の娘を娶っていくことで次々と彼らを貴族に加え、1580年にはペルシア人貴族が47人、ウズベク人貴族が48人、ラージプート貴族が43人となり、3勢力が拮抗するようになった[21]

こうして、中央アジア伝統の部族制に支えられた軍隊から土着のヒンドゥー教徒を含めた新しい軍隊を作り上げ、この軍事力を背景に30代の頃までにインド北部の大部分を併合して大版図を実現した[22]。ラージプート諸侯を傘下におさめ、メーワール王国など従わないものは討伐してラージャスターンを制圧すると、さらに南西のグジャラートへと兵を向け、1573年にはムザッファル朝英語版グジャラート・スルターン朝英語版を制圧した[23]

その後は東へと兵を向けて、ビハールベンガルオリッサといった地域を1576年には支配下におさめた[24]。東西が片付くと、今度は北へと軍を向け、首都をラホールに移してシャイバーニー朝ブハラ・ハン国と戦火を交え、カーブルカンダハール、シンドを占領した[25]

内政[編集]

アクバル

こうして広大な版図に多くの非ムスリムを抱えるようになった帝国を支えるため、アクバルはムガル帝国の制度の確立に乗り出し、イスラーム法上異教徒に対して課されていたジズヤ(人頭税)を廃止するなど税制を改革した[26]

また、軍人や官僚に、平時から準備していることを義務付けた兵馬の数に応じた位階(マンサブ)を与えて官僚機構を序列化するとともに安定した軍事力を確保するマンサブダーリー制を導入した[27]1579年よりこのような一連の改革に反対する動きから大規模な反乱が起こるが、数年でこれが鎮圧されると、ムガル帝国の支配はかえって安定に向かっていった。

税制の面では、スール朝のシェール・シャーが導入した税制を踏襲した上でさらに改良したザブト制を施行した。これは生産能力に応じて土地を4つの等級に分け、その上で、平均生産高を算出してその3分の1から5分の1を税として銭納させるものであった[28]。銭納であったため、生産者は市場に作物を販売せざるを得ず、これにより流通が盛んになり、また生産力の増大を推進することとなった。

アクバル自身は統治に対してとても責任感を抱いており、それをあらわすいくつかの言葉を残している[29]

「君主のもっとも崇高な資質は、過ちを許すことである」

宗教[編集]

アクバル

アクバルは帝国の統治において、かなり宗教的な融和を重視した君主であった[30]。宗教的には中央アジア系・イラン系のムスリムのみならず、土着のムスリムやヒンドゥー教徒が数多い帝国の君主として、アクバルはイスラーム教のみならず、ポルトガル人がインドで宣教するキリスト教に至るまで、多様な宗教に対して関心を寄せていたといわれる[31]

とくに神秘主義から強い影響を受けつつ諸宗教を総合的に尊重した彼自身の宗教姿勢は、アクバルの側近アブル・ファズルがアクバルの命によって執筆した年代記『アクバル・ナーマ英語版』に「ディーネ・イラーヒー英語版」(「神の宗教」の意)という名前で書き残されている[32]

なお、ディーネ・イラーヒーとはアクバルの創始した新宗教であったとする説が非常によく知られている。だが、史料的な裏づけがなく、現在ではほとんど否定されている。

建築[編集]

ファテープル・シークリーのディーワーニ・ハース

アクバルは建設事業を盛んに行った。治世の初期につくられた建造物ではデリーにある父フマーユーンの霊廟(フマーユーン廟)が名高い。1571年まで帝国の宮殿はデリーと並ぶ北インドの首府であるアーグラに置かれていたが、アクバルは15世紀ローディー朝によって建設された旧城砦を1565年に赤砂岩で築かれたアーグラ城塞に改修し、この城市には「アクバルの町」を意味するアクバラーバードの名が与えられた。

また、1569年には帰依するチシュティー教団の神秘主義者(スーフィー)の影響を受けてアーグラの近郊に周囲11kmに及ぶ市域をもった新都、ファテープル・シークリー(「勝利の都」)の建設を始め、1574年から1584年までの10年間にわたって居城とした[33]

しかしファテープル・シークリーは水利が悪く、1584年に首都がラホールに移されると放棄された。1598年までアクバルの都であったラホールの城砦もアクバルの造営になるものを基礎としている。1598年以降は、帝国の首都は再びアーグラへと移った。

文化[編集]

アクバルとターンセーン

父の流浪生活の最中に生まれ、中央アジア出身の武人に囲まれて育ったため、幼少時に文字を学んだ経験がなく無学であったが、サファヴィー朝の宮廷で絵の手ほどきをうけたこともあり、芸術を愛好し学問を保護した[34]。アブル・ファズルを始め側近には優れた文化人が集い、サンスクリットからペルシア語への翻訳事業も行われた。

また、アクバルは画家を優遇して絵画にも力を入れ、アクバルの時期からムガル絵画が最盛期を迎えていくこととなった。また、音楽も奨励し、ヒンドゥースターニー音楽の大音楽家ミヤン・ターンセーンを宮廷に招いた。ターンセーンの音楽は、20世紀にいたるまでヒンドゥスターニー音楽の正統となり、その後の音楽に多大な影響を与えた[35]

晩年[編集]

晩年のアクバル
アクバル廟

治世の末期にはデカン地方に進出し、1591年から1600年にかけてデカンにあったムスリム5王国英語版ビジャープル王国ゴールコンダ王国アフマドナガル王国英語版ビーダル王国英語版ベラール王国英語版)のアフマドナガル王国と戦って版図を南に大きく広げた[36]。アクバルはこの時期、同じくムスリム5王国と対立していた南インドのヴィジャヤナガル王国ヴェンカタ2世と何度も書簡のやり取りをしていた。1600年にはアクバルの使節がヴェンカタ2世とヴィジャヤナガル王国の首都チャンドラギリで面会している。

サリーム、ムラードダーニヤールの三人の息子が生まれたが、ムラードとダーニヤールは早世し、アクバルの晩年には長男のサリームのみが生存していた[37]。 アクバルはサリームを幼少から甘やかすことはなく育てたが、サリームは父親に青年期から反抗的で、そのため両者の関係は悪く、サリームはアヘンを吸引していた(その複雑な関係は1614年ごろに描かれたムガル絵画からもうかがえる)[38][39]

そのため、サリームとは仲が悪く、後継者問題で失意の晩年を送ることとなった。1600年、サリームはアクバルに反旗を翻して挙兵し、和解のために父が送ったアブル・ファズルを殺害した[40][41]。これを受けてアクバルは1604年、サリームを討伐するためサリームの本拠であるアラーハーバードへと進軍したが、アクバルの母ハミーダが倒れたことで軍を引き上げ、やがてサリームが謝罪することで和解が成立した[42][43]

1605年、アクバルがアーグラで死ぬと、サリームが第4代皇帝ジャハーンギールとして即位した[44]。アクバルの遺骸はアーグラ近郊のシカンドラーに運ばれて葬られ、その地にアクバル廟が建設された[45]

脚注[編集]

  1. ^ 1
  2. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p185
  3. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p184
  4. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p165
  5. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p65
  6. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p184
  7. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p186
  8. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p74
  9. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p186
  10. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p187
  11. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p76
  12. ^ 辛島昇前田専学江島惠教ら監修『南アジアを知る事典』p10 平凡社、1992.10、ISBN 4-582-12634-0
  13. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p187
  14. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p187
  15. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p189
  16. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p80
  17. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p189
  18. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p190
  19. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p190
  20. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p190
  21. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p190
  22. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p191
  23. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p191
  24. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p191
  25. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p192
  26. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p193
  27. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p196
  28. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p196
  29. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p196
  30. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p194
  31. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p194
  32. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p197
  33. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p129
  34. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p198
  35. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p197
  36. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p192
  37. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p201
  38. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p201
  39. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p204
  40. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p201
  41. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p147
  42. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p202
  43. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p147
  44. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p202
  45. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p150

参考文献[編集]

  • 小谷汪之編 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年
  • バーバラ・D・メトカーフ、トーマス・D・メトカーフ著、河野肇訳 『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』 創士社、2009年
  • フランシス・ロビンソン著、小名康之監修・月森左知訳 『ムガル皇帝歴代誌』 創元社、2009年
  • アンドレ・クロー著、岩永博監修、杉村裕史訳 『ムガル帝国の興亡』 法政大学出版局、2001年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]