ムハンマド・シャー (ムガル皇帝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ムハンマド・シャー・ランギーラー
Muhammad Shah Rangeela
ムガル帝国第12代皇帝
Muhammad Shah of Mughal.jpg
ムハンマド・シャー
在位 1720年 - 1748年
戴冠 1720年7月29日
別号 パードシャー
全名 ナーシルッディーン・ラウシャン・アフタール・ムハンマド
出生 1702年8月17日
ファテープル・シークリー
死去 1748年4月26日
デリーデリー城
子女 ムハンマド・シャー
王朝 ムガル朝ティムール朝
父親 ジャハーン・シャー
母親 クードシヤ・ベーグム
宗教 イスラーム教スンナ派
テンプレートを表示

ムハンマド・シャーMuhammad Shah, 1702年7月29日 - 1748年4月26日)は、北インドムガル帝国の第12代君主(在位:1719年 - 1748年)。父は第7代皇帝バハードゥル・シャー1世の皇子ジャハーン・シャームハンマド・シャー・ランギーラー(Muhammad Shah Rangeela)の名でも知られる。

生涯[編集]

宮廷の混乱[編集]

ミール・カマルッディーン・ハーン

1719年ムハンマド・シャーも前の兄弟に続き、サイイド兄弟の信任を得て即位した[1]。しかしその治世は、まさに前途多難の日々であった。

サイイド家の信任で皇帝の位を手にしたが、宮廷内外の混乱に頭を悩ませられ、従兄弟ファッルフシヤル以来ムガル宮廷は、皇帝がサイイド兄弟の信任を得て即位してはそのサイイド家によって廃位・暗殺され、同じ西暦1719年のうちに4人の皇帝が次々と交代する、いわゆる「傀儡皇帝」という古代ローマ軍人皇帝時代の如き混乱状態に陥っていた[2]

だが、1722年ムハンマド・シャーはデカン総督ミール・カマルッディーン・ハーンなどトルコ系貴族の助力でサイイド家の討伐に成功し、帝国に一応の安定を取り戻したものの、その後彼は堕落してしまった[3]

諸地方の独立[編集]

サアーダト・アリー・ハーン

1724年、宰相ミール・カマルッディーン・ハーンは衰退するムガル帝国を見限り、デカンニザーム王国をたて、同年にアワド太守サアーダト・アリー・ハーンアワドで独立した[3]。次いで、ベンガル太守ムルシド・クリー・ハーンベンガルの所領で半独立の立場をとるようになり、1727年その死後継いだシュジャー・ウッディーン・ムハンマド・ハーンは帝国に納税を拒否して独立した[3]

このように、有力諸侯が皇帝を見捨てて地方に独立するようになり、ムガル帝国は急速に解体していき、帝国の実質的な領土は北インドデリーとその周辺地域に限られるようになった。

むろん、帝国の諸州が独立したことにより、帝国の税収が著しく低下したのは言うまでもない。

一応、これらの政権は18世紀後半までは帝国の認可で世襲を行ったが、次第に許可なく世襲を行うようになった。また、隣国アワドの太守は帝国の政治・軍事にたびたび関与してくるようになった。

マラーター同盟の強盛[編集]

バージー・ラーオ1世

ムハンマド・シャーが即位した翌1720年、デカンのマラーター同盟では宰相バーラージー・ヴィシュヴァナートが死に、息子のバージー・ラーオ1世が後を継いだ。

この人物は非常に優れた指導者で、即位するとニザーム、アワド、ラージプート諸王国を抑え、同盟の勢力を急速に拡大した。そして、1737年バージー・ラーオ1世が率いる軍勢が帝都デリーを攻撃した[3]。デリーは陥落はまぬがれたが、マラーターは近辺を略奪した。

この出来事はアウラングゼーブの死後、ちょうど30年後のことであり、マラーターの台頭と帝国の衰退をよくあらわしていた。

デリーの占領・略奪[編集]

ナーディル・シャー

隣接のイランからも大敵が迫りつつあった。かつて第2代皇帝フマーユーンを匿ったサファヴィー朝は完全に衰退しており、混乱に乗じて軍人出身のナーディル・シャー1736年アフシャール朝を創始し、サファヴィー朝のアッバース3世は廃位された。

1739年、ナーディル・シャーは帝都デリーに侵攻し、30,000人もの住民が殺され、略奪が行われた[4]。ペルシア軍は「孔雀の玉座」(Peacock Throne)を含む非常に多くの宝物を盗み、デリーは廃墟と化した。

1748年アフガニスタンドゥッラーニー朝が帝国領に侵入して、帝国はアワド太守サフダル・ジャングの助力を借りなければ撃退することができなかった[5]

侵攻のさなか、ムハンマド・シャーは失意のうちに死亡し、帝位は子のアフマド・シャーが継いだ[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b Delhi 11
  2. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p251-252
  3. ^ a b c d ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p253
  4. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p253-254
  5. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p254

参考文献[編集]