ポルトガル海上帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
1410年から1999年までにポルトガルが領有したことのある領域(赤)、ピンクは領有権を主張したことのある領域、水色は大航海時代に探索、交易、影響が及んだ主な海域。

ポルトガル海上帝国(ポルトガルかいじょうていこく、ポルトガル語Império Português)とは15世紀以来ポルトガル王国が海外各地に築いた植民地支配及び交易体制を指す。新大陸発見後はトルデシリャス条約によりスペインと世界を二分した。領域支配より交易のための海上覇権が中心であったので、このように呼ばれる。オランダ海上帝国も同様である。メキシコペルーにおける領域支配を中心としたスペインの場合は海上帝国とは言わない(スペイン帝国)。

概説[編集]

ポルトガルの海外銀行 (Banco *Nacional Ultramarino) のためのアートワークの部分: ポルトガル帝国の植民地の象徴。リスボン
16世紀のポルトガル領。

ポルトガルの海上発展の基礎を築いたのは航海王子と称されるエンリケ王子(生没年1394年 - 1460年)であった。航海術や探検に興味をもったエンリケ王子は航海学校を興して、多くの航海者を育て、大西洋上のカナリア諸島(現スペイン領)、アソーレス諸島の探検に派遣、またアフリカ西海岸の探検を着実に進めて行った。

1488年にアフリカ大陸南端に到達したポルトガルは東洋の香料貿易独占とキリスト教布教を目的としてインド洋に進出、沿岸各地に拠点を築いてムスリムと戦い、インド洋覇権を握った。このため、エジプトマムルーク朝などイスラム勢力から香料を仕入れて欧州での供給を独占していたヴェネツィア共和国の経済は大打撃を蒙った。ポルトガルはさらにマレー半島における香料貿易の重要な中継地であったマラッカ占領以後、東南アジア東アジアにまで貿易網を拡大し、世界的な交易システムを築き上げた。キリスト教の布教は日本において最も成功し、当時人口2,000万程度であった日本で、約70万人の信者を獲得したとされる。

しかし17世紀に入ると、新教国オランダイギリスも七つの海に進出を始め、ポルトガルと競合するようになる。特にオランダはスペインに対する独立戦争を展開しており、当時スペインと同じ君主を戴いていたポルトガルのガレオン船を拿捕したり、マラッカなどのポルトガル植民地を占領して行った。日本の禁教と鎖国も新教国オランダの反ポルトガル陰謀と言えなくもない。このため17世紀後半以後ポルトガルのアジア貿易は衰退したが、南米大陸ブラジルの植民に力を注ぎ、18世紀にはブラジルが盛んに産出されてポルトガルは再び黄金時代を迎えることになる。しかし、1703年にイギリスと結んだメシュエン条約は、結果として金の流出を招き、ポルトガル本国には、それ程、経済的な恩恵を与える事が出来なかった(非公式帝国)。

19世紀になるとブラジルの生産も低迷し、ブラジル植民地英語版自体が独立を達成してポルトガルから離れていく。ナポレオン戦争後はイギリス帝国が世界の海に覇権を唱え、ポルトガルに残されたのは旧時代の名残りともいえるアンゴラモザンビークなどのアフリカ植民地とインドのゴアディウマカオティモールなどとなるが、これらの植民地第二次世界大戦後、1960年代に独立戦争が勃発し、最終的に1974年のカーネーション革命をきっかけにしてポルトガルはこれらの植民地の独立を承認した。

主要年表[編集]

関連項目[編集]

脚註[編集]

  1. ^ ディウ世界飛び地領土研究会
  2. ^ ダドラ&ナガルハベリー世界飛び地領土研究会
  3. ^ ダマン世界飛び地領土研究会
  4. ^ サン・ジョアン・バプティスタ・デ・アジュダ世界飛び地領土研究会

外部リンク[編集]