カーボベルデ
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- カーボベルデ共和国
- República de Cabo Verde
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(国旗) (国章) - 国の標語 : なし
- 国歌 : 自由の歌(Cântico da Liberdade)

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公用語 ポルトガル語、カーボベルデ・クレオール語 首都 プライア 最大の都市 プライア 独立
- 日付ポルトガルより
1975年7月5日通貨 カーボベルデ・エスクード(CVE) 時間帯 UTC (-1)(DST: なし) ccTLD CV 国際電話番号 238
カーボベルデ共和国、通称カーボベルデは、大西洋の北、アフリカの西沖合いに位置するバルラヴェント諸島とソタヴェント諸島からなる共和制国家。
マカロネシアの島国であり、元ポルトガル領であった。史跡としてはかつてポルトガルの重要な植民地であったが、フランシス・ドレークによって破壊された町シダーデ・ヴェーリャが残っている。
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[編集] 国名
正式名称は、República de Cabo Verde。通称、Cabo Verde(カーボ・ヴェルデ)。
日本語の表記は、カーボベルデ共和国。通称、カーボベルデ。カーボヴェルデ、カボベルデとも表記する。
国名は、アフリカ大陸西端の岬、カーボ・ベルデ(ヴェルデ岬、ポルトガル語で緑の岬の意)に由来する(ヴェルデ岬自体はセネガル領内に位置)。
[編集] 歴史
詳細は「カーボベルデの歴史」を参照
[編集] 初期
ポルトガルの冒険家が1456年と1460年に、最初にこの諸島に着いた時は無人だったが、卓越風、海流などにより、ギニア海岸地方よりセレール人、ウォロフ人、レブ人、ムーア人の漁師などが訪れていたと思われる。
アラブ人、フェニキア人が昔から訪れていたという民話伝承がある。ポルトガル冒険者ジャイメ・コルテサンはアラブ人は塩田に塩を取りに来ていた事を記録していて、Sal Island (Salt Island, サル島、塩の島)を指していると思われる。
現代の作家ギャヴィン・メンジーズは『1421 中国が新大陸を発見した年』(2002年)の中で15世紀の中国、明時代の冒険家 鄭和が1420年にこの島に到達していると論じている(この本で著者はクリストファー・コロンブスの前に鄭和一行がアメリカ大陸を発見していたとする議論を展開している)。
[編集] 記録が残っている「発見」
分かっているカーボベルデ史の日付は、15世紀に到達した最初のポルトガル冒険者による。1444年、ディアゴ・ディアスはいくつかの島を発見した。1455年にはジェノヴァ商人のアントニオ・ノリと、ポルトガル人のディオゴ・アフォンソが訪れた。その後数十年に、エンリケ航海王子の仕事に就いていた、カダモストとアントニオ・ノリが残りの島々を発見した。1462年にポルトガル居住者は初めてサンティアゴ島に到達し、熱帯最初のヨーロッパ人の居住地となるリベイラ・グランデ(今のシダーデ・ヴェーリャ)を創設した。植民地化が始まった当初は、マデイラ諸島やアソーレス諸島のようなポルトガル人の大規模移住は行われなかったが、16世紀には、アフリカから南北アメリカ大陸へ向かう奴隷船の中継拠点となり、奴隷貿易で栄えた[2]。カーボベルデには入植したポルトガル人と連行されたアフリカ人によってクレオール文化が築かれ、両者の混血も進んだ[2]。海賊がしばしばポルトガル人居住地を攻撃した。1585年、イギリスの海賊サー・フランシス・ドレイクはリベイラ・グランデを略奪した。リベイラ・グランデは1712年のフランスの攻撃の後、1770年に首都となるプライアに比べてその重要性を失った。
1912年の「カトリック百科事典」によると、カーボベルデ諸島は1460年に、ギニアは1445年にポルトガル人によって「発見」された。これらの領土はクレメンス7世により、1553年の1月31日に司教管区に選ばれた。
[編集] 奴隷貿易港から商業港へ
カーボベルデ諸島は、18世紀終盤以降経験する頻発する旱魃・飢餓と、奴隷貿易の衰退により、その繁栄は緩やかに失われた。しかし、中央大西洋航路における位置は、カーボベルデを理想的な補給港たらしめていた。19世紀に、サン・ヴィセンテ島にあるミンデロはその素晴らしい港により、重要な商業港となっていった。一方、19世紀に入ると、断続的な旱魃や、ポルトガルからもたらされた大土地所有制度の弊害などもあって、カーボベルデ人の外国移住が始まり、特に多くがアメリカ合衆国へ向かった[2]。
[編集] PAIGC
20世紀に入るとポルトガルは、カーボベルデのナショナリズムを緩和させるために、その地位を植民地から海外行政地域に変更した。しかし1956年、カーボベルデ人のアミルカル・カブラルとラファエル・バルボザは、ひそかにポルトガル領ギニア(現 ギニアビサウ)で、ポルトガル領ギニアとカーボベルデの独立のためのギニア・カーボベルデ独立アフリカ党 (PAIGC)を結成した。PAIGCはカーボベルデとポルトガル領ギニアの経済、社会、政治状態の向上を求め、2両国の独立運動の基礎をなす。1960年にその本部をギニアのコナクリに移すと、翌年からポルトガルに対する武装抵抗を始めた。妨害行為は結果的に10,000人のソビエト連邦のサポートを受けたPAIGCの兵士と、35,000人のポルトガル人及びアフリカ人の軍隊による戦争になった。
1972年までには、ポルトガル軍の駐留にも関わらず、PAIGCはポルトガル領ギニアのほとんどを制圧していたが、カーボベルデは地理的に隔絶しており物流がさほど無いことから、PAIGCはカーボベルデのポルトガル支配を破壊しようとはしなかった。しかし、1974年4月にポルトガルで起きたカーネーション革命を受け、PAIGCはカーボベルデでも活発な政治運動となった。
[編集] カーボベルデの国会成立、独立
1974年12月にPAIGCとポルトガルは、ポルトガル人とカーボベルデ人による暫定政府の同意書にサインした。1975年の1月30日、カーボベルデ人は国会を選出し、ポルトガルから独立の法的承認を1975年7月5日に受け取った。
[編集] PAICV
ギニア・ビサウでの1980年の政変の直後(ポルトガル領ギニアは1973年に独立を宣言、1974年法律上の独立を認められる)、両国間の関係は緊張した。カーボベルデはギニア・ビサウとの統一の望みを捨て、カーボベルデ独立アフリカ党 (PAICV) を設立した。のちに諸問題は解決され、現在両国間の関係は良好である。PAICVとその先行者は一党体制を成立し、独立から1990年までカーボベルデを統治した。
[編集] 複数政党体制へ
政権運営後、増大する批判を受けて、PAICVは一党体制を終わらせる憲法改正案を議論するための緊急議会を1990年2月招集した。反対グループは集まって、1990年4月にプライアで民主運動 (MpD) を形成した。PAICVとMoDなどの政党は共に、1990年12月の大統領選挙への異議を唱える権利を主張した。一党体制は1990年9月28日に廃止され、初の多数政党の選挙は1991年1月に行われた。MpDは国会での多数派を勝ち取り、MpDの大統領候補アントニオ・マスカレニャス・モンテイロはPAICVの候補者を破り、1975年から大統領職にあったアリスティダス・ペレイラからその座を継いだ。1992年には、憲法が制定され、議会制度が定められた。1995年12月の議会選挙は国会でのMpDの勢力を増大させ、全72議席のうちの50議席を占めた。1996年2月の大統領選挙では、マスカレーニャス・モンテイロ大統領を選出した。1995年12月と1996年2月の選挙は自由かつ公正であると内外の監視団によって評価された。
2000年と2001年の大統領選挙では、2人の元首相ペドロ・ピレスとカルロス・ヴェイガが主な候補者だった。ピレスはPAICV統治時代に、ヴェイガはモンテイロの大統領時代に首相だった。両者とも半数近くの得票数の歴史的接戦で、ピレスが17票差で勝った。
[編集] 地理
カーボベルデ諸島(ヴェルデ岬諸島)は西アフリカから約375km離れた場所に位置している。10の島(内9は人が居住している)と8の小島から構成されている[3] 。大小15の火山群島からなり、最高峰はフォゴ島のカノ山(2829m)。熱く乾燥した気候で、旱魃が何年も続く事があり、農作物などの被害を受けやすい。
カーボベルデはバルラヴェント諸島とソタヴェント諸島に分かれている。サル島、マイオ島、ボア・ヴィスタ島は比較的起伏が少なく、砂丘等が見られるが、その他の島々は山岳的な様相を呈し、荒涼とした絶壁や荒地が広がり、国全体が深刻な水不足に悩まされている。
[編集] バルラヴェント諸島
[編集] ソタヴェント諸島
[編集] 気候
| 月 | 平均気温(摂氏) | 平均気温(華氏) | 降水量 mm |
|---|---|---|---|
| 1月 | 24°C | 75°F | 5.3mm |
| 2月 | 24°C | 75°F | 3.8mm |
| 3月 | 25°C | 77°F | 1.3mm |
| 4月 | 25°C | 77°F | 0.0mm |
| 5月 | 25°C | 78°F | 0.0mm |
| 6月 | 26°C | 79°F | 0.0mm |
| 7月 | 27°C | 81°F | 0.8mm |
| 8月 | 29°C | 84°F | 14.1mm |
| 9月 | 29°C | 85°F | 33.6mm |
| 10月 | 29°C | 83°F | 6.5mm |
| 11月 | 27°C | 81°F | 2.5mm |
| 12月 | 25°C | 77°F | 1.6mm |
[編集] 政治
カーボベルデは国家体制として共和制、半大統領制を採る立憲国家である。現行憲法は、1992年9月25日に採択されたもの。1995年と1999年の2回、大幅な改正が行われている。
国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出される。任期は5年で、3選は禁止されている。首相は国民議会により選出され、大統領が任命する。内閣に相当する閣僚評議会のメンバーは、首相の推薦に基づき大統領が任命する。
立法府は一院制の国民議会である。定数は72議席。議員は比例代表制に基づき、国民の直接選挙で選出される。任期は5年。
カーボベルデは憲法で複数政党制を認めており、実質的には二大政党制が機能している。一方は、1975年の独立から1991年まで一貫して一党独裁政権を担い続けた中道左派のカーボベルデ独立アフリカ党 (PAICV) である。もう一方は、PAICVの一党支配に反発して結成され、カーボベルデ史上初の政権交代を実現させたリベラル政党の民主運動 (MpD) である。PAICVは1991年に首相、1996年には大統領の座をMpDに明け渡したが、2001年より再び選挙によって大統領・首相の座を占めている。PAICVとMpD以外の政党の勢力は限定的だが、比較的有力なものに中道右派の独立民主カーボベルデ連合(UCID)がある。
司法府の最高機関は、最高裁判所である。法体系は、旧宗主国であるポルトガルの法体系が基幹となっている。
[編集] 地方行政区分
詳細は「カーボベルデの行政区画」を参照
[編集] 経済
農業、漁業が主産業。資源が少ない為、経済建設を進めており、安定した政治と自由経済とが相まって、順調な経済成長が進んでいる。政府は、債務削減、成長産業への優遇税制導入、マクロ経済の安定、海外直接投資の呼び込み、社会サービスの向上などを主要の政策としている。
[編集] 国民
- 人口統計 - クレオール(ムラート)が71%、その他はほとんどアフリカ系住民であり、少数のヨーロッパ人(1%)も存在する。
- 言語 - 公用語はポルトガル語だが、最も広く使われているのはそのクレオールであるカーボベルデ・クレオール語である。
- 宗教 - 国民の85%が通常のローマ・カトリックであり[5]、その他のカトリック教徒はアフリカの宗教の影響を受け、習合している[6] 。他にプロテスタント諸宗派が存在し、プロテスタントの宗派で最大のものはナザレン教会であり、その他にセブンスデー・アドベンチスト教会、末日聖徒イエス・キリスト教会、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド、Universal Church of the Kingdom of God、そしてペンテコステ派と福音派の教会が少数存在する[5] 。小規模なバハーイー教のコミュニティと、小規模だが成長中のムスリムのコミュニティが存在する[5]。無神論者は人口の1%以下だと見積もられている[5]。
[編集] カーボベルデ人離散
詳細は「カーボベルデ人離散」を参照
今日、カーボベルデ本国の人口よりも多くのカーボベルデ人が外国で生活しており、重要なカーボベルデ人移民のコミュニティであるアメリカ合衆国(500,000人のカーボベルデ人が生活し、多くはロードアイランド州からニューベッドフォードまでのニューイングランド沿岸に集中している)のブロックトンに最も集中している。相当数のカーボベルデ人人口がまたサン=トメ・プリンシペ、ポルトガル(80,000人)、アンゴラ(45,000人)、セネガル(25,000人)、そしてイタリア(10,000人)やフランス、オランダに存在する。
アメリカ合衆国では、移民第一波は当国での人種主義政策からアフリカ系と見なされることを拒み、「ポルトガル人」であると称したため、アメリカ合衆国では「黒いポルトガル人」と呼ばれた[2]。しかし、このような姿勢からカーボベルデ人と同様に扱われることを拒んだポルトガル系アメリカ人や、カーボベルデ人が交流を拒否したアフリカ系アメリカ人との対立が進んだ[2]。第一世代の子供と孫は1960年代の公民権運動に参加した。これは彼等と他の合衆国の黒人グループとの関係構築を成した。カーボベルデ人はマカオからハイチ、アルゼンチン、北ヨーロッパにまで世界各地に移動している [7]。
[編集] 文化
詳細は「カーボベルデの文化」を参照
カーボ・ヴェルデの社会的、文化的パターンはポルトガルとアフリカの地方部のそれと似通っている[3]。サッカーの試合と教会の活動は典型的な社会的交流と娯楽の源泉である[3]。伝統的に友人と会うために広場を歩くことは、カーボ・ヴェルデでの町では日常的に行われる[3]。電気が普及した街では、二つのチャンネルが利用できる(カーボ・ヴェルデのものとポルトガルのものである)[3]。
ダンスの様式としては、ソフトダンスのモルナと、モルナの近代化したパッサーダ(ズーク)、ポルトガルとアフリカのダンスが混合した官能的なフナナー、最高度に官能なコラデイラ、そしてバトゥーケのダンスが挙げられる。
[編集] 文学
カーボベルデの文学はポルトガル語圏アフリカで最も豊かなものの一つである。著名な詩人としてフルゾニ・セルジオ、タルヴェス・エウジェニオ、B・レザ、ペドロ・カルドーゾが挙げられ、マヌエル・ロペス、エンリケ・テシェイラ・デ・ソウザ、アルメイダ・ジェルマーノのような作家も挙げられる。
[編集] 食文化
カーボ・ヴェルデの料理は大概魚と、トウモロコシと米のような主食を基礎としている。野菜は一年の大半を通してジャガイモ、タマネギ、トマト、マニオク、キャベツ、ケール、乾燥豆が利用できる。バナナやパパイヤのような果物は一年中利用でき、マンゴーやアボカドといったその他は季節が限定される[3]。カーボベルデで人気のある料理はカシューパである。
[編集] 音楽
カーボベルデの音楽はポルトガル、西インド諸島、アフリカ、ブラジルの音楽から影響を受け、混合している[8] 。アフリカ系の住民の多いソタヴェント諸島ではアフリカ系の音楽の影響が強く、ポルトガル系の多かったパルラヴェント諸島ではポルトガルの音楽の影響が強く、ヴァイオリン、カヴァキーニョ、ポルトガル・ギターが用いられる[2]。カーボベルデの真髄たる国民音楽はモルナ(パルラヴェント系)であり、概してカーボベルデ・クレオール語で歌われる哀愁があり、かつ熱情的な歌の形式である。その他のポピュラー音楽のジャンルとしてはフナナー(ソタヴェント系)やバトゥーケ、コラーなどが包括される。カーボベルデ出身の歌手の中でも最もよく知られた存在とはセザリア・エヴォラであり、彼女の歌は国家とその文化の特質となった。
[編集] 祝祭日
| 日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1月1日 | 元日 | Ano Novo | |
| 1月13日 | 民主主義の日 | Dia da Democracia | |
| 1月20日 | 英雄の日 | Dia dos Heróis Nacionais | アミルカル・カブラルの命日 |
| 2月か3月 | 謝肉祭 | Carnaval | 復活祭の46日前、移動祝日 |
| 3月か4月 | 復活祭 | Páscoa | 春分の日の後の最初の満月の次の日曜日、移動祝日 |
| 7月5日 | 独立記念日 | Dia da Independência | |
| 11月1日 | 万聖節 | Dia de Todos os Santos | |
| 12月25日 | クリスマス | Natal |
[編集] 脚注
- ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年7月19日閲覧([1])
- ^ a b c d e f 市之瀬敦「クレオルの島カボ・ベルデ その形成とディアスポラ」『社会思想史の窓第118号 クレオル文化』石塚正英:編 社会評論社 1997/05
- ^ a b c d e f The Peace Corps Welcomes You to Cape Verde. Peace Corps (April 2006). This article incorporates text from this source, which is in the public domain
- ^ http://www.capeverdebreaks.com/weather.html Weather , http://www.capeverdebreaks.com Cape Verde Overview
- ^ a b c d http://www.state.gov/g/drl/rls/irf/2007/90087.htm
- ^ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/cv.html
- ^ http://www.everyculture.com/multi/Bu-Dr/Cape-Verdean-Americans.html
- ^ Manuel, p. 95-97.
[編集] 参考文献
- 市之瀬敦「クレオルの島カボ・ベルデ その形成とディアスポラ」『社会思想史の窓第118号 クレオル文化』石塚正英:編 社会評論社 1997/05
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 政府
- カーボベルデ共和国政府 (ポルトガル語)
- 日本政府
- 日本外務省 - カーボベルデ (日本語)
- 観光
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