中央アフリカ共和国

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中央アフリカ共和国
République centrafricaine(フランス語)
Ködörösêse tî Bêafrîka(サンゴ語)
中央アフリカの国旗 中央アフリカの国章
国旗 国章
国の標語:Unité, Dignité, Travail
(フランス語:統一、尊厳、労働)
国歌再生
中央アフリカの位置
公用語 フランス語
国語はサンゴ語
首都 バンギ
最大の都市 バンギ
政府
大統領 カトリーヌ・サンバ=パンザ(暫定)
首相 アンドレ・ンザパイェケ(暫定)
面積
総計 622,984km242位
水面積率 極僅か
人口
総計(2012年 4,530,000人(???位
人口密度 6人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(xxxx年 xxx,xxxCFAフラン
GDP(MER
合計(2008年 20億[1]ドル(151位
GDP(PPP
合計(2008年 32億[1]ドル(151位
1人あたり 700[1]ドル
独立
 - 日付
フランスより
1960年8月13日
通貨 CFAフランXAF
時間帯 UTC +1(DST:なし)
ISO 3166-1 CF / CAF
ccTLD .cf
国際電話番号 236

中央アフリカ共和国(ちゅうおうアフリカきょうわこく、フランス語: République centrafricaineサンゴ語: Ködörösêse tî Bêafrîka)、通称中央アフリカは、アフリカ中央部にある国家。北東にスーダン、東に南スーダン、南にコンゴ民主共和国、南西にコンゴ共和国、西にカメルーン、北にチャド国境を接する内陸国である。首都バンギ

国名[編集]

正式名称はフランス語でRépublique centrafricaine(レピュブリック・サントラフリケーヌ)。通称Centrafrique(サントラフリック)。

日本語の表記は中央アフリカ共和国。通称中央アフリカ。植民地時代の名称はウバンギ・シャリ (Oubangui-Cha-ri)。

歴史[編集]

アラブ人の奴隷貿易[編集]

中世におけるアフリカの主要奴隷貿易路

7世紀頃からチャド湖周辺地域には、カネム帝国英語版700年 - 1387年カネム・ボルヌ帝国を参照)やワダイ王国英語版バギルミ王国英語版が割拠していた。アラブ人の奴隷貿易におけるサブサハラ地域の主要な奴隷供給地であったウバンギ川流域を巡って、多くのスルタン国が領有を主張した。16世紀頃からボルヌ帝国英語版がサハラ中央部の覇者となり、フラニ戦争英語版1804年1808年)の影響などから19世紀には人口流入がおこり、アザンデ族バンダ族英語版Baya-Mandjiaが移住して来た。フランスの植民地化が始まるまでは、各部族が首長を中心に居住していた。

植民地化[編集]

1885年ベルリン会議でベルギー王の私領地がコンゴ自由国となった。1887年フランスはウバンギ川右岸に、ベルギーとの協定でコンゴ植民地英語版を建設。1889年にフランスが前哨基地(現バンギ)を建設。1894年ウバンギ・シャリ英語版1894年 - 1910年)がフランス領となった。1910年よりフランス領赤道アフリカ1910年 - 1958年)と改称しウバンギ・シャリは軍政下のチャドをその一部としたが、1916年にチャドを分離した。

独立・ダッコ政権[編集]

1958年フランス第五共和国憲法国民投票に賛成、フランス共同体内の自治共和国となり、国名を中央アフリカ共和国と改称、1960年8月、フランスより独立 、ダヴィド・ダッコ (David Dacko) が初代大統領に就任する。

クーデター・ボカサ政権[編集]

1965年12月にダッコの従兄弟で当時国軍の参謀総長だったジャン=ベデル・ボカサ中佐による軍事クーデターが起こり、ダッコ政権が転覆。1966年1月、ボカサ中佐が大統領に就任、独裁政治をはじめる。1970年10月、ジャン=ベデル・ボカサ大学開校。1972年、ボカサ大統領が終身大統領を宣言する。1976年12月、ボカサ大統領により中央アフリカ共和国に帝政を敷くことが決定される(中央アフリカ帝国)。1977年12月4日、ボカサ大統領は約65億円(2000万ドル)[2]という国家予算の1/4に相当する国費をつぎ込むなど、贅を尽くしたフランス風の戴冠式を行い、中央アフリカ帝国初代皇帝ボカサ一世を称する。(「黒いナポレオン」)。

クーデター・ダッコ政権[編集]

1979年9月 ボカサ皇帝の外遊中にフランスがクーデターを仕掛けボカサ政権を転覆。フランスが介入し共和制復活。新憲法の制定、複数政党制の導入など行われた。ダッコ元大統領が再就任。

クーデター・コリンバ政権[編集]

1981年9月1日、国軍参謀総長コリンバによるクーデター発生。ダッコはカメルーンに亡命。

パタセ政権[編集]

1993年の選挙でコリンバは落選し、パタセが大統領に就任。国内の混乱は収まらず騒乱状態となり、1998年には国際連合中央アフリカ共和国ミッション(MINURCAT)による多国籍軍の駐留が行われた。

クーデター・ボジゼ政権[編集]

2003年チャドイドリス・デビ大統領や MINURCAT の支援を受けたフランソワ・ボジゼが、パタセ大統領が国外にいる間に権力の掌握に成功して大統領に就任。

中央アフリカ共和国内戦英語版2004年 - 2007年)。

クーデター・セレカ政権[編集]

2012年12月、反政府武装勢力CPSK-CPJP-UFDRの連合体であるセレカは、北部および東部の広域を掌握[3]。翌年3月には、1月の和平合意を履行しなかったとしてボジゼ政権への攻撃を再開し、24日首都バンギを制圧した。ボジゼ大統領は隣国コンゴ民主共和国へと脱出した。旧宗主国であるフランスは、バンギ空港を確保した。

セレカの主導者ミシェル・ジョトディアが自ら暫定大統領に就任(軍事独裁軍事政権英語版)し、3年後の選挙までチャンガイ英語版首相が政権を担うことになった。だが、アフリカ連合はセレカによる首都制圧を非難、加盟国に対し「結束した断固たる行動」を求めた。4月、ジョトディアはアフリカ連合の要求を受け入れ、暫定評議会を設置。ほかに候補者がいないなかで、暫定評議会から大統領に選出された。8月、宣誓式が行われ、正式にジョトディアが大統領に就任した[4]。ジョットディアは、中央アフリカの歴史上初めてのイスラム教徒の大統領であった。

無政府期[編集]

2013年9月には、大統領によりセレカの解散が行われたが、単に非合法化されただけで武装組織そのものは温存された。一般市民への弾圧や新たに登場したキリスト教系武装組織、アンチ・バラカなどとの抗争は続き、次第に国内は無政府状態に近い状況に陥った。首都でも、イスラム教とキリスト教の対立が激化。数百人規模の死者が出る状態となったため、2013年の後半には旧宗主国のフランスアフリカ連合の治安維持を目的とした派遣軍の軍事介入を受けた[5]。2014年1月10日には、混乱を収拾するためにジョットディア大統領とチャンガイ首相が辞任した[6]。2014年2月には、評議会内の選挙によりカトリーヌ・サンバ=パンザが大統領に選出、キリスト教徒の立場から国内融和に乗り出した[7]

政治[編集]

2013年3月まで[編集]

中央アフリカは共和制大統領制をとる立憲国家である。現行憲法2004年12月5日に制定され、同月27日より施行されたもの。

国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出され、任期は5年。3選は禁止されている。首相は総選挙の結果に基づき、国民議会が選出する。内閣に相当するものとして閣僚評議会が設置されている。

議会は一院制で、正式名称は国民議会。定数109議席。国民議会議員は直接選挙で選出され、任期は5年である。

主要政党としては、現大統領フランソワ・ボジゼ政権の事実上の与党である国民集合クワ・ナ・クワ(KNK, ボジゼ自身は党員ではなく無所属)、アンジュ・フェリクス・パタセ前大統領の所属する中央アフリカ人民解放運動 (MLPC)、アンドレ・コリンバ元大統領が率いる中央アフリカ民主連合 (RDC) の3党が挙げられる。他には社会民主党 (PSD)、進歩愛国戦線 (FPP)、民主進歩同盟英語版 (ADP)、新進歩同盟 (NDP) といった小政党がある。

反政府武装勢力として「民主復興人民軍英語版」(APRD) があり、主に北部を拠点に活動している。

最高司法機関は最高裁判所 (Cour suprême) である。憲法裁判所も存在。

2013年3月以降[編集]

2013年3月、セレカの首都進攻により、初めてイスラム政権が誕生。同年中に2004年に制定された憲法は廃止され、2015年まで有効とする暫定憲法が公布された。議会も解散し、新たな議会として暫定評議会、次いで国民移行評議会(135議席)が設置された。評議会は、大統領を選出する機能を有しており、2014年2月には会内の選挙によりカトリーヌ・サンバ=パンザを新しい大統領として選出している。

地方行政区分[編集]

中央アフリカ共和国の州

中央アフリカは、14の行政州と2つの経済州、そして州に属さない首都バンギがある。また州はさらに71の地区(支庁)に分けられる。

中央アフリカの14の行政州は以下の通り。

また、2つの経済州は、ナナ・グリビジ州 (Nana-Grébizi) とサンガ・ムバエレ州 (Sangha-Mbaéré) である。

主要都市[編集]

主要な都市はバンギ(首都)がある。人口10万人以上の都市はビンボ英語版がある。

地理[編集]

中央アフリカ共和国の地図
バンギ近くのウバンギ川

国土面積約623千平方kmは米国テキサス州よりやや小さい。大部分が海抜500mの平坦地で北部にはボンゴ山地が聳え立つ。中部から北部にはサバンナが広がり、南部に全土の8%程度の熱帯雨林がある。北部と南部には川(ウバンギ川シャリ川)が流れており、植民地時代の名称の由来となっている赤道に近いため熱帯気候を示す。北部は熱く乾いたハルマッタン風が吹き砂漠化を進める。

氾濫原やサバンナを含むマノヴォ=グンダ・サン・フローリス国立公園ユネスコ世界遺産に登録されている。

経済[編集]

農業など第一次産業が主。資源はダイヤモンドウランなどを産出し、綿花コーヒーと共に主要輸出品となっている。主要な輸出先はベルギー,中国,モロッコ,コンゴ(民)、輸入先はオランダ,韓国,フランス,カメルーン(2010年)である。しかし、資源が多いにもかかわらず人口の9割は一日2ドル以下で生活している状況である。内陸国であるため、輸送のコスト高という経済的不利に加え、度重なる政情不安の影響で、同国経済は大きな打撃を蒙り、経済の低迷が続いている。

国民[編集]

ウハム・ペンデ州の女性グループ

民族[編集]

住民は、アダマワ・ウバンギ系言語英語版を話す民族が中心である。主な民族は、バヤ族英語版 (33%)、バンダ族英語版 (27%)、en:Mandja people (13%)、サラ族英語版 (10%)、Mboum (7%)、バカ族英語版 (M'Baka, 4%)[8]en:Yakoma people (4%)、フラニ族 (3%) などである。

言語[編集]

言語は、公用語がフランス語である。日常生活では、フランス語とアダマワ・ウバンギ系言語英語版ンバンディ語英語版が混淆して形成されたサンゴ語というクレオール言語が事実上の共通語となっている。

宗教[編集]

宗教は、伝統的宗教が24%、プロテスタントが25%、ローマ・カトリックが25%、イスラム教が15%、その他が11%である。

教育[編集]

文化[編集]

中央アフリカ共和国の農村

世界遺産[編集]

中央アフリカ国内にはユネスコ世界遺産リストに登録された自然遺産が1件存在する。

祝祭日[編集]

祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考
3月29日 独立の父バルテレミー・ボガンダ命日 Décès du Fondateur Barthélemy Boganda
8月13日 独立記念日 Fête de l'Indépendance
12月1日 国の祝日 Fête nationale, jour de défilé sur l'Avenue des Martyrs

脚注[編集]

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関連項目[編集]

外部リンク[編集]