エチオピア

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エチオピア連邦民主共和国
የኢትዮጵያ ፈደራላዊ ዲሞክራሲያዊ ሪፐብሊክ
Ityop'iya Federalawi Demokrasiyawi Ripeblik
(アムハラ語)
エチオピアの国旗 エチオピアの国章
国旗 (国章)
国の標語:なし
国歌親愛なる聖エチオピア
エチオピアの位置
公用語 アムハラ語
首都 アディスアベバ
最大の都市 アディスアベバ
政府
大統領 ムラトゥ・テショメ
首相 ハイレマリアム・デサレン
面積
総計 1,127,127km226位
水面積率 0.7%
人口
総計(2013年 93,877,025人(13位
人口密度 83.2人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 2,391億[1]ブル
GDP(MER
合計(2008年 256億[1]ドル(???位
GDP(PPP
合計(2008年 709億[1]ドル(???位
1人あたり 896[1]ドル
建国 紀元前10世紀ごろ
通貨 ブルETB
時間帯 UTC (+3)(DST:なし)
ISO 3166-1 ET / ETH
ccTLD .et
国際電話番号 251

エチオピア連邦民主共和国(エチオピアれんぽうみんしゅきょうわこく)、通称エチオピアは、東アフリカに位置する連邦共和制国家である。東をソマリア、南をケニア、西を南スーダン、北西をスーダン、北をエリトリア、北東をジブチに囲まれた内陸国。隣国エリトリアは1991年にエチオピアから分離した国家である。首都はアディスアベバ

アフリカ最古の独立国として知られる。サハラ以南のアフリカでは、ナイジェリアに次いで二番目に人口の多い国である。

国名[編集]

正式名称はアムハラ語で、የኢትዮጵያ ፈደራላዊ ዲሞክራሲያዊ ሪፐብሊክ(ラテン文字転写は、Ityop'iya Federalawi Demokrasiyawi Ripeblik)。通称、የኢትዮጵያ (Ityop'iya)。

公式の英語表記は、Federal Democratic Republic of Ethiopia。通称、Ethiopia

日本語の表記は、エチオピア連邦民主共和国。通称、エチオピア。漢字による表記は哀提伯。他にエティオピアとも表記される。

国名のエチオピアは、ギリシャ語の「日に焼けた」という意味のアエオティプスに因むが、これはエチオピア人の肌の色に由来しており、本来の意味はアフリカ大陸の広範囲に渡る地域を指す。ギリシャ神話パエトーンを参照。また、別名のアビシニアは、アラビア語でエチオピア地方およびその地にやってきたセム系民族アクスム人(別名ハバシャあるいはアバシャ。アムハラ語:ሐበሻ hābešā/አበሻ `ābešā)を指すアル・ハバーシャ(al-ḥabašah الحبشة)が転訛した物である [2]

ヨーロッパ人にはアビシニアと呼ばれていたが、1270年から1974年まで、1936年からの5年間イタリア領東アフリカに編入された時期を除き、エチオピア帝国と称してきた。1974年のクーデターの後、1987年まで社会主義エチオピア1991年までエチオピア人民民主共和国と称し、1995年憲法改正によりエチオピアとなったが、1995年に再度の憲法改正により現在のエチオピア連邦民主共和国となった。

歴史[編集]

古代・中世[編集]

ギリシャ語が刻まれたアクスム王国の通貨

エチオピアには元々ネグロイドの先住民が住んでいたが、イエメンサバ王国から住民も少数移住し、ソロモン王サバの女王の血筋を受け継ぐと称するアクスム王国100年940年)が、紅海沿岸の港町アドゥリス英語版(現在のエリトリアマッサワ近郊)を通じた貿易で繁栄した。全盛期は4世紀でこのころコプト教伝来の影響が見られ(コプト教伝来以前はサバ王国から伝わった月崇拝を宗教としていた)、クシュ王国を滅ぼして、イエメンの一部まで支配したとされる。アクスム王国は、10世紀ごろにベタ・イスラエル[2]の女首長グディト英語版に滅ぼされたという説とアクスムのやや南方のラスタ地方から台頭してきたアガウ族英語版ザグウェ朝(ca.1137,ca.1150 - 1270)に滅ぼされたという説がある。

エチオピア帝国[編集]

エチオピアの皇帝は、アムハラ語でネグサ・ナガストと呼ばれ、これは「王(ネグ)の中の王」という意味である。王室の権威が遠くまで及ばなかったり、自分の出身地内しか統治できていない時は単にネグ、もしくはラス(諸侯)と呼ばれた。

ザグウェ朝[編集]

ザグウェ朝エチオピア帝国1137年1270年)は、13世紀初頭のゲブレ・メスケル・ラリベラ英語版王のときが全盛期で、首都ロハ(現ラリベラ)には世界遺産にもなっているラリベラの岩窟教会群が築かれた。しかし、王位継承争いで衰え、さらに南方のショアアムハラ地方からアクスム王の血筋を受け継ぐと称する有力者イクノ・アムラクによって1270年に滅ぼされた。

ソロモン朝[編集]

イクノ・アムラクの建てた王朝はソロモン朝英語版エチオピア帝国1262年-1974年)と呼ばれる。ソロモン朝は、アムデ・ション1世英語版以降15世紀のゼラ・ヤコブ英語版まで全盛を誇り、エジプトマムルーク朝に大きな態度をとることすらあった。

諸公侯時代[編集]

しかし、16世紀以降ムダイト朝英語版オーッサ・スルタン国英語版1734年–現在)が強勢となってソロモン朝の力は衰え、1679年から1855年頃まで諸侯が抗争する群雄割拠の時代となった(諸公侯時代)。

ソロモン朝の中興[編集]

19世紀末のエチオピア
エチオピア帝国最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世ジャマイカラスタファリ運動などで世界各地の黒人に大きな希望を与えた。

諸公侯の群雄割拠を抑えて再び統一へ向かわせたのがテオドロス2世であり、ソロモン朝中興の主とされ、近代エチオピアは彼の治世に始まったとされる。メネリク2世の19世紀の末に2度イタリアの侵略を受けたが、1896年アドワの戦いによって、これを退けた(第一次エチオピア戦争)。このことは、アフリカの帝国がヨーロッパ列強のアフリカ分割を乗り切り独立を保ったという画期的な出来事だった。これにより、エチオピアはリベリアと並んでアフリカの黒人国家で唯一独立を守り切った国家となった。

1930年11月2日に皇帝に即位したハイレ・セラシエ1世は、即位後エチオピア初の成文憲法となったエチオピア1931年憲法大日本帝国憲法を範として制定した[3]。1930年11月2日の皇帝ハイレ・セラシエの即位は、カリブ海のイギリス植民地、ジャマイカマーカス・ガーベイの思想的影響を受けていた黒人の間に、ハイレ・セラシエを黒人の現人神たる救世主、「ジャー」であると看做すラスタファリ運動を高揚させ、アメリカ大陸汎アフリカ主義に勢いを与えた。

イタリア領東アフリカ[編集]

しかし、新帝ハイレ・セラシエ1世の即位とエチオピア帝国憲法の制定も束の間の平穏であった。ファシストイタリア王国の統領ベニート・ムッソリーニは、1931年の時点で人口4200万人に達していたイタリア国内の過剰人口を入植させ、「東アフリカ帝国」の建設を目論み、1934年の「ワルワル事件」を経た後、「アドワの報復」と「文明の使節」を掲げて1935年10月3日イタリア軍がエチオピア帝国に侵攻、第二次エチオピア戦争が勃発した[4]。イタリア軍は1936年3月のマイチァウの戦い毒ガスを使用して近代武装した帝国親衛隊を含むエチオピア軍を壊滅させた後、皇帝ハイレ・セラシエ1世はジブチを経てロンドンに亡命、1936年5月5日ピエトロ・バドリオ率いるイタリア軍が首都アディスアベバに入城した[5]

首都アディスアベバ陥落後、1936年から1941年にかけてエチオピアはイタリアの植民地に編入され(イタリア領東アフリカ)、ファシスト・イタリアはイスラーム教徒のオロモ人を優遇し、キリスト教徒アムハラ人を冷遇する分割統治策を採用したが、その間も「黒い獅子たち」と呼ばれるゲリラが抗イタリアのレジスタンス運動を行った[6]

イギリス軍政とソロモン朝復古独立[編集]

1939年9月1日第二次世界大戦勃発後後、枢軸国イタリアは連合国のイギリスとの戦いを繰り広げ、エチオピアを占領していたイタリア軍とイギリス軍は東アフリカ戦線英語版の激戦の後、皇帝ハイレ・セラシエ1世はイギリス軍と共に1941年にアディスアベバに凱旋した[7]。イギリス軍軍政を経た後、再びエチオピアは独立を回復した。

エチオピア・エリトリア連邦[編集]

1952年エリトリア連邦を組んで、エチオピア・エリトリア連邦が成立した。しかし、国内の封建的な諸制度は温存されたままであり、これが社会不安を引き起こすこととなった。1960年には皇帝側近によるクーデター未遂が勃発した[8]

冷戦期・メンギスツ政権[編集]

1962年にはエリトリアをエリトリア州として併合した。こうした中1973年東部のオガデン地方のソマリ人の反政府闘争、および干ばつによる10万人餓死という惨状、オイルショックによる物価高騰が引き金となり、アディスアベバのデモ騒乱から陸軍の反乱が起こり、最後の皇帝であるハイレ・セラシエ1世は1974年9月軍部によって逮捕・廃位させられた(1975年帝政廃止)。

軍部はアマン・アンドム中将議長とする臨時軍事行政評議会(PMAC, Provisional Military Administrarive Council) を設置、12月に社会主義国家建設を宣言し、ソ連の半衛星国となる。1977年2月にメンギスツ・ハイレ・マリアムがPMAC議長就任。恐怖独裁政治や粛清により数十万人が殺害されたとされる(エチオピア内戦英語版)。1987年の国民投票で PMAC を廃止、メンギスツは大統領に就任し、エチオピア人民民主共和国を樹立、エチオピア労働者党による一党独裁制を敷いた。エリトリアティグレオガデンの各地方での反政府勢力との戦闘(エリトリア独立戦争オガデン戦争)の結果、メンギスツ大統領は1991年5月にジンバブエへ亡命。

独立・メレス政権[編集]

1991年、エチオピアからの独立を目指すエリトリアの勢力のうちの最大勢力、エリトリア人民解放戦線 (EPLF) は、ティグレ人民解放戦線(TPLF)等と共に首都アディスアベバに突入、エチオピアに政変を起こし当時の指導者メンギスツ政権を倒し、同年5月29日、独立宣言を行った。この時の合意によりTPLFを中心とした反政府勢力連合エチオピア人民革命民主戦線 (EPRDF)によるエチオピア新体制の確立に伴い、1993年5月24日にエリトリアの独立が承認された。また、エチオピアでもEPRDFにより暫定政権が樹立され、EPRDFのメレス・ゼナウィ書記長が暫定大統領に就任した。1995年8月には新憲法が制定され、ネガソ・ギダダ情報相が正式大統領、メレスは新憲法下で事実上の最高指導者となる首相に就任し、国名をエチオピア連邦民主共和国と改称した。

オガデンの反乱[編集]

エチオピア・エリトリア国境紛争[編集]

1998年5月12日、エリトリアと国境付近のバドメ地区の領有権をめぐり戦争に発展(詳細については、エチオピア・エリトリア国境紛争の項を参照)。2000年5月、エリトリア軍が撤退を表明。メレス首相は6月、アフリカ統一機構 (OAU) の停戦提案を受け入れた。7月、国連安保理国際連合安全保障理事会決議1312によりPKOである国連エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)設置を決定。

2000年5月の総選挙で与党EPRDFが圧勝。10月10日にはメレス首相再選。2001年2月、エリトリアとの国境に臨時緩衝地帯を設置することで合意。10月8日、ネガソ大統領の任期満了を受け、ギルマ・ウォルドギオルギス人民代表議会(下院)議員が新大統領に就任した。

東アフリカ大旱魃[編集]

ハイレマリアム政権[編集]

2012年8月20日、メレス首相の死去を受け、ハイレマリアム・デサレンが新首相に就任。

政治[編集]

政治体制[編集]

政治体制は、連邦共和制。現行憲法英語版エチオピア1995年憲法英語版である。

国家元首たる大統領の権限は、形式的儀礼的なものに限られる。任期は6年で、下院により選出される。現大統領は駐日大使の経験もあるムラトゥ・テショメで、2013年10月7日に就任した。

行政[編集]

行政府の長である首相は、下院議員の総選挙後に開かれる議会において、下院議員の中から選出される。内閣の閣僚は、首相が選任し、下院が承認する。現首相のハイレマリアム・デサレン(SEPDM)はメレス・ゼナウィ前首相の急逝を承け、2012年8月20日に就任した。任期は5年だが、議院内閣制のため、任期途中で失職する場合もある。

立法[編集]

議会は、二院制上院(連邦院)は108議席で、議員は各州議会によって選出される。下院(人民代表院)は 548 議席で、議員は小選挙区制選挙で選出される。議員の任期は、上下院とも5年。

政党[編集]

連立与党は、エチオピア人民革命民主戦線 (EPRDF) を構成するオロモ人民民主機構 (OPDO)、アムハラ民族民主運動 (ANDM)、南エチオピア人民民主運動 (SEPDM)、ティグレ人民解放戦線 (TPLF) の4党。その他の主要政党はエチオピア民主連盟全エチオピア統一党統一エチオピア民主党・メディン党虹のエチオピア・民主社会正義運動の4党で構成される統一民主連合 (UDF) など。反政府勢力として、オロモ解放戦線 (OLF) など4組織で構成された統一オロモ解放戦線 (UOLF) やオガデン民族解放戦線 (ONLF) がある。

かつて共産主義政権時代の支配政党であったエチオピア労働者党は勢力を失い、自然消滅している。

国際関係[編集]

エリトリアとの関係[編集]

かつてエチオピアの領土(エリトリア州)であった北の隣国エリトリアとの関係では、エリトリア人民解放戦線 (EPLF) がティグレ人民解放戦線 (TPLF) とともに反メンギスツ闘争を戦い抜いたこともあり、1991年のエリトリア独立当初の関係は良好であったが、バドメ地区の領土問題や港湾の利用権、エリトリアの独自通貨導入などにより関係が悪化し、1998年に武力衝突に発展した(エチオピア・エリトリア国境紛争)。2000年国際連合エチオピア・エリトリア派遣団 (UNMEE) が派遣され調停に当たったものの2008年に撤退し、現在でも紛争が相次いでいる。

ソマリアとの関係[編集]

東の隣国ソマリアとの関係では、かつて大ソマリ主義を掲げていた関係で問題を抱えている。国内にソマリ人居住地域のオガデンを抱えるエチオピアは、その帰属をめぐって1977年にソマリアとオガデン戦争を起こした[9]メンギスツ政権は共産圏の友好国であったキューバ軍の直接介入とソ連軍の軍事援助を得た結果もあり、1988年にオガデン戦争はエチオピアの勝利に終わったものの、以後も両国の関係は良好とは言い難かった。

1991年にソマリアのモハメド・シアド・バーレ政権が崩壊しソマリアが無政府状態となった後、2006年イスラム原理主義組織のイスラム法廷会議がソマリア首都モガディシュを制圧し国土統一の動きを見せると、隣国に於けるイスラーム主義過激派の伸張を嫌うエチオピアはソマリア国内への干渉を強化。同年12月24日、エチオピアはソマリア暫定連邦政府を支援してソマリア侵攻を開始した。

軍事力に勝るエチオピア軍は28日にはモガディシュを制圧し、イスラム法廷会議軍をほぼ駆逐したものの、オガデン戦争の余波でソマリアの反エチオピア感情は根強く、ソマリア各地で反エチオピア暴動が勃発。2008年8月19日、エチオピア軍は2009年初頭のソマリアからの撤退に同意した。

日本国との関係[編集]

中華人民共和国との関係[編集]

2012年に首都アディスアベバに建設されたアフリカ連合(AU)本部施設は、中華人民共和国の資金援助によって建設されている。

地方行政区分[編集]

エチオピアの地方行政区分

多民族国家のエチオピアは、民族ごとに構成される9つのと2つの自治区からなる連邦制をとっている。この州区分は1995年に導入された。

  1. アディスアベバ(自治区)
  2. アファール州の旗 アファール州
  3. アムハラ州の旗 アムハラ州
  4. ベニシャングル・グムズ州の旗 ベニシャングル・グムズ州
  5. ディレ・ダワ(自治区)
  6. ガンベラ州の旗 ガンベラ州
  7. ハラリ州の旗 ハラリ州
  8. オロミア州の旗 オロミア州
  9. ソマリ州の旗 ソマリ州
  10. 南部諸民族州の旗 南部諸民族州
  11. ティグレ州の旗 ティグレ州

主要都市[編集]

主要な都市はアディスアベバ(首都)、ディレ・ダワがある。

地理[編集]

エチオピアの地図
地形図

エチオピアは世界で27番目に面積が大きい国である。国土の大部分がエチオピア高原を中心とする高地で、年平均気温は13℃と冷涼である。北部をエリトリアとジブチに接する内陸国だが、それぞれ紅海アデン湾からはわずか70kmしか離れていない。国土の中央にある首都アディスアベバの標高は2400m。北部は水系が多い。ソマリアとの国境を接する東部のオガデン地方はエチオピア高原からソマリアの砂漠へ下る地形。北部のアファール州アファール三角地帯と呼ばれる地質学的に重要な低地。東アフリカ沿岸部のタンザニア・ケニアから伸びるアフリカ大地溝帯がこの地域でアデン湾紅海に分かれる。2005年にも火山が噴火し深さ60mの亀裂を作っており、生きている地球の活動が見られる。国の最高地点は北部のタナ湖北東に位置するラス・ダシャン山 (海抜4550m) である。

エチオピア高原は本来の地形は平らだが、標高が高く降雨が多いため浸食が激しく、非常に深い谷や崖が多い。この地形は外国勢力からの防衛には適しており、エチオピアが植民地化されなかった理由にもなったが、一方で交通インフラを整備するにはまったく不適切な地形であり、経済発展上の一つのネックとなっている。

気候[編集]

北回帰線以南の熱帯に位置する。気候は標高によって違い、標高1500m までは平均気温27℃から50℃と極めて暑いが、標高1500mから2400m は移行区間となり、平均気温は16℃から30℃ほどである。標高2400m以上は冷涼な気候となり、平均気温は16℃である[10]

エチオピア高原は降水量が多く、年間降雨量は1200mmを超す。この豊富な降雨量が、エチオピア高原にゆたかな植生をもたらし、また農耕もおこなわれ、アフリカ第2位の人口を支えている。エチオピア高原の豊富な雨量は、高原北部のタナ湖を水源とし西部へ流れる青ナイル川、高原中央部から南へ流れトゥルカナ湖へと流れ込むオモ川、同じく高原中央部から東部へと流れ下り、ジブチ国境近くのダナキル砂漠へと流れこむアワッシュ川、高原南部から南東部へと流れ、やがてソマリアへと流れ込むジュバ川シェベリ川など、多くの河川となって四方へと流れ下り、周囲の乾燥地域を潤している。

通常、雨季は6月半ばから9月半ばまでである。アフリカ大地溝帯によって隔てられた東部高原は乾燥しており、その東に広がりソマリアへ続くオガデン地方はさらに暑く乾燥している。

軍事[編集]

予算[編集]

375百万米ドル(2012年)

陸軍[編集]

エチオピア陸軍英語版は、1990年代には25万人となっていたが、軍事費圧縮と軍隊の近代化のため削減され、現在は約10万人である。

空軍[編集]

エチオピア空軍英語版は、兵員約2500人で旧ソ連製の軍用機が中心であり、アフリカ諸国の中では充実した装備である。2002年の国防予算は4億8100万米ドルと総予算の中で非常に高率を占め、国家予算を著しく圧迫している。

海軍[編集]

エチオピア海軍英語版は、1990年代にエリトリアと連邦を解消するまでは僅かながら存在していたが、連邦解消後内陸国となってしまったため廃止された。この際に残存艦艇は売却されている。

経済[編集]

色と面積で示したエチオピアの輸出品目(2009年
首都アディスアベバの中心街

1970年代1980年代飢餓エチオピア大飢饉)以来、一時食糧自給を達成した時期を除き厳しい経済状態が続く。世界銀行によると、2012年時点のエチオピアの一人当たりGNIは410ドルである。近年では2004年から2011年にかけて8年連続で経済成長率二桁を記録するなど、アフリカ諸国の中でも高い成長率を維持し続けているが、依然として世界最貧国の一つである。主要産業である農業はGDPの41%で、輸出と労働力の80%を占めるが、機械化が進まず生産性が低い。

1991年のエリトリア独立に伴い内陸国となったため、北東の隣国ジブチジブチ港およびジブチ鉄道を有料で利用。ソマリランドベルベラ港の利用も増えている。かつてはエリトリアの南部にあるアッサブ港がおもな港であったが、エリトリア独立後、1998年に両国間で勃発したエチオピア・エリトリア国境紛争によってこのルートは完全に断たれた。

主要産業:農業(コーヒー穀類)、畜産業、アディスアベバで若干の工業繊維、食品加工など)

農業及び畜産業[編集]

国土の10.7%が農地として使われており、農業に従事する国民の割合は30%に達する。首都アディスアベバの年降水量は1179.1mmであり、乾燥に弱い作物の栽培も可能である。東アフリカの水貯蔵庫と言われるほどに河川が存在するが、灌漑には1.5%のみ、発電には1%しか使われていない。また、農業の構造が輸出商品作物の栽培と畜産業(世界10位)に特化しており、2005年時点でナイジェリア、エジプトに次ぐアフリカで3番目の人口を支えるには主食の栽培量が不足している。商品作物の輸出が最大の外貨獲得源となっている一方、輸入品のうち最大の品目は食料である。

主食のインジェラを作るためのテフが最も重要な穀物だが、粒が小さく収量が低く生産性が悪いうえ、灌漑に頼らず天水農耕で栽培されることが多いため旱魃に弱い。

主要穀物では、トウモロコシ(274万トン、以下、2002 年時点の統計)の栽培がさかん。モロコシ(17万トン)の生産量は世界シェア10位に達している。根菜では、ヤムイモ(31万トン、世界シェア8位)が目立つ。畜産業ではウシ(3810万頭、7位)、ウマ(145万頭、9位)、ラクダ(47万頭、9位)。

商品作物では、コーヒー豆(26万トン、7位)、ゴマ(6.1万トン、8位)が際立つ。この2商品だけで、総輸出額の50%弱に達する。コーヒーは南部のシダモ地方、カファ地方などで主に栽培されている。コーヒーはスターバックスと契約した。

と植物の世界有数の輸出国になりつつある。バッグなど革製品の輸出も増加しており、Taytuブランドが育っている。

鉱工業[編集]

エチオピアの鉱業は、(2003年時点で5.3トン)、(1トン)、(6万1000 トン)に限定されている。金の産出量は 1990年時点で0.8トンであり、開発が急速に進んでいる。埋蔵が確認されている資源として、水銀鉱、タングステン鉱、タンタル鉱、鉄鉱石ニオブ鉱、ニッケル鉱がある。

オガデン地方では石油産出が期待されているが、2007年に中国企業の作業員が反政府組織、オガデン民族解放戦線(ONLF)に拉致、殺害される事件が発生した。

情報産業[編集]

通信は国家の独占事業だったが、中華人民共和国の支援を受けた中興通訊が、エチオピア全土に携帯電話システムの整備を進めている。

通貨[編集]

通貨ブル(birr、ビルとも)である。

交通[編集]

道路[編集]

高低差が激しく崖の多い地形や、国内の政情不安が続き交通インフラストラクチュアを整備する資金がなかったため、国内の道路網はあまり発達していない。

鉄道[編集]

首都アディスアベバから隣国ジブチ共和国の首都ジブチ市まで、全長781kmのジブチ・エチオピア鉄道が通っている。1917年の全通以後、ジブチ・エチオピア鉄道はエチオピア経済を支える柱となってきたが、近年並行する国道の改修や、鉄道自体の管理不足などから利用者が減少。2011年にはディレ・ダワからアディスアベバまでが運休となった[11]

国民[編集]

ソマリ人と家畜の牛の群れ

民族[編集]

民族構成(エチオピア 2007年国勢調査)
オロモ人
  
34.4%
アムハラ人
  
27.0%
ソマリ人
  
6.22%
ティグレ人
  
6.08%
シダモ人
  
4.00%
グラジェ族
  
2.52%
オメト族
  
2.27%
アファル人
  
1.73%
ハディヤ人
  
1.72%
ガモ人
  
1.49%
その他
  
12.6%

国民の大多数は黒人アラブ人の混血のエチオピア人種が大多数を占め、80以上の異なった民族集団が存在する多民族国家である。最大の勢力はオロモ人で34.4%を占め、次にアムハラ人が27.0%となっている。その他、ティグレ人ソマリ人ティグレ人シダモ人グラジェ族オメト族アファル人ハディヤ人ガモ人コファ族コンソ人が主な民族である。また、「ベタ・イスラエル」と呼ばれるユダヤ人が存在するが、その大多数はイスラエルの「帰還法」に基づき、1980年代から1990年代にかけてイスラエルへと移住した。

かつてエチオピア帝国を建国したのはアムハラ人であり、以後もアムハラ人がエチオピアの政府の中枢を握ってきたが、1991年メンギスツ・ハイレ・マリアム軍事政権の崩壊によって政権はメンギスツ政権を打倒したエチオピア人民革命民主戦線の中核をなすティグレ人の手に渡った。とはいえ公用語アムハラ語であり、アムハラ文化は他民族にも現在でも影響を与えている。

また、新政権は民族ごとに州を新設し、各民族語による教育を認めたため、最大民族であるオロモ人の勢いが強くなっている。

言語[編集]

言語(エチオピア 2007年国勢調査)
オロモ語
  
33.8%
アムハラ語
  
29.3%
ソマリ語
  
6.25%
ティグリニャ語
  
5.86%
シダモ語
  
4.04%
ウォライタ語
  
4.04%
グラジェ
  
2.01%
アファル語
  
1.74%
ハディヤ語
  
1.69%
ガモ・ゴファ・ダウロ語
  
1.45%
その他
  
11.62%

エチオピアの言語アフロ・アジア語族が主である。連邦の公用語アムハラ語であり、教育・政府機関などで共通語として全土で広く使用される。それとは別に各州は州の公用語を定めることが憲法で認められており、アムハラ語オロモ語ソマリ語ティグリニャ語アファル語が各州の公用語となっている他にシダモ語ウォライタ語などが使われている。独自文章語としてゲエズ語も存在する。英語第二言語として学ばれ、中等教育(9年生~)以上では英語が教育言語となっている。しかし、就学率が低いため、エリート層や都市部の一部住民のみに通用し、国民の大多数には通じない。

宗教[編集]

宗教(エチオピア 2007年国勢調査)
キリスト教
  
62.8%
イスラーム
  
33.9%
アニミズム
  
2.6%
その他
  
0.6%

キリスト教が62.8%と最も多く、大多数がエチオピア正教会となっている。次にイスラームが33.9%、アニミズムが2.6%となっているが、また、ユダヤ教ベタ・イスラエル)もいるが多くがイスラエルに移住した。資料によっては、ムスリムの方が、エチオピア正教会の信徒よりも多いとするものもある。

帝政時代はエチオピア正教を国教としていたが、連邦憲法11条は、政教分離を定め、国教を禁じている。

教育[編集]

各言語を尊重するために、1年次~8年次にあたる初等部では一部を除くと、他のサブサハラアフリカ諸国に見られるような欧州の言語ではなく各民族語で教育が行われる。9年次~12年次の中等部・高等部や大学などでは英語が教授言語となっている。多くの国民は、初等部のみで教育を終え、中等部以降の教育を受ける国民は非常に少なくなっている。

文化[編集]

エチオピアは、グレゴリオ暦とは異なる独自のエチオピア暦英語版を使用している。エチオピアの1月1日は、グレゴリオ暦の9月11日に当たる。下の祝祭日表の年月日はグレゴリオ暦である。またグレゴリオ暦からは約7年遅れであるが(エチオピアの2000年1月1日は、グレゴリオ暦の2007年9月11日)、その理由はイエス・キリストの誕生年についての見解が違うためであると言われている[12]

食文化[編集]

エチオピアの主流の文化であるアムハラ文化において、主食はテフなどの穀粉を水で溶いて発酵させ大きなクレープ状に焼いたインジェラであり、代表的な料理としてはワット、クックル(エチオピア風スープ)、トゥプス(焼肉・炒め肉・干し肉)などがある。辛い料理が多い。エチオピア正教の戒律によりツォムと呼ばれる断食の習慣があり、水曜日と金曜日を断食の日とし、午前中は全ての食事を、午後は動物性タンパク質を取らない。四旬節(2月~4月)のツォムは2ヶ月の長期に亘り、復活祭により断食明けとなる。同様に戒律を理由として、ユダヤ教イスラーム教のように、豚肉を食べることは固く禁じられている。これらの文化は基本的にアムハラ人の文化であるが、アムハラ人がエチオピアの実権を握ってきた期間が長かったため、国内の他民族にも普及している。

これに対し、南部においては、エンセーテといわれるバナナの一種からとれるデンプンを主食とする文化がある。エンセーテは実ではなく、葉柄基部及び根茎に蓄えられたデンプンを主に食用とするもので、取り出した後に数週間発酵させたのちパンにして食べる[13]。エンセーテはエチオピア南部を中心に2000万人の主食となっているとされるが、近年テフなどに押され栽培は減少傾向にある。

エチオピアはコーヒーの原産地と言われており[12][14]、コーヒーは広く常飲されている。また、複数の人でコーヒーを楽しむ「ブンナ(コーヒー)・セレモニー」という習慣がある。

アルコール飲料としては、ビールワインが生産されているほか、地酒としてタッジ(蜂蜜酒)・テラやトウモロコシが原料のビールに似た飲料)・アラキ蒸留酒)がある。 また嗜好品として、チャットの葉を噛む習慣がある。

音楽[編集]

国教のキリスト教に関連した音楽が発達しているが、同時に古くから民間に伝承されてきた民謡とのかかわりも深い。アズマリはアムハラ人によるミュージシャンのことで、冠婚葬祭や宴会の余興、教会の儀式などに用いられている。山羊の皮を張った胴と馬の尾の弦から作られた弦楽器マシンコの伴奏で歌われる。もう一つのラリベロッチは門付の芸人を指す。彼らは朝早く家々の玄関で祝福の内容を歌い金や食料をもらう。いずれも独自の歴史と習慣をもった音楽家集団で、エチオピアの音楽を支えている。

ポピュラー音楽に於いては、日本の演歌によく似た、こぶしの効いた音楽様式が存在し、メンギスツ政権期にはアステレ・アウェケティラフ・ゲセセビズネシュ・ベケレヒイルート・ベケレアレマイヨ・エシャテなどが活動していた[15]

文学[編集]

現代の著名な作家としては、『扇動者たち』(1979)のサーハレ・セラシェの名が挙げられる。

世界遺産[編集]

エチオピア国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が8件、自然遺産が1件存在する。

紀年法及び暦法[編集]

エチオピア暦英語版では1年が13か月からなる。1月から12月は各30日で、年の残りの5日(うるう年は6日)が13月になる。

祝祭日[編集]

祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月7日[16] エチオピア正教会クリスマス Ledet
1月19日[16] 神現祭 Timket
2月2日[16] イード・アル=アドハー Eid-ul-Adha
3月2日 アドワの戦い記念日
移動祭日 エチオピア正教会の聖金曜日
移動祭日 エチオピア正教会の復活大祭 Fasika
5月2日 Mulud
5月5日 愛国の日
5月28日 軍政終結記念日
9月11日[16] エチオピアの元日
9月27日[16] 十字架挙栄祭(マスカル)
11月14日[16] ラマダンの終わり Eid-al-Fitr

スポーツ[編集]

エチオピア国内で最も人気のあるスポーツサッカーであるが、エチオピアが最も強いスポーツは陸上、とくにマラソンなど長距離走である。2011年現在、エチオピアはオリンピックで通算金メダル18個、銀メダル6個、銅メダル14個を獲得しているが、これはすべて陸上によって獲得したものである。エチオピアは人口稠密区域が標高2000m以上の高原であり、首都アジスアベバも標高2400mの地点にある。このため、心肺機能が鍛えられ、これが長距離走にとって有利であると考えられている。エチオピアはこれまで、アベベ・ビキラをはじめとして、エルヴァン・アベイレゲッセデラルツ・ツルファツマ・ロバマモ・ウォルデメセレト・デファルハイレ・ゲブレセラシェケネニサ・ベケレシレシ・シヒネタリク・ベケレなど、多数の陸上の名選手を輩出してきた。

エチオピア出身の人物[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ アガウ族英語版という説もある。
  3. ^ 古川哲史「結びつく二つの「帝国」――大正期から昭和初期にかけて」『エチオピアを知るための50章』岡倉登志編著、明石書店〈エリア・スタディーズ68〉、東京、2007年12月25日、初版第1刷、299-306頁。
  4. ^ 岡倉登志『エチオピアの歴史』明石書店、東京、1999年10月20日、初版第一刷発行、207-219頁。
  5. ^ 岡倉登志『エチオピアの歴史』明石書店、東京、1999年10月20日、初版第一刷発行、219-229頁。
  6. ^ 岡倉登志『エチオピアの歴史』明石書店、東京、1999年10月20日、初版第一刷発行、231-239頁。
  7. ^ 岡倉登志『エチオピアの歴史』明石書店、東京、1999年10月20日、初版第一刷発行、239-240頁。
  8. ^ 片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年 ISBN 4-7947-0523-9 pp89-93
  9. ^ 吉田昌夫『世界現代史14 アフリカ現代II』山川出版社、1990年2月第2版。p.265
  10. ^ 「週刊朝日百科世界の地理96 スーダン・エチオピア・ソマリア・ジブチ」朝日新聞社 昭和60年9月15日 p10-146
  11. ^ 一部区間が不通となっており、ジブチからアジスアベバ間の列車が運行されていない旨を伝える記述あり(海外鉄道ニュース)2011年6月16日閲覧
  12. ^ a b 『旅行人ノート(2) アフリカ 改訂版』旅行人編集室,2000年12月
  13. ^ 『世界の食文化 アフリカ』農文協 2004年 p213-214
  14. ^ コーヒーの歴史参照
  15. ^ 白石顕二 『ポップ・アフリカ』 勁草書房〈KEISO BOOKS5〉、東京、1989年11月25日、初版第一刷、70-80頁。
  16. ^ a b c d e f グレゴリオ暦でうるう年前年は1日遅くなる。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]