リベリア

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リベリア共和国
Republic of Liberia
リベリアの国旗 リベリアの国章
国旗 (国章)
国の標語:The love of liberty brought us here.
(英語: 自由への熱愛が我々をここに導いた。)
国歌万歳、リベリア
リベリアの位置
公用語 英語
首都 モンロヴィア
最大の都市 モンロヴィア
政府
大統領 エレン・ジョンソン・サーリーフ
首相 なし
面積
総計 111,370km2101位
水面積率 13.5%
人口
総計(2012年 4,200,000人(???位
人口密度 30人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 8億[1]リベリア・ドル (L$)
GDP(MER
合計(2008年 8億[1]ドル(163位
GDP(PPP
合計(2008年 14億[1]ドル(166位
1人あたり 372[1]ドル
独立 1847年7月26日
通貨 リベリア・ドル (L$)(LRD
時間帯 UTC (0)(DST:なし)
ISO 3166-1 LR / LBR
ccTLD .lr
国際電話番号 231

リベリア共和国(リベリアきょうわこく)、通称リベリアは、西アフリカに位置する共和制国家。北にギニア、西にシエラレオネ、東にコートジボワールと国境を接し、南は大西洋に面する。首都はモンロビア

アメリカ合衆国で解放された黒人奴隷によって建国され、1847年に独立し、現在のアフリカの中ではエチオピアに次いで古い国である。しかし1989年から2003年にかけて断続的に2度も起きた内戦により、戦争一色の無秩序な国と化していた。

国名[編集]

正式名称は英語で、Republic of Liberia(リパブリク・オヴ・ライビリア)。通称、Liberia

日本語の表記は、リベリア共和国。通称、リベリア

国名は、ラテン語Liber(自由な)から来ている。

歴史[編集]

建国まで[編集]

リベリア成立[編集]

1847年7月26日合衆国憲法を基本にした憲法を制定して独立を宣言した。初代リベリア大統領にジョセフ・ジェンキンス・ロバーツ(任期1848年 - 1856年)が就任。1854年5月29日メリーランド・アフリカ植民地がメリーランド共和国として独立を宣言するが、1857年3月18日リベリア共和国に併合。1870年エドワード・J・ロイが大統領に就任するが1871年に暗殺され、1872年から1876年の間は初代のロバーツが第6代大統領を務める。1878年アンソニー・W・ガーディナーが大統領に就任。1896年にはウィリアム・D・コールマン1900年まで大統領に就任した。1903年にはアーサー・バークレーが大統領に選ばれ、1904年も大統領に再選される。1910年アメリカのメソジスト教会の宣教師ウィリアム・ワド・ハリス牧師が「預言者」を自称し、リベリアで宣教活動し、グレボ族英語版のメソジスト教化の為の教会運動を起こし、1913年にリベリアからコートジボワールにまで活動が広がる。1915年アメリコ・ライベリアンのリベリア政府に対して先住民のクル族とグレボ族の反乱を起こす。

独立以来、「胡椒海岸」の先住部族は移民アメリコ・ライベリアンから差別の対象となり、圧政が敷かれていた。20世紀となる頃には、差別と圧政への抵抗が強くなった。また産業が脆弱であり、財政が悪化した。1926年にアメリカのファイアストーン社に対し、ゴムノキ農園用地を99年間貸与する契約を結び、代替に財政援助を受ける。しかし、1931年にリベリアのゴム・プランテーションの労働は奴隷制と変わらないと国際連盟に告発される。

この頃、リベリア政府高官が加担して、リベリア人労働者がスペイン領フェルナンドポー島(現赤道ギニアのビオコ島)へ船積みされており、その状況は奴隷貿易と異ならないという噂が国際的に広まったため、政治的主権も危うくなった。チャールズ・D・B・キング大統領の要請により、国際連盟は調査団を派遣し、こうした国際的非難には、ある程度の根拠がある事、そして副大統領の関与をほのめかした。このため副大統領は辞任して、キング大統領も衝撃を受け、1930年に大統領を辞任する。後継者としてアーサー・バークレー元大統領の甥、エドウィン・バークレーが大統領となる。

さらに、1930年代の経済不況でリベリアは破綻寸前となり、1933年の政府歳入はわずか32万1000ドルに落ちこんだ。1934年にはファイアストーン社の新しいゴム農園が生産を開始し、国家は持ちこたえた。

1942年第二次世界大戦中、アメリカの援助により、モンロビアにアメリカ空軍の着陸のため空港の建設と港湾施設が改築。 1944年ウィリアム・V・S・タブマンが大統領に当選(5年任期で再選もする)。また、同年の第二次世界大戦で連合国側に付き、ドイツ日本イタリア枢軸国に宣戦布告を宣言する。タブマン大統領はアメリコ・ライベリアンと先住部族との経済的、政治的、社会的な大きな格差を緩和する事で、国家の統一を図った。その後、1971年に死去するまで、独裁的な政治運営を行い、国内は概ね安定した。タブマン大統領死去により、副大統領だったウィリアム・R・トルバートが大統領になる。トルバート大統領はタブマンの跡を継ぎ、すべてのリベリア人の平等を表明、縁故主義的支配廃止などを進めた。またトルバート大統領は1974年ソ連からの経済援助を受け入れるなど、関係強化をしようとした為、アメリカと疎遠状態となる。

クーデター[編集]

1973年トバ・ナー・ティポテは反政府勢力「MOJA」を結成。1979年、政府の米価の値上げ発表に対して反対デモが起こる。トルバートの元国務次官書記で、MOJAの中心メンバーでもあったガブリエル・バッカス・マシューズが、トルバート政権への大規模な抗議運動を主導したとして、騒乱罪で死刑を宣告された。1980年、リベリア先住部族クラン族英語版出身のサミュエル・ドウ曹長によるクーデターでトルバートは暗殺され、アメリコ・ライベリアンの支配が終わった。トルバート政権の崩壊でマシューズは釈放され、ドウ政権の下で外相・内閣官房長官を歴任する。1985年11月12日ギオ族英語版出身のトーマス・クィウォンパがクラン族のドウ政権に反発し、シエラレオネからリベリアに侵入し軍事クーデターを試みるが失敗。15日にクィウォンパはクーデターに加わった他のギオ族とマノ族の同胞らと共に処刑。その後、ドウはクラン族中心のリベリア国軍をギオ族とマノ族が住むニンバ郡に派兵し、ギオ族とマノ族を復讐攻撃し、600人から1500人を大虐殺する。1986年ドウ政権下でリベリア第2共和国が発足し、ドウが第21代大統領に就任。

第一次内戦[編集]

1989年チャールズ・テーラー率いる反政府組織「リベリア国民愛国戦線(NPFL)」がニンバ郡で蜂起して内戦が勃発した。西アフリカ諸国経済共同体 (ECOWAS) が政府支援のために軍事介入するが、1990年6月ギオ族のトム・ウォエウィユが停戦交渉にNPFL代表として出席。アメリカへ一時亡命していたクラン族のジョージ・ボレイがLPCという武装勢力を結成(後の93年にはテーラー率いるNPFLと交戦し武装勢力を拡大し成長させる)。戦闘が全土に拡大。カトリックマイケル・フランシス大司教がモンロビアで、ギオ族とマノ族を大虐殺したクラン族のリベリア国軍に抗議。ブッシュ大統領「リベリアを途上国の優遇対象から除外する」と発言。5月28日日本政府が、在モンロビアの日本大使館員全員の国外避難を発表。8月20日リベリアのモンロビアに派遣されていた200人のアメリカ海兵隊の部隊が在モンロビアのアメリカ人800名以上をヘリコプターで国外へ避難させる。1991年クラン族のジョン・ヘゼキア・ボーウェンがAFLの指導者になる。NPFLから分裂したプリンス・ジョンソン率いるINPELの派閥がドウ大統領を捕らえ拷問の末にドウを処刑。ドウ政権は崩壊し、エーモス・ソーヤーが暫定政権を立てる。NPFLはこれを認めず、1992年からソーヤー派の戦線との戦闘が激化、NPFLが隣国シエラレオネ政府のリベリア内戦への派兵に抗議してシエラレオネに進入する。NPFLの同胞だったシエラレオネ反乱軍のアハメド・フォディ・サンコー率いる統一革命戦線 (RUF) も戦闘に参加し、戦乱は国境を越えて広がった。アルハジ・クロマー率いるマンディゴ族のムスリム系組織ULIMO「軍事派」も内戦をジハードととらえ蜂起。また3月にクロマーのULIMO「軍事派」から分裂したルーズベルト・ジョンソンがULIMO-Jの新勢力を結成し蜂起し始める。ナイジェリアガーナが主体のECOMOG軍がリベリアに派遣される。アメリカはこれまでの、リベリアへの巨額な経済支援の失敗などの経験から、対リベリア関係の見直を宣言し、リベリアへの経済支援などをしないと宣言した。またリベリア内戦などの介入なども関わることにしないと宣言した。1993年ウォエウィユとテーラーが組織の政治目標をめぐり対立。当事者代表が包括和平交渉に合意、10月アメリカがリベリアに派遣されているECOMOGに1980万ドル追加支援。内戦以来、アメリカのリベリア援助が総額2億7000万ドル。1995年に和平協定に調印。9月ウィルトン・サンカウロがCS議長に就任。1996年に停戦が発効された。内戦により15万人以上が死亡し、30万人以上が国外へ難民となるなど、西アフリカ最悪の紛争地域と言われた。9月サンカウロ、ECOWAS会議の席上でテーラーの傀儡と告発され辞任し、ルース・ペリーが暫定政権首班下で文民代表としてCS議長に就任。アフリカ初の女性国家元首になる。

1997年に大統領・副大統領・上院・下院の統一選挙が実施され、NPFLのチャールズ・テーラーが大統領就任して第3共和制が成立した。台湾と交関係を結んでいた為、中国はリベリアと断交(しかし、2003年に中国と国交回復し、台湾と断交した)。

第二次内戦と国連展開[編集]

アフリカ初の選挙によって選出された女性大統領、エレン・ジョンソン・サーリーフ

2003年セクー・コネ率いる反政府勢力「リベリア民主和解連合」(LURD) とトーマス・ニメリー率いる「リベリア民主運動」(MODEL) が蜂起し、首都へ侵攻する。6月17日には政府と停戦合意するが、7月8日にアフリカを訪問したブッシュ米大統領に対し、対リベリア平和維持部隊への米軍の参加を求める声が高まった。7月25日、ブッシュ大統領はリベリアの沖合いに米海軍を配置するよう正式に指示、8月には米軍を始めとする平和維持軍が上陸し、テーラー大統領はナイジェリアに亡命、モーゼス・ブラー副大統領が暫定的大統領に就任する。9月19日国連安保理決議1509により、国際連合リベリア・ミッション (UNMIL) が派遣され、10月にはリベリア行動党ジュデ・ブライアント議長による暫定政府が発足した。

2005年10月11日、暫定統治下において第一回大統領選が行われた。元サッカー選手のジョージ・ウェアが得票率で上回ったが、11月8日に決選投票を実施、11月23日の最終開票結果で、国連開発計画の元アフリカ局長エレン・ジョンソン・サーリーフが、アフリカ初の選挙による女性大統領となった。2006年3月29日、隣国シエラレオネの内戦に関与していたとして、戦争犯罪などで起訴されていたテーラー前大統領が、亡命先のナイジェリアで身柄を拘束され、リベリア経由でシエラレオネに移送された。その後、オランダのハーグにある国際刑事裁判所で開かれることになったシエラレオネ国際戦犯法廷で審理が行われ、2012年4月26日、国連設置法廷における史上初の国家元首経験者に対する有罪判決が下されている。

政治[編集]

上下院

リベリアは建国以来、アメリカ合衆国の議会制度にならい、上下院の二院をもつ。内戦終結後は一時一院制の暫定議会を有していたが、2005年10月11日に上下院および大統領選挙を行い(大統領選の決選投票は同年11月8日)[2]、2006年に正式政府が発足した。 2011年10月、上下院および大統領選挙を行った(大統領選の決選投票は同年11月8日)[3]。 なをリベリアにはマイノリティとして非アフリカ系(レバノン系など)の住民もいるが、アフリカ系黒人の優位を保つ為、彼らは黒人では無いと言う理由で、選挙権が与えられていない。度々、国連から問題視され、非アフリカ系住民にも、選挙権を認める様に指摘されているが、リベリア政府は難しいと困難視している。

国際関係[編集]

リベリア内戦の1990年以降、ナイジェリアガーナ主導の西アフリカ諸国平和維持軍 (ECOMOG) がリベリアに到着する以前は、アメリカの影響力や関係が最も強かった。内戦勃発後、アメリカの軍事介入を求める声が強くあったが、アメリカは対リベリアの優先関係などの見直しを宣言し、リベリア内戦に介入しないと宣言した。アメリカは、ナイジェリアやガーナのECOMOGによるリベリア介入を支持した。またリベリアの内戦は、リベリア付近のECOWAS諸国同士の緊張ももたらしている。リビアコートジボワールブルキナファソは、国家の制圧を巡って、内戦を引き起こしたリベリア国民愛国戦線 (NPFL) を支持していたが、ECOMOGとNPFLは対立していた。その為、NPFLを支持していた他のECOMOG諸国(コートジボワールやブルキナファソなど)との間で、ぎくしゃくした関係であった。隣国シエラレオネとは姉妹国的な存在だったが、NPFLがシエラレオネ内戦の原因である革命統一戦線 (RUF) を支持していた為、 関係が悪化していた。2003年に再び内戦が起こった時、NPFLのテーラー大統領に対してついにアメリカが圧力を加え、小規模で軍事介入する(後はほとんどECOMOGに任せた)形で内戦は終結した。1973年以降シエラレオネと、さらに1980年にギニアも加わって、マノ川同盟 (MRU) を結成している。アフリカ統一機構 (OAU) に加盟し、西アフリカ諸国経済共同体 (ECOWAS) にも加盟し、世界貿易機関 (WTO) にも加盟している。

日本国との国交など[編集]

日本とリベリアの正式な外交関係樹立は1961年9月。かつては両国とも相手国に大使館を設置していたが、2004年1月、内戦の影響によりモンロビアの日本大使館は閉鎖された。

地方行政区分[編集]

リベリアの郡

リベリアは全15 (County)、そしてモンロビアの連邦区に分かれている。中央政府は郡長を任命し、郡にはさらに地区に分かれ、地区長がいる。また最高部族長と族長、町長がいる。

主要都市[編集]

地理[編集]

リベリアの地図

赤道周辺の西アフリカに位置し、大西洋に面しており、海岸の多くはサンゴ礁マングローブ密林で覆われている。内陸部は草原で農地は限られている(国土の1%)。気候は高温多湿の熱帯気候。ハルマッタンと呼ばれる砂混じりの熱風が吹く時がある。

経済[編集]

隣国シエラレオネと接するボミヒルズでは鉄鉱石が採掘されている。ニンバ山にも推定10億トンの鉄鉱石が埋蔵されていると言われている[誰によって?]。ほかダイヤモンドなども発掘される。ダイアモンドは密輸出もされている。農作物ではアブラヤシコーヒーココアサトウキビなどが栽培されている。ゴムも国の重要な資源であり、モンロビア近くにあるハーベルにアメリカのファイアストーン社がゴム農園を開いていた。

最大の経済援助国はアメリカであった。1980年代にドウ政権はアメリカからの援助資金の多くを不正に、私用などに用いていたため、リベリアの経済はうまくいかず、財政難を抱えていた。このようなリベリアの状況に対してアメリカは、失望してはいたものの、まだ将来性があると援助をし続けていたが、結局1992年には経済支援の失敗の経験と内戦から、経済支援の見直しを行い、リベリアとの関係に見切りを付けた。1997年以降のテーラー政権下においては、アメリカはシエラレオネ内戦での反乱軍への武器輸出を批判し、リベリア産のダイヤモンドなどの輸出を禁止する厳しい圧力を掛けた。リベリアの経済は内戦前から悪化しており、財政難も抱えていたが、1989年以降の内戦によってリベリア経済は崩壊状態となり、内戦が終わっても経済は悪化したままであった。

いわゆるタックス・ヘイヴン(租税回避地)の一つである。

便宜置籍国[編集]

リベリアはまた、安価な手数料や船舶国籍証書の発行の便宜を図る便宜置籍国として知られる。登録している船舶数はパナマに次ぐ規模であるが、あくまでも書類上の船籍であるため、ほとんどの船舶はアフリカ西海岸への航海を行わぬままその一生を終える。

交通[編集]

リベリアの鉄道

国内の道路のほとんどは舗装されていない。全長490Kmの鉄道は鉄鉱石を輸送するために建設されており、ほかの利用は少ない。空港は首都モンロビアに第二次世界大戦中にアメリカ軍が建設した国際空港のモンロビア・ロバーツ国際空港がある。内戦以前には、使用可能な滑走路が国内に49ヵ所あった。国内線は、モンロビア郊外のスプリングス・ペイン空港で運航されている。

住民[編集]

民族[編集]

住民はほとんどがアフリカ系の先住民であり、主な民族としてクペレ族バッサ族英語版クル族ゴラ族英語版ギオ族英語版マノ族英語: Mano people)、クラン族英語版ヴァイ族英語版グレボ族英語版キッシ族ロマ族英語版マンディゴ族など16の部族がいる。また、アメリコ・ライベリアンと呼ばれる、アメリカ合衆国の解放奴隷たちの子孫が2.5%、カリブ諸国からの移民の子孫も2.5%おり、非アフリカ系の住民ではレバノン人とシリア人や白人も少なからず少数だが存在するが、アフリカ系の黒人優位の観点から、これらの非アフリカ系の住民達はアフリカ系の黒人では無い為、選挙権が認められていない。

長らくアメリコ・ライベリアンと先住民族との間で対立があったが、1980年クラン族のサミュエル・ドウアメリコ・ライベリアンの政権を倒し、ドウが政権を握った。それ以来、クラン族は敵対するギオ族とマノ族に復讐し、部族間の争いが絶えなかった。1989年以来の戦争ではクラン族のドウ政権を倒すためアメリコ・ライベリアンがクラン族と対立するギオ族とマノ族と手を組み、1990年にドウ政権を倒した。

言語[編集]

言語は英語公用語であるが、話したり書いたり出来るのは一部の人々に限られている。その他に28に及ぶ各部族の言葉が使われている。ヴァイ族英語版固有のヴァイ文字がある。

宗教[編集]

リベリアは公式にはキリスト教国家であるが、実際には、宗教は伝統的な宗教が40%、キリスト教が40%、イスラム教が20%となっている。キリスト教のほとんどは、アメリコ・ライベリアンらの奴隷時代の名残りでアメリカ南部福音派系のプロテスタントが多く、中でもメソジスト派が最大である。他にもカトリックもある。アメリカからのキリスト教宣教師もリベリア各地で活動を行っている。しかし、内戦中には宣教活動が厳しくなっており、1990年にアメリカ人宣教師夫妻の射殺された死体が発見されるなど、犠牲者も出ている。先住民族の伝統的な宗教はアニミズム的な先祖崇拝の念が強く残る。イスラム教はマンディゴ人のイスラム商人により、多くの人達を改宗させて来た。イスラム教の布教活動は1956年以来、エジプトパキスタンから来た伝道師により、活発に行われている。

教育[編集]

リベリアの学生

元々リベリアの教育はアメリカ合衆国の教育のシステムに従っていたが、1989年以降の内戦により、リベリアの教育は崩壊的打撃を受けてしまった。6歳から16歳までが義務教育である。リベリアでは就学率が低く(特に女子は男子よりも低い)、2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は57.5%(男性:73.3%、女性:41.6%)である[4]

主な高等教育機関としては1862年設立の国立リベリア大学アメリカ聖公会機関のカッティントン大学、工科大学のウィリアム・V・S・タブマン大学の大学3校で何れもモンロビアにある。中にはアメリカの大学に行く者もいる。またリベリア政府は2001年にモンロビアでアメリカの通信教育機関アダム・スミス大学の認定を受けていると主張している。リベリア最大の中等教育機関として内陸のカカタに職業及び農業訓練学校のブッカー・T・ワシントン研究所(同名のアメリカの著名な黒人教育家の名から因んでいる)がある。この研究所はアメリカアラバマ州にあるタスキギー研究所始め、アメリカ植民地協会の宣教師、アメリカの慈善団体らグループの支援を受け、1929年に設立された。現在でもアメリカから派遣されて教育活動が行われている。

文化[編集]

モンロビアのアメリコ・ライベリアンはアメリカ合衆国の解放奴隷だったため、奴隷時代の名残りでアメリカ合衆国南部深南部の文化を身に付けている。

著名な出身者[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ 外務省: リベリアの大統領選挙について(選挙結果の確定) 外務省 2012年11月22日閲覧
  3. ^ 外務省:リベリア共和国大統領選挙について 外務省 2012年11月22日閲覧
  4. ^ CIA World Factbook 2009年11月14日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]