奴隷貿易
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奴隷貿易(どれいぼうえき)は国際間の奴隷制の取引を指す。
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[編集] 大西洋奴隷貿易
[編集] 概要
大航海時代に、15世紀から19世紀の前半まで、とりわけ16世紀から18世紀の時期に、主にヨーロッパ(イギリス)とアフリカとアメリカ大陸を結んで、その後約3世紀にわたってアフリカ原住民を対象として展開され、西インドのプランテーション経営に必要な労働力となった(→三角貿易)。供給源となったアフリカが西欧諸国を中心とした世界経済システムの外にあった期間は、経済圏外からの効果的な労働力供給手段として機能したが、地域の人的資源が急激に枯渇してしまい、それに伴う奴隷の卸売り価格の上昇、そして需要元である南北アメリカの農業の生産量増大による産物の価格低下により、奴隷貿易は次第に有益とは見なされなくなり縮小に向かった。その後人道的あるいは産業的見地からの反対を受け、1807年にイギリスにて奴隷貿易は禁止された。
アフリカにとって奴隷貿易の開始は、現代までに続く外部勢力による大規模な搾取・略奪そのものだった。奴隷貿易によりアフリカは社会構造そのものが破壊されてしまった。これに貢献したコンゴ王国やアンゴラ王国、モノモタパ王国などは衰退の運命を辿った。
[編集] 歴史
ヨーロッパ人によるアフリカ人奴隷貿易は、1441年にポルトガル人アンタム・ゴンサルベスが、西サハラ海岸で拉致したアフリカ人男女(←いわゆる「黒人」ではなくアラブ人であった)をポルトガル皇太子に献上したことに始まる。1441-48年までに927人の奴隷がポルトガル本国に拉致されたと記録されているが、これらの人々は全てベルベル人で黒人ではない。
大航海時代のアフリカの黒人諸王国は相互に部族闘争を繰り返しており、奴隷狩りで得た他部族の黒人を売却する形でポルトガルとの通商に対応した。ポルトガル人はこの購入奴隷を西インド諸島に運び、カリブ海全域で展開しつつあった砂糖生産のためのプランテーションに必要な労働力として売却した。 奴隷を集めて、ヨーロッパの業者に売ったのは、現地の権力者(つまりは黒人)やアラブ人商人である。
初期の奴隷貿易は、ヨーロッパ人商人、冒険家、航海者などが、自己の利益のために自己負担で行った私的なもので、小規模なものであった。「奴隷狩り」から「奴隷貿易」へのシフトは、1450年代に起こっている。1450年代に入ると、セネガル、ベニンなどのギニア湾岸、コンゴなどの地元勢力が、戦争捕虜や現地の制度下にある奴隷をポルトガル商人に売却するようになった。
16世紀には、特に80年代には独占的な奴隷貿易会社も設立されるにいたり、奴隷の需要が増すにつれて奴隷狩りは一種の事業となった。カリブ海地域のスペイン領向けとして、ポルトガルの独占下で奴隷を売ってもらえないイギリスの「冒険商人」による「奴隷狩り」が散発的に行われたが、その後、奴隷貿易の主導権がオランダ、フランス、イギリスなどに移り変わっても、特許会社が現地に要塞/商館/収容所兼用の拠点を置き、現地勢力と取引して奴隷を集めて、それを船に渡すと言う形式のみとなる。そして時代が下るにつれて、ワイダ、ダホメ、セネガンビアなど西アフリカ地域のアフリカ人王国は、奴隷貿易で潤うようになる。売られた人々は、もともと奴隷、戦争捕虜、属国からの貢物となった人々、債務奴隷、犯罪者などだったが、コンゴなどでは、ヨーロッパ人に売却する奴隷狩りを目的とする遠征も頻繁に行われた[1]。
18世紀になると、イギリスのリヴァプールやフランスのボルドーから積み出された銃器その他をアフリカにもたらし、原住民と交換、さらにこうして得た黒人を西インド諸島に売却し、砂糖などをヨーロッパに持ち帰る三角貿易が発展した。また、アフリカでは綿布の需要が多いいことにイギリスの資本家が目をつけ、マンチェスターで綿工業を起こした。イギリス産業革命の基盤である綿工業は、奴隷貿易が呼び水となって開始されたことが注目に価する。バークレー銀行の設立資金やジェームズ・ワットの蒸気機関車の発明に融資された資金は奴隷貿易によって蓄積された資本であると伝えられている。[2]
約3世紀に及ぶ奴隷貿易で大西洋をわたったアフリカ原住民は1,500万人以上と一般にはいわれているが、学界では900万人-1100万人という、1969年のフィリップ・D・カーティンの説を基にした数字が有力である。多数の奴隷船の一次記録の調査で、輸送中の死亡率がそれまで考えられていたほど高くなかった(平均13%、なお奴隷船の船員の死亡率は20-25%である)、輸出先での人口増加率が意外に高いと推定される、と言うのが説の根拠である。ただし、カーティンの説には、一次記録が存在しない16、17世紀初頭に関しての推定数が少なすぎると言う批判もある。
奴隷貿易に対しては、その開始と同時に宗教的および人道主義の立場から批判が起こっていたが、特に18世紀後半以降、宗教的/人道主義的意見と、奴隷価格の高騰という植民地側の事情がかみ合った。19世紀初頭には、まず(奴隷制度では無く)奴隷貿易禁止の機運が高まり、イギリスは1807年、世界に先駆けて奴隷貿易禁止を打ち出し、アフリカ沿岸に多数の艦艇を配置して奴隷貿易を取り締まり、ラゴスなどポルトガル人の奴隷貿易港湾を制圧した。なお、奴隷貿易廃止と植民地化に伴う現地の労働力の確保と結びつける考えがあるが、これは全く根拠の無い間違いである。少なくともイギリスに関しては、奴隷貿易の中心である西アフリカ、東アフリカの沿岸地帯の植民地化を始めたのは19世紀半ば以降のことである。
その後、カリブ海地域で成立した近代奴隷制は、19世紀前半期に次々に廃止されていった。イギリス領諸島では1833年、スウェーデン属領では1846年、フランス領では1848年、オランダ領では1863年に、奴隷制が廃止された。こうした動きの中、アメリカ合衆国では南北戦争での連邦軍の勝利によって奴隷制は全廃された。
[編集] 白人の奴隷
白人の奴隷は特に前近代においては一般的な存在であった。古代ギリシャの都市国家では、奴隷は「物言う道具」とされ、人格を認められず酷使された。特にスパルタにおいては市民の数を奴隷が上回っており、過酷な兵役は彼らを押さえ込むという役割も持っていた。古代ローマもこれに倣い、奴隷を生産活動に従事させた。ローマが積極的な対外征服に繰り出したのは奴隷を確保するためでもあった。ごくわずかであるが剣士となりコロッセウムで戦いを演じさせられたものもいる。両文明の衰退後は、市民自らが生産活動を行うようになり、国家規模での奴隷事業はなくなったが、奴隷そのものが消えたわけではなかった。
但し、古代社会における奴隷と近代以降の(特に黒人)奴隷では明確に異なる点も多い。例えば、スパルタの奴隷は移動の自由こそなかったが、一定の租税さえ納めれば経済的に独立した生活を送ることができた。古代ギリシャの奴隷はアテネ市内を移動する自由が認められており、肉体労働だけではなく、家庭教師や貴族の秘書といった知的労働に従事することもあった。更に古代ローマでは、カラカラ帝によるアントニヌス勅令施行以前まではローマ市民権を得ることによって自由人になる(解放奴隷)道が開かれていた。娼婦や剣闘士のような自由契約の(特定の主人に仕えない)奴隷は、個人の努力次第で貴族並みの収入と名声を得ることもあった。
中世においてはバイキングによりスラブ人が、またアッバース朝以降のムスリムによりトルコ人が多く奴隷とされた。それら奴隷とされたトルコ人は生産活動に従事するのではなく、主に奴隷兵士として重用されものも多かった。また、マムルーク朝、奴隷王朝の名はマムルーク(奴隷兵士)を出自とする軍人と、その子孫に由来する。
中世における世界の奴隷売買の中心地と言えたイスラム圏においては、その奴隷のほとんどがゲルマン人、スラブ人、中央アジア人およびバルカン人で、黒人は少数であった。奴隷を意味する英語の"Slave"はスラブ人に由来する。西欧を例にとれば、ヴェルダンではアラブ諸国向けの宦官の製造が町の最も活発な産業部門という時代もあった。[3]
『奴隷』の代名詞が黒人(いわゆるブラック・アフリカ諸民)になったのは大西洋奴隷貿易以降の時代のことであって、それまでの『奴隷』の代名詞は主にゲルマン人とスラブ人であった。
[編集] 日本人奴隷の貿易
古来、日本の戦場では戦利品の一部として男女を連れて行く「人取り」がしばしば行われており、日本人領主からそれを買い取った中国人商人やポルトガル人商人の手によって、東南アジアなどの海外に連れ出されたものも少なからずいたと考えられている。
1560年代以降、イエズス会の宣教師たちはポルトガル商人による奴隷貿易が日本における宣教のさまたげになり、宣教師への誤解を招くものと考え、たびたびポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を求めていたが、1571年に当時の王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功した。それでも、奴隷貿易は根絶にいたらなかった。
天正10年(1582年)にローマへ派遣された天正遣欧少年使節の一行が、途中立ち寄った地域で日本人奴隷を目撃し、自国人と白人両方への憤りを報告書に記したという事実が確認できない情報がある。[4]一方『天正遣欧使節記』(デ・サンデ著/雄松堂書店)[5]には「売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放される」という記録がある。
天正15年(1587年)6月18日、九州討伐の途上で豊臣秀吉は十一ヶ条にわたるキリシタンへの規制を表明したが、その第十一ヶ条に人身売買を禁ずる項目が含まれている(しかし、この表明の中ではキリシタンは「八宗九宗」すなわち体制内の宗教と認めて禁制とされていない。しかし翌6月19日の定書では一転してキリシタンを禁止している)。6月19日、秀吉は陣中へ当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師ガスパール・コエリョを呼び、人身売買と宣教師の関わりについて詰問している。
慶長元年(1596年)には長崎に着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンスはキリシタンの代表を集めて、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると通達している。[6]
やがて日本が鎖国に踏み切り、日本人の海外渡航並びに入国が禁止され、外国人商人の活動を幕府の監視下で厳密に制限することによって日本人が奴隷として輸出されることはほぼ消滅したとされる。
[編集] 注釈
- ^ 池本幸三 他『近代世界と奴隷制 大西洋システムの中で』人文書院 1995年
- ^ 岡倉登志『アフリカの歴史』明石書店 2001年
- ^ J・シュレ=カナール『黒アフリカ史』
- ^ 使節団の報告書というものの存在が確認されていない。
- ^ 使節団の帰国後の対話集の形を採りながら、使節団の帰国前年に出版されており、一般に使節団の会話を反映したものだとは考えられていない。
- ^ 太田淑子編、『日本史小百科 キリシタン』pp148-149

