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(そう)は三宝の1つで、本来は「仏教の戒律を守る、男性の出家者である比丘、女性の出家者である比丘尼(びくに)の集団」である、「僧伽」(そうぎゃ、: संघ , saṃgha, サンガ)のこと[1]。今日では、「僧伽に属する人々」の意である「僧侶」が転じて、個人を「僧」と呼ぶことが多いが、原義として、僧とは戒師により親しく具足戒波羅提木叉)を授けられ、これを守る出家修行者たちの集団そのものを、集合的に指す[2]

古代インドでは、仏教に限らず、婆羅門以外の出家者・遊行者のことを、一般に「沙門」と呼ぶが、その中でもこの仏教の「僧伽」の正式な構成員は、男性であれば「比丘」(びく、「乞食」の意)、女性であれば「比丘尼」(びくに)と呼び表される。

サンガ(僧伽)とは[編集]

僧伽(サンガ)は、一般に「僧団」と言いかえることもできるが、釈迦当時の時代はもちろん、現代においても上座部仏教大乗仏教密教を問わず、在家信者を含まない純粋な、出家者たちの共同体である。しかしながら、日本仏教の各宗派の教団は、実態に於いても[3]、教義上からも[4]、具足戒を保つ複数の出家者が存在しないため、定義上、僧伽(サンガ)ではない。

比丘・比丘尼[編集]

比丘・比丘尼は、出家者における男女の区別によるが、いずれも具足戒をうけた出家修行者を指す。その元の言葉は「乞食」(こつじき)を意味している。出家者として全く生産に従事しない比丘・比丘尼は、他者から布施されるものによって、生活を維持している。衣は糞掃衣を着し、食は「托鉢」によって得たものを食し、住は森林や園林に生活したのが、これら出家者であり、現在でも比較的これらに近い生活形態は、東南アジアの上座部仏教圏で見られる。また、大乗仏教圏でも「托鉢」は今も生きていて、中国や台湾でも見かけることができるが、現在の日本では形式化してしまっていて、それで食を得ているわけではない。

沙弥・沙弥尼[編集]

僧伽に属してはいるが、具足戒(波羅提木叉)をまだ授けられておらず、僧伽の正式なメンバーとなっていない「見習い僧・小僧」は、男性(少年)であれば「沙弥」(しゃみ)、女性(少女)であれば「沙弥尼」(しゃみに)と呼ばれる。

仏教の在家信徒は、「三帰依戒」と「五戒」、「八斎戒」の三種類の戒を守ることが求められるが、この沙弥・沙弥尼には、代わりに「三帰依戒」と、沙弥の「十戒」や、沙弥尼の「十八戒」が授けられる。彼らは通常、20歳になって、具足戒(波羅提木叉)を授けられることで、正式な僧伽のメンバー(比丘・比丘尼)となる。

歴史[編集]

初期仏教[編集]

釈迦の布教によって彼の教えに帰依する出家修行者は増加していき、それぞれ5人から20人程度の小単位に分かれて活動を行うようになった。このような集団を現前僧伽と呼ぶ。ところが、現前僧伽の活動が活発になると、僧伽自身の統制、さらに相互の連絡等の必要が生じ、やがて四方僧伽と呼ばれるような僧伽全体の組織が必要となってきた。これが今日の一般的な意味における僧伽である。

部派仏教[編集]

釈迦の死から100年後の第二回結集における根本分裂以降、それぞれの考えの違いから僧伽は分裂して行き、部派仏教の時代に入る。各部派はそれぞれに独自のアビダルマ(論書)を著して教義を明確化して行き、最終的に約20程度の部派が成立することになった。

大乗仏教[編集]

紀元前後から、独自の経典を持った大乗仏教が成立すると、彼らは在来の僧を「声聞僧伽」(しょうもんそうぎゃ)と呼び、大乗の僧を「菩薩僧伽」と呼ぶようになった[5]。悟った聖者の集団を「聖者僧伽」と呼び、三宝の一つとしての僧はこの聖者僧伽であるともなされ、一般の僧を「凡夫僧伽」「世俗僧伽」ともいう[5]

後世、大乗仏教には、仏・法・僧の三宝を一体と見る一体三宝同体三宝)の見方が現れ、それまでの別体三宝観と別の見方が主張された。

後世、中国や日本では僧団に属する個々の出家者を「僧」と言うようになった。

日本仏教における僧伽[編集]

古代・中世[編集]

日本の仏教においては、奈良時代に至り、から律宗鑑真によってもたらされた法蔵部の『四分律』と、それに基づく戒壇授戒制度により、正式な僧伽が成立した。朝廷も租税・軍役逃れの私度僧を取り締まるために、それを積極的に活用した。

しかし、平安時代に至り、中国から天台宗を移植した日本天台宗の開祖最澄が、大乗経典の『梵網経』の書面より、それまで中国天台宗にはなかった解釈に基づく戒法を筆授により感得して提唱し、時の朝廷に出願、後に弟子の代になって比叡山に旧来の戒律具足戒:小乗戒の「波羅提木叉」)と数種類の大乗戒を併用する体系的な戒律を無視した、鳩摩羅什訳とする『梵網経』による大乗戒(梵網戒:梵網経の「波羅提木叉」)のみに基づく大乗戒壇を創設して授戒を行うようになり、最澄への追悼の意味から朝廷もそれを追認したため、日本に具足戒を持たず、正式な僧を持たない宗派が生まれた。

鎌倉時代に至ると、天台宗から派生した各宗派、鎌倉新仏教が普及するに従って、これらの宗派は更に拡大し、中には末法無戒を主張し、戒律を全く無視しても僧侶たりうるとする浄土真宗のような宗派もあらわれた。また、具足戒を守るはずの宗派も、戒律の形骸化が著しく、男色を行い、妻帯する僧侶が数多くいた。[6]その一方で、叡尊を祖とする真言律宗のように、自得の戒である『自誓授戒』による戒律(具足戒:小乗の「波羅提木叉」)を復興する動きも一部ではあったが、全体の流れを変えるまでには至らなかった。

こうして具足戒を授けられず、また授けられても容易に破戒しながら僧職を営む祭祀者が大多数を占めるようになったので、慣習として彼らのことも一般に僧侶と呼ぶことになるが、上述した比丘・比丘尼の定義からすれば、彼らを僧侶と呼ぶのは誤りである。

江戸時代[編集]

江戸時代に至ると、政治的には統制が厳しい江戸幕府の下、僧職者の肉食と妻帯が一般的には禁じられ、仏教側からは叡尊以来の戒律復興運動が実を結ぶ形で最低限の規律は守られるようになったが、本来の戒律(具足戒:小乗の「波羅提木叉」)や僧伽を復興するまでには至らなかったとの評価もある。

この時代に戒律復興運動を行った人物としては、禅宗では黄檗宗の開祖であり、中国の皇帝の師でありながら鑑真のごとく栄誉を捨てて日本に渡来して、「禅密双修」や「禅浄双修」(念仏禅)等の特色を持つ中国禅に加えて、当時の出家戒を伝えた隠元禅師が挙げられる。隠元禅師が伝えた中国流の「具足戒」と「出家作法」は、京都を中心とする一帯の仏教教派の注目を集め、曹洞宗臨済宗の復興に役立っただけではなく、招来の文物は書道煎茶道普茶料理隠元豆等、後の鉄眼和尚の『黄檗版大蔵経[7]と共に日本の仏教に多大な影響を与えた。

また、同時代の真言宗には中国に渡って直接「具足戒」を伝えた人物もあり、後には『正法律』を提唱した慈雲尊者や、『如法真言律』を提唱して、生涯において三十数万人に正しい灌頂戒律を授けた浄厳覚彦が活躍した。そして、天台宗でも改革が行われ、当時の中国密教長崎出島において中国僧から学び、その体系的な戒律を天台宗に初めて伝えて、授戒の本尊となる「准提仏母法」(准胝観音法)を尾張や江戸で広めた豪潮律師などが知られる。

近現代[編集]

近代(明治時代)に至り、「政教一致」の立場から日本では明治政府明治5年4月25日公布の太政官布告第133号「僧侶肉食妻帯蓄髪等差許ノ事」を布告、僧侶の妻帯・肉食等を公的に許可した。こうして僧職者に対する一切の縛りが無くなり、本来の得度意義制度も失われて形骸化した儀式のみが残り、僧伽の原義とは全く反対の意味をもつ職業化したり世襲化した者が僧侶として公然と存在することができるようになった。そして、かれらが宗団を運営しているのが現状である。

なお、戦前に戒律・僧伽復興運動をした人物としては、真言宗釈雲照、及び、その甥でスリランカに留学し、日本人初の上座部仏教徒となって日本で「釈尊正風会」を組織した釈興然がいる。また、持戒に厳しかったことで知られ、日本人初のチベット探検者でもあった黄檗宗河口慧海は、国内外の僧伽の形骸化を批判し、僧籍を返還して「在家仏教」(ウパーサカ仏教)を提唱するに至った。

また、戦後は「政教分離」の原則に基づき、先の太政官布告の内容は破棄されたので、近年では、『日本テーラワーダ仏教協会』のように、上座部仏教も輸入・移植され、上座部の仏教徒として具足戒を授けられて、その僧伽の一員である比丘や比丘尼となる日本人も少数ながら出てきている。また、『龍蔵院デプン・ゴマン学堂日本別院』のように、チベット仏教系の僧院も築かれて、その僧伽の構成員である比丘や比丘尼もいる。更には、台湾華僑らによる中国仏教系の『仏光山』等の寺院もあり、その僧伽の構成員である比丘や比丘尼も日本に滞在している。

こうして日本仏教においては、平安時代の最澄以降、戒律(具足戒波羅提木叉)の戒脈や、それを基にした僧伽の伝統は、基本的に途絶えており、具足戒を受持する出家者・修行者は、他国の僧伽で受戒したごく少数者を除いて現代日本仏教各宗派には存在しない。それゆえ日本の伝統宗派に僧伽(サンガ)は存在しない。しかしながら現状を肯定する新しい解釈によって、儀式のみを行い、三帰依戒や具足戒菩薩戒三昧耶戒等の正式な戒律を一切持たない、これらの僧職者と檀家のみで構成される在家教団を僧伽(サンガ)と見做すべきであるという意見[8]もある。

四分律[編集]

中国日本台湾韓国等の仏教において、歴史的に広く用いられてきたである。比丘は二百五十戒を遵守する。現状において、日本では完全に僧伽が消滅しているため、律宗などで儀式上の必要から、形式的に受戒する場合、既に中国大陸では僧侶はいるが文化大革命によって正しい戒脈が途絶えてしまったため、『護戒牒』に見られるように戒脈の残る台湾等から戒師を招来する必要がある。

戒律の条項は以下の通りである。[9]

  • 波羅夷法[四ヶ条] (これを犯した場合、僧伽と全ての仏教教団から追放されるもの;「波羅夷罪」ともいう)
    1. 婬戒 : いかなる性行為も行なわない。
    2. 盗戒 : 盗心をもって与えられていないものを取らない
    3. 殺人戒 : 殺人を犯さない。
    4. 大妄語戒 : 未だその境地を得ていないのに悟りを得たなどと嘘をつかない。ただし自信過剰による思い上がりの場合は除く。また、仏教教団としての僧伽の調和を著しく乱すようなことや、そのあり方を変えてはならない。
  • 僧残法 [十三ヶ条]
  • 不定法 [二ヶ条]
  • 尼薩耆波逸提法 [三十ヶ条]
  • 波逸提法 [九十ヶ条]
  • 波羅提提舎尼法 [四ヶ条]
  • 衆学法 [百ヶ条]
  • 滅諍法 [七ヶ条]

剃髪[編集]

僧侶の規律として剃髪がある。頭を丸め(丸刈り)て悟りの境地へ達する"解脱"への第一歩とされる。剃髪の由来は、釈迦に倣ったものである。古代インドでは、頭髪を剃るのは最大の恥辱とされ、重罪を犯した者に対する一種の刑罰であったが、釈迦は自らの解脱のため進んで剃髪した。それに弟子たちも従ったものである。

なお、罪人の髪を剃る刑罰は、中国の髠刑や日本の天つ罪に対するなど広く見られるものであった。

剃髪した僧侶が、還俗して髪を伸ばすことは蓄髪(ちくはつ)という[10]

近年、浄土真宗をはじめとして、お寺以外に仕事を持っているなどで蓄髪の僧侶も見受けられるが、現代日本の伝統教団には一部を除き、平安時代以降は、教義上、具足戒を受ける習慣がなく、彼らは厳密には僧侶(比丘)ではないので問題はないとも言える。

ちなみに、『小事犍度』には、螺髻梵志(バラモン教の僧侶)は頭髪を伸ばして、それを頭の上で輪にして留めていた。しかし仏教では長髪を持すべからず。二カ月もしくは二指間は許すと伝え、『四分律』では、応に鬚髪を剃るべし。極長は長さ両指、もしくは二カ月に一剃する。これは極長なりと記し、『十誦律』は、六群比丘が髪を留めて捲かしめ、留めて長くしていた時に、髪を留めて長からしめるべからず。もし阿練児比丘、長さ二寸(六cm)に至るは無罪なりと定められたと説いている。

そして、時に諸比丘編髪螺髻に仮作して、仏所に来指して白して言く。此は是れ頭陀端厳法なり。願わくば仏よ聴せ。仏言く、爾るべからず。此れは是れ外道の法なり。若し是の如く作せば法の如く治せと「四分律』は説き、螺髻は外道(バラモン教)の髪型であるので、釈尊は禁止されたと伝えている。

それと、大衆部の律には、釈尊は「四カ月に一度、剃髪をされた」[11]と伝承されている。

脚注[編集]

  1. ^ 他の音写として「僧佉」「僧企耶」などがあり、漢訳して「衆和合」「衆」と呼ぶ。
  2. ^ 「サンガとは、中国語で「衆」という意味である。「戒律を守る出家者(比丘)が一処に和合すること、これをサンガというのである。」原文:「僧伽、秦に衆という。多くの比丘、一処に和合する。これを僧伽となずく」(『大智度論 』)
  3. ^ 本来は鑑真和上の戒や、その後の中国伝来の戒に繋がる真言宗真言律宗、南都六宗の律宗法相宗などは本来、具足戒を保持すべきであるが、現在はそうではない。
  4. ^ 天台宗およびそこから派生した諸宗は基本的に具足戒を伝授されない。
  5. ^ a b 僧伽(修行者たちの集まり=僧)の本質 - ニンマ派高僧トゥルシック・リンポチェによる「37の菩薩の実践」
  6. ^ 特に男色の弊害を示す好例として、自らの男性遍歴を告白する文書を残した東大寺の僧侶・宗性をあげることができる
  7. ^ この版は明代の『大蔵経』に基づくもので、別名を『鉄眼版大蔵経』とも呼ばれる。
  8. ^ ただし、このことは僧伽(サンガ)のあり方を根底から変えることになるため、「波羅夷罪」に抵触する。
  9. ^ 戒律の条項については、真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺HP [1]を参照した。
  10. ^ 「蓄髪」は単に「髪を伸ばすこと」また「その髪型」「髪を伸ばした人」という意味もあるが、現代ではあまり使われない表現。
  11. ^ 『摩訶僧祇律十八(復次佛住舎衛城。広説如上。爾時世尊四月一剃髪。世人聞佛剃髪故。送種種供養)』

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]