瞑想
瞑想(めいそう、Meditation,メディテーション )とは、何かに心を集中させること。この呼称は、単に心身の静寂を取り戻すために行うような比較的日常的なものから、絶対者(神)をありありと体感したり、究極の智慧を得るようなものまで、広い範囲に用いられる。
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[編集] 概説
瞑想法は、一つの対象を定めた上で、その対象に集中を高めていく手法と、対象を定めずに心に去来する現象を一心に観察する手法に分けることができる。前者の手法における対象としては、
- 「神」等の聖なる存在のイメージ
- 特定の文字のイメージ
- 紙上に書かれた円形の凝視
- 呼吸に合わせて一心に数を数えること
- マントラや念仏等の短い音節の繰り返し
- 呼吸に対する腹部や鼻腔の感覚変化
等多種多様である。いずれの手法においても、現実世界に対する心の持ち様を変化させていくことを目的としており、集中力が養われるに伴い心の変化が起こるとされる。
瞑想の具体的効用として、集中力の向上、気分の改善等の日常的な事柄から、瞑想以外では到達不可能な深い自己洞察や対象認知、智慧の発現、さらには悟り・解脱の完成まで広く知られる。宗教や宗派、あるいは瞑想道場により、瞑想対象や技術が異なる。
仏教における瞑想法では、人間の心が多層的な構造を持っていることを踏まえ意識の深層段階へと到達することを目的とした手法が組み立てられる場合がある。例えば、大乗仏教における仏教哲学・仏教心理学では意識は八識に分類され、その中には末那識や阿頼耶識と呼ばれる層があり、仏教の瞑想法はそこへ到達するための方法と言われている。末那識、阿頼耶識は、近代になって西洋心理学で深層心理と呼ばれるようになったものに近いと言われている。一方、上座部仏教においては、瞑想修行の進展に伴い心の変化を九段階に体系化(一般的認識である欲界を超えた後に現れる第一禅定から第九禅定)しており、第一禅定以上の集中力において仏陀によって説かれた観瞑想の修行を行うことで解脱が可能と言われている。
ヒンドゥー教における瞑想法は、真我や神との合一体験を目的とした瞑想が主流である。仏教やヒンドゥー教における瞑想法の究極の到達点は一般的には輪廻転生からの解脱であるが、実践者の悟りや解脱についての認識の違いが、宗教・宗派を区別する根拠の一つとなった。
[編集] 「Meditation」「瞑想」という表現
瞑想に関しては複数の言語間での翻訳の行き来に伴う表現の混乱があるので若干の注意を要する。
“Meditation” という言葉はラテン語: meditatio に由来している。ローマ時代の meditatio は「精神的および身体的な訓練・練習」全般を意味していた。[1]
その後、ヨーロッパにおいてはもっぱらキリスト教が発展したので、ヨーロッパ諸語の “Meditation” とはキリスト教のそれを指し、神、イエス・キリスト、聖母マリア等を心の中でありありと想い浮かべることを、意味するようになった。これはどちらかといえば仏教における「内観」あるいは「観想」に相当する。ただし日本ではその “Meditation” を「瞑想」と翻訳するのが一般的である。
一方、「内観」、「禅定」等の仏教用語やヨーガなどが、欧米においてはしばしば “Meditation” と翻訳されるため、それらを紹介した欧米の書物がさらに和訳される際(いわば再輸入される際)、それらが元の「内観」等ではなく、「瞑想」と訳されていることも少なくない。つまり翻訳で「瞑想」や「メディテーション」と表記されていても、その指示対象は日本人が「内観」や「ヨーガ」と呼んでいるものであるかも知れず、やはり混線が生じている可能性があるので注意が必要である。
[編集] 瞑想と宗教
[編集] キリスト教と瞑想
キリスト教の伝統においては、特に修道院の修道士らの日課には瞑想を行う時間が設けられていることが多い。信者にとって、俗世から離れたうえで、神への祈りを絶やさず瞑想に励む修道士は、1つの理想、憧れの姿でもある。我が国におけるカトリック教会においては、修道院などにおいて書籍も何もない場所でじっくりと神に関して思いを馳せて祈りを捧げる「霊の体操」のような霊操が行われている。
東方教会においては、「主の祈り」を唱え続けつつ深い瞑想の境地へと入ってゆく方法があり、これは「ヘシカズム」と呼ばれている。(祈りの項も参照)
[編集] インド発祥の瞑想
インドでは極めて古くから瞑想が行われていたようであり、紀元前25世紀ごろに栄えたインダス文明の遺跡であるモヘンジョダロからは、座法を組み瞑想を行う人物の印章が発見されている。
紀元2~3世紀ごろにパタンジャリが、サーンキヤ学派の理論にもとづいて瞑想の技法を体系づけ、その技法を継承する集団が形成されるようになった(「ヨーガ・スートラ」『魂の科学』『解説ヨーガ・スートラ』参照)。その瞑想は「ヨーガ」と呼ばれ、継承者集団はヨーガ学派と呼ばれている。意識をただ一点に集中させ続けることによって、瞑想の対象と一体となり、究極の智慧そのものとなるのである。この状態は三昧(さんまい、ざんまい、サマタ、サマディー)と呼ばれる。
仏教の始祖とされているブッダ("悟った人"の意)は、究極の智慧を得たのであるが、それは上述のインドの瞑想の技法(あるいはヨーガ)によって得たものであり、彼はその瞑想法をより安全かつ体系的なものに発展させた(『原始仏典』参照)。それゆえ仏教の諸派の中には、今でもヨーガの瞑想の技法を継承している派もあり、さらに独自に発展させている派もある。(詳細は瑜伽、法相宗、真言宗、天台宗、天台止観、禅、上座部仏教などの項を参照)
大乗仏教諸派や他の宗教では、三昧による一体感を究極の目的としている場合が多いのに対して、上座部仏教では、三昧の完成を修行の最終目的とせず、三昧に没入できるほどの極めて高い集中力で、今をあるがままに見ることで智慧の完成(悟りの境地)を目指す。仏教心理学では、三昧によって得られる境地を、その内的体験によって第一から第九禅定までに体系化している一方で、ヴィパッサナー瞑想によって得られる境地(悟り)は、これらの禅定とは別の体験としており、これが仏教と瞑想を基本とする他の宗教との違いとなっている。
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- 『解説ヨーガ・スートラ』、平河出版社。佐保田 鶴治 (著)。ISBN 978-4892030314
- 『魂の科学』、たま出版。スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著。ISBN 978-4884811105
- 『原始仏典』、筑摩書房。中村元編。ISBN 4-480-84074-5