悟り

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悟り(さとり)は知らなかったことを知ること、気がつくこと、感づくことを言い覚りとも書く。宗教上の悟りは迷妄を去った真理やその取得を言う。

サンスクリットでは日本語の「理解」「気づき」「通達」などの意味に相当する単語はあるが、日本の仏教用語として多用される動詞の「悟る」、もしくはその連用形である「悟り」に相応する単語は存在しない。インドの仏教では時と場と機に応じて、主だった表現だけでも十種類以上の<さとり>に相当する語が駆使された。[1] そうした豊富な宗教用語に対しては、漢訳も対応しきれなかったというのが実情である。[2]

例えば、仏教伝来以前から中国にすでに存在していたと思われる「覚悟」という漢語は、サンスクリット語やパーリ語の数種類以上の単語の訳として用いられている。[3] その訳意は今日の「覚悟」の意味と同じく、「理解」「通達」から「警告」「目覚め」までと幅広い。ちなみに、日本で編纂された三蔵経である大正新脩大藏經には三万数千の「悟」という漢字表記がみられるが、うち「覚悟」は二千数百を占めている。[4]

釈迦降魔成道に付随して表現される「悟りを開く」の元となった「開悟」という漢語についてみてみると、「開悟」は大正新脩大藏經に約千七百みられ、数種類のサンスクリットの訳として当てられている。[5] その訳意は「覚悟」の場合と違って比較的狭量であり、いずれのサンスクリットも「仏地を熱望する」もしくはその婉曲表現を組合せた原意を持つ複合語(熟語)である。当該サンスクリット語が婉曲表現を採用したのは警鐘を含意したためと思われる。[6] 

「覚悟」や「開悟」の場合と同様、「悟」と表記された他の漢訳も底本のサンスクリット語が同一種類であることはむしろ稀である。逆に一つの原語が複数種類以上の漢訳を持つケースも珍しくない。大正新脩大藏經に出現する三万数千の「悟」という漢字は、多くは「覚悟」のように二字熟語の一部として用いられており、日本の仏教で多用される「悟る」もしくはその連用形「悟り」という、曖昧かつ自動詞的な意味で用いられていることはまずない。[7]

菩提」を悟りとするのも日本の仏教だけで、漢訳ではサンスクリットの「बोधि bodhi ボーディ 」を「悟」と訳した例は知られていない。bodhi の漢訳はもっぱら「菩提」であって、新訳で「覚」などと漢訳される場合がある程度である。[8] では、日本の仏教では、何故「悟る」や「悟り」という言葉が多用されるようになったのかと言う問題が生じるが、それは中国の宗が「悟」という用語を多用したことが要因の一つとして推定されよう。[9]

少なくとも、中国南宗禅の鼓吹派が喧伝した「頓悟」が誤解を交えながら日本にまで伝播し、これが日本仏教の「悟り」や「悟る」という表現の混乱に拍車をかけたことは間違いない。中国の禅宗は「悟」をもっぱら「廓然と大悟した」などの表現で用いるが、これは修道の証得を示すものである。中国禅の六祖とされる慧能も頓漸の別は修行の遅速の問題に過ぎないとしていることから、慧能以降に禅風鼓吹の標語「(頓)悟」が混乱を引き起こしていったと考えられる。

日本の仏教に限らず漢訳仏教圏やその影響を受ける地域では、釈迦は悟りもしくは解脱を求めて出家したとするのが通教的な教えとなっているが、阿含部大般涅槃経(大パリニッバーナ経)には、釈迦は善なるものを求めて出家したと釈迦自らが語る形式で説かれている。

各宗教における悟り[編集]

仏教[編集]

仏教悟り (さとり、覚り)は、原語のサンスクリットでは、bodhiボーディ、बोधि である。日本語・漢語では「菩提(ぼだい)」「覚悟」「証(しょう)」「修証(しゅしょう)」「証得(しょうとく)」「証悟(しょうご)」「道(どう)」などの別称もある。また、「開眼」「開悟」「成道(じょうどう:成仏得道の略)」とも表現される。[要出典] サンスクリットの「बोधिसत्त्व bodhisattva ボーディ・サットヴァ 」の音写漢訳である「菩提薩埵(通常は菩薩と表記される)」[10] であることを止揚した者を「buddha ブッダ」と呼び、漢字で音写し「仏陀」「」としたり、「覚者」と意訳したりする。[11]

このように悟りの意味の違いが宗教・宗派の違いであるということもできるが、般若経などでは、「覚り」と「悟り」も別のものとして使い分けられている。大乗経典ではさらに、それ以前の教義と峻別するために「覚り」を超えるものとして「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、原語Anuttara samyaksaMbodhi)」「無上正等菩提(むじょうしょうとうぼだい)」を措定している。いずれも、現代日本の仏教界(この記事を含む)では混乱して使われてしまっているが、真理(法)に目覚めること、迷いの反対の意で用いられる傾向があるという点では、ある程度の共通性は見られる。

釈迦(しゃか)の辿った道筋から見てみると、釈迦は出家前にすでに阿羅漢果を得ていたとされるが、[12]出家後も含めて多くの哲学者や宗教家の教えを受け、苦行にも専念したが悟りを得られなかった。[13] そこで今までの修行法をすてて、尼連禅河(にれんぜんが)で沐浴し身を清め、村娘スジャータから乳粥(ちちがゆ)の供養(くよう)を受けて河を渡り、対岸のピッパラ樹の下で坐禅をして禅定に入った。[要出典][14] これを「降魔成道」と言う。釈迦は降魔成道の後、梵天勧請を受けて鹿野苑(ろくやおん)で初転法輪を巡らした。

釈迦が降魔成道を遂げて悟りを開いたとされる蠟月(十二月)八日は、今日でも降魔成道会として仏教寺院の年中行事の一つとなっている。その禅定がしだいに深化し、三昧の中で「三明」が顕れ、真理を悟ることができた。これによって釈迦は悟った者(覚者)、すなわち「ブッダ(仏陀)」になったのである。[要出典] 但し、三明については諸説あって通説と呼べるものはなく、十二縁起(十二因縁)とも関連する「縁起」に纏わるものであるとする説や、三明にさらに三智が加わるとする三明三智(六通)説なども存在する。

部派仏教の旧訳(くやく)ではサンスクリット語「vitarka」を「覚り」と訳した。vitarkaは「尋」とも訳し、対象を推しはかって分別する麁(あら)い心の働きをいう。一方、細かい心の働きを「vicaara」(旧訳では観(かん)、新訳では伺(し))といい、両者は対になって用いられる。この両者はともに定心(じようしん)を妨げるが、禅定の深まりによって消滅する。一方、大乗経典では「bodhi」を「菩提」と音写訳せず、「覚り」と意訳する新訳がある。これは覚りの智慧を表すものである。古くは「道(どう)」「意」「覚意」などとも意訳された。

初期仏教から部派仏教あたりまでは、悟るためにさまざまな修行が説かれ実践された。仏教の悟りは智慧を体としており、凡夫(ぼんぶ)が煩悩(ぼんのう)に左右されて迷いの生存を繰り返し、輪廻(りんね)を続けているのは、それは何事にも分別(ふんべつ)の心をもってし、分析的に納得しようとする結果であるとし、輪廻の迷いから智慧の力によって解脱(げだつ)しなければならない、その方法は事物を如実(にょじつ)に観察(かんざつ)することで実現する。これが真理を悟ることであり、そこには思考がなく、言葉もない。

この悟りの境地を「涅槃(ねはん)」といい、それは「寂静(じゃくじょう)」であるとされる。煩悩が制御されているので、とらわれのない心の静けさがあるということである。パーリ語本の大般涅槃経(大パリニッバーナ経)には、釈迦は沙羅樹林で入滅し涅槃に入ったと説かれている。また、悟りを求める心を菩提心という。悟りを求める点では部派仏教も大乗仏教も共通であるが、自分のさとりを追求する部派仏教の場合、声聞(しょうもん)は四諦(したい)・八正道の教えを聞いて修行し、縁覚(えんがく)は十二因縁を悟ってそれぞれ解脱するとする。

大乗仏教では自分の悟りは他人のさとりを前提に成立するという立場から、六波羅蜜(ろくはらみつ)のうち利他行を実践する菩薩行(ぼさつぎょう)を強調する。悟りは固定した状態ではなく、悟りの行は、自利と利他の両面を願って行動し続けることであり、自らの悟りに安住することなく、悟りを求める人々に実践を指導するために活動し続けた釈迦の姿が想定されており、活動していくことに悟りの意味を求めているのが、大乗以降の仏教における菩薩の特徴である。そして菩薩の悟りは声聞や縁覚と違い、究極最高のものであるとして「阿耨多羅三藐三菩提」「無上正等菩提」、あるいは単に正覚と呼ばれる。[要出典][15]

中国仏教[編集]

仏教の中国における大きな支流であるには段階的な手順を得て起きる悟り(漸悟)を説く北方禅と、瞬時に起きる突然の悟り(頓悟)を説く南方禅に分かれた時期があったが、北方禅は先に廃れたため、日本に伝わったのは、突然の悟りを説く南方禅の流れを汲む宗派である。しかし、日本に伝わったのは宋代で、禅が形骸化してきた時代でもあり、全盛期の代のものとは大きく違う。例えば現代日本の臨済宗曹洞宗は、いずれも唐代の禅の悟りに対する宗風をほとんど受け継いでいない。

もうひとつの中国仏教の大きな支流は浄土教であるが、この宗派は時代背景を反映して、阿弥陀仏の浄土に往生することを欣求し、悟りは大きな目標とはしない。これは平安時代の日本に伝わり、貴族の間に極楽往生を求める信仰が広まった。

一方、中国撰述とされる論書、『大乗起信論 』では、阿頼耶識(あらやしき)に不覚と覚の二義があるとし、覚をさらに始覚(しかく)と本覚(ほんがく)とに分けて説明する。我々の心性(しんしょう)は、現実には無明(むみょう)に覆われ、妄念にとらわれているから不覚であるが、この無明が止滅して妄念を離れた状態が「覚」であるという。ところで、無明は無始以来のものであるから、それに依拠する不覚に対しては「始覚」といわれるが、われわれの心性の根源は本来清浄な覚りそのもの(「本覚」)であって、それがたまたま無明に覆われているから、始覚といってもそれは本覚と別のものではなく、始覚によって本覚に帰一するに過ぎない、と説明する。つまり、誰にでも覚りに至る道は開けており、それに向かっての修行が必要なことを説いているのである。さらに、覚りは清浄なものであることも説明されており、この論書の特長である。

ジャイナ教[編集]

ジャイナ教のシンボル

ジャイナ教では、修行によっての束縛が滅せられ、微細な物質が霊魂から払い落とされることを「止滅」(ニルジャラー)と称する。その止滅の結果、罪悪や汚れを滅し去って完全な悟りの智慧を得た人は、「完全者」(ケーヴァリン)となり、「生をも望ます、死をも欲せず」という境地に至り、さらに「現世をも来世をも願うことなし」という境地に到達する。この境地に達すると、生死を超越し、また現世をも来世をも超越する。煩悩を離れて生きることを欲しない、と同時に死をも欲しないのは、死を願うこともまた一つの執着とみるからである。ここに到達した者は、まったく愛欲を去り、苦しみを離脱して迫害に会ったとしても少しも動揺することなく、一切の苦痛を堪え忍ぶ。この境地をモクシャ・やすらぎ(寂静)・ニルヴァーナ(涅槃)、とジャイナ教では称する。

モクシャに到達したならば、ただ死を待つのみである。身体の壊滅とともに最期の完全な解脱に到達する。完全な解脱によって向かう場所を、特に空間的に限定して、この世とは異なったところであるとしている。「賢者はモクシャ(複数)なるものを順次に体得して、豊かで、智慧がある。彼は無比なるすべてを知って[身体と精神の]二種の[障礙を]克服して、順次に思索して業を超越する『アーラヤンガ』」。モクシャは生前において、この世において得られるものと考えられている。このモクシャをウッタマンタ(最高の真理)と呼んで、ただ”否定的”にのみ表現ができるとしている。

このモクシャを得るために、徹底した苦行瞑想、不殺生(アヒンサー)、無所有の修行を行う。ジャイナ教では、次の「七つの真実」(タットヴァ)を、正しく知り(正知)それを信頼し(正見)実践する(正行)することが真理に至る道であると考えられている。1. 霊魂(ジーヴァ)2. 非霊魂(アジーヴァ)3. 業の流入(アースラヴァ)4. 束縛(バンダ)5. 防ぎ守ること(サンヴァラ)6. 止滅(ニルジャラー)7. 解脱(モクシャ)

ジャイナ教では、宇宙は多くの要素から構成され、それらを大別して霊魂(ジーヴァ)と非霊魂(アジーヴァ)の二種とする。霊魂は多数存在する。非霊魂は、運動の条件(ダルマ)と静止の条件(アダルマ)と虚空(アーカーシャ)と物質(プドガラ)の四つであり、霊魂と合わせて数える時は「五つの実在体」(アスティカーヤ)と称する。これらはみな”実体”であり、点(パエーサ)の集まりであると考えられている。宇宙は永遠の昔からこれらの実在体によって構成されているとして、宇宙を創造し支配している主宰神のようなものは”存在しない”とする。


霊魂(ジーヴァ)とは、その本質は意志を含めた知と生命性であるといえる。インド哲学でいう我(アートマン)と同じであり、個々の物質の内部に想定される生命力を実体的に考えたものであるが、唯一の常住して遍在する我(ブラフマン)を”認めず”、多数の実体的な個我のみを認める「多我説」に立っていると見なされている。霊魂は、地・水・火・風・動物・植物の六種に存在する。つまり”元素”にまで霊魂の存在を認める。霊魂は”上昇性”を持つが、それに対して物質は”下降性”を有する。その下降性の故に霊魂を身体の内にとどめ、上昇性を発揮することができないようにしていると考えられている。この世では人間は迷いに支配されて行動している。人間が活動(身・口・意)をするとその行為のために微細な物質(ボッガラ)が霊魂を取り巻いて付着する。これを「流入」(アースラヴァ)と称する。霊魂に付着した物質はそのままでは業ではないが、さらにそれが霊魂に浸透した時、その物質が「」となる。そのため「業物質」とも呼ばれる。霊魂が業(カルマン)の作用によって曇り、迷いにさらされることを「束縛」(バンダ)という。そして「業の身体」(カンマ・サリーラガ)という特別の身体を形成して、霊魂の本性をくらまし束縛しているとする。霊魂はこのように物質と結び付き、そして業に縛られて輪廻するという。

霊魂に業が浸透し付着して、人間が苦しみに悩まされる根源は「執着」があるからであると考える。そのため外界の対象に執着してはならないと教える。あらゆるところから業の流れ(ソータ)は侵入してくるので、五つの感覚器官(感官)を制御して全ての感覚が快くとも悪しくとも愛着や執着を起こさなければ、業はせき止められる。それを、「防ぎ守ること・制御」(サンヴァラ)と呼び、新規に流入する業物質の防止とする。それに対し、既に霊魂の中に蓄積された業物質を、苦行などによって霊魂から払い落とすことを「止滅」(ニルジャラー)と呼ぶ。

霊魂は業に縛られて、過去から未来へ生存を変えながら流転する存在の輪すなわち輪廻(サンサーラ)の中にいる。輪廻は、迷い迷って生存を繰り返すことだという。ジャイナ教は、その原因となる業物質を、制御(サンヴァラ)と止滅(ニルジャラー)によって消滅させるために、人は”修行”すべきであると説く。そのために出家して、「五つの大誓戒」(マハーヴラタ、mahaavrata)である、不殺生、不妄語、不盗、不淫、無所有を守りながら、苦行を実践する。身体の壊滅によって完全な解脱が完成すると「業の身体」を捨てて、自身の固有の浮力によって一サマヤ(短い時間)の間に上昇し、まっすぐにイーシーパッバーラーという天界の上に存在する完成者(シッダ)たちの住処に達し、霊魂は過去の完成者たちの仲間に入るとしている。[16]

ヒンドゥー教(バラモン教)[編集]

ヒンドゥー教は非常に雑多な宗教であるが、そこにはヴェーダの時代から続く悟りの探求の長い歴史がある。

仏教に対峙するヴェーダの宗教系で使われる悟り意識の状態で、人が到達することの出来る最高の状態のいくつかを言う。サンスクリットニルヴァーナ涅槃)に相当する。光明または大悟と呼ばれることもある。悟りを得る時に強烈な光に包まれる場合があることから、光明と呼ばれる。

インドではヴェーダの時代から、「悟りを得るための科学」というものが求められた。それらは特に哲学的な表現でウパニシャッドなどに記述されている。古代の時代の悟りを得た存在は特にリシと呼ばれている。

ニルヴァーナには3つの段階が存在するといわれ、マハパリ・ニルヴァーナが最高のものとされる。悟りと呼ぶ場合はこのどれも指すようである。どの段階のニルヴァーナに到達しても、その意識状態は失われることはないとされる。また、マハパリ・ニルヴァーナは肉体を持ったまま得るのは難しいとされ、悟りを得た存在が肉体を離れる場合にマハパリ・ニルヴァーナに入ると言われる。

悟りを得た存在が肉体を離れるときには、「死んだ」とは言われず、「肉体を離れる」、「入滅する」、「涅槃に入る」などと言われる。

悟りという場合、ニルヴァーナの世界をかいま見る神秘体験を指す場合がある。この場合はニルヴァーナには含まれないとされ、偽のニルヴァーナと呼ばれる。偽のニルヴァーナであっても、人生が変わる体験となるので、偽のニルヴァーナを含めて、ニルヴァーナには4つあるとする場合もある。

現在でも、ゴータマ・ブッダの時代と同じように山野で修行を行う行者が多い。どんな時代にでも多くの場所に沢山の数の悟りを得た(と自称している)存在に事欠かない。

通常、悟りを得たとする存在もヒンドゥー教、またはその前段階のバラモン教の伝統の内にとどまっていた。しかし、特にゴータマ・ブッダの時代はバラモン教が司祭の血統であるブラフミン(バラモン)を特別な存在と主張した時で、それに反対してバラモン教の範囲から飛び出している。同時代にはジャイナ教のマハヴィーラも悟りを得た存在としており、やはり階級制であるカーストに反対してこれを認めず、バラモン教から独立している。

キリスト教[編集]

キリスト教では、神を知る体験があるとされる。これは初めの人アダムとエバの時代に神から離れた人類にもう一度神との交わりに入るときの霊的体験と説明される。ここで言う霊とは死後の霊といった意味ではなく、三位一体の神の位格の一つ聖霊との交流を意味する。ナザレのイエスが天から地に現れた神の子、キリストであると信じるに至る際の体験である。聖書に記録される、イエスや初期クリスチャンらに倣って、神を体験することである。[要出典]

カトリック教会聖人と呼ばれる人々の中には悟りに近い領域にいると思われる人がおり僧侶がする修行の中には瞑想も含まれている。[要出典]ギリシャ哲学等と融合し、異端とされたグノーシス派では、真に神を知ることを覚り(グノーシス)と呼ぶ。

プロテスタント信仰における「悟り」:キリスト教用語にも聖句にも「悟る」という用語がある。プロテスタントの訳語では「悟り」は「気づき」と言う。聖書の言葉は人間の力や知識(神学・聖書学も含む)では理解できない場合がある。(例:「十字架の救い」を知識でよく知って理解していても、啓示がなければ、信仰による救いには至らない)。しかし、聖霊(神の霊)の啓示によるならば、気づき、悟ることが出来る。神の言葉を悟ることによって、単なる知識に終わらない体験をするのである(先述の例によるならば、「救い」を体験する)。[要出典]


また、近年「自己喪失の体験」を書いたバーナデット・ロバーツはごく普通の主婦でありキリスト教を信じるものとしての体験をまとめている。これは悟りのプロセスとして知られているものに非常に近いか同一である[要出典]。一般的な言葉で非常に客観的に自分に起きたプロセスをまとめている。ヴェーダの単語を使っていないのでなじみのない者に理解がしやすい。[要出典]

ヴェーダの宗教の系統では、ナザレのイエスを悟りを得た存在として尊重する場合がある。[要出典]

仏教者鈴木大拙はイエスを妙好人と考証している(鈴木大拙全集第十巻)。

ニューエイジ[編集]

近年の欧米で、キリスト教徒として留まったままでキリスト教の枠組みから外れて宗教的探求をする運動があり、ニューエイジと呼ばれているが、それらの人々によって悟りの概念が取り入れられ、イエス・キリストをある種の悟りを得た存在としてとらえる場合もある[要出典]

イスラム教[編集]

一般のイスラム教には悟りの伝統は含まれていないが、特にイスラム教神秘主義とも呼ばれるスーフィーは、内なる神との合一を目的としており、そのプロセスは悟りのプロセスのいずれかに近い。しかし、神との合一を成し遂げたスーフィの中にはハッラージュ(en:Mansur Al-Hallaj)のように「我は真理なり」と宣言して時の為政者に処刑された例がある。[17]

悟りと似た意味の言葉[編集]

  • モクシャ (ジャイナ教) (解脱) - モクシャには自由の意味があり、最終的な自由を得ることをさす。また、天国地獄を超越した場所として、モクシャを指す場合もある。モクシャは、天国に入るという事ではなく、天国と地獄を超越した場所にはいることを示す。

悟りの境地を理解する為の参考になる文献など[編集]

光明を得たとされる人[編集]

古代

近代

現代

[編集]

  1. ^ 「梵和大辞典(鈴木学術財団)」を参照
  2. ^ 意味の訳出のみならず音訳(音写)を加味したり、原語底本によっては音韻を踏んで語数を定型化する詩文調の訳も考慮する必要があった。
  3. ^ 以下、サンスクリット語・パーリ語の対照は「広説佛教語大辞典 中村元著(東京書籍)」等による。
  4. ^ 以下、使用頻度は「大正新脩大藏經テキストデータベース2012版」による。
  5. ^ 「開悟」が仏教伝来以前から中国に存在していた漢語かどうかは不明である。
  6. ^ 「広説佛教語大辞典 中村元著(東京書籍)」等ならびに「梵和大辞典(鈴木学術財団)」を比較参照。
  7. ^ 以下、「大正新脩大藏經テキストデータベース2012版」を検証せよ。
  8. ^ 「広説佛教語大辞典 中村元著(東京書籍)」、「禅学大辞典(大修館書店)」等を参照。
  9. ^ 以下、「南宗 - Wikipedia」を参照。
  10. ^ 大正新脩大藏經では、阿含部を除く全ての経・論・律部のいずれかのテキストに「菩提薩埵」の語が出現する。しかし、「菩薩」が三十数万例みられるのに対して、「菩提薩埵」は約千二百例みられるに過ぎない。漢訳の際に菩薩と簡略されたケース、底本がすでに「bot-sat」と簡略されているケースなども含めて、その使い分けについては今後の研究対象と成り得よう。
  11. ^ なお、大乗仏教は仏(仏乗)と大乗を区別する傾向がある。これは大日如来を尊崇する密教で顕著になる。「仏」と「如来」が明らかに使い分けられている経典は少なくなく、法華経では「一仏乗」と「大乗」の使い分けも見られる。
  12. ^ 出典は明記されていないが「禅学大辞典(大修館書店)」には、釈迦族の農耕祭のときに四禅の相を現したと記述されている。同辞典の旧版では農耕祭で相撲が催されたときとなっている。通教的には四門出遊に抽象されると考えるだけで、明示的に説かれた経論は知られていない。
  13. ^ 出家後はアーラーラ・カーラーマウッダカ・ラーマ・プッタに師事したとされる。
  14. ^ 通教的には滅受想定という。
  15. ^ 菩薩が何を悟るかについて明示された経論は知られていない。
  16. ^ 渡辺研二 『ジャイナ教入門』 現代図書、2006年ISBN 4-434-08207-8
  17. ^ インド史・スーフィズム イスラム史におけるスーフィズムの意義について 木村 聡

関連項目[編集]