合気道
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合気道
(あいきどう)
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| 発生国 | |
| 創始者 | 植芝盛平 |
| 源流 | 柔術・剣術 |
| 主要技術 | 体術・武器術 |
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合気道(あいきどう)は植芝盛平が昭和前期に創始した現代武道。日本古来の柔術・剣術・杖術などを基に成立した、体術を主とする総合武術である。合理的な体の運用により体格体力によらず「小よく大を制する」ことが可能とされている点が特徴。自然との和合、世界平和などを主な理念とする。
(植芝創始以外の「合気道」は→ “「合気道」の名称について” にて詳述。)
目次 |
[編集] 概説
[編集] 歴史・成立から展開
合気道の創始者・植芝盛平は1883年(明治16年)和歌山県田辺町(現・田辺市)の富裕な農家に生まれた。青年時代に起倒流・柳生心眼流などの柔術を修めた後、1915年北海道開拓中に大東流合気柔術の武田惣角に入門、1922年教授代理を許された。1917年宗教団体大本に入信、京都の綾部や亀岡で独自の修行を続け、甥の井上鑑昭(親英体道の創始者)と共に同地で「合気武道」の指導を行った。
身長150センチ余りの小柄な体躯[1]から特異な技を繰り出す武道家の評判はやがて東京でも関心を呼び、1927年海軍大将竹下勇らの支援を得て上京、1931年皇武館道場設立、1940年財団法人皇武会設立、1948年に皇武会は「財団法人合気会」と改称し、この時から「合気道」の名称を用いだした。(→“植芝「合気道」の出発”) これにより盛平は初代合気道「道主」となり、没後は特に「開祖」と呼ばれることになった。 それまで富裕層など一部の限られた人間にしか伝授を許されなかった合気道は戦後、のちに二代目道主となる盛平三男・植芝吉祥丸や弟子達によって一般に公開され普及することになる。
戦時中は軍部からの要請で陸軍中野学校や海軍大学校などで盛平が武術指導を行なった。戦後も自衛隊徒手格闘や警察の逮捕術の技術に大きな影響を及ぼし、現在も機動隊などで研修が行われている。
盛平が創始した(財)合気会は二代目道主・植芝吉祥丸を経て、現在は吉祥丸の次男植芝守央が代表である三代目道主を務める。今日国内100万人とも言われる合気道人口の大半を占めるのが合気会の会員であり、合気道界の多数派・主流派を形成している。一方盛平の門下及び合気会から独立した団体・会派が複数存在する。(→“主な会派”)
1950年代から盛平の弟子たちが積極的に海外普及に努めた結果、欧州・北南米・東南アジアなど国際的に広まり、合気会だけで現在約80ヶ国に支部道場を開設している。フランスなど、合気道人口が日本より多い国もある。1976年には合気会傘下の国際合気道連盟(IAF)が結成され、 IAFは1984年国際競技団体総連合(GAISF)の正式会員となり、1989年以降ワールドゲームズ大会に毎回参加している。
[編集] 技・稽古の特徴
※多数会派である合気会を基本に記述する。
- 合理的な体の運用により体格体力に関わらず「小よく大を制する」、また投げ技・固め技により、相手を傷つけずに制することが可能とされている。(→“技の形態”、“合気と呼吸力”、“「護身術」としての有効性に関する議論”)
- 二人一組の形稽古中心。投げ技・関節技が主で打撃技の稽古は少ない。(→“稽古の形態”)
- 試合がない。[2][3](→“主な会派”)
- 段級位制をとっている。
- 胴着は柔道・空手などと同系の、白晒し筒袖・前合わせの上衣に、白晒しズボン状の股下(こした)を用いる。成人初級者は白帯、有段者は黒帯に黒袴を着用する。[4]
- 厳格に定型化された礼法は無い。
- 健康効果を唱えている。(→“健康法としての合気道”)
[編集] 理念・精神性
他武道に比べ精神性が重視され、精神的な境地が技に現れるとされている。これは神道・大本教との関係など、精神世界への志向性が強かった盛平自身の性格の反映といえる[5]。 創始者個人の存在や思想が個々の修行者間に及ぼすカリスマ的な影響力は、他武道に比しても強い。その背景には武術家盛平の強さに関して超人的なエピソードが幾つも伝わっており、それが多くの合気道家に事実として信じられていることが大きく作用している。
武術をベースにしながらも、理念的には力による争いや勝ち負けを否定し、合気道の技を通して敵との対立を解消し、自然宇宙との「和合」「万有愛護」を実現するような境地に至ることを理想としている。主流会派である合気会が試合に否定的であるのもこの理念による。「和の武道」「争わない武道」などとも評される。
盛平の弟子の中には藤平光一を初めとして、ヨーガを日本に持ち込んだ中村天風の影響を受けた合気道師範も多く、合気道の精神性重視という気風を次代に継承している。
[編集] 技・稽古の形態
技は体術・武器術(剣・杖)を含み、対多人数の場合も想定した総合武術である。ただし実際には武器術を指導する師範の割合は多くなく、体術のみを指導する稽古が大半である。
[編集] 技の形態
無駄な力を使わず効率良く相手を制する合気道独特の力の使い方や感覚を「呼吸力」「合気」などと表現し、これを会得することにより、“合理的な”体の運用によって“相手の力と争わず”に相手の攻撃を無力化し、年齢や性別・体格体力に関係なく「小よく大を制す」ことが可能になるとされている。
- 合気道では「相手の欲するところを自ら与える」などと言い、一般的に相手の攻撃に対する防御技・返し技の形をとる。[6]
- 「入身」[7]「転換」[8]と呼ばれる独特の体捌きによって相手の攻撃線をかわすと同時に、相手の死角に入って自分有利の位置と体勢を確保する。
- 相手に呼吸を合わせて接触点が離れないよう保ちつつ、接触点を通して相手の重心・体勢を崩れる方向に導いて行く。このとき無駄な力が入ると反射的に相手からの反発を招き、力の抵抗にぶつかる・接触点が外れる等の不具合を生じ、技の流れを阻害する。そのため「脱力」ということが特に推奨される。
- また相手の側背面などの死角から相手に正対し、かつ自分の中心線上に相手を補足することにより、最小の力で相手の重心・体勢を容易にコントロールし導き崩す。
- 体勢の崩れた相手に対し投げ技や固め技を掛ける。崩しを行わないで技を掛けようとしても技は容易に掛からない。
- このように相手との接触点を通じ技を掛ける機微と一連のプロセスを「結び」「導き」「崩し」と言い、合気道の技の大切な要素として、また精神理念に通じるものとしても強調することがある。[9]
[編集] 稽古の形態
稽古は一般的に、二人一組の約束組手形式(何の技を使うか合意の元に行う)の形稽古中心であり、「取り(捕り)」(技を掛ける側)と「受け」(技を受ける側)の役を相互に交代しながら繰り返し行う。 柔道のような乱取り稽古は通常は行われない[10]。基本的に相手の手首・肘・肩関節を制する幾つかの形から始まり、稽古を重ねる中で多様な応用技・変化技(投げ技・固め技など)を学んで行く。立ち技と正座で行う座り技が中心で、寝技は殆ど行われない。打撃(「当身」)は牽制程度に用いることが多く、打撃中心の稽古は行われない[11]。蹴り技・足を使った固め技などは基本的には行わない。
[編集] 基本的な技
- 四方投げ:相手の腕をもって、相手の腕の外側から、相手の腕をくぐる。相手の腕は外側にねじれることになるが、相手の腕を相手の後方に持って行くようにすると、肘が曲がり、相手は力が入らなくなる。そのまま、斜め後方に倒す。[12]
- 入身投げ:相手の背後に入身して後ろ襟を取り相手を後方へ引き崩し、腕を相手の首に掛け、相手をそのまま崩した後方へ投げ倒す技。
- 小手返し:相手の手首を取り反対の手を相手の手の甲に添え手首を返しつつ肩関節を外転外旋、肘関節を屈曲、前腕を回外、手関節を屈曲させ斜め前方に投げた後相手を腹這いにさせ抑える。
- 回転投げ:相手の腕を持ち、大きく上から前、前から下に回し、その勢いで相手の頭を下げさせる。頭が下がったときに、反対の掌で頭部を押さえ、回した腕をそのまま下、後ろ、上と動かし、腕を垂直に立て、肩関節を極めて、前方に崩し投げる。相手の腕が大きく回ることから「回転」の名が付いたと言われる。
- 一教:相手の腕を取り肘関節を可動限界まで伸展させ相手を腹這いにさせ抑える。
- 二教:相手の手首を取り小手をひねり手関節を屈曲、前腕を回内、肘関節を屈曲、肩関節を外転させひざまづかせた後腹這いにさせ抑える。
- 三教:相手の手首を取り体を回転させながらひねり上げて前腕を回内、肘関節を90°屈曲、肩関節を外転内旋させ爪先立ちにさせた後腹這いにさせ抑える。
(その他の主な技:四教、五教、六教(肘固め)、天地投げ、腰投げ、十字絡み、隅落し、呼吸投げ、合気投げ、合気落し 等)
(以上の技は最大公約数的なものであり、流派や道場によって細部は異なる。同じ技が別の名で呼ばれること、別の技が同じ名で呼ばれることも少なくない。)
[編集] 技の呼称
合気道の技は相手の攻撃に対して投げ技・もしくは固め技にて応じるのが基本である。技の呼称は「技開始時の受け手・捕り手の位置的関係」または「技開始時の受け手の攻撃形態」に「上記の固有技名」を組み合わせる。
例えば、受け手が右手で捕り手の右手首を掴んだ状態を「片手交差取り」、「斜め片手取り」または「相半身片手取り」という。受け手が手刀を捕り手前額面の真上から振り下ろす攻撃形態を「正面打ち」といい、それぞれの状態から上記いずれの技も派生し得る。
例:
- 正面打ち+小手返し
- 片手交差取り+呼吸投げ
など
[編集] 合気と呼吸力
「合気」と「呼吸力」は合気道技法の原理であると同時に、合気道の重要な理念とされる概念。 [13]
「合気」は日本古来の武術用語であり、元々は力や構えなどが拮抗した状態を差す言葉であったが、近年、大東流や合気道での使用法の影響で、特に素手の武術、武道において相手の力に力で対抗せず、相手の“気”(攻撃の意志、タイミング、力のベクトルなどを含む)に自らの「“気”を合わせ」相手の攻撃を無力化させるような技法群やその原理を指すようになった(剣道や古来よりの武器術では元来の意味で使われる) 。合気道においては上記の意味合いも踏まえ、そこから更に推し進めて「他者と争わず、自然や宇宙の法則(=“気”)に和合することによって理想の境地を実現する」といった精神理念を表すものになった。(盛平は「合氣とは愛なり」と語っている。)
「呼吸力」は盛平が自らの武道を確立する過程で生み出した造語であり、「合気」を盛平独自の主観を通して表現したものである。 合気道における「合気」が主に理念的な意味で用いられるのに対し、「呼吸力」は主に「技法の源になる力」という意味合いで用いられる。 この「呼吸力」が具体的に何の力を指しているかについては、様々な言説がある。盛平は弟子達に合気道の理念、理合を説明する際、神道の用語を借りる場合が多く、神秘的・抽象的な表現であったため後代様々な解釈を生みだした。例えば「呼吸(筋)の力である」「“気”の力である」「実際の呼吸のように自然で無意識的な力の使い方である」「全身の力を統一したものである」など、意見は多岐に分かれる。[14]
合気・呼吸力について、小柄な老人がわずかな動きで屈強な大男を幾人も手玉にとり簡単に投げ飛ばしたり押さえ込んでしまう不思議な技、というイメージが一般的に流布し、しばしば怪しげなものとして疑われることも多い。 合気・呼吸力を具体的な技法原理として解明するために、脱力・体重利用・重心移動・腹腰部深層筋・梃子の原理・錯覚や反射の利用・心理操作など様々な側面から説明が試みられているが、実証科学的な研究はまだ充分とは言えない。また、合気道の合気と大東流など他武術の合気が同一か異なるものかについても意見が分かれる。ただし
- 「脱力」が合気や呼吸力を発揮する条件であること
- 姿勢や呼吸の重視
- 「臍下丹田」の意識を重視する
などの点において、各派の意見に共通性が見られる。
[編集] 合気道の武器術
合気道の武器術については、師範により下のように見解が分かれている。
- 合気道の体術に剣術や杖術の理合が含まれている。(あえて剣術や杖術を修練する必要がない)
- 体術のみでは不十分で剣術や杖術などの武器術も修練する必要がある。(「合気剣」や「合気杖」を修練する師範と、他流の剣術や杖術の形を合気道の理合で解釈して修練する師範に分かれる)
植芝盛平は岩間にて斉藤守弘と武器術の研究をし、斉藤が盛平の武器技を整理した合気剣と合気杖については、これを合気道の武器術と位置付ける師範と、合気剣と合気杖は斉藤の解釈が加わっているとして認めない師範とに分かれる。
[編集] 演武会
試合を行わない合気道では、各自の技量の向上と世間一般への普及を目的として演武会が開催される。演武とは予め決めた技を順番に演ずることで、同じ技であっても激しく叩きつけるように演ずる者、静かに淡々と演ずる者など個性が現れる。現在のように大勢の演武者が一堂に会して行うようになったのは戦後、植芝吉祥丸2代目道主からである。吉祥丸が合気道の普及に乗り出し、デパートの屋上で演武会を行うと知った盛平は非常に反発した。それまでの演武とは盛平が演武することであって、未熟な者が人前でその技を披露することなど考えられなかった。結局は吉祥丸に押し切られる形で演武会が開催され、現在では各会派が定期的に演武会を開催している。中でも(財)合気会が日本武道館で毎年行う「全日本合気道演武大会」は国内最大規模の演武会である。
[編集] 他武道・他武術との関係
[編集] 大東流合気柔術との相違点
技法や稽古法等は大東流合気柔術をほぼ継承している。大東流合気柔術、合気道ともに円の動きで技を掛けるが、大東流に比べ、合気道はより大きな円の動きで技を掛ける。これは、盛平の修行によって至った結論と思われる。 大東流は直線的、合気道は円の動きと分類する向きもあるが、稽古の段階により、あるいは技の種類によって合気道でも直線的でなければならない技もあり、大東流でも円転しなければ使えない技もあるので、はっきりどちらがどうであるとは言い切れない。
技術的には、合気道を大東流合気柔術の一会派とみなして、大東流合気柔術植芝伝と呼ぶ向きもある。事実、大東流合気柔術には多彩な会派があり、合気道がその中の一会派だという見解も成り立ちうる。しかし、大東流合気柔術と合気道で最も鮮明な相違は、武道の目的と意味をどう位置づけるかという思想性だと考えられる。
盛平伝承の合気道は、剣杖など武器による武術を豊富に伝えていながら、古来の武術と一線を画して、万有愛護と宇宙の生成に寄与するためという意識が強い。これは、大本の合気武道時代からのものと考えられ、親英体道にも同様の思想性が見られる。大東流では多く伝わる逆関節技や、足による踏み技・固め技など、荒々しい技の殆どが合気道で省かれているのも、この思想性によると考えられる。
[編集] 柔道との交流
講道館柔道創始者・嘉納治五郎は盛平の道場を訪れた事があり[15]、その技に魅了された嘉納は望月稔、村重有利、杉野嘉男ら講道館の高段者数名に合気道の修行をさせており、合気道と講道館柔道との間で比較的盛んに交流が行われていた。 盛平の有力な弟子であった富木謙治、塩田剛三らも、盛平に入門する前は柔道の有段者であった。特に、富木や望月は盛平の高弟となってからも柔道家としての活動もおこなっており、その理念には合気道・柔道双方の影響がみられる。
[編集] 剣道との交流
盛平は剣術の研究のために、自らの道場「皇武館」で剣道の指導を行わせた。実際の指導は、親交のあった中山博道(神道無念流)の3人の高弟で「有信館の三羽烏」と呼ばれた中倉清(当時は盛平の婿養子)、羽賀準一、中島五郎蔵が行った。
[編集] 健康法としての合気道
合気会系の道場では一般的に、稽古の始まりに盛平の考案による「合気体操」と呼ばれる鍛錬法を行うのが慣例となっている。身体各部の柔軟など稽古前の準備運動としての性格もあるが、「鳥船」「振魂」など神道の禊の行法の一部も取り入れられており、これ単独で“気の鍛錬”・“呼吸力の鍛錬”に効果があるとされる。また(財)合気会の理事であった西勝造の「西式健康法」も取り入れられている。
合気道を一般に普及する上で「健康体操」「レクリエーション」という宣伝も多くなされた。
- 合気道の稽古は、技を左右同じ動きで同回数繰り返すため、左右の身体の歪みを取る効果がある。
- 受身で畳の上を転がることにより血行を促す。また受身の習得で転倒による怪我をしにくくなる。
- 関節技にかかることでストレッチ効果を得られ、五十肩などの予防になる。
- 試合がないため過剰な稽古をする必要が無く、年齢体力に応じて自然に足腰の鍛練ができる。
盛平自身、折りあるごとに、「合気道は適度な運動で血行を改善し、骨格を矯正し、体内の“気”の流れを整えることで身体の“穢れ”をはらう“禊ぎ”である」…等と独自の宗教的表現で、合気道の健康効果について述べている。宗教的な儀式性と健康法を結びつけ、それを稽古の目的の一つとしていることも、他の武道には余り見られないユニークな点である。
[編集] 「護身術」としての有効性に関する議論
通常の筋力や腕力に頼らず相手を制する武道であるということから、「非力な女性の護身術としても有効」と喧伝されてきており、そのように認識している人も少なくないが、現在その点に関し疑問を呈する声もある。
否定的な意見の根拠としては、
- 日常の稽古形式が形稽古に終始している道場が大多数である。型稽古とは、技をかける方(取り)、かけられる方(受け)を予め決めておき、互いにある程度わかった動きを行う稽古法である。この稽古のときは、受けは本気でこらえることはせず、むしろかけられやすいように動く。返し技(受けが最初に攻撃し、取りがそれを捌きかける技)の練習のときは、受けの最初の攻撃は前もって決まっている。そのように、相手が抵抗しない、相手の攻撃は前もってわかっている稽古だけで、実際の自由な攻防(相手は抵抗する、相手の攻撃はわからない)への対応力が養えているか疑問。
- また、これに関係して、合気道が力を必要としないのは、「稽古では相手が抵抗しない型稽古しか行わないから、普段の稽古では力を必要としない、力で劣る人もできる」という意味であり、「護身術・武術として考えたときに合気道のテクニックが優れており、力を使わずとも相手を投げる・固める・制することが出来る」という意味ではない、という意見もある。
- またその形稽古の技法が「片手取り」(攻撃者が相手の手首を掴みに来る)「正面打ち」(攻撃者が手刀を振りかぶって打って来る)など、現代の現実の格闘場面では考え難い攻撃法に対処する形になっている(これは合気道の元になった古流柔術が帯刀を前提とした時代のものであり、「抜刀しようと刀の柄に掛けた手を押さえる→片手取り」「刀で斬り掛かって来る→正面打ち」などの場面を想定した稽古法であったことに由来すると言われている)
- 加えて、合気道の型稽古の技法では、「受けは、多少不利な体勢になってもつかんだ手を離さない」や「受けは背中側をとられたら前足を軸に振り向いて相手についていく」や「多少崩れたら、普通に耐えられそうでも受身を取る、(投げられる)」というように、現代の現実の格闘場面では考え難い前提が存在している。(これも、「手を離さない→刀を押さえているから離すと絶対不利」「前足を軸に振り向いてついていく→刀を持っていると前体重だから軸は前足、刀相手に中途半端な距離をとると絶対不利」「崩れたら受身→刀相手に体勢を立て直そうともたつくよりは、受身で大きく間合いを取るほうがいい」というような理由がある、といわれている。)
- 実際に筋力・腕力に頼らず相手を制する技術は、とても高度で難しいものであるとが予想できるが、高度で難しい技術の習得には多くの時間を要することが通常であり、社会が護身術に期待する速習速成という要求に応えられない。
などがあり、合気道をそのまま一般的な護身術として考えることに疑義を呈する。
一方、日本合気道協会(富木流)では主に対短刀を想定した乱取り稽古を行っており、刃物に対する護身術として理解されている。乱取り稽古を行わない会派では、養神館合気道や岩間神信合氣修練会が積極的に護身術としての合気道を指導している。これ以外にも独自に護身術としての合気道の可能性を研究する合気道家や独立会派も複数有り、総合格闘技や空手の中に合気道と共通の技や捌きが見られることから、護身術としての有用性を見出す意見もある。
[編集] 主な会派
※独立年次順、「組織名(流儀名・通称);独立年~,創設者」
- 財団法人 合気会 (「合気道」); 1940年~(「財団法人 皇武会」→1948年~「財団法人 合気会」),植芝盛平
- 合気道創始者・植芝盛平の興した合気道界の最大会派。合気道人口の8割を占めると言われる。
- 財団法人 合気道養神会(「養神館合気道」) ; 1956年~,塩田剛三
- 盛平の高弟・塩田剛三が設立。「実戦合気道」を標榜、警視庁機動隊の必修科目として現在も指導が行われている。
- 養正館 (「養正館合気道」); 1963年~,望月稔
- 盛平の高弟・望月稔が設立。合気道に柔道や空手などの要素を取り入れた。(※養正館は現在合気道から独立した新武道「養正館武道」を標榜。2000年に「武道正風会」が「養正館合気道」を受け継ぐとして養正館から独立。)
- NPO法人 日本合気道協会(「昭道館合気道」「富木流」) ; 1974年~,富木謙治
- 盛平の高弟・富木謙治が設立。柔道を参考に乱取り稽古や試合を取り入れ、大学合気道などの一部で普及。
- NPO法人 岩間神信合氣修練会 (「岩間流合気道」「岩間スタイル」); 2004年~,斉藤仁弘
- 盛平の高弟・故斉藤守弘の息子である斉藤仁弘が設立。「合気剣・合気杖」など盛平晩年の合気道を伝えているとされており、海外にも影響力を持つ。
[編集] 「合気道」の名称について
今日「合気道」と言えば、一般的には植芝盛平の興した合気道を指すが、実は「合気道」の名を用いたのは盛平が最初ではなく、これとは別系統の「合気道」が存在する。またその他にも、“合気系武道(・武術)”全般を漠然と指し示す普通名詞としての一面がある。
[編集] 「合気道」の初出と命名
[編集] 大日本武徳会合気道
昭和17年(1942年)、戦時下において武道界を統制する政府の外郭団体・大日本武徳会に設置された「合気道部」と、“総合武術”(体術・剣術などを総合的に扱う武術)として制定された「大日本武徳会合気道」がこの名称の初出とされる。
当時盛平は大日本武徳会から総合武術部門設立についての協力要請を受けたが、これに対し皇武館道場の「総務」であった平井稔を推薦し、平井は大日本武徳会の幹事に就任、合気道部の運営に当たった。 戦後の昭和20年(1945年)、平井は大日本武徳会合気道を受け継ぐとして「光輪洞合気道」を興すが、植芝流とは別系統としている。
[編集] 植芝「合気道」の出発
盛平が「合気道」の名称を用い出したのは昭和23年(1948年)、(財)合気会発足からである(それ以前は「合気武道」「大日本旭流柔術」等と称していた)。「合気道」を名乗った経緯について、盛平は生前マスコミのインタビューの中で、当時の文部省にいた人物に勧められたからであったと語っている。[16]
[編集] 植芝系以外の主な合気道
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 盛平の小柄な体躯…ただし非常に筋肉は逞しく、怪力の持ち主で、体重は壮年期でも80㎏を超えたという
- ^ 試合がない…スポーツのレクリエーションスポーツに分類される。
- ^ 試合を行う会派…ただし(財)合気会に属する有力会派である「大阪武育会」では、形演武を審査する形式の試合が行われている。
- ^ 袴…道場によっては、女子は三級からでも袴の着用が許される場合がある。これは稽古中に女性の身体の線が袴によって隠れるよう盛平が気遣ったためと伝わっている。
- ^ 盛平の精神世界への志向性…盛平は戦前大本の出口王仁三郎に師事し多大な影響を受けた。また青年時代故郷の和歌山で南方熊楠に出会い神社合祀反対運動に取り組んだことや、戦時中茨城県岩間町(現・笠間市)に合氣神社を創建するなど神道への親しみが深く、『古事記』や神道用語を用いて合気道の技や理念を語った。盛平は自らの武道を「禊ぎ」「神楽舞」などと表現している。
- ^ 攻撃と防御…先に自ら打って相手の攻撃を誘う場合もある。
- ^ 入身…相手の死角に直線的に踏み込んで行く体捌き。
- ^ 転換…相手に近い側の足を軸に水平方向に180度背転、相手の攻撃ベクトルを相手と同方向を向くことによって流し無力化する体捌き。
- ^ 接触点…なお技に熟達すると、直接相手に触れずに、相手の攻撃のタイミングや勢いを利用し導き崩す場合もある。
- ^ 乱捕り…ただし柔道とも関係の強い日本合気道協会のみ早くから乱取り稽古を取り入れている。
- ^ 打撃…合気道の体捌きは常に敵の急所にいつでも打撃を加えこれを制する可能性を持つ(あるいは、関節技の動きの中に当身の理合が隠されている)と言われている(「実戦では当身が七分で技(投げ)三分」という植芝・塩田剛三の言葉も残されている。)
- ^ 四方投げ…この時投げる方向や、相手の腕の角度によっては、筋肉や関節を痛めるため、基本的な技の中では一番注意が必要と言える。
- ^ 合気道の重要な理念…このほかに合気や呼吸力ほど一般には知られていないが、盛平が理念や境地を表すのに使用した言葉は、正勝吾勝、勝速日、あわせ、入身転換、剛柔流気、○△□、半身、一重身、喧嘩腰、武産合気、水火の結び、一霊四魂三元八力など数多くある。
- ^ 呼吸力…なお盛平の著書では、呼吸とは呼吸活動を指すのではなく、呼と吸のような相反する二つの物から生み出される力といった意味合いで語っている場合が多い。また、盛平が戦後過ごした岩間の門弟の間では、呼吸力とは諸手取り呼吸法に代表される、強く捕まれた状態から手刀を立てる動作の際などに用いられる力として語られ、「呼吸力の無い合気道は力の無い相撲のようなもの」などと言われる。
- ^ 嘉納治五郎の訪問…この時嘉納は盛平の技を見て思わず「私の求めていた物はこれだ!!」と叫んだという。
- ^ 「合気道」を名乗った経緯…( 参考;「植芝盛平と合気道〈1〉」ISBN 978-4900586819)
- ^ 通称としての「合気道」…(例;「合気道教室(大東流合気柔術)」、「合気道・居合道」、「○○女性合気道教室」「□□合気道倶楽部」)
[編集] 外部リンク
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