二木謙三

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カイゼル鬚に和服姿の二木
長男の順益(5歳)をあやす二木(自宅)
二木謙三と妻イヨ
秋田市土手長町にあった二木の生家
二木の留学で妻子が預けられた秋田の樋口家
平田内蔵吉編『国民体育』題序

二木 謙三(ふたき けんぞう、1873年明治6年)1月10日 - 1966年昭和41年)4月27日)は、秋田県秋田市千秋明徳町、樋口順泰の二男として出生、二木家の養子となる。明治26年の秋に中学校を卒業。山口高校を経て、東京帝国大学医学部卒業し、東京市立駒込病院に勤務。36年赤痢菌「駒込A、B菌」を分離する。38年ドイツに留学し、ミュンヘン大学グルーバー教授に師事。42年駒込病院副院長、東大講師、医学博士、大正3年東大助教授、4年高木逸磨等と共に「鼠咬症(そこうしょう)スピロヘータ」発見。8年駒込病院長、10年東大教授兼任。昭和4年学士院賞受賞、日本医科大学、東京歯科医専、日本女子大学などの教授又は管理職となる。26年日本学士院会員、日本伝染病学会(現・日本感染症学会)長。30年文化勲章授与。41年93歳で没す。天然免疫学理の証明などの実績を遺し、玄米食の提唱、実践運動や教育者としても多くの功績を残した。日本の医学界の重鎮であったと同時に、民間療法一般に理解があった。ノーベル生理学・医学賞の候補になったとも言われる[1]歴史学者國學院大學名誉教授、日本中世史(戦国史)が専門で有職故実研究の第一人者として知られる二木謙一の祖父。

生涯[編集]

  • 1873年(明治6年)1月、秋田県秋田市土手長町(現在の千秋明徳町、秋田警察署の辺り、旧小野岡邸隣)で生れた。父樋口順泰、母ヱイの子供、男4人、女3人の二男であった。父は「倹蔵」と命名したが、いつのことか戸籍係が「謙三」と誤記、それがそのままになったと、後年、本人が語っている。樋口家は代々医家。秋田藩主佐竹候の御典医を務めた家柄で、父の順泰は江戸の浅田宗伯に学んだ漢方医。浅田塾では塾頭になったという秀才で、秋田藩の医学館七部書会頭も務めた。維新後は町医者として生計を立てていたが、貧しい患者には薬といっしょに食物も与えたという話が残されている[2]
  • 1876年(明治9年)二男に生れたことから、二木家へ養子に出された。二木家は土崎港にあったが、樋口家とは跡継ぎがないとき、互いに養子を出す特別の親類だった。この時、二木家は謙三の養母となるキヨだけで、樋口家の二男誕生を待っていたと思われる。二木家も代々医師だったというが、詳細を伝える記録は見つからない。謙三が実際に養母と暮らしたのは何歳からどのくらいの期間なのかー謙三の生涯で最もナゾの深い部分である[3]
  • 1878年(明治11年)5歳の時、生家から漢学者稲川直清(1823年ー1891年)の塾に通っていた。その後は病弱で、医師であった父の下で暮らしたと考えるのが自然。また逆に、3歳以前では、生家の方角が分かり、そこへ帰る知恵があるはずもない。体力的にも無理だろう。謙三は生家で暮らすようになった。しかし、父のしつけは厳しかった。養子に出すと決まっていただけに、きちんとした教育を心掛けたのであろう。父樋口順泰はそういう人だった。しかし、この父が謙三に直接教えることはなかった。そればかりか、膝に乗せることもしなかった。父子ながら、距離を保ち、勉強するように説き、よき師として稲川直清を選び、通わせるだけだった[4]
  • 1882年(明治15年)謙三が小学校に入学したのは9歳の時である、6歳入学が原則ではあった。学校は今の秋田市立明徳小学校の前身であるが記録が残っていない。翌16年、公立明徳小学校となって、広小路(旧高裁の西側)に校舎ができた。当時、小学校は8年制だったが、謙三は6年間在籍し、明治21年に卒業、その後、中学校に進んだ。小学校時代は、年中、体のどこかに湿疹が出ていた。それがもとで、しばしば急性腎臓炎を起こし、体がむくんだ。胃腸も弱く、いつも青白い顔をしていた。おまけに痔も病んで、動作に子供独特の機敏さがなかった。幼い時からの漢字の勉強と、天性の素質のよさで、成績は群を抜いてはいたが、それだけにかえって子供らしさに欠ける、そんな少年だった。漢方医の父順泰は、母ヱイに対して、「この子は20歳まで生きられるのだろうか?」と嘆いていたといわれる[5]
  • 1885年(明治18年)12歳の5月、正式に二木家に入籍、その年の9月、家督相続して二木家の戸主となった。しかし、生家と同じ地番に新戸籍をたてた。つまり、「二木」の名前を継いだが、養家に入って養母と生活することはしなかった。樋口、二木両家の間で、そんな取決めが成立したのだろう。養母キヨは、その後、北海道に渡り、大正9年秋、小樽で死亡した。78歳だったという。生前、謙三と接触があった形跡はない[6]
  • 1888年(明治21年)5月、入学した中学校は秋田県立尋常中学校。今の秋田高校である。本県唯一の中学校で、在籍は5年間。虚弱体質は改まらず、年中病気がちではあったが、極めて勉強好きな生徒だった。この中で、謙三は在学中から級友らに一目置かれる存在だった。当時流行だったらしいストライキに絡んだエピソードがいくつか残っている。謙三が5年生だったが、ストライキ騒動が起こって事が大きくなろうとした時、生徒を集めて師弟の道を説く大演説を行い、ついにストライキをやめさせたことがあった[7]
  • 1893年(明治26年)3月25日、尋常中学校を卒業した、現在の秋田高校に卒業証書番号簿が残っている。第六回卒業生で、その顔触れはまさに多士済々というべきであろう。『秋高百年史』には二木を最初に紹介した後に、こう記述している。二木謙三、かつての東洋拓殖会社総裁佐々木駒之助、本校出身最初の将官、陸軍少将の長嶺俊之助、大衆医療に貢献した森田資孝ら。尋常中学を出て、仙台の高等中学校に進むのだが、それまでの間に、二木の人生にとって特筆すべき一つの事件が起こった。それは徴兵検査不合格事件である。二木にとって最大の屈辱であったが、同時に虚弱体質に決別する一大転機とのなったのである。二木は、検査官に厳しくしかられ、「健康になりたい」という一心が、理屈を考えるよりまず実験となったのか。検査官の体験的健康管理法にも説得力があったのであろう。母ヱイに頼んで特別食を作ってもらった。家族がごちそうを食べるときでも、二木は麦飯に野菜だけ。いくばくもなくして、年中、体中に出ていた湿疹がケロリとなくなった、腎臓炎も治った。二木は食事療法の効果を強く確信したはずだ[8]
  • 1894年(明治27年)、二木は帝国大学進学者のための三年生の大学予科である山口高校に編入が決まった。交通機関が発達した現在でも、秋田ー山口間は簡単には往来できない。この当時は完全に三日を要する遠隔地であった。折りしも明治27年8月、日清戦争が始まったが、二木は学問一筋を通して、戦争にはほとんど感心を示さなかった。山口に移って、最初は下宿をした。二木は既に素食、少食の食事療法を完全に身に着けていた。父が自分の家の生活を切り詰め、貧しい人たちの救済活動に尽くしていたことに深く尊敬していたし、養子に出た者として、生家に頼ってばかりはおられないという自覚もあったろう。少年のころから、倹約を身に着け、衣類は自分で針を持ち、つぎを当てるようになっていた。[9]
  • 1895年(明治28年)春、二木は山口高校の教頭・北条時敬の家に、半ば強引に入り込んだ。二木はこのころ既に北条に心酔していて「身近で暮らし直接教えを受けたい」と考えていたと思えるのである。北条とはどんな人物なのか、教え子の一人哲学者・西田幾多郎は「先生は計り知れない様な深い大きいものがあり、非常に厳格な様で、その奥にどこかまた非常に暖かいもののある人でした。」哲人をもってしても容易に表現出来ないほどのスケールの大きな人であった[10]
  • 1897年(明治30年)秋、山口高校を卒業した二木は、そのまま東京帝国大学に進んだ。二木は24歳であった。北条家を去る際、師・北条時敬は二木に寄宿すべき人物を紹介した。織田小覚がその人である。旧加賀藩士で、当時は内務官僚だった。東京・牛込若宮町に屋敷を構えていたが、若いころ肺結核を病み、独身を通していた。確斎と号して漢字、国学をよくした。後に旧藩主前田家に招かれ、侯爵前田利為の教育係を務めた。蔵書家の研究者としても著名だった。北条にとって、まな弟子の二木を預けるには織田以外に考えられなかったのであろう。二木もまた、織田家に入って、その感化を強く受けた。幼少時から学んでいた漢学に磨きをかけ、尋常中学当時からの国学を自分のものとした。高等中学校のころから興味を持っていた禅を体系的に勉強したのもこのころだ。織田の蔵書が二木の知識欲を満たしてくれたことも疑いない。人脈も織田を通じて広がっていく、後の首相、駆蜜院議長の平沼騏一郎が織田の隣人。謡曲をともに趣味として、織田家とは渡り廊下でつないでいたというほどの仲[11]
  • 1899年(明治32年)頃、二木は大学の講義に熱意をしめさなかったという。最大の理由は、二木の反骨精神によるもので、当時の医学教育が「洋方偏重」であったことに対する反発だったと思える。それゆえに二木は講義では決して教えない漢方を、織田小覚の蔵書を師に猛勉強していた。講義に熱を入れなかったということは、講義にだけ熱中すると、道を踏み違えると思ったのだ。講義に熱を入れなかったと言いながら、二木の保健学に、西洋医学の長所は巧みにとり入れられている。ベルツは「日本人特有体質論」とでもいうべき説を主張しているが、これが二木の保健学と極めてよく共通している。何よりも、級友たちから論客と呼ばれ、学問的にも一目置かれていた。この時期、すっかり禅に凝っていて、しばしば参禅している。熱中しなければならないものが、あまりにも多かった。そして決定的な理由は、このころ、つまり大学在学中に、とある娘に恋をした。そして婚約にまで持込んだ[12]
  • 1900年(明治33年)、秋田市の小学校当時から終始、二木と同級だった人がいる。遠山景精である。二木より年齢が二つ下だが、頭脳明晰で勉強ではライバルであった。二木が個性的で一匹狼的存在だったため、親友という程の仲ではなかったが、常に二木を兄貴格にして付き合った。遠山家は神田駿河台に居を構えていた。遠山家に同級生らが集まるのは自然であろう。その遠山家には長女キヨ、景精の妹がいて、二木とは七つ違いだから、二木が東大に入学した年は17歳。女学生で、におうばかりの娘盛りであった。二木はキヨに恋した。級友らに論客といわれていた二木だが、恋の道だけは違うと見えて、キヨには恋文(漢文の結婚申込書)で結婚を申し入れた。やがて婚約が整い、二木が大学を卒業するのを待って結婚式を挙げることに決まった[13]
  • 1900年(明治33年)10月5日、生母・樋口エイが死去した。享年53歳。
  • 1901年(明治34年)12月、東京帝国大学を卒業、東京市立駒込病院(現在は都立の総合病院)に就職、二木ら卒業の年に、当時の東京市が常設の伝染病専門病院として開院した。木造建築ながら、大身の武家の屋敷を思わせる門や玄関を持つ堂々たる建物で、収容力も当時としては大きく70床はあった。新装開院を機会に帝大出の医学士を採用、医療の充実を図ることになった。当時、伝染病は最も恐ろしい病気だとされていた。今の癌以上のものだったと言っても過言ではあるまい。だが、学問的にはほとんど未知の分野。大学でも講義がなかったのである。だから、駒込病院が医学士採用を決めても、希望者がいなかった。二木に続いて親友の大滝潤家横田利三郎が志願、医局入りした。二木らの医局入りで、駒込病院はわが国の伝染病研究の中心となる。年々重みを増して、この病院の歴史が、そのまま日本の伝染病克服の歴史となっていく。就任早々、連夜、深更まで居残って顕微鏡をのぞいた。その熱心さに石油ランプの灯油代がかさんで、病院の事務長から早々の帰宅を申込まれる一幕もあった[14]
  • 1902年(明治35年)春、旧秋田藩士弥三郎の長男・遠山景精の長女キヨと結婚した。
  • 1902年(明治35年)頃、二木は東京市立駒込病院の勤務医となったのを機に、ひげをたてた。カイゼルひげである。カイゼルつまりドイツ皇帝のウィルヘルム二世が立てて評判となり、世界的に流行したという例の左右両端がはねあがったひげである。小柄で、体格的には貫禄不足であったが、ひげがそれを補った。二木のひげは威厳の象徴でもあったが、それよりもむしろ、親しみの対象だったという感じが強い。ひげは二木が腹式呼吸玄米食運動を進める上でも宣伝効果があり、なかなか役に立ったようだ。各地で講演した後、新聞にひげがピンとはねた写真が載ると、それがまた「ひげ先生の保健法」と評判になったものだと言う。ひげとともに二木のもう一つの看板は黒いモーニングコートであった。冬は当然、真夏でも同じ冬物のコートを着用、年中服装を変えることがなかった[15]
  • 1902年(明治35年)6月26日、午後4時頃、東京市立駒込病院に一人の患者が担ぎこまれた。名前は竹内某、64歳の男性であった。この患者は、担ぎ込まれてから1時間20分後、死亡してしまった。コレラ事件の幕開きである。この事件によって二木は細菌学者として名を知られることになる。コレラ事件とはー。当時の日本細菌学会界を二分して、いわゆる「コレラ竹内菌」が存在するかどうかが争われた事件である。このとき、北里柴三郎が、私立の伝染病研究所を設立していて、細菌学に関する限り、東大と対抗、というよりは、むしろそれをしのぐ勢力になっていた。駒込病院に担ぎ込まれた患者竹内某の死因究明についても、両者が巧名争いを演じた。死亡から5日目、北里側の伝染病研究所が内務省を通じて、「患者の便からコッホ氏コレラ菌を分離した」と発表した。一方、東大側ではその直後に、内務省の中央衛生会で、「コッホ氏コレラ菌ではない別種の細菌を検出」と発表した。双方が、それぞれの研究方法を非難し合って、延々と論争が続いた。この論争に決着をつけたのが二木である。大学を卒業して1年足らずの二木が、東大側が主張するように、コッホ菌とは別種の菌であることを立証したのである。細菌の鑑別には疑集反応と呼ばれる方法が取られる。それには馬の免疫血清が用いられていたが、これだけによる検査ではコッホ氏コレラ菌も竹内菌も区別ができない。二木はそれを兎の免疫血清で検査し、相違を明確に証明した。二木はこれを基に、コレラ病原菌多種説を立てた[16]
  • 1902年(明治35年)12月24日、東京でペスト患者第一号が発生した。日本上陸第一号は明治32年に広島で出た。直後に、大阪でも患者があった。さらに東京侵入の三カ月前、横浜でも患者が出た。この時は当局が拡大を恐れて、患者の住居など20戸を焼却している。東京侵入はもはや避け難い情勢で、東京市は明治35年9月10日付をもって、駒込病院に「ペストの発生に備えた体制づくり」を指示している。これに基づき、同院は横田利三郎、二木、大滝潤家の3人を中心にプロジェクトチームを編成、患者が発生したら、閉鎖している本所病院に隔離することなどを決めていた。患者発生の一報がもたらされたのはこうした状況下においてであった。患者は紡績工場の女工たち。紡績工場にはインドから綿が輸入されていて、その中に紛れ込んできたネズミがペストをまき散らかしたものだ。12月24日夜のことであった。折りしも駒込病院は職員の忘年会があり、その席上に連絡された。その日の当直医は二木。医局日誌にそれを次のように記している。「飛報あり、本所のある工場に『ペスト』擬似患者二名生ずと。宴終わるころに至りて一同武者振るいをなす。医院一同駒込病院に宿直す。東京市との電話のたゆることなく戦雲たなびき、前途多難なり」。二木らの緊張の様子がよく分かる。駒込病院では、直ちに本所病院を開院、翌25日、臨時病院長に決まった横田が到着すると、玄関の土間に4人が運ばれていて、1人は既に死亡していた[17]
  • 1903年(明治36年)1月5日、本所病院の診療活動は極めてハードなものとなった。この超過密な勤務状態が大きな不幸を招いたのであろう。横田の一瞬の油断が大事件となった。患者を手術中の横田が、そのはねた血を右の目に受けて感染し、帰らぬ人となってしまったのである。そのときの模様は『駒込病院百年史』に詳しい。1月5日、運命のペスト患者が入院した。リンパ腺が腫れとう病が激しかったので、石油灯の下にろうそくを灯して切開したところ、血管から血液が飛散し、たまたま予防眼鏡を外した横田学士の顔にはね掛った。その場で消毒を入念に行ったはずだったが、7日から発熱、右目、右耳、あごの腫れがひどく、強い痛みを訴えた。病院挙げての看病も空しく15日午前5時死去せられた。横田は二木と東大で同級、親友であった。大滝潤家と3人で一緒に駒込病院に入った仲である。横田が倒れてからは、二木が余人を遠ざけて一人で付き添った。後日、二木は「横田が夜になると暴れるのです。右の目の下のところ(手術の)に傷があって、そこからコレラ菌が出ているわけだから、看護婦に看護をさせることは出来ない。私が押さえながら看病したのです。だんだん心臓が弱って、そして死んだのですね。横田は結婚したばかりで、奥さんは妊娠していた」。このペスト騒動での患者は横田を加えて13人を数え、うち8人が死亡した。横田の葬儀は東大が大学葬をもって報いた。また、東大の級友らが胸像を造って、霊をなぐさめたが、その銘文は二木が書いた[18]
  • 1903年(明治36年)11月18日、長男順益が誕生した、名付け親は二木の師・織田小覚である。新婚の二人は二木の寄宿先、織田小覚邸の2階で新しい生活を始めたが、間もなく、駒込病院の近くの浅嘉町に古い茅葺屋根の手ごろな一軒屋を見付けて移転し、病院での診療と、研究に没頭することができるようになった。後に、二木の二女アツが言ったことだが、父の成功の陰には母の内助の功があったからですと。アツによると、二木はイヨにしばしば癇癪(かんしゃく)を起こしていた。研究に没頭して、真夜中の2時、3時が普通だったが、何時に帰っても、さっと温かい食事を出さないと、食膳を蹴飛ばしてしまう。子供の泣き声が嫌いで、「オギャー」と一声でも聞こえれば、癇癪を爆発させた。こうした二木にイヨは愚痴をいうこともなく仕えた。むずかる幼子を背負って深夜の町に出て、二木に安眠を取らせることが幾日も続いた。二木は典型的な亭主関白であった。「子供を抱くどころか名前すら忘れていると思うくらいで、家を間違えずに帰って来たのが不思議なほどだった」(アツの話)という[19]
  • 1903年(明治36年)この頃の駒込病院は「東大細菌学研究室」としての役割を担っていたし、患者の検査なども、今のようにシステム化されておらず、医師が診療の合間をみてやっていたのであるから、多忙であったというのは理解できよう。この劣悪な条件の中で二木は赤痢の診療に大きく貢献する貴重な発見と研究をした。現在では、「赤痢」といえば細菌性赤痢アメーバ赤痢、それに疫痢を意味するものということで常識になっているが、当時はまだ未解明の部分が多い伝染病であった。二木は先年のコレラ竹内菌発見の経験から、赤痢菌も病原菌が複数である可能性が強いという考えを抱き、その前提で徹底的に検査した。その結果、駒込病院の患者から新しい二種類の赤痢菌分離に成功した。これは多くの点で酷似していたが、患者血清に対する疑集反応やインドール反応などでその違いを明確に識別できた。二木は「駒込A菌」「駒込B菌」と命名した。同年夏、同病院に入院した赤痢患者49人中、35人について調べたところ、20人から駒込A菌、15人から駒込B菌が分離されたが、志賀菌はわずかにその中の1人から検出されただけだった。赤痢は100%志賀菌によって発病するとしていたそれまでの学説を完全に覆したのである[20]
  • 1904年(明治37年)本年は伝染病患者の発生が非常に多く、東京市は広尾病院を定員50名の予定で、8月3日に開院し、二木謙三が医長となった。この年は、腸チフス859人、赤痢425人、ジフテリア252人など伝染病患者の総計は1,565人と、開院以来の最多数を記録した。この状態の中で、二木は伝染病研究が、自分の一生を賭けるのに値する仕事であえることをハッキリと意識したと思われる。駒込に勤めて三年目。コレラ竹内菌、赤痢駒込菌の発見で、「やっていける」という自身も出てきたはずだ[21]
  • 1905年(明治38年)4月、二木は「この道の第一人者たらん」と、ドイツ留学を決意した。費用は実父の樋口順泰に援助を求めた。樋口家は長年漢方医として繁盛してきた。秋田市でも知られた資産家である。明治政府が漢方を完全に否定しており、順泰は医家樋口家の命脈を保つとすれば、二木家に養子に出したとはいえ、自分の息子に夢を託す以外に手はないと考えもしただろう。二木の申し出を快諾した。二木はドイツ、ミュンヘン大学のグルーバー教授につくことが決まった[22]
  • 1905年(明治38年)二木が与えられたテーマは「自然免疫学理の研究」であった。具体的には、ウサギやモルモットが脾(ひ)脱そ菌に侵されるのに、鶏や馬が侵されることがないのはなぜかを証明することであった。つまり生物が自然に持っている免疫を明らかにするための研究である。二木はこのテーマを与えられて感動した。毎日2時間眠るだけで、1日に22時間の研究を続け、2年半でとうとう研究を完成させた。本人はさほど苦痛に思っていたわけではなさそうで、「次々に新しい事実が分かってきて、面白くて仕方がなかった。寝食を忘れるほどに楽しかった」などと言った[23]
  • 1906年(明治39年)3月、二木の研究熱心さに打たれたグルーバー教授は二木を助手に任命した。これで二木は、大学への出入りや研究資材の自由な使用が認められていた。グルーバー教授は、二木の研究成果に最大級の評価を与えた。「研究は二木一人で成し遂げた」という証明書を添付したうえで、その研究論文をグルーバー・二木共著として世界に発表した。処女分野であっただけに、反響は大きく、多くの賛辞が寄せられた。二木の名は一躍世界に知れ渡った。現在なおも医学の基礎的学理としてその評価は変わっていない。これが帰国後、二木の学位取得論文となった。内容もさることながらグルーバーは二木の研究態度にも感動したのでだろう。後年、死にあたって、自分の研究論文の全てを二木に寄贈するように夫人に命じ、事実、届られている。二木を学問上の後継者と考えていたといってもいいだろう[24]
  • 1908年(明治41年)4月、二木は3年間のドイツ留学を終えて帰国した。二木は留学で、世界的に高く評価された研究を成し遂げ、意気揚々と帰国した。イスラエル、エジプトなどに旅行もしている。「当初、3年という計画で留学した。ところが2年半でそれを完成したので、残りを旅行に使ったわけです。」親しい人々に後でこう語っている。ドイツ留学の記念品は顕微鏡だった。当時の最高の、高価な顕微鏡で、二木はこれを戦災で消失するまで愛用した。帰国した二木は、秋田の生家・樋口家に預けていた妻子を引き取って、神田小川町に一戸を構えた。5月6日には駒込病院に正式に復職した[25]
  • 1909年(明治42年)4月1日、病院の服務規則の改定があり、新たに副院長制が設けられ、二木がそれに任じられた。このころ、二木はドイツでまとめた「自然免疫学理の研究」の論文を提出、学位を申請した。また、「血小板並びにその作用について」「複式呼吸並びに腹圧増進について」という論文も続けて発表している。「医学博士」の学位を受けたのは、この年10月18日であった。学位の受領に先立って二木は6月、母校東大の講師に任用された。それにより、二木は臨床医細菌学者であるとともに、教育者としての仕事もすることになり、二木の人生が幅を持つ[26]
  • 1909年(明治42年)二木がドイツ留学から帰った翌年、3度にわたって秋田魁新報に二木の保険法についての講和が掲載されている。1回目は2月18日から4回掲載で「精神的養成法肉体的養成法」と題したもの。2度目は10月1日から7回にわたった連載で「呼吸健康法」というテーマ。3回目は11月25日付の単発記事で「牛の結核」というものである。内容はいずれも一般人を対象とした健康管理に関する話で、具体例を引いて輸すように述べている。後年「保健学の二木」とも言われるようになるのだが、いわば本業の細菌学伝染病研究と並立させる形で保健法の普及や研究を始めたのはこのころからであった。二木の普及法は極めてユニークだった。二木は人形のほかにガラス細工で人体の循環器の模型を作り、赤く染めた液体を流して、腹圧を強めると血液が心臓にかえりやすいことを実検的に示したりもした。二木は、これをあちこちでやった。東大の講師で、しかもドイツ留学帰りの医学博士が、モーニング姿で、立派なカイゼル鬚(ひげ)をひねりながら講演するのである。評判にならないのがおかしい。たちまち東京中の人気となった[27]
  • 1910年(明治43年)6月、駒込病院副院長のまま、母校東大の講師兼務となった。二木の講座は、もとより「伝染病学」であった。二木の講義は教え子たちに評判がよかった。複式呼吸法の普及の際、その講演がユニークだったが、二木は教壇にたっても独自性を発揮した。何事につけてもアイデアの人であった。もともと二木は雄弁家で、医学会では「東の二木、西の佐多(愛彦)」といわれていたほど。講義が好評だったことも容易にうなずけよう。「細菌学者二木」「保健学の二木」に続いて、「教育者二木」の姿が浮かび上がってくる[28]
  • 1910年(明治43年)11月16日、二男・順福が誕生した。
秋田市手形字大沢の旧正洞院にある平田篤胤の墓碑
  • 1911年(明治44年)二木の講演を有志が聴講筆記して出版したとゆう冊子がある。それによると「秋田中学に進学していた17歳のころ、生家樋口家の書生の中に神お官の息子がいた。この書生が神官の家に伝わるという国学書をよく読んでいた。その中に平田篤胤の『志都乃石屋(しずのいわや)』がった。ある時、その一節を偶然に読んで、大きく心を奪われた・・・」これを世に「二木式複式呼吸法」として発表するまでに約10年の歳月を要している。このことを知った時、二木は自分の虚弱さに悩み、ワラをもつかみたい状態だった。当然、早速に実行してみた。効果は顕著であった。日本古来の知恵の素晴らしさを知った。これをドイツ医学で合理的に説明したい。二木の勉強がが始まった。そして、留学中に医学的に説明できる方法を見つけた。二木にとって、このことを説いた国学者平田篤胤は郷里秋田が生んだ先覚である[29]
  • 1912年(明治45年)3月18日、二男・順福が死亡した。享年3歳。
  • 1912年(大正元年)8月19日、長女・ミチが誕生した。
  • 1913年(大正2年)駒込病院では、伝染病患者が急増一途で、看護婦の需要が高まり、その養成が急務となった。1904年7月(明治37年)、附属養成所が設置された。養成所は最初一ヶ月程度の短期間だったが、1913年(大正2年)からは、3年間の修行として、かなり高度な看護技術を教えている。二木はこの養成所とは別に当時、神田小川町にあった私立の東京看護婦学校で教え、1923年6月(大正12年)からは校長を務めている[30]
  • 1913年(大正3年)11月4日、三男・順好が誕生した。
  • 1914年(大正3年)12月、二木にとってはもちろん、わが国医学史の上でも特筆すべき出来事があった。北里柴三郎が所長の伝染病研究所が、東大の附属機関となったのである。同研究所は、北里柴三郎がドイツ留学から帰国して活躍の場を持たないでいた時、福沢諭吉の尽力で設立された。明治25年のことで、「大日本私立衛生会附属研究所」としてスタートした。その後、同32年、国に全部を寄付、内務省管轄の「国立伝染病研究所」となっていた。ワクチン免疫血清の製造などもしていたが、伝染病専門の研究機関としてはわが国唯一の存在。北里の実力もあって、東大をしのぐ勢いだった。二木は伝染病研究所技師の辞令を受け、同時に東大助教授となった。駒込病院へは週に3回、それも午後から勤務するようになった。二木はまさしく「水を得た魚」であった。複式呼吸法などで、このころから「保健学の二木」と言われたりはしていたが、二木の表看板は「細菌学者の二木」である[31]
  • 1915年(大正4年)2月、二木が伝染病研究所に赴任した翌年、沖縄で奇病が発生したというので、調査に出向いた。沖縄に行ってみると、男はコウガンが、女は乳房が腐って落ちるという病気が流行していて、大変な騒ぎだった。しかし、原因は意外に簡単に判明した。連鎖球菌の一 種、丹毒菌の変形したものが、皮膚に付着して起き、それが皮膚伝染したものであった。二木は大いに面目をほどこして帰京した。伝染病研究所時代にいくつか学問的に評価の高い実績を残している。その代表的なものは鼠こう症スピロヘータの発見であり、日本脳炎の診断法確立である[32]
二木謙三の実父・樋口順泰
  • 1916年(大正5年)4月8日、二木の実父・樋口順泰が死去した。享年72歳。当時としては長寿で、天寿を全うしたといってよいだろう。二木が伝染病研究所技師となった翌々年で、二木が細菌学者としてその地歩を確実に築き出したころであった。生母エイは明治33年10月5日、二木が東大に入学して3年目の時、脳卒中で既に世を去っていた。53歳だった。父の死によって、生家は弟の三男・樋口譲助が家督相続人になるのだが、まだ幼かった。樋口家は順泰の死によって、医家の看板をおろした。当主が幼いこともあって、家運が日ごとに衰えていく。藩政時代は広く名の知られた家であったが、時代の大きな流れには逆らえなかった。いつのことか、樋口家はやがて二木が買取る形で管理し、昭和10年代までは、かつての面影をとどめた。だが、それも二木が東京で学校経営に乗り出して資金が必要になったためであろうか、人手に渡ってしまう。今、屋敷跡はほとんどが秋田警察署となっている[33]
  • 1917年(大正6年)10月31日、二女アツが誕生した。
  • 1918年(大正7年)5月3日午前3時頃、二木は人力車で芝愛宕下を通行中に、後方から来た自動車に追突されて転落し顔面、手足に擦過傷を負った。この当時、二木は駒込病院の副院長、伝染病研究所技師兼附属病院長、東大助教授、東大附属病院分院内科科長、東京歯科医学専門学校講師、それに内務省防疫官、医師試験委員も兼務していた。二木自身のプライベートな仕事として、複式呼吸法の普及活動があったし、玄米食についても研究がヤマ場に差し掛かっていたころである。一日一食、二、三時間の睡眠という超人間的な生活であったというが、それでも寸暇も惜しむ毎日であったろう。忙しいといえば、二木はこのころ、侯爵前田家の主治医も務めていた。前田家は断るまでもなく旧加賀藩主で、二木の師・織田小覚の縁につながるものだ[34]
  • 1919年(大正8年)大正7年の冬、二木の長年の上司、駒込病院院長兼東大教授の宮本叔が倒れた。宮本は翌8年10月に死亡した。宮本の死因はこの時大流行したインフルエンザにやられたものであった。二木が宮本から得たものは多く、二木は自らが先頭に立ち宮本の銅像を建立した。宮本の死亡によって、1月、二木がそのまま昇格し駒込病院長となった。『駒込病院百年史』によれば、院長は初代が入沢達吉、宮本は2、4代と2度務め、3代が橋本節斎、二木が5代目ということになっている。院長就任直後の大仕事は宮本の命を奪ったインフルエンザとの闘いであった。大正9年の秋になって、再び大流行したのである。院長就任で二木の超過密ぶりは想像して余りある。院長就任の直前には日本女子大学の講師になっているし、9年4月からは実践女子専門学校の講師も引受けていた[35]
  • 1920年(大正9年)12月8日、三男・順好が死亡した。享年7歳。
  • 1921年(大正10年)2月、二木が母校・東大の教授となった、47歳の時である。もとより細菌学(伝染病学)を教えた。当時のわが国の細菌学界(伝染病学界)は、伝染病研究所飛び出した北里柴三郎が、私立北里研究所を持って活躍しており、世界的に名の通った存在。自他共に許す第一人者であった。だが、北里はこの時期既に、東大とは越え難い壁を作っていた。そして北里に続くのが二木であった[36]。  
  • 1926年(大正15年)9月1日午前11時58分、関東大震災が起こった。二木は震災の直後、大急ぎで伝研での処理を済ませると、駒込病院に向かった。建物には殆ど被害が無かった、患者も職員も無事だった。当時開院中だった本所病院に向かった、本所病院は類焼した。その避難の難儀は筆舌に尽くせぬものだったが、医師、看護婦ら職員の献身的な働きで患者を全員避難させた。本所病院の院長代理だった黒田昌恵の報告によると、「赤痢や腸チフスなど180人ほど患者が入院していましたが、そのほとんどは重症で、少しも身動きの取れぬ脳症を起こした者ばかりでした。私は建物の倒壊を考え、患者をベッドの下へ寝かせるように指示しました。余震が続けてやってきて、鉄管は破裂するし、病室の板戸や窓ガラスはことごとく壊れてしまいました。職員や患者に怪我人、死者のないのが不思議なくらいでした。」本所病院の大避難行動が開始される。避難行は6日間にわたるのだが、伝染病患者故に施設を貸してもらえず、テントを張って露営を余儀なくされた。神田小川町にあった二木家も類焼した。二木は勤務中であったから、家族、同居人の避難、家財の搬出は妻のイヨが一切を指揮した。全員が整然と無事、駒込病院に避難した[37]
  • 1926年(大正15年)9月22日、日本伝染病学会(1975年3月(昭和50年)に日本感染症学会と名称を変えた。)が設立された。東大法医学教室で設立総会が開かれ、二木が初代会長に選出された。二木はこの後、1948年4月(昭和23年)の第22回総会で名誉会長となって退くまで、実に22年間にわたり、会長を務めることになる。また、同学会は臨床研究を重視することにしたため、本部を駒込病院に置いた。こちらは1920年(昭和45年)まで続いた。伝染病学会の設立は二木らの努力によるものだが、時代の大きな流れでもあった。設立に参加したのは2,503人であった。二木らは「700人集まれば学会として格好がつく」と言っていたというから旗揚げは大成功だった。二木らの努力は見事に結実したのである。会長の二木が総会の座長を務めた。それは十数年も続いた。終戦後の混乱の中でも学会を休むことはなかった[38]
  • 1927年(昭和2年)昭和になって、東京市立の五つの病院が次々に新築落成した。1927年(昭和2年)12月、二木は最初に完成した大久保病院の院長を委属された(6年6月まで)。次いで1931年(昭和6年)1月、本所病院が落成すると、これまた院長委属があった(同年10月まで)。さらに同年4月、駒込病院が完工し、その院長としての仕事も忙しさを増した。木造の駒込御殿が解体されて、鉄筋コンクリートの新病院となったのである。新しい駒込病院は、地下1階、地上3階。延べ約16,000平方メートル。暖房完備の近代的な建物。ベッド数は伝性病500、普通119。外来は1日300人をさばける規模だった。落成式は5月16日の午後行われた。工事報告、市長式辞などに続いて、病院功労者の表彰があり、院長の二木と副院長の村山達三がこれを受けた。この年の10月、二木は思わぬ事件で院長を辞任することになる。世代交代の大きな波であったろう。この時、二木58歳。「人生80年」といわれる現在ならともかく、「人間50歳」時代のことである[39]
  • (1931年昭和6年)12月、長女・ミチは石川県出身の増田定吉と結婚した。
  • 1932年(昭和7年)1月3日、長男・長男順益が死亡した。享年30歳。
  • 1933年(昭和8年)3月、二木が60歳になり、東大教授を定年退官した。当時、伝染病研究所技師、東大附属病院分院内科長も辞めた。二木が母校東大で始めて教鞭を執ったのは、ドイツ留学から帰国した1909年(明治42年)6月、36歳の時であったから、通算23年9ヶ月間、教壇に立った。最初に伝染病学の口座を持ったときは講師で後、1914年(大正3年)12月、42歳を目前にして助教授に進んだ。さらに1921年(大正10年)2月、48歳で教授になった。この間、二木自身が若手の細菌学者から、細菌学・伝染病学界のトップになった。二木の東大に於ける研究、弟子や教え子の育成が、たくまずして、そのまま二木の細菌学会で占める重さを増し、定年退官後は、大御所となっていく[40]
  • 1933年(昭和8年)~1935年(昭和10年)二木は国内は言うに及ばず海外にまでよく旅をした。海外には1933年(昭和8年)、1941年(昭和16年)の二度中国大陸へ渡っている。また、1935年(昭和10年)前後には台湾にも足を延ばした。二木の宴会好きも有名だ。酒は若い時分から強かった。持参の玄米粉を口に含んで杯を傾けたが、興がのると、一つ覚えの「山で赤いのはアザミの花よ/家で怖いのは兄嫁さまよ・・・」という歌を大声で歌った。駒込病院や伝染病研究所の慰安会、忘年会などには、退職後も暇をつくっては参加した。伝染病学会には、卒寿まで出席し、その宴会では仮装などして楽しんでいる[41]
  • 1940年(昭和15年)2月8日、二女・アツが石川県出身の増田友吉と結婚した。養子となった友吉が二木家を継いだ。
  • 1943年(昭和18年)2月24日、妻・イヨが死亡した。享年64歳。
  • 1955年(昭和30年)11月3日、二木は文化勲章を授与された、82歳の秋の「文化の日」であった。受賞者の決定が前月11日で、その翌日の秋田魁新報朝刊に文部省発表の記事が載り、二木の略歴が紹介されている。「二木謙三(医学)秋田市出身、82歳、明治34年東大医科卒、医博、同38年から3年間独ミュンヘン医大に留学、帰国後駒込病院副院長、伝研技師、東大助教授を経て大正8年、同病院長、東大教授となり、昭和元年伝染病学会長、同5年日本医大教授、同26年学士院会員に選ばれた。この間、昭和4年鼠こう症の研究に対し学士院賞を受ける。伝染病、細菌学の権威。著書には専門の論文集のほか「複式呼吸と健康」などがある。豊島岡女子学園理事長を務めている」続いて14日付朝刊には、それを祝う記事が掲載された。「本県が生んだ日本伝染病、細菌学界の至宝というより、一般人には玄米食や複式呼吸などの健康法で有名な二木謙三博士(82)が晴の本年度文化勲章受章者に内定して百万県民を喜ばせている。(後略)」二木が最年長で、皇居での親授式では、慣例によって、受賞者を代表して天皇陛下に謝辞を述べた。記念撮影でも3人ずつ前後2列に並んだその中で前列中央に座った。皇室崇拝者でもあった二木にとって、一世一代の晴れがましい一日であった[42]
  • 1966年(昭和41年)「私は百歳まで生きてみせます。玄米菜食を通せば、人間は百歳まで生きられるものです」二木はしばしばこう述べていた。しかし、90歳を越してみると、周囲の人がみても、はっきりと体力が衰えていくのが分かるようになった。それまで決して欠席したことがない伝染病学会総会にも、1963年(昭和38年)からは姿を見せなくなった。1965年(昭和40年)、92歳で修養団長を辞任した後は、決まった仕事もなくなり、自宅内で過ごす時間が増えた。こうして1966年(昭和41年)3月25日、無病を誇っていた二木が、ついに風邪を引いてしまった。家族や弟子たちが老人性肺炎になるのを懸念、入院おさせた。入院先は、東大医科学研究所と名前を変えていたかつての伝染病研究所の附属病院である。二木自身が初代院長を務めた病院のベットで、弟子たちの治療を受けた。診察の結果、気管支肺炎が認められた。天寿は刻々と迫っていた。4月8日、自発的排尿が不能となる。23日になると、食事もほとんど食べなくなった。そして、27日、飲み物を口にした際にむせて何回も吐いた。これを境に容態が急変した。この日、午前6時30分、二木はついに不帰の人となった。行年93歳。従三位が追贈された[43]

系譜[編集]

樋口家の菩提寺である天徳寺の総門
樋口家の菩提寺である天徳寺の山門
旧正洞院にある樋口家代々の墓碑
旧正洞院にある二木謙三の実父・樋口順泰、母エイの墓碑
西多摩霊園にある二木謙三と家族の墓碑
  • 生家の樋口家は代々医家。秋田藩主佐竹侯の御典医を務めた家柄。父順泰は江戸の浅田宗伯に学んだ漢方医。浅田塾では塾頭になったという秀才。秋田藩の医学館七部書会頭も務めた。維新後は町医者として生計を立てていたが、貧しい患者には薬といっしょに植物も与えたという話が残されている。謙三は二男に生れたことから、二木家へ養子に出された。これは運命的に決まっていた。二木家は土崎港にあったが、樋口家とは跡継ぎがないとき、互いに養子を出す特別の親類だった。二木家も代々医師だったというが、詳細を伝える記録は見つからない。わずかに、江戸時代の終わりごろ、甲州から移って北前船で来たと、かつての菩提寺・明称寺(土崎港)の古い過去帳が伝えていたという。
  • 樋口家代々の菩提寺は正洞院(秋田県秋田市手形字大沢)だったが、明治に入り廃寺となりその檀徒のほとんどは天徳寺(秋田県秋田市泉三嶽根10-1)に移された。樋口家の菩提寺も天徳寺となり、樋口順泰の葬儀はこの天徳寺で執行された。順泰と妻エイの墓碑は旧正洞院の墓地の平田篤胤(ひらたあつたね)の横にある。順泰の法名「性智院順屋良泰居士」行年72歳、エイの法名「性徳妙湿大姉」行年55歳。順泰とエイの三男譲助・法名「光徳院智観良譲居士」と妻チ子・法名「智徳院光雲慧明大姉」の墓碑も此処にある。
  • 西多摩霊園(東京都あきる野市菅生716)の墓地(第9区)には、二木謙三・従三位勲一等文化勲章・法名「積徳院殿仁翁明謙大居士」行年94歳、妻イヨ・法名「観光院慈室妙音大姉」行年64歳、長男順益・法名「正順院益道真孝居士」行年30歳、二男順福・法名「貞順善童子」行年3歳、三男順好・法名「順道善童子」行年7歳、二女アツ・法名「修徳院清訓貞厚大姉」行年85才、アツの夫友吉・法名「高徳院修学道友居士あざ」行年92歳の墓碑がある。

健康法[編集]

二木は秋田佐竹藩の藩医、樋口家の出身で、元の姓は樋口であった。8人兄弟の3番目に生まれた。3歳の頃、同じ秋田藩の藩医、二木家に養子縁組して、二木姓を 名乗る。生まれた時には1年ももたないと言われる程の虚弱であった。20歳まで心身ともに数多くの病気に悩まされたが、徴兵検査のときに検査官から虚弱な病身を指摘され、軍隊の黒い麦飯を食えと一喝され、その翌日から麦飯食を始めた。これにより、虚弱な病身から開放された。このように二木は、藩医の家の生まれであること、そして、また、自らの深刻な病弱を日本の伝統的な食養生により救われたという原体験により西洋医学の道に進路をとり、そして、それと矛盾することなく東洋的な健康法の普及活動に志向した。 食事法としては玄米菜食による完全食、家はは用いず、動物は少なくし、二分間煮で食べることを提唱していた。二木自身は48歳より、1日1食、玄米、塩なし、油なし、  火食なし、動物不要の食事となった[44]正心調息法の創始者である塩谷信男は二木の健康法を実践して病弱体質を克服した。二木は晩年も元気に活動し、亡くなる前には全国の弟子たちを電報で呼び集め、全員が揃ったところで「それじゃあ、君たち、最後の息をするから、さようなら」と言って世を去ったという[1]

食事[編集]

完全食
基本的には死んだものでなく生きた新鮮なものを、動物よりは植物を摂取することを推奨。中でも玄米は完全食であるという。
二分間煮
野菜を煮て食するに際しては、調理過程として、煮始めて沸騰し始めるが、沸騰時間は2分間として即加熱を停止し、蓋をしたまま5分~10分程してから食することをいう。
二分間煮とは沸騰二分間ということである。
適応食
年齢、性別、職業、季節、地勢などに応じて適切な食べ物を選択すべきであると説く。
  • 乳児 母乳、果汁、おかゆ
  • 1~6歳 玄米、野菜、豆、芋
  • 7~15-6歳 上記植物類に加えてえび、あさり等の小動物
  • 15-6歳から上は男女が分かれてくる
    • 男性 肉体労働を行う男性は食物欠乏のときは肉をとってもよい
    • 女性 大きな動物は食べないほうがよい
  • 40~60歳(初老) 男性でも大きな動物を食べるのはやめ、15歳以前の子供と同じく野菜類と小動物にする
  • 60~80歳(中老) 5歳以前の子供と同じく穀菜食にする
  • 80~(大老) ものをよく噛んで汁だけをしゃぶって食べる

二木式腹式呼吸法[編集]

胸と腹が一緒に出て一緒に引っ込んでゆく胸腹式呼吸法を推奨。肺の呼吸面をまんべんなく広くし、肺全体が自由に呼吸することになる。息を吸うときは腹が膨れるように硬くなるように吸い、あまりいきまないように少しとらえてから静かに吐き出す。胸の方から先に空気を出し、次に上腹にある空気が胸を通って外へ出るように、下腹には少し空気が残るように出す。

逸話[編集]

  • 父・樋口順泰は「倹蔵」と命名したが、いつのことか戸籍係が「謙三」と誤記、それがそのままになったーと、後年、本人が語っている。当時の戸籍事務では、いかにもありそうな話だが、証明するものは残っていない。
  • 二男に生れたことから、二木家へ養子に出された。これは運命的に決まっていた。二木家は土崎港にあったが、樋口家とは跡継ぎがないとき、お互いに養子を出す特別の親類だった。
  • 二木家に養子縁組されてまもなく、母親のところへ帰りたいがために、魚屋の行商の後へついて10キロ以上に及ぶ道を一人で歩くという、小さい頃から非常に強固な意志の持ち主だったことを物語るエピソードがある。
  • 小学校時代は小柄で、まれにみる虚弱であった。年中、体のどこかに湿疹が出ていた。それがもとで、しばしば急性腎臓炎を起こし、体がむくんだ。胃腸も弱く、いつも青白い顔をしていた。おまけに痔も病んで、動作に子供独特の機敏さがなかった。
  • 二木の四つ下だった深味貞治(昭和31年、77歳没、秋田市の医師で狂歌人)は、秋田魁新報で述べている。「私が入学した時、二木さんは5年生だったが、ストライキ騒動が起こって事が大きくなろうとした時、生徒を集めて師弟の道を説く大演説を行い、ついにストをやめさせたことがあった。その時壇上でじゅんじゅんと新思想にかぶれた過激派たちを説得する二木さんの姿を見て、私は子供ながら偉い人だな、と思った。(昭和30年10月14日付朝刊)。」
  • 尋常中学学校を出て、仙台の高等中学校に進むのだが、それまでの間に、二木の人生にとって特筆すべき一つの事件が起こった。それは徴兵検査不合格事件である。二木によって最大の屈辱であったが、同時に虚弱体質に決別する一大転換ともなったのである。
  • 田舎の中学校を卒業して、仙台の高等学校に入ったところが、なかなか学科の程度が遅れて追いつかない。そうであるからどうか一つ勉強して追いついてやりましょうと、大勉強を始めたところが、試験前になってすっかり脳神経衰弱にかかってしまって、試験場へ入っても、頭がぼんやりして何も分からない・・。(自著『腹式呼吸と健康』研文書院刊)。という状態だった。高等中学校入学の最初の試験は60点以上が図画と体操だけの二教科という悲惨な成績であった。
  • 二木は山口高校の余科に編入と決まった時期、生母エイが脳内出血で倒れた。二木は山口行きを断念しようかどうしようかと迷っていたとゆう。迷いながら町を歩いていると、一つの看板が目に入った。「易学の大家、東京から来る」とあった。吸い込まれるように門をくぐった。悩みを述べると「大丈夫。お母さんは、あなたが学校を終えるまで大丈夫」と自信いっぱいに言う。このひと言で、迷いがふっ切れた。実際、母の死はこの6年後のことである。晩年、二木は易学について勉強するが、それはこの時の体験に基づくものだという。
  • 二木が書生として入った先は山口高校の教頭・北条家であった。いつの事か不明。北条家の女中が井戸に落ちて大騒ぎとなった。二木は邸内にいた婦人たちから次々と帯を借り、それをロープ代わりに、自分の体を縛って井戸の中に入った。ぐったりした女中を抱きかかえて 、引き上げさせた。人工呼吸をし、水を吐かせた。女中は九死に一生を得た。二木は泳げなかった。
  • 山口生活最後の年の春のことらしい。全校生百四十余人が、学校から約40キロの所へ旅行した。
  • 体が元来弱かったことは先述したが、大学進学後、本人が「俺は一切ものを忘れてしまった。分らないと言ったら分らない。何も分らなくなってしまった。」と語るほど、文字も読めなくなってしまうようなひどい神経衰弱を患ったが、持ち前の根性で回復。その経験が、ドイツ留学以降の偉業を生む下地となっている。
  • 元々謙虚な性格で、新型病原菌を発見しても、自分の名前を使用する事は一切考えなかった。コレラ竹内菌という名前も患者の名前を使用し、駒込A菌・B菌も実験道具で有名な駒込ピペットも勤めていた駒込病院から取ったものである。
  • 神道についても造詣が深く、古事記や祝詞の講義を行ったり明治期の神道家・川面凡児(かわつら ぼんじ)の確立した行法に基づき禊の練成会を行っていた。往路は銃、背のうをかついで歩いた。復路は船が予定されていた。だが、目的地に着いてみると、乗るはずの大型船が故障、小型船に切替えとなった。50人があぶれる。屈強な生徒が選抜されて走って帰校することになった。小柄な二木は選に漏れたが、志願してマラソン帰校組に加えてもらった。一人抜き、二人越す。学校に帰り着くと、「君が一着だ」二木は楽しげにこのときを述懐している。
  • 60代のとき、皇武館(合気会本部道場の前身)に入門し合気道開祖植芝盛平に師事した。早朝に道場を訪れ、寝ている内弟子を叩き起こしては投げ飛ばし、すぐに帰っていくのが常だったという。また上記の練成会の参加者にも合気道を紹介しており、その一人である阿部醒石はのちに植芝の弟子になった。
  • 文化勲章の親授式を終えて皇居から退出して来た二木は、友吉ら家族に「陛下が『二木はまだ頑張ってやっているの』とお尋ねくださったので『ハイ、ますます張り切ってやっております』とお答えしたよ」と得意そうに報告している。
  • 「事実は小説より奇なりと申しまして・・」ー高橋圭三アナウンサーが司会の「私の秘密」というNHKテレビ番組があった。二木が文化勲章授賞直後、これに出題者として出た。「私は文化勲章を受けました」というのが”秘密”。首に下げた文化勲章をコートで隠して登場したが、名前を言った途端に藤原あきに正解を出された。二木はうれしそうであった。
  • 二木の没後、その徳をしのんで出版された『二木謙三先生を追慕して』(昭和44年、二木謙三先生記念会刊)に次のような一文が寄せられている。「・・伝染病を究明し、撲滅の基礎を作られたのは外ならぬ二木先生である。・・しかるに二木先生は白眼視されていて、不遇の境地におられた・・たんたんと学問に取り組み、かつ玄米食の効能を力説実行されていた。・・二木先生は学者としてはある意味において変人として冷遇され、当然授与されるべき文化勲章も何かしらその俎上に、なかなかのぼらなかった。遅きに失した・・。(二木が駒込病院の院長当時、外科医長だった本間五郎)
  • 娘のアツは「父は『謙そんの謙という字を名前にもらっているから、謙虚にしていないといけないんだ。頭を出すとたたかれる』とよく言っていました。玄米食の提唱でも、随分たたかれたそうです」という。

著書[編集]

  • 健康の第一義:呼吸健康法』 新愛知新聞社、1910年明治43年)2月。
  • 二木謙三 「二木博士腹式呼吸の話」『先哲実験腹式呼吸篇』 春秋社編輯局編、春秋社、1911年(明治44年)2月。附録。
  • 腹式呼吸』 文星堂《体力養成叢書-第2編》、1911年(明治44年)7月。
  • 二木謙三 「黒住宗忠の肺病全快談」『肺病大家論集:一名・肺病結核の総攻撃』吉川栄監、1911年(明治44年)、8月。
  • 『コレラ予防注射講話』 国家医学会、1916年大正5年)。
  • 『食物と健康』 修養団出版部、1921年(大正10年)8月。
  • 身土不二』任天居、1929年(昭和4年)。
  • 『完全営養と玄米食』 1932年(昭和7年)。
  • 『古史読本:全』 1932年(昭和7年)2月。
  • 『二木博士論文集』高木逸麿、1933年(昭和8年)9月。
  • 『完全にして正しき食物』 大日本養正会《大日本養正会叢書1》1932年(昭和7年)10月
  • 『なぜ玄米でなければならぬか:栄養上経済上より見たる玄米白米等の比較優劣図表並に其の解説』大日本養正会《大日本養正会叢書2》、1934年(昭和9年)4月。
  • 『腹式呼吸と健康』 大日本養正会《大日本養正会叢書3》、1936年(昭和11年)12月。
  • 『栄養の適応と体質改善』 大日本養正会《大日本養正会叢書4》、1937年(昭和12年)9月。
  • 『米食の実際』 大日本養正会《大日本養正会叢書5》、1941年(昭和16年)。
  • 『国家経済と国民栄養図表解説』 大日本養正会《大日本養正会叢書6》、1940年(昭和15年)12月。
  • 『古事記神代篇の正しき解釈』 大日本養正会《大日本養正会特輯1》、1938年(昭和13年)7月。
  • 『二木博士講話集』大日本養正会《大日本養正会特輯2》、1939年(昭和14年)。
  • 『日本人種の起原新説・大和言葉の特性:日本人種日本国土生え抜論』大日本養正会《大日本養正会特輯3》、1939年(昭和14年)6月。
  • 『健康への道:完全正食の医学』 新紀元社、1942年(昭和17年)9月。
  • 『栄養の効率化』 大日本養正会。
  • 『目先の健康と本当の健康』前島会、1957年。
  • 『健康への道』致知出版社、2003年2月。ISBN 978-4884746438。(新紀元社からの初版は1942年(昭和17年))。

脚注[編集]

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  1. ^ a b 二木謙三 『健康への道』致知出版社、2003年2月。ISBN 978-4884746438。1頁
  2. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年11月7日、夕刊7頁<4>。平成25年10月30日閲覧。
  3. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年11月7日、夕刊7頁<4>。平成25年10月30日閲覧。
  4. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年11月10日、夕刊7頁<5>。平成25年10月30日閲覧。
  5. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年11月12日、夕刊7頁<6>。平成25年10月30日閲覧。
  6. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年11月7日、夕刊7頁<4>。平成25年10月30日閲覧。
  7. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年11月14日、夕刊7頁<7>。平成25年10月30日閲覧。
  8. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年11月14日、夕刊7頁<7>。平成25年10月30日閲覧。
  9. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年11月21日、夕刊7頁<10>。平成25年10月30日閲覧。
  10. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年11月26日、夕刊7頁<11><12>。平成25年10月30日閲覧。
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  43. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和62年4月27日、夕刊7頁<69>。平成25年10月30日閲覧。
  44. ^ 『新食養』1号(通巻95号)、5頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

先代:
平沼騏一郎
修養団団長
第3代:1946年 - 1964年
次代:
倉田主税