二木謙三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
カイゼル鬚に和服姿の二木
長男の順益(5歳)をあやす二木(自宅)
二木謙三と妻イヨ
秋田市土手長町にあった二木の生家
二木の留学で妻子が預けられた秋田の樋口家
平田内蔵吉編『国民体育』題序

二木 謙三(ふたき けんぞう、1873年明治6年1月10日 - 1966年昭和41年4月27日)は、秋田県秋田市千秋明徳町、樋口順泰の二男として出生、二木家の養子となる。明治26年秋中学卒業、山口高校を経て、東京帝国大学医学部卒業。東京市立駒込病院勤務、36年赤痢菌「駒込A、B菌」を分離する。38年ドイツ留学、ミュンヘン大学グルーベル教授に師事、42年駒込病院副院長、東大講師、医学博士、大正3年東大助教授、4年高木逸磨等と共に「鼠咬症(そこうしょう)スピロヘータ」発見。8年駒込病院長、10年東大教授兼任。昭和4年学士院賞受賞、日本医科大学、東京歯科医専、日本女子大学などの教授又は管理職となる。26年日本学士院会員、日本伝染病学会(現・日本感染症学会)長。30年文化勲章授与。41年93歳で没す。天然免疫学理の証明などの実績を遺し、玄米食の提唱、実践運動や教育者としても多くの功績があります。日本の医学界の重鎮であったと同時に、民間療法一般に理解があった。ノーベル生理学・医学賞の候補になったとも言われる[1]歴史学者國學院大學名誉教授、日本中世史(戦国史)が専門で有職故実研究の第一人者として知られる二木謙一の祖父。

生涯[編集]

  • 1873年(明治6年)1月、秋田県秋田市土手長町(現在の千秋明徳町、秋田警察署の辺り、旧小野岡邸隣)で生れた。父樋口順泰、母ヱイの子供、男4人、女3人の二男であった。父は「倹蔵」と命名したが、いつのことか戸籍係が「謙三」と誤記、それがそのままになったーと、後年、本人が語っている。樋口家は代々医家。秋田藩主佐竹候の御典医を務めた家柄。父順泰は江戸の浅田宗伯に学んだ漢方医。浅田塾では塾頭になったとゆう秀才だ。秋田藩の医学館七部書会頭も務めた。維新後は町医者として生計を立てていたが、貧しい患者には薬といっしょに食物も与えたという話が残されている[2]
  • 1876年(明治9年)二男に生れたことから、二木家へ養子に出された。二木家は土崎港にあったが、樋口家とは跡継ぎがないとき、互いに養子を出す特別の親類だった。この時、二木家は謙三の養母となるキヨだけで、樋口家の二男誕生を待っていたと思われる。二木家も代々医師だったというが、詳細を伝える記録は見つからない。謙三が実際に養母と暮らしたのは何歳からどのくらいの期間なのかー謙三の生涯で最もナゾの深い部分である[3]
  • 1878年(明治11年)5歳の時、生家から漢学者稲川直清(1823年ー1891年)の塾に通っていた。その後は病弱で、医師であった父の下で暮らしたと考えるのが自然。また逆に、3歳以前では、生家の方角が分かり、そこへ帰る知恵があるはずもない。体力的にも無理だろう。謙三は生家で暮らすようになった。しかし、父のしつけは厳しかった。養子に出すと決まっていただけに、きちんとした教育を心掛けたのであろう。父樋口順泰はそういう人だった。しかし、この父が謙三に直接教えることはなかった。そればかりか、膝に乗せることもしなかった。父子ながら、距離を保ち、勉強するように説き、よき師として稲川直清を選び、通わせるだけだった[4]
  • 1882年(明治15年)謙三が小学校に入学したのは9歳の時である、6歳入学が原則ではあった。学校は今の秋田市立明徳小学校の前身であるが記録が残っていない。翌16年、公立明徳小学校となって、広小路(旧高裁の西側)に校舎ができた。当時、小学校は8年制だったが、謙三は6年間在籍し、明治21年に卒業、その後、中学校に進んだ。小学校時代は、年中、体のどこかに湿疹が出ていた。それがもとで、しばしば急性腎臓炎を起こし、体がむくんだ。胃腸も弱く、いつも青白い顔をしていた。おまけに痔も病んで、動作に子供独特の機敏さがなかった。幼い時からの漢字の勉強と、天性の素質のよさで、成績は群を抜いてはいたが、それだけにかえって子供らしさに欠ける、そんな少年だった。漢方医の父順泰は、母ヱイに対して、「この子は20歳まで生きられるのだろうか?」と嘆いていたといわれる[5]
  • 1885年(明治18年)12歳の5月、正式に二木家に入籍、その年の9月、家督相続して二木家の戸主となった。しかし、生家と同じ地番に新戸籍をたてた。つまり、「二木」の名前を継いだが、養家に入って養母と生活することはしなかった。樋口、二木両家の間で、そんな取決めが成立したのだろう。養母キヨは、その後、北海道に渡り、大正9年秋、小樽で死亡した。78歳だったという。生前、謙三と接触があった形跡はない[6]
  • 1888年(明治21年)5月、入学した中学校は秋田県立尋常中学校。今の秋田高校である。本県唯一の中学校で、在籍は5年間。虚弱体質は改まらず、年中病気がちではあったが、極めて勉強好きな生徒だった。この中で、謙三は在学中から級友らに一目置かれる存在だった。当時流行だったらしいストライキに絡んだエピソードがいくつか残っている。謙三が5年生だったが、ストライキ騒動が起こって事が大きくなろうとした時、生徒を集めて師弟の道を説く大演説を行い、ついにストライキをやめさせたことがあった[7]
  • 1893年(明治26年)3月25日、尋常中学校を卒業した、現在の秋田高校に卒業証書番号簿が残っている。第六回卒業生で、その顔触れはまさに多士済々というべきであろう。『秋高百年史』には二木を最初に紹介した後に、こう記述している。二木謙三、かつての東洋拓殖会社総裁佐々木駒之助、本校出身最初の将官、陸軍少将の長嶺俊之助、大衆医療に貢献した森田資孝ら。尋常中学を出て、仙台の高等中学校に進むのだが、それまでの間に、二木の人生にとって特筆すべき一つの事件が起こった。それは徴兵検査不合格事件である。二木にとって最大の屈辱であったが、同時に虚弱体質に決別する一大転機とのなったのである。二木は、検査官に厳しくしかられ、「健康になりたい」という一心が、理屈を考えるよりまず実験となったのか。検査官の体験的健康管理法にも説得力があったのであろう。母ヱイに頼んで特別食を作ってもらった。家族がごちそうを食べるときでも、二木は麦飯に野菜だけ。いくばくもなくして、年中、体中に出ていた湿疹がケロリとなくなった、腎臓炎も治った。二木は食事療法の効果を強く確信したはずだ[8]
  • 1894年(明治27年)、二木は帝国大学進学者のための三年生の大学予科である山口高校に編入が決まった。交通機関が発達した現在でも、秋田ー山口間は簡単には往来できない。この当時は完全に三日を要する遠隔地であった。折りしも明治27年8月、日清戦争が始まったが、二木は学問一筋を通して、戦争にはほとんど感心を示さなかった。山口に移って、最初は下宿をした。二木は既に素食、少食の食事療法を完全に身に着けていた。父が自分の家の生活を切り詰め、貧しい人たちの救済活動に尽くしていたことに深く尊敬していたし、養子に出た者として、生家に頼ってばかりはおられないという自覚もあったろう。少年のころから、倹約を身に着け、衣類は自分で針を持ち、つぎを当てるようになっていた。[9]
  • 1895年(明治28年)春、二木は山口高校の教頭・北条時敬の家に、半ば強引に入り込んだ。二木はこのころ既に北条に心酔していて「身近で暮らし直接教えを受けたい」と考えていたと思えるのである。北条とはどんな人物なのか、教え子の一人哲学者・西田幾多郎は「先生は計り知れない様な深い大きいものがあり、非常に厳格な様で、その奥にどこかまた非常に暖かいもののある人でした。」哲人をもってしても容易に表現出来ないほどのスケールの大きな人であった[10]
  • 1897年(明治30年)秋、山口高校を卒業した二木は、そのまま東京帝国大学に進んだ。二木は24歳であった。北条家を去る際、師・北条時敬は二木に寄宿すべき人物を紹介した。織田小覚がその人である。旧加賀藩士で、当時は内務官僚だった。東京・牛込若宮町に屋敷を構えていたが、若いころ肺結核を病み、独身を通していた。確斎と号して漢字、国学をよくした。後に旧藩主前田家に招かれ、侯爵前田利為の教育係を務めた。蔵書家の研究者としても著名だった。北条にとって、まな弟子の二木を預けるには織田以外に考えられなかったのであろう。二木もまた、織田家に入って、その感化を強く受けた。幼少時から学んでいた漢学に磨きをかけ、尋常中学当時からの国学を自分のものとした。高等中学校のころから興味を持っていた禅を体系的に勉強したのもこのころだ。織田の蔵書が二木の知識欲を満たしてくれたことも疑いない。人脈も織田を通じて広がっていく、後の首相、駆蜜院議長の平沼騏一郎が織田の隣人。謡曲をともに趣味として、織田家とは渡り廊下でつないでいたというほどの仲[11]
  • 1899年(明治32年)頃、二木は大学の講義に熱意をしめさなかったという。最大の理由は、二木の反骨精神によるもので、当時の医学教育が「洋方偏重」であったことに対する反発だったと思える。それゆえに二木は講義では決して教えない漢方を、織田小覚の蔵書を師に猛勉強していた。講義に熱を入れなかったということは、講義にだけ熱中すると、道を踏み違えると思ったのだ。講義に熱を入れなかったと言いながら、二木の保健学に、西洋医学の長所は巧みにとり入れられている。ベルツは「日本人特有体質論」とでもいうべき説を主張しているが、これが二木の保健学と極めてよく共通している。何よりも、級友たちから論客と呼ばれ、学問的にも一目置かれていた。この時期、すっかり禅に凝っていて、しばしば参禅している。熱中しなければならないものが、あまりにも多かった。そして決定的な理由は、このころ、つまり大学在学中に、とある娘に恋をした。そして婚約にまで持込んだ[12]
  • 1900年(明治33年)、秋田市の小学校当時から終始、二木と同級だった人がいる。遠山景精である。二木より年齢が二つ下だが、頭脳明晰で勉強ではライバルであった。二木が個性的で一匹狼的存在だったため、親友という程の仲ではなかったが、常に二木を兄貴格にして付き合った。遠山家は神田駿河台に居を構えていた。遠山家に同級生らが集まるのは自然であろう。その遠山家には長女キヨ、景精の妹がいて、二木とは七つ違いだから、二木が東大に入学した年は17歳。女学生で、におうばかりの娘盛りであった。二木はキヨに恋した。級友らに論客といわれていた二木だが、恋の道だけは違うと見えて、キヨには恋文(漢文の結婚申込書)で結婚を申し入れた。やがて婚約が整い、二木が大学を卒業するのを待って結婚式を挙げることに決まった[13]
  • 1901年(明治34年)12月、東京帝国大学を卒業、東京市立駒込病院(現在は都立の総合病院)に就職、二木ら卒業の年に、当時の東京市が常設の伝染病専門病院として開院した。木造建築ながら、大身の武家の屋敷を思わせる門や玄関を持つ堂々たる建物で、収容力も当時としては大きく70床はあった。新装開院を機会に帝大出の医学士を採用、医療の充実を図ることになった。当時、伝染病は最も恐ろしい病気だとされていた。今の癌以上のものだったと言っても過言ではあるまい。だが、学問的にはほとんど未知の分野。大学でも講義がなかったのである。だから、駒込病院が医学士採用を決めても、希望者がいなかった。二木に続いて親友の大滝潤家横田利三郎が志願、医局入りした。二木らの医局入りで、駒込病院はわが国の伝染病研究の中心となる。年々重みを増して、この病院の歴史が、そのまま日本の伝染病克服の歴史となっていく。就任早々、連夜、深更まで居残って顕微鏡をのぞいた。その熱心さに石油ランプの灯油代がかさんで、病院の事務長から早々の帰宅を申込まれる一幕もあった[14]
  • 1902年(明治35年)頃、二木は東京市立駒込病院の勤務医となったのを機に、ひげをたてた。カイゼルひげである。カイゼルつまりドイツ皇帝のウィルヘルム二世が立てて評判となり、世界的に流行したという例の左右両端がはねあがったひげである。小柄で、体格的には貫禄不足であったが、ひげがそれを補った。二木のひげは威厳の象徴でもあったが、それよりもむしろ、親しみの対象だったという感じが強い。ひげは二木が腹式呼吸玄米食運動を進める上でも宣伝効果があり、なかなか役に立ったようだ。各地で講演した後、新聞にひげがピンとはねた写真が載ると、それがまた「ひげ先生の保健法」と評判になったものだと言う。ひげとともに二木のもう一つの看板は黒いモーニングコートであった。冬は当然、真夏でも同じ冬物のコートを着用、年中服装を変えることがなかった[15]
  • 1902年(明治35年)6月26日、午後4時頃、東京市立駒込病院に一人の患者が担ぎこまれた。名前は竹内某、64歳の男性であった。この患者は、担ぎ込まれてから1時間20分後、死亡してしまった。コレラ事件の幕開きである。この事件によって二木は細菌学者として名を知られることになる。コレラ事件とはー。当時の日本細菌学会界を二分して、いわゆる「コレラ竹内菌」が存在するかどうかが争われた事件である。このとき、北里柴三郎が、私立の伝染病研究所を設立していて、細菌学に関する限り、東大と対抗、というよりは、むしろそれをしのぐ勢力になっていた。駒込病院に担ぎ込まれた患者竹内某の死因究明についても、両者が巧名争いを演じた。死亡から5日目、北里側の伝染病研究所が内務省を通じて、「患者の便からコッホ氏コレラ菌を分離した」と発表した。一方、東大側ではその直後に、内務省の中央衛生会で、「コッホ氏コレラ菌ではない別種の細菌を検出」と発表した。双方が、それぞれの研究方法を非難し合って、延々と論争が続いた。この論争に決着をつけたのが二木である。大学を卒業して1年足らずの二木が、東大側が主張するように、コッホ菌とは別種の菌であることを立証したのである。細菌の鑑別には疑集反応と呼ばれる方法が取られる。それには馬の免疫血清が用いられていたが、これだけによる検査ではコッホ氏コレラ菌も竹内菌も区別ができない。二木はそれを兎の免疫血清で検査し、相違を明確に証明した。二木はこれを基に、コレラ病原菌多種説を立てた[16]
  • 1902年(明治35年)12月24日、東京でペスト患者第一号が発生した。日本上陸第一号は明治32年に広島で出た。直後に、大阪でも患者があった。さらに東京侵入の三カ月前、横浜でも患者が出た。この時は当局が拡大を恐れて、患者の住居など20戸を焼却している。東京侵入はもはや避け難い情勢で、東京市は明治35年9月10日付をもって、駒込病院に「ペストの発生に備えた体制づくり」を指示している。これに基づき、同院は横田利三郎、二木、大滝潤家の3人を中心にプロジェクトチームを編成、患者が発生したら、閉鎖している本所病院に隔離することなどを決めていた。患者発生の一報がもたらされたのはこうした状況下においてであった。患者は紡績工場の女工たち。紡績工場にはインドから綿が輸入されていて、その中に紛れ込んできたネズミがペストをまき散らかしたものだ。12月24日夜のことであった。折りしも駒込病院は職員の忘年会があり、その席上に連絡された。その日の当直医は二木。医局日誌にそれを次のように記している。「飛報あり、本所のある工場に『ペスト』擬似患者二名生ずと。宴終わるころに至りて一同武者振るいをなす。医院一同駒込病院に宿直す。東京市との電話のたゆることなく戦雲たなびき、前途多難なり」。二木らの緊張の様子がよく分かる。駒込病院では、直ちに本所病院を開院、翌25日、臨時病院長に決まった横田が到着すると、玄関の土間に4人が運ばれていて、1人は既に死亡していた[17]
  • 1903年(明治36年)1月5日、本所病院の診療活動は極めてハードなものとなった。この超過密な勤務状態が大きな不幸を招いたのであろう。横田の一瞬の油断が大事件となった。患者を手術中の横田が、そのはねた血を右の目に受けて感染し、帰らぬ人となってしまったのである。そのときの模様は『駒込病院百年史』に詳しい。1月5日、運命のペスト患者が入院した。リンパ腺が腫れとう病が激しかったので、石油灯の下にろうそくを灯して切開したところ、血管から血液が飛散し、たまたま予防眼鏡を外した横田学士の顔にはね掛った。その場で消毒を入念に行ったはずだったが、7日から発熱、右目、右耳、あごの腫れがひどく、強い痛みを訴えた。病院挙げての看病も空しく15日午前5時死去せられた。横田は二木と東大で同級、親友であった。大滝潤家と3人で一緒に駒込病院に入った仲である。横田が倒れてからは、二木が余人を遠ざけて一人で付き添った。後日、二木は「横田が夜になると暴れるのです。右の目の下のところ(手術の)に傷があって、そこからコレラ菌が出ているわけだから、看護婦に看護をさせることは出来ない。私が押さえながら看病したのです。だんだん心臓が弱って、そして死んだのですね。横田は結婚したばかりで、奥さんは妊娠していた」。このペスト騒動での患者は横田を加えて13人を数え、うち8人が死亡した。横田の葬儀は東大が大学葬をもって報いた。また、東大の級友らが胸像を造って、霊をなぐさめたが、その銘文は二木が書いた[18]
  • 1903年(明治36年)11月18日、長男順益が誕生した、名付け親は二木の師・織田小覚である。新婚の二人は二木の寄宿先、織田小覚邸の2階で新しい生活を始めたが、間もなく、駒込病院の近くの浅嘉町に古い茅葺屋根の手ごろな一軒屋を見付けて移転し、病院での診療と、研究に没頭することができるようになった。後に、二木の二女アツが言ったことだが、父の成功の陰には母の内助の功があったからですと。アツによると、二木はイヨにしばしば癇癪(かんしゃく)を起こしていた。研究に没頭して、真夜中の2時、3時が普通だったが、何時に帰っても、さっと温かい食事を出さないと、食膳を蹴飛ばしてしまう。子供の泣き声が嫌いで、「オギャー」と一声でも聞こえれば、癇癪を爆発させた。こうした二木にイヨは愚痴をいうこともなく仕えた。むずかる幼子を背負って深夜の町に出て、二木に安眠を取らせることが幾日も続いた。二木は典型的な亭主関白であった。「子供を抱くどころか名前すら忘れていると思うくらいで、家を間違えずに帰って来たのが不思議なほどだった」(アツの話)という[19]
  • 1903年(明治36年)この頃の駒込病院は「東大細菌学研究室」としての役割を担っていたし、患者の検査なども、今のようにシステム化されておらず、医師が診療の合間をみてやっていたのであるから、多忙であったというのは理解できよう。この劣悪な条件の中で二木は赤痢の診療に大きく貢献する貴重な発見と研究をした。現在では、「赤痢」といえば細菌性赤痢アメーバ赤痢、それに疫痢を意味するものということで常識になっているが、当時はまだ未解明の部分が多い伝染病であった。二木は先年のコレラ竹内菌発見の経験から、赤痢菌も病原菌が複数である可能性が強いという考えを抱き、その前提で徹底的に検査した。その結果、駒込病院の患者から新しい二種類の赤痢菌分離に成功した。これは多くの点で酷似していたが、患者血清に対する疑集反応やインドール反応などでその違いを明確に識別できた。二木は「駒込A菌」「駒込B菌」と命名した。同年夏、同病院に入院した赤痢患者49人中、35人について調べたところ、20人から駒込A菌、15人から駒込B菌が分離されたが、志賀菌はわずかにその中の1人から検出されただけだった。赤痢は100%志賀菌によって発病するとしていたそれまでの学説を完全に覆したのである[20]
  • 1914年〜1920年(大正3年~大正9年)、伝染病研究所(現:東京大学医科学研究所)、第4代病院長。
  • 1919年〜1931年(大正8年~昭和6年)、駒込病院、第5代院長。
  • 1921年(大正10年)、東京帝国大学教授を兼任。
  • 1926年(大正15年)、日本伝染病学会を創立。(1974年(昭和49年)に日本感染症学会に改称)
  • 1955年(昭和30年)、「鼠こう症の研究」にて文化勲章受章。
  • 1966年(昭和41年)、老衰にて死去。94歳

友人の岡田道一らと日本心霊医学会を主宰したり、日本催眠学会 (田宮馨会長) の顧問、豊島岡女子学園中学校・高等学校第4代校長・理事長、勇退後は初代学園長、蓮沼門三によって結成された修養団の第3代団長を務めるなど多くの要職を兼ねた。

健康法[編集]

二木は秋田佐竹藩の藩医、樋口家の出身で、元の姓は樋口であった。8人兄弟の3番目に生まれた。3歳の頃、同じ秋田藩の藩医、二木家に養子縁組して、二木姓を名乗る。生まれた時には1年ももたないと言われる程の虚弱であった。20歳まで心身ともに数多くの病気に悩まされたが、徴兵検査のときに検査官から虚弱な病身を指摘され、軍隊の黒い麦飯を食えと一喝され、その翌日から麦飯食を始めた。これにより、虚弱な病身から開放された。このように二木は、藩医の家の生まれであること、そして、また、自らの深刻な病弱を日本の伝統的な食養生により救われたという原体験により西洋医学の道に進路をとり、そして、それと矛盾することなく東洋的な健康法の普及活動に志向した。

食事法としては玄米菜食による完全食は用いず、動物は少なくし、二分間煮で食べることを提唱していた。二木自身は48歳より、1日1食、玄米、塩なし、油なし、火食なし、動物不要の食事となった[21]

正心調息法の創始者である塩谷信男は二木の健康法を実践して病弱体質を克服した。二木は晩年も元気に活動し、亡くなる前には全国の弟子たちを電報で呼び集め、全員が揃ったところで「それじゃあ、君たち、最後の息をするから、さようなら」と言って世を去ったという[1]

食事[編集]

完全食
基本的には死んだものでなく生きた新鮮なものを、動物よりは植物を摂取することを推奨。中でも玄米は完全食であるという。
二分間煮
野菜を煮て食するに際しては、調理過程として、煮始めて沸騰し始めるが、沸騰時間は2分間として即加熱を停止し、蓋をしたまま5分~10分程してから食することをいう。
二分間煮とは沸騰二分間ということである。
適応食
年齢、性別、職業、季節、地勢などに応じて適切な食べ物を選択すべきであると説く。
  • 乳児 母乳、果汁、おかゆ
  • 1~6歳 玄米、野菜、豆、芋
  • 7~15-6歳 上記植物類に加えてえび、あさり等の小動物
  • 15-6歳から上は男女が分かれてくる
    • 男性 肉体労働を行う男性は食物欠乏のときは肉をとってもよい
    • 女性 大きな動物は食べないほうがよい
  • 40~60歳(初老) 男性でも大きな動物を食べるのはやめ、15歳以前の子供と同じく野菜類と小動物にする
  • 60~80歳(中老) 5歳以前の子供と同じく穀菜食にする
  • 80~(大老) ものをよく噛んで汁だけをしゃぶって食べる

二木式腹式呼吸法[編集]

胸と腹が一緒に出て一緒に引っ込んでゆく胸腹式呼吸法を推奨。肺の呼吸面をまんべんなく広くし、肺全体が自由に呼吸することになる。息を吸うときは腹が膨れるように硬くなるように吸い、あまりいきまないように少しとらえてから静かに吐き出す。胸の方から先に空気を出し、次に上腹にある空気が胸を通って外へ出るように、下腹には少し空気が残るように出す。

逸話[編集]

  • 二木家に養子縁組されてまもなく、母親のところへ帰りたいがために、魚屋の行商の後へついて10キロ以上に及ぶ道を一人で歩くという、小さい頃から非常に強固な意志の持ち主だったことを物語るエピソードがある。
  • 体が元来弱かったことは先述したが、大学進学後、本人が「俺は一切ものを忘れてしまった。分らないと言ったら分らない。何も分らなくなってしまった。」と語るほど、文字も読めなくなってしまうようなひどい神経衰弱を患ったが、持ち前の根性で回復。その経験が、ドイツ留学以降の偉業を生む下地となっている。
  • 元々謙虚な性格で、新型病原菌を発見しても、自分の名前を使用する事は一切考えなかった。コレラ竹内菌という名前も患者の名前を使用し、駒込A菌・B菌も実験道具で有名な駒込ピペットも勤めていた駒込病院から取ったものである。
  • 神道についても造詣が深く、古事記や祝詞の講義を行ったり明治期の神道家・川面凡児(かわつら ぼんじ)の確立した行法に基づき禊の練成会を行っていた。
  • 60代のとき、皇武館(合気会本部道場の前身)に入門し合気道開祖植芝盛平に師事した。早朝に道場を訪れ、寝ている内弟子を叩き起こしては投げ飛ばし、すぐに帰っていくのが常だったという。また上記の練成会の参加者にも合気道を紹介しており、その一人である阿部醒石はのちに植芝の弟子になった。

著書[編集]

  • 『コレラ予防注射講話』 国家医学会、1916年大正5年)。
  • 『食物と健康』 修養団出版部、1921年(大正10年)8月。
  • 身土不二』任天居、1929年(昭和4年)。
  • 『完全営養と玄米食』 1932年(昭和7年)。
  • 『古史読本:全』 1932年(昭和7年)2月。
  • 『二木博士論文集』高木逸麿、1933年(昭和8年)9月。
  • 『完全にして正しき食物』 大日本養正会《大日本養正会叢書1》1932年(昭和7年)10月
  • 『なぜ玄米でなければならぬか:栄養上経済上より見たる玄米白米等の比較優劣図表並に其の解説』大日本養正会《大日本養正会叢書2》、1934年(昭和9年)4月。
  • 『腹式呼吸と健康』 大日本養正会《大日本養正会叢書3》、1936年(昭和11年)12月。
  • 『栄養の適応と体質改善』 大日本養正会《大日本養正会叢書4》、1937年(昭和12年)9月。
  • 『米食の実際』 大日本養正会《大日本養正会叢書5》、1941年(昭和16年)。
  • 『国家経済と国民栄養図表解説』 大日本養正会《大日本養正会叢書6》、1940年(昭和15年)12月。
  • 『古事記神代篇の正しき解釈』 大日本養正会《大日本養正会特輯1》、1938年(昭和13年)7月。
  • 『二木博士講話集』大日本養正会《大日本養正会特輯2》、1939年(昭和14年)。
  • 『日本人種の起原新説・大和言葉の特性:日本人種日本国土生え抜論』大日本養正会《大日本養正会特輯3》、1939年(昭和14年)6月。
  • 『健康への道:完全正食の医学』 新紀元社、1942年(昭和17年)9月。
  • 『栄養の効率化』 大日本養正会。
  • 『目先の健康と本当の健康』前島会、1957年。
  • 『健康への道』致知出版社、2003年2月。ISBN 978-4884746438。(新紀元社からの初版は1942年(昭和17年))。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b 二木謙三 『健康への道』致知出版社、2003年2月。ISBN 978-4884746438。1頁
  2. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年11月7日、夕刊7頁<4>。平成25年10月30日閲覧。
  3. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年11月7日、夕刊7頁<4>。平成25年10月30日閲覧。
  4. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年11月10日、夕刊7頁<5>。平成25年10月30日閲覧。
  5. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年11月12日、夕刊7頁<6>。平成25年10月30日閲覧。
  6. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年11月7日、夕刊7頁<4>。平成25年10月30日閲覧。
  7. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年11月14日、夕刊7頁<7>。平成25年10月30日閲覧。
  8. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年11月14日、夕刊7頁<7>。平成25年10月30日閲覧。
  9. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年11月21日、夕刊7頁<10>。平成25年10月30日閲覧。
  10. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年11月26日、夕刊7頁<11><12>。平成25年10月30日閲覧。
  11. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年12月3日、夕刊7頁<14>。平成25年10月30日閲覧。
  12. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年12月3日、夕刊7頁<14>。平成25年10月30日閲覧。
  13. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年12月10日、夕刊7頁<17>。平成25年10月30日閲覧。
  14. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年12月12日、夕刊7頁<18>。平成25年10月30日閲覧。
  15. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年12月15日、夕刊7頁<19>。平成25年10月30日閲覧。
  16. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年12月19日、夕刊7頁<21>。平成25年10月30日閲覧。
  17. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年12月24日、夕刊7頁<22>。平成25年10月30日閲覧。
  18. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年12月26日、夕刊7頁<23>。平成25年10月30日閲覧。
  19. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和61年12月17日、夕刊7頁<20>。平成25年10月30日閲覧。
  20. ^ 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、昭和62年1月7日、夕刊7頁<25>。平成25年10月30日閲覧。
  21. ^ 『新食養』1号(通巻95号)、5頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

先代:
平沼騏一郎
修養団団長
第3代:1946年 - 1964年
次代:
倉田主税

会員長