植芝盛平

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うえしば もりへい
植芝 盛平
生誕 1883年明治16年)12月14日
和歌山県西牟婁郡西ノ谷村
死没 1969年昭和44年)4月26日
東京都新宿区若松町17-18 合気会本部
国籍 日本の旗 日本
別名 開祖」、「大(翁)先生」、「常盛」、号「守高」
職業 武道家、合気道創始者、合気道初代道主
身長 156cm
体重 75kg(20歳時)
子供 植芝吉祥丸
親戚 井上鑑昭)、植芝守央
受賞 正五位勲三等瑞宝章勲四等旭日小綬章紫綬褒章

植芝 盛平(うえしば もりへい、1883年明治16年)12月14日 - 1969年昭和44年)4月26日)は、日本武道家。合気道の創始者。合気道界では「開祖」(かいそ)と敬称される[5]

概説[編集]

和歌山県田辺の富裕な農家に生まれた。大東流を初めとする柔術剣術など各武術の修行成果を、大本教神道などの研究から得た独自の精神哲学で纏めなおし、『和合』、『万有愛護』等を理念とする合気道を創始した。

身長156㎝ながら大相撲力士を投げ飛ばすなど幾つもの武勇伝で知られ、また老境に至っても多くの“神技”を示し「不世出の達人」と謳われた。太平洋戦争大東亜戦争)中は軍部に有用性を認められ、陸軍憲兵学校海軍大学校などで武術指導を行う。

終戦後息子で後継者の植芝吉祥丸と共に合気道の社会普及に務めた。合気道は日本国内だけでなく世界的に大きく広まり、柔道空手道などに次ぐ国際的武道に育った[6]。盛平の功績は社会的に高く評価され、紫綬褒章勲三等瑞宝章などを受賞した。

年譜[編集]

出生・幼少期[編集]

  • 1883年明治16年)12月14日、和歌山県西牟婁郡西ノ谷村(後の田辺市)の富裕な農家・植芝家の長男(姉3人・妹1人)として生まれた。
  • 父・与六は村会議員を務める村の有力者で、巨躯・怪力の持ち主、母ゆきは甲斐武田氏の末裔という糸川家の出で文を良くしたという。盛平は与六にとって40歳にして始めて恵まれた待望の男児であり、終生与六の寵愛を受けて育つ。
  • 幼少時の盛平は病弱で内向的な読書好きの少年であった。寺の学問所で四書五経を習う一方、数学物理の実験に熱中するが、これを危ぶんだ与六は、近所の漁師の子供と相撲を取らせるなどして、盛平の体力と覇気を養うよう努めた。生来負けず嫌いの気性もあり、やがて盛平自身盛んに海に潜ってはモリ突きを楽しむなど活発で外向的な少年に育っていった。しかし14~5歳までは華奢な痩身であったという。

青年期[編集]

  • 1896年(明治29年)13歳。田辺中学校に進むが一年を経ず中退、珠算学校を経て田辺税務署に勤務する。
  • 1901年(明治34年)18歳。「磯事件」(漁業法改正に反対する漁民の権利運動)に加担し、それが元で税務署を退職。
  • 1902年(明治35年)19歳。春上京し父与六の援助により文房具卸売業「植芝商会」を設立。その傍ら起倒流柔術[9]神陰流剣術[10]を学ぶ。商売は成功するが、夏頃不摂生が祟って脚気を患い、店を従業員に譲って無一文で帰郷する。
  • 田辺で静養し健康を回復する。脚気克服のため始めた裸足で山野を駆け巡る鍛錬により頑健な体となる。
  • 同年10月、2歳上で幼馴染の姻戚・糸川はつと結婚。

日露戦争前後[編集]

  • 1903年(明治36年)20歳。この頃盛平の身長515(約156㎝)体重20貫(75kg)、日夜の鍛錬の結果、短躯ながら筋骨逞しい重厚な体格となっていたが、徴兵検査の身長合格基準5尺2寸に足りず不合格となる。これに発奮した盛平は、更に鍛錬に励み、また嘆願を繰り返し熱意が買われたこと・日露間の緊張の高まりなど時勢の変化もあり同年12月の再検査で合格、陸軍大阪第4師団歩兵第37連隊に入隊。
  • 同時期に柳生心眼流柔術中井正勝に入門。行軍演習銃剣術の訓練において目覚しい活躍を見せ、仲間から「兵隊の神様」と持て囃された。銃剣術は上官の代理で教官を務めたという。
  • 1904年(明治37年)21歳。2月8日、日露戦争勃発。
  • 1905年(明治38年)22歳。伍長に昇進。軍は盛平を銃剣術の教官として内地に留め置きたい意向だったが、盛平自身は戦地への転出を度々直訴する。8月、ようやく第2軍大阪第4師団和歌山歩兵第61連隊に配属され戦地に出征するが、戦争の趨勢は既に決しており、本格的な戦闘に参加することは無かった。9月5日終戦。
  • 1906年(明治39年)23歳。帰国。軍曹に昇進。上官から陸軍戸山学校への入学を勧められ職業軍人への道を歩みかけるが、父の反対により断念、同年除隊し田辺に帰郷する。

田辺・柔道・神社合祀策反対運動[編集]

  • 田辺ではしばらくの間進路も定まらず悶々とする日々を送った。夜中に突然飛び起きて井戸水を頭から被る・一日中暗い室内に閉じ篭り祈祷にふける・家人に当り散らす・山中で断食するなど奇行を繰り返した。これを心配した父与六は自宅納屋を改造して柔道場を作り、田辺来遊中の柔道家・高木喜代市(のち講道館9)を高額を以って招き指導を依頼した。盛平はたちまち柔道に夢中となり躁鬱の気も軽減、道場には近郷の青年も集まり青年会の趣を呈す。
  • 軍隊時代・柔道修行を通じ盛平の体力は強健さを増し、その剛力を買われて近郷の家々につきに呼ばれるたびにを突き折ってしまい、仕舞には茶菓子だけ出されて餅つきは体よく断られるようになったという。
  • 1908年(明治41年)25歳。坪井政之輔より柳生心眼流免許を受ける。
  • 1909年(明治42年)26歳。この頃起きた南方熊楠神社合祀策反対運動に共鳴、地元青年・住民を率いて熊楠に協力し熱心に活動する。
  • 1910年(明治43年)27歳。長女松子出生。

北海道開拓[編集]

  • 1912年(明治45年/大正元年)29歳。政府の北海道開拓団体募集に応じ、農家・漁民の次三男を主とする54戸80余名の「紀州団体」長として紋別郡上湧別村白滝原野(のち白滝村遠軽町)に移住する。原生林の伐木などの重労働、夏季の暴風雨、冬季の酷寒・豪雪、3年連続の凶作などのため難儀を極める。盛平は率先して伐木に取り組む傍ら、役所への陳情嘆願に奔走、またハッカ栽培・製材事業・馬産酪農を奨励、入植3年目以降は開拓民の生活も好転、小学校建設、商店街・住宅の整備を図り、村は活況を呈するようになる。
  • 伐木作業への従事により盛平の豪力ぶりはますます強靭さを増した。食料買出しの帰り3人の強盗に遭い雪中に叩き込んだ、坂道を転落した馬車を馬ごと上まで押し上げたなどの逸話が残る。また“監獄部屋”と呼ばれる劣悪な建設現場から逃げ出した工夫を義侠心から匿い、現場を仕切るヤクザと話を付けて助けてやったことが噂となり、盛平を頼って逃げてくる工夫が続出、それらの全てを助けたという。これが地元新聞に取りあげられ、盛平は「白滝王」と称され周囲の尊敬を集めた。

武田惣角に入門[編集]

  • 1915年大正4年)[11]31歳。2月に所用で訪れた遠軽の旅館で武術家・大東流武田惣角に出会い、その技に衝撃を受け入門、宿泊を一月延長し指導を受ける。豪力で鳴らした盛平だったが、当時54歳・身長150cmに満たない小柄な惣角の多彩な極め技に抗う術も無く捻じ伏せられたという。
  • 1916年(大正5年)33歳。白滝に道場を設けて惣角を招き、村の有志十数人と共に熱心に学び「秘伝奥儀」の免許を授かる。盛平は惣角に献身的に仕え、惣角の巡回指導にも随行、警察署長裁判所判事など地位の高い人物が多かった惣角の門人を代理指導することもあり、「判事を教える有能な人物」として評判になったという[12]
  • 1917年(大正6年)34歳。5月白滝に山火事を発端とする大火災が発生、開拓地はほぼ全焼という大被害を受ける。盛平は住民を励まし不眠不休で復興に東奔西走した。7月長男武盛出生。
  • 1918年(大正7年)35歳。推されて上湧別村会議員に当選、名実共に土地の名士となる。

出口王仁三郎との邂逅・大本入信[編集]

  • 1919年(大正8年)36歳。父与六危篤の報に帰郷を決意、白滝の土地家屋など全財産を武田惣角に譲渡し妻子を連れ北海道を離れる。帰郷途中の汽車内で宗教団体大本の実質的教祖であった出口王仁三郎の噂を聞き、与六平癒の祈祷を依頼するため京都府綾部に立ち寄り王仁三郎に邂逅、その人物に深く魅せられる[13]
  • この間に与六死去(享年76)、物心両面の庇護者であった父を失い憔悴した盛平は1920年(大正9年)37歳、一家を率い綾部に移住、大本に入信する。王仁三郎はこれを喜び、盛平を自らの近侍とし「武道を天職とせよ」と諭した。盛平は王仁三郎の下で各種の霊法修行に努めるが、同年8月長男武盛(3歳)9月次男国治(1歳)を病により相次いで亡くす。秋頃王仁三郎の勧めで自宅に「植芝塾」道場を開設。
  • 1921年(大正10年)38歳。2月に第一次大本教弾圧事件が起こるが、植芝塾は波及を免れる。6月、三男吉祥丸誕生。
  • 1922年(大正11年)39歳。当時の大本には陸海軍軍人も多く出入りしており、彼らも盛平の門人となっていた。同年春、綾部に惣角が妻子と共に訪れ、盛平は海軍中将浅野正恭ら門下の軍人たちと共に指導を受ける。9月、目録「合気柔術秘伝奥儀之事」及び「大東流合気柔術教授代理」の資格を授けられる[14]
  • この時から王仁三郎の命名により、自らの武術を「合気武術」と称し、また武道としての精神的な裏付けを求め「言霊」の研究に没頭する。
  • 同年、大本の食糧自給体制の責任者「農園世話係」に就任、開墾農作に従事しつつ武道修行に励む生活方式「武農一如」を実践する。7月母ゆき死去(享年71)。

パインタラ事件・黄金体体験[編集]

  • 1924年(大正13年)41歳。2月、満蒙の地に宗教国家の建設を目指す王仁三郎に随伴し出国、満州へ渡る。関東軍特務機関斡旋の元、満州の支配者・張作霖配下の馬賊・盧占魁(ろ せんかい)の率いる「西北自治軍」と共にモンゴルへ向かうが、盧の独走を疑った張の策謀により幾度も死の危機に晒される。この時の銃撃戦で、敵弾が来る前に「のツブテ」が飛んでくるのが見え、それを避けることで敵弾から逃れるという体験をする。6月吉林省白音太拉(パインタラ)付近にて、張の意を受けた支那中央政府官兵・奉天軍によって捕らえられ通遼に連行、盧及びその部下はことごとく銃殺。王仁三郎・盛平ら日本人一行6人も銃殺場に引き出され死を覚悟する。しかしたまたま王仁三郎らの遭難に気付いた日本人旅行者が日本領事館に通報、パインタラに駆けつけた日本領事館員の交渉により処刑は直前で中止され、九死に一生を得る(「パインタラ事件」または「パインタラの法難」)。王仁三郎らは日本領事館に引き渡され、7月本国に送還された。
  • 第一次大本事件によって大本の活動が制限される中、王仁三郎は大長編叙事詩『霊界物語』の口述に力を注いでいた。特別篇「入蒙記」は満蒙探検-バインタラ事件の体験記であり、植芝は「守高」の名前で登場する[15]。現地人の前で柔術の実習と実技を行って人気を集めたが、強すぎて悪人と誤解されることもあったという[16]
  • 1925年(大正14年)42歳。春頃、綾部にて剣道教士の海軍将校と対戦しこれを退ける。この時も相手の木剣が振り下ろされるより早く「白い光」が飛んで来るのを感知して相手の攻撃を素手でことごとくかわし、将校は疲労困憊し戦闘不能に陥ったという。その直後盛平は井戸端での行水中に、「突如大地が鳴動し黄金の光に全身が包まれ宇宙と一体化する」幻影に襲われるという神秘体験に遭遇、「武道の根源は神の愛であり、万有愛護の精神である」という理念的確信と「気の妙用」という武術極意に達する。(「黄金体体験」)

上京~皇武会設立[編集]

岩間隠棲・終戦[編集]

  • 1940年(昭和15年)57歳。この頃から茨城県岩間町において合気神社の建設に着手する。昭和10年頃から同地に土地を少しずつ買い足しており、引退後の住処にする計画であった。
  • 1941年(昭和16年)58歳。12月8日日米開戦。この前後に近衛文麿の依頼を受けて中国大陸に渡り、支那派遣軍総司令官畑俊六と連携し、蒋介石との和平交渉工作を試みるが不首尾に終わる。
  • 1942年(昭和17年)59歳。戦時統制策により皇武会は政府の外郭団体大日本武徳会の「合気道部」に統合され、便宜上「合気道」を名乗る。盛平は武徳会には門人の平井稔を代理人として派遣、これを機に自らは一切の公職を辞し、皇武館道場長を息子吉祥丸に譲り、妻はつと共に岩間に移住、合気神社および住居周辺を開墾し道場の建設にも着手、李垠より金壱百円を下賜される。同地を「合気苑」と名付けかねてより念願であった「武農一如」の生活に入る。
  • 1943年(昭和18年)60歳。5月3日、武田惣角が青森にて死去。享年84歳。この頃盛平は岩間で大病を患い一時重篤な状態となって二木謙三の往診を受けており、惣角の葬儀には参列しなかった[23]
  • 1945年(昭和20年)62歳。東京の本部道場は空襲による焼失を免れるも、避難民を収容し活動困難となる。終戦となり戦地より復員した弟子達は岩間の盛平を頼って集まり、やがて吉祥丸の手により本部道場も復興、東京と岩間を軸に戦後皇武会の活動が始まる。

戦後・合気会設立[編集]

  • 1948年(昭和23年)65歳。2月9日に「皇武会」は「財団法人合気会」(初代理事長・富田健治)と改称、岩間の合気苑を本部とし、改めて文部省の認可を受けた。この時はじめて正式に「合気道」を名乗る。これにより盛平は初代合気道「道主」となる。
  • 1950年(昭和25年)67歳。4月、合気会機関紙・月刊『合気会報』(後の『合気道新聞』)発行開始。この頃より全国各地の道場を盛平が訪れ指導を行うようになった。
  • 1954年(昭和29年)71歳。日本総合武道大会(長寿会主催)で盛平の高弟・塩田剛三が優勝し、財界人の援助を得て「合気道養神館道場」を創設し合気道の普及に名乗りを上げる。合気会もこれに大きな刺激を受け、大学官庁企業などに相次いでクラブを設立、合気会本部を岩間から東京道場に移し、本格的な合気道の普及に乗り出す。

一般への公開と世界展開~晩年[編集]

  • 1956年(昭和31年)73歳。9月、5日間に渡り百貨店・高島屋東京店(日本橋店)屋上で、吉祥丸企画による合気道初の一般公開演武会開催。
  • 1960年(昭和35年)77歳。1月、盛平のドキュメンタリー映画『合気道の王座』がNTV(後・日本テレビ)により製作される。5月14日東京代々木山野ホールにて合気会主催「第1回合気道演武大会」が開かれ1600人の観衆を集める[24]11月3日紫綬褒章受章。
  • 1961年(昭和36年)78歳。ハワイ合気会の招きにより渡米、ハワイ各地で演武指導を行う。11月1日、皇居園遊会に招待され出席。ドキュメンタリー映画『合気道』が製作される。
  • 1962年(昭和37年)79歳。盛平監修・吉祥丸著による初の一般向け技術書『合気道』が出版される。
  • 1964年(昭和39年)81歳。「合気道創始の功績」により勲四等旭日小綬章に叙せられる。
  • 1966年(昭和41年)83歳。ブラジルのアポストリカ・オルトドシア教会総大司教より最高名誉称号「伯爵」位を贈られる。
  • 1967年(昭和42年)84歳。7月、吉祥丸が合気会二代目理事長に就任。12月15日、近代的な鉄骨三階建ての合気会本部道場が新築完成。
  • 1969年(昭和44年)86歳。4月26日午前5時、肝臓癌のため東京本部道場同敷地の自宅で死去。同日、生前の「合気道の創始・ならびに普及の功績」により政府から正五位勲三等瑞宝章追贈される。生地田辺市の高山寺が墓所となった。戒名「合気院盛武円融大道士」。和歌山県田辺市名誉市民、茨城県岩間町名誉町民の称号を贈られる。6月14日、吉祥丸が二代目道主を継承。6月26日、妻はつも病のため後を追うように死去(87歳)。

死後の影響[編集]

  • 1975年(昭和50年)田辺市にて顕彰式典開催、高山寺墓地に「開祖植芝盛平碑」が建てられた。
  • 1988年(昭和63年)田辺市で第5回国際合気道大会が開催されたのを記念し、扇ヶ浜公園に銅像が建てられた[25]
  • 2009年(平成21年)茨城県笠間市合気神社に銅像が建てられた[26]

※ 以上、特に注記のない記述は、『植芝盛平伝』に基づく。

エピソード[編集]

元大相撲力士・天竜を投げる
1939年(昭和14年)春、満州国新京で開かれた演武会で、力比べを挑んできた元大相撲関脇天竜(和久田三郎)を投げ倒した。この時天竜34歳、身長187センチ体重116キロ(身長体重は現役時代)。一方の盛平55歳、身長156センチ体重75キロ(身長体重は20歳時)。
この前年に満州国武道会常務理事の職に就いていた天竜は、同国高官に日本武道を紹介するために、盛平の他、高野佐三郎中山博道を始めとする剣道・柔道・弓道など当時の武道の大家を招聘して公開武道演武会を開催した。盛平は門人で甥の井上鑑昭を受けに流れるような演武を披露、満場の喝采を浴びる。この好評により後日武道家達の要請を受けて中央銀行道場で再び盛平の演武会が開かれた。しかし技の余りの流麗さに「ヤラセではないのか?」というざわめきが場内から湧き上がる。これを察した盛平は「おそらく、あなた方はこんなに上手く行く筈がない、馴れ合いでやっていると思われるでしょう。あなた方は武道をやっておられるから、我と思わん人は、この爺さんの所へ来て下さい」と呼びかけた。それに応じたのが天竜だった[27]。この一件により天竜は盛平に弟子入り、終生交流が続いた。

そうしたら先生は、「あんた天竜さんじゃないですか、あんたもおそらく、このじじいが、こんなにうまく投げられるとは思わないだろう。しかし武道というものは、そんなものじゃない」といい、自分は左手のほうが弱いからと左手を出し、「あんたは力も強いだろう。力も何も入れてないから何をしてもいい。やってご覧なさい」といわれたのです。
私は、「このじじい何をいってる」と思い、手をつかんだのですが、途端ハッと思いましたね。まるで鉄棒をつかんだような感じだったのです。
もちろん私どもは相撲界にいて、いろいろなことを知っていますから、これはいかんと思いました。もうそれで負けですよ。でもそのまま下がるわけにはいかず、とにかくねじ上げてみようと、グーッとやったが、ビクともしない。それで両手を使って力一杯やろうとしたのですが、それをうまくドーンと使われてひっくり返されていた。(中略)こういう武道があるかとほんとうに驚きました。その晩先生の宿舎を訪ねて、「どうか弟子にしてください」とお願いしましたら、牛込若松町の道場(皇武館道場)へ来なさいということになりました。

『植芝盛平と合気道 1』天竜三郎インタビュー、228-229頁

憲兵隊の待ち伏せ襲撃を一人で返り討ちにする
1941年(昭和16年)頃、陸軍憲兵学校が盛平の武術の実戦性を認め、柔・剣道を廃し合気武道を正課に組み入れた。盛平が憲兵学校で教授した際には、腕試しを挑まれたり集団で待ち伏せ襲撃を受けたことがあったが、その度にこれを捻じ伏せ実力を思い知らせたという。(以下、盛平の回想談。)

ある日の夕方、ふらりと練兵場を歩いていると、何か身の回りがおかしい。ははア、こりゃ何かあるなと…思っていると、不意にそこここの草むらや窪地からわッと三十名ばかり躍り出てきた。ぐるッとわしを取り囲み、手に手に木刀木銃をふりかざし打って掛かってきた。ところがこっちは不意打ちはもう昔から慣れっこなんで、屁とも思わない。四方八方から襲ってくるのをヒラリヒラリ体(たい)をかわし、チョイチョイと突ついてやると、面白いように転がる。木刀とか木銃はけっこう重いから、むやみに振り回せばその分だけエネルギーが消耗されてしまうのは理の当然である。(中略)ものの五、六分でみんな息切れして戦意を喪失してしまった。

『植芝盛平伝』240-241頁。

なお、この襲撃の首謀者は荒川博(元プロ野球選手1956年(昭和31年)合気会本部道場に入門し、読売ジャイアンツコーチとして王貞治に合気道から着想した一本足打法を指導、ホームランキングに育て上げる。)の縁者であった。

もっと自信持ったのはね、うちの女房の従兄弟が憲兵隊長をしてたんだ。(中略)彼は部下に植芝先生を闇討ちさせたらしいんだ。ところが部下はことごとくやられたらしいんだ。『お前、合気道やってんだってな。いやあ、あの爺さんは強いぞ、本物だぞ』、そういう風に言ってたよ。

荒川博インタビュー 『季刊合気ニュース NO.142』32頁

木刀を叩いて跳ね飛ばされる
荒川博が現役選手時代に、合気会本部道場で盛平に指導を受けた時のこと。当時70代半ばの盛平が荒川に向かい「ボールだと思って打て」と木刀を突き出して来る。荒川がそれを木刀で叩くと、自分が跳ね飛ばされたという。

僕は先生が飛んじゃうんじゃないかと心配しながら、木刀でバーンとバッティングの要領でひっぱたいたら、僕のほうが植芝翁の右前方へ前のめりになった。「こらいけねえ」と思って思い切ってもう一度バーンとひっぱたいたら、今度は僕が吹っ飛んじゃったよ。僕がバットを振ったとたんに、なんか木刀がくっついたかなと思っているうちにどーんと向こうに持って行かれちゃった。もう信じられないよ(笑)。ちょうど鉄棒をひっぱたいてんのと一緒だろうな。だから振った分、僕の力の分だけ飛んでっちゃったわけだよね。(中略)それが先生が76~77歳の時だよな。そういう話がいくらでもあるわけよ。たとえば、「荒川君、おいで」っていうから行ったら、頭をひゅっと触られてぐじゃって潰れちゃったこともある。

荒川博インタビュー 『季刊合気ニュース NO.142』32頁

剣道家羽賀準一の談話
盛平と親交のあった剣道中山博道有信館)の高弟である羽賀準一は、1932年(昭和7年)頃から盛平の道場に数えきれないほどの回数訪問していた。

わたしがはじめて植芝先生のお稽古を拝見したときに感じたことは、あれあれ、これは見事な八百長だなあ、と。そのため、当時は三日に一度以上も参上していて、先生に学ぼうなんて気持ちは一片もなく、勝手な熱をあげて一杯ご馳走になり、それでひきあげてきたものでした。
ある日、昔なら加賀百万石の殿様、当時陸軍少将だった前田利為さんが稽古にこられ、書生が「前田閣下がお見えになりました」とわたしと対談中だった老先生に知らせてきました。しかし、話に花が咲いたのか、老先生は立ち上がられない。そのうちまた書生が「前田閣下がお帰りになります」と報告にきたが、それでもまだ立ち上がられない。わたしがびっくりして「前田閣下をお送り申しあげなくてもよろしいのですか」といったところ、老先生は言下に「あなたはお客さん、前田さんは弟子だ。お客をほっといてなんで師匠が弟子を玄関に送らねばならんか」と申された。さすがの強情者のわたしもこの一言には返答できず、ただ頭を下げたことでした。(中略)
かくして二年くらいのあいだ、植芝道場に出かけてはわがままいっぱいご迷惑をおかけして、昭和9年春、朝鮮京城に剣道師範として赴任しましたが、出発前のある日老先生の稽古を拝見して驚いたの驚かないの、びっくりぎょうてん、ああこれはほんもの、この二年間おれはなにを見てきたのだろうか。おれの目はあいているのになにも見えていない、なんと情けないことか。まったく慚愧に堪えない。涙を流して過ぎ去った日々を惜しんだものでした。その後上京するたびに老先生を訪れて道をうかがい、こんにちに至ったのです。

堂本昭彦編著『羽賀準一 剣道遺稿集』、島津書房 124-126頁

剣道家中倉清の談話
羽賀準一中島五郎蔵と共に「有信館三羽烏」と謳われた中倉清は、1932年(昭和7年)から1936年(昭和11年)まで盛平の婿養子であった。

若いころ、私は合気道を習ったことがあった。古今まれにみる柔術の名人であった植芝守高(盛平)師についたが、師はどのような強力無双の相手でも、自在に手玉にとり、見る者に八百長と思わせるほどだった。私も最初はそう思った。しかし、自分が実際に手を取ってもらい、はじめてその実力に圧倒された。師は入り身転換の術に妙を得ておられ、四方八方から打ち突かせ、前後左右の体さばきで相手の力を利用し、簡単に投げ飛ばしておられた。これを見たとき、私は剣道も前後の進退だけでなく、左右の動きを考えなければいけないと思った。そして少しずつ研究しては稽古に取り入れていった。後年、この発見と修業がたいへん役立っている、と思われる。極意に一歩でも近づく修業は、あらゆることからはじめなければと痛感している。

堂本昭彦『鬼伝 中倉清烈剣譜』、スキージャーナル 96頁

女の子は大事にしろ
晩年の盛平は、稽古で女性を少しでも乱暴に扱うような場面を見ると激しく叱責したという。

女の子と稽古している時に、「お前は受身だけとれ! 女の子は大事にしなければいけない」と(笑)。一時間受身を取ってました。

『開祖の横顔』164頁 渡辺信之(盛平門人)

女性の袴
男性が初段を允可されないとの着用を許されないのに対して、女子は初段前・入門時からでも袴の着用が許される場合がある。これは稽古中に受け身をとって道着がめくれて(あるいは汗で道着が透けて)下着が見えるのを隠すための盛平による配慮に由来する[28]
柔道家阿部謙四郎を組み伏せる
1934年(昭和9年)頃、盛平は、武道専門学校柔道阿部謙四郎と汽車内で出会った。盛平は阿部に小指を握らせると、瞬時に阿部をその場に組み伏せて見せたという。
阿部はこれに感動し、以後盛平について10年間合気道を学んだ。後に阿部は、「講道館柔道史上最強」と謳われた木村政彦との試合に勝利する。木村が最後に破れた相手がこの阿部である。木村は阿部に柔道の技を何度かけてもふわりふわりと受け流され、その度逆にこっぴどく投げ飛ばされて意気消沈し、一時は柔道を辞めようと思うほどのショックを受けたという。

私は阿部について調べるうち、不思議なところに辿り着いた。イギリスの合気道である。阿部は昭和三十一年(一九五六)、イギリスに渡っている。
在英合気道家ヘンリー・エリスが教えてくれた。
「イギリスでは、阿部先生は非常に優れた柔道家として、また、初めて合気道を持ち込んだ武道家として有名なんです」
しかし、阿部が合気道をやっていたという日本の史料はない。
「阿部先生は京都の武専を出た柔道の専門家です。いったいどこで合気道を習ったのですか?」
疑問をぶつけてみると、エリスは数十年前そのいきさつを阿部に直接聞いたことがあると言う。阿部は拙い英語でエリスに説明してくれた。
阿部が二十歳前後で、武専の学生だった頃の話だ。
柔道の試合のために夜汽車に乗っていた阿部の向かいの席に、髭を伸ばした老人が座っていた。
目が合うと、老人が言った。
「私は君を知っているよ」
「私は柔道のチャンピオンですからご存じなんでしょう」
阿部はあくまで慇懃に答え、礼儀として老人に名前を尋ねた。
「あなたの名前も教えていただけませんか」
「植芝盛平だ」
阿部は植芝の名を知らなかったので、興味を覚えず、「疲れているので眠らせていただきます」と言った。すると、植芝が阿部の顔に小指を突き出した。
「この小指を折ってみなさい」
阿部はその非礼にいらついて、植芝を黙らせるために思い切り小指を握った。その瞬間、阿部は車両の床に組み伏せられた。阿部はその場で植芝に弟子入りし、十年間合気道を習うことになる。(中略)
エリスは「阿部先生はたいへん控えめな方です。自分からこういう話をしたりはしなかったので、疑問に思った私が聞いてみたんです」と言うから、脚色なしの真実だろう。阿部は柔道家としての修業を続けながら、植芝に合気道も習っていたのである。
阿部の柔道には合気道の血が流れていたのだ。
その血が、木村をして「まるで真綿に技をかけたようにフワリと受けられ、全然効き目がない。かける技かける技すべて同じ調子で受けられてしまう」と言わしめたのだろう。

増田俊也木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(「ゴング格闘技」、2008年6月号)

植芝盛平の門人[編集]

カッコ内は入門した年

戦前
(1921年–1945年)
戦後
(1946年–1960年)
晩年
(1961年–1969年)

植芝盛平と交流のあった人物[編集]

著作物[編集]

盛平著書[編集]

  • 武道練習』 1933年。
  • 武道』 1938年。
    • 「植芝守高」名義で書かれた技術書。数百部のみ自費出版され関係者に配られた。縦26.7cm、横18cm、全50頁に119枚の盛平演武写真(受けは植芝吉祥丸、塩田剛三、他一名[34])による50の技(準備動作、体術の基本技、短刀取り、太刀取り、剣対剣、銃剣術、終末動作)が掲載され、盛平の解説文が付いている。同書は当時盛平が個人指導していた賀陽宮恒憲王皇族陸軍中将)のため、テキストとして作られたものだという[35]
    • Budo: Teachings of the Founder of Aikido(英文版) JOHN STEVENS訳、講談社インターナショナル1996年ISBN 4770020708

語録・インタビュー[編集]

  • 高橋英雄編著 『武産合気-植芝盛平先生口述』 白光真宏会出版局、1986年ISBN 4892140805
  • 植芝吉祥丸監修 『合気神髄-合気道開祖・植芝盛平語録』 八幡書店2002年ISBN 4893503820
  • 合気ニュース編集部編 『決定版 植芝盛平と合気道1-開祖を語る直弟子たち』 どう出版2006年ISBN 4900586811
    • ラジオインタビュー「美しきこの天地の御姿は主のつくりし一家なりけり」(1965年)収録。
  • 合気ニュース編集部編 『決定版 植芝盛平と合気道2-開祖を語る直弟子たち』 どう出版、2006年、ISBN 4900586838
    • インタビュー「花の言い伝え通りに私は生まれたのです」(1969年)、「うるわしきこの天地の御姿は主のつくりし一家なりけり」(1956年)収録。

盛平監修[編集]

  • 植芝吉祥丸著 『合気道』 光和堂1962年
  • 植芝吉祥丸著 『合気道技法』 光和堂、1962年。
    • 植芝守央(復刻版)監修 『合気道技法-復刻版』 出版芸術社、2007年(1962年刊の復刻)、ISBN 4882933330

伝記[編集]

映像[編集]

DVD[編集]

  • 達人の秘術と剣聖の心 植芝盛平と中山博道』 クエスト、2003年
  • 合気道クラシックス』 合気ニュース(どう出版)2004年ISBN 4900586471
    • 1954年頃旧合気会本部道場で撮影された演武と、1962年城北支部道場5周年記念演武大会演武を収録。
  • 植芝盛平と合気道 第一巻 「合気武道編」』 どう出版、2008年ISBN 4900586994
    • 記録映画 『武道』(1935年、久琢磨監督、大阪朝日新聞社制作)収録。
  • 植芝盛平と合気道 第二巻 「武産合気編」』 どう出版、2008年、ISBN 4904464001
  • 植芝盛平と合気道 第三巻 「米国TV制作編」』 どう出版、2008年、ISBN 4900586986
    • 1958年米国TV制作ドキュメンタリー収録。
  • 植芝盛平と合気道 第四巻 「和合の道編」』 どう出版、2008年、ISBN 490446401X
  • 植芝盛平と合気道 第五巻 「神業編」』 どう出版、2008年、ISBN 4904464028
  • 植芝盛平と合気道 第六巻 「合気道の心編」』 どう出版、2008年、 ISBN 9784900586451
    • 1961年製作ドキュメンタリー映画『合気道』収録。
  • 植芝盛平合気道の王座』 BABジャパン、2008年、ISBN 4862203892
    • 1960年(昭和35年)にNTV(後・日本テレビ)により『合気道の王座』として製作されたドキュメンタリー映画。

植芝盛平を題材とするメディア作品[編集]

小説[編集]

ノンフィクション[編集]

漫画[編集]

映画[編集]

  • 激突! 合気道』 
    • 盛平若き日の活躍を描いたアクション映画。

脚注[編集]

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  1. ^ 『植芝盛平伝』220頁。
  2. ^ 大正末年から1941年(昭和16年)頃まで使用[1]
  3. ^ 『合氣道で悟る』49頁。
  4. ^ 「猿田彦大神の御神示として、昭和二十八年一月二十一日に常盛と命名が下された[3]」がある。
  5. ^ 敬称・号…他に敬称として「」(おう)。特に古い高弟は「翁先生」・「(おお)先生」と呼ぶ。また盛平がある時期用いた別号として「守高(もりたか)[2]」、「常盛(つねもり)[4]」。
  6. ^ 日本武道協議会加盟。
  7. ^ 出典:『植芝盛平伝』61頁
  8. ^ 「武術秘伝書夢世界」第57話「明治期、浅草公園奥で催された柔術試合興行。プロレス興行の先駆けとも言える武道大会の宣伝ポスターの中に現代合気道の源泉に連なる人脈の存在を発見す」
  9. ^ 東京での武術修行植芝吉祥丸は「開祖は(中略)起倒流の戸張滝三郎氏の門をたたくことになる」「開祖は生前この人を戸澤徳三郎だといっていたが、私が調べたかぎりではその名の柔術家は当時いなかった。おそらく、浅草の道場でかなり名の知られていた戸張滝三郎氏の名を記憶違いしていたものと思われる」と述べている[7]。これに対し、「月刊秘伝」(2001年10月1日号、BABジャパン)における平上信行による記事[8]を、大宮司朗『「技」と「言葉」』18-19頁で紹介している。

    「…番付選手の名前を見てゆくと驚いたことに西の前頭の筆頭として何と『戸澤徳三郎』の名が見えるのである。(中略)戸澤徳三郎師範はこの時期の東京に確かに実在し、柔術選手として柔術大会に出場し柔術文化の興隆に努めていたのである。(中略)この大会は天神真楊流系の大会と見られるから戸澤徳三郎も恐らくは天神真楊流の師範ではなかったかと見られる。」

  10. ^ 神陰流剣術…大宮司朗は「加藤田神陰流」であるとしている。(出典:『「技」と「言葉」』20頁
  11. ^ 惣角との邂逅年『植芝盛平伝』95頁には「明治四十五年(一九一二年)二月」とあるが、同書302頁には「明治四十五年=大正元年(一九一二)」「五月二十日ごろ」北海道に入植した、とあり時系列が合わない。ここでは『合気道教室』13頁の記述「大正4年2月」を採用する。
  12. ^ 判事を教える有能な人物…出典:『合気道教室』13頁
  13. ^ 出口王仁三郎との出会い…盛平の祈祷依頼に王仁三郎は一言「あなたのお父さんは、あれでよいのや」と父の天命を悟らせたという。盛平は綾部に3日間留まり、与六の臨終には間に合わなかった。(出典:『植芝盛平伝』110頁
  14. ^ 綾部で惣角講習会…出典:『合気道教室』15頁
  15. ^ 『霊界物語-入蒙記』第22章
  16. ^ 『霊界物語-入蒙記』第15・17章
  17. ^ 王仁三郎に「塩水を何杯飲めるか」という勝負を挑んできた「バラモン修行者」と自称する男に対し、盛平が身代わりとなってこれを競い、胃腸を傷めたのが原因とされる。(『植芝盛平伝』187頁
  18. ^ この御所での指導は盛平と大本教の関わりを警戒する内務省検察から反対された経緯があり、憤慨した盛平は数日で綾部に帰った。
  19. ^ 柳生新陰流を学ぶ『合気道教室』17頁
  20. ^ http://www.dou-shuppan.com/aikido/um.html
  21. ^ 惣角大阪朝日新聞に来訪…この後惣角と盛平が会った記録はない。出典:『武田惣角と大東流』36頁
  22. ^ 鹿島新当流に入門…実際の稽古は新当流の青木政重と飯田という高弟の指導で赤沢や吉祥丸が習い、盛平は見ているだけで技を覚え、青木らが帰った後で赤沢らと技の研究を行ったという。(出典:合気ニュース『植芝盛平と合気道 1』18,211-212頁
  23. ^ 惣角の死…出典:『武田惣角と大東流』36-38,308頁
  24. ^ 以後毎年開催され、観客の増加に伴い日比谷公会堂を経て1972年(昭和47年)からは日本武道館で行われている。
  25. ^ 田辺市HP | スポーツ振興課 | 合気道開祖・植芝盛平翁 2012年11月28日閲覧。
  26. ^ 公益財団法人 合気会 | お知らせ | 開祖像建立実行委員会代表報告 2012年11月28日閲覧
  27. ^ 天竜を投げる…出典:『植芝盛平伝』245-249頁
  28. ^ 女性の初段前からの袴着用…出典:『氣の確立』93頁
  29. ^ a b 『開祖の横顔』86頁、黒岩洋志雄の証言。
  30. ^ ちなみに植芝の門弟・塩田剛三とも、拓殖大学の先輩・後輩という関係から親交があった増田俊也木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』、新潮社
  31. ^ 堂本昭彦『鬼伝 中倉清烈剣譜』、スキージャーナル 97-98頁
  32. ^ 武道練習…志々田文明・成山哲郎 『合気道教室』 ISBN 4469162884、20頁。
  33. ^ (財)合気会/合気道図書館/Budo Training in Aikido
  34. ^ 他一名『武道解説編』14頁には「大久保という男性」、「合気道探求」(出版芸術社)第二号には「米川成美(戦前の内弟子)」とある[要出典]
  35. ^ 技術書『武道』…出典:『武道解説編』14-28頁

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

先代:
合気道合気会開祖
-1969
次代:
植芝吉祥丸