東京大空襲

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戦略爆撃 > 日本本土空襲 > 東京大空襲
空襲前(左)と空襲後(右)の航空写真
焦土と化した東京本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたもの。右側にある川は隅田川
空襲を行ったB-29爆撃機
日本本土空襲のためのB-29が並んでいるサイパン島イズリー飛行場(1945年)

[ファイル:Firebombing of Tokyo.jpg|thumb|300px|空襲をうける東京市街、1945年5月25日。画面中央は現在の東京女学館・日赤医療センター付近、画面下から画面右上に伸びるのは渋谷川、画面下に山手線東横線の交差と思しきものが見えることから広尾上空と推定される。なお、北方向は写真左側となる。撮影当時、現地を南南西の風が吹いていたことがこの写真から見て取れる。]]

東京大空襲(とうきょう だいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。日本各地に対する日本本土空襲アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下沖縄戦と並んで、都市部を標的とした無差別爆撃によって民間人に大きな被害を与えた。空襲としては史上最大規模の大量虐殺とされる[1]

東京は1944年昭和19年)11月14日以降に106回の空襲を受けたが、1945年昭和20年)2月26日,2月28日特に1945年(昭和20年)3月10日4月13日4月15日5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上と著しく多い1945年3月10日の空襲を指すことが多い[2][3]。この3月10日の空襲だけでも罹災者は100万人を超えた[3]

空襲の経緯[編集]

アメリカ軍による対日戦略爆撃計画[編集]

1942年(昭和17年)4月18日に、アメリカ軍による初めての日本本土空襲となるドーリットル空襲航空母艦からのB-25爆撃機を使って行われ、東京も初の空襲を受け、荒川区、王子区、小石川区、牛込区が空襲を受けた[4]。死者は39人[5]

焼夷弾爆撃有効度別地域[編集]

アメリカ軍による空襲計画の地図(米軍報告「東京-川崎-横浜都市複合体に対する空襲攻撃の効果」)

1942年にはナパーム焼夷弾M69が開発され、1943年の国家防衛調査委員会(NDRC)焼夷弾研究開発部のレポートでは、住宅密集地域に焼夷弾を投下して火災をおこさせ、住宅と工場も一緒に焼き尽くすのが最適の爆撃方法であるとしたうえで、空爆目標の日本全国20都市を選定し、さらに東京、川崎、横浜など10都市については焼夷弾爆撃の有効度によって地域を以下のように区分した[6][7]

  • 最有効地域1:都市中心部商店街地域、密集地域、住宅工場混在地域で一マイル四方あたりの人口密度9万1000人、都市人口の25%を占める地域。この地域は一平方マイルあたり6トンの焼夷弾で焼き尽くすことが可能。
  • 有効地域2:港湾施設、倉庫、貨車操車場などもある住宅地域、住宅工場混在地域、工場地域で一マイル四方あたり人口密度5万4000人、都市人口の46%以上を占める地域。これは一平方マイルあたり10トンの焼夷弾で焼き尽くすことが可能。
  • 非有効地域:最有効地域1、有効地域2以外の郊外の住宅地域や防火設備の整ったオフィス街を含む工場地帯。
  • 空爆目標の日本全国20都市の主要部はM69焼夷弾1700トンでを焼き尽くすことが可能。

大規模攻撃報告書[編集]

1943年2月15日付けのアメリカ経済戦争局の報告書「日本の都市にたいする大規模攻撃の経済的意義」では爆撃隊対象都市の選定にあたって人工密度、火災危険度、輸送機関と工場の配置などを基準に弾爆撃有効度が測られ、一覧表が作られた[6]。特に人口密度は重視され、東京の各区人口密度順では、浅草区13万5000人が最高で、本所区神田区下谷区荒川区日本橋区荏原区の各区が8万人以上とされ、3月10日の東京大空襲では、これらのうち荏原区を除いて代わりに7万人台の深川区の北半分を加えた地域が焼夷弾攻撃地域第一号となった[6]

また、アメリカ軍は江戸時代の度重なる大火関東大震災(1923年)における被害実態を事前に徹底的に検証し、木造住宅の密集する東京の下町が特に火災被害に遭いやすいことをつきとめていた。この成果を爆弾の選定や攻撃目標の決定に反映させ、東京大空襲の被害地域・規模は関東大震災の延焼地域とほぼ一致しているのは偶然の一致ではなく、そして大震災時を大幅に上回った。

実験場[編集]

アメリカ軍は日本家屋を再現した実験場を作り、大規模な延焼実験を行っている。実験用に立てられた日本家屋は、室内の日系人の多いハワイからわざわざ取り寄せて精巧に作り上げられた。これらの実験がクラスター焼夷弾開発の参考とされたことにより、東京大空襲を初めとする日本本土への無差別爆撃で効果的被害を与えることに成功した。

毒ガス散布計画[編集]

連合国は東京に効果的に毒ガスを散布するための詳細な研究を行っており、散布する季節や気象条件を始めとして散布するガスの検討を行い、マスタードガスホスゲンなどが候補にあがっていた[8]

マリアナ攻略以後の空襲[編集]

フィリピン海(図中央)の東に位置するマリアナ諸島。南端はグアムで、北には小笠原諸島があり、伊豆・小笠原・マリアナ島弧を形成している。
グアムアンダーセン空軍基地(1972年)。1944年にB-29爆撃機用の基地として作られ、ベトナム戦争中はB-52が展開した。

ドーリットル空襲後、東京への空襲は途絶えていたが、B-29爆撃機の開発と生産が完了し、さらに1944年6月から8月にかけてマリアナ諸島を米軍が制圧するとB-29爆撃機による日本本土爆撃が可能となった。

1944年(昭和19年)6月15日からのマリアナ・パラオ諸島の戦いで日本軍に連戦したアメリカ軍は、7月9日にサイパンの戦いサイパン島を、8月1日にテニアンの戦いテニアン島を、8月10日にグアムの戦いグアムなどのマリアナ諸島を制圧し占領し、テニアン島ハゴイ飛行場(現ノースフィールド飛行場)とウエストフィールド飛行場(現在テニアン国際空港)、グアムアンダーセン空軍基地サイパン島コンロイ・イズリー飛行場(現在サイパン国際空港)を建設した。これらの巨大基地の建設によって、B-29爆撃機の攻撃圏内に東京を含む日本本土のほぼ全土が入るようになった[9]。日本ではマリアナ諸島陥落の責任を東条内閣に求め、1944年7月18日に内閣総辞職した[9]

アメリカ陸軍航空軍は、第20空軍第21爆撃集団をマリアナ諸島に展開させ、同年10月末からトラック島硫黄島に対する手慣らし作戦を行った。1945年3月26日硫黄島の戦い硫黄島が陥落すると、米軍は護衛戦闘機用の発進基地と、B-29が修理をできる不時着基地を確保した[10]

なお、陸上から発進したB-29による空襲のほか、1945年2月15日のジャンボリー作戦を皮切りに、機動部隊から発進した小型機による東京空襲も行われている。

1944年(昭和19年)の東京空襲[編集]

1944年11月[編集]

1944年12月[編集]

1945年(昭和20年)の東京空襲[編集]

1945年1月[編集]

ルメイ司令官による無差別攻撃立案[編集]

当初1944年(昭和19年)11月24日にヘイウッド・ハンセル准将の指揮により始められた日本本土空襲は、軍需工場、製油所などの目標地点のみを攻撃する計画だった。なぜならハンセルは非戦闘員たる一般市民を巻き込む無差別爆撃に対して非人道的だという感情を抱いていたからだった。[要出典]しかし、元々米軍による日本本土空襲は、戦闘員同士の通常の戦闘では米軍側の被害も多く出るので、それを回避しつつ日本の降伏を早めることが狙いだった。そのためには「軍需工場のみならず、軍需工場の労働者の家や使用する道路鉄道を破壊することが効果的だ」というヘンリー・アーノルド大将の意を受けて、1945年(昭和20年)1月21日にカーチス・ルメイ少将と交代し、ルメイは第21爆撃集団司令官に就任した。ルメイは大規模な無差別攻撃を立案、その手始めに東京を選んだ。 ただし、かなりのリスクを背負っていた。それは、

  1. 燃料節約のためB-29は編隊を組まないで、単独飛行にしたこと。コースを外れる危険性があった。
  2. 高度7000–8000フィートの低高度から焼夷弾を投下する。日本上空の強い風を避け、目標を絞りやすいが、対空砲火や日本の戦闘機の標的になりやすい。
  3. 爆撃の効果を上げるために搭乗員を減らしてまで、焼夷弾や燃料の搭載量を増やした。迎撃に遭遇しても反撃できなかった。

というものだった。

このルメイの立案の低空飛行に兵士が難色を示すと、ルメイは葉巻を噛み切って「なんでもいいから低く飛ぶんだ」と言ったという。空襲時の東京を空から一定の時間おきにスケッチするため高度1万メートルに留まっていた飛行機もあり、帰還後ルメイはそのスケッチを満足げに受け取ったという。ルメイは、「この空襲が成功すれば戦争は間もなく終結する。これは天皇すら予想できぬ」と説得した[13]

エンキンドル3号作戦[編集]

1945年2月[編集]

ミーティングハウス1号作戦[編集]

焼夷弾を投下するB-29爆撃機
  • 1945年2月25日(日)、ミーティングハウス1号作戦。神田区、本所区、四谷区、赤坂区、日本橋区、向島区、牛込区、足立区、麹町区、本郷区、荒川区、江戸川区、渋谷区、板橋区、葛飾区、城東区、深川区、豊島区、滝野川区、浅草区、下谷区、杉並区、淀橋区空襲、死者195人、被害家屋20681[4]宮城も主馬寮厩仕合宿所が焼夷弾によって消失し、局、大宮御所、秩父宮御殿などが被害にあった[5]。下谷区は死者3人[4]。初期の軍事目標への高々度精密爆撃は失敗が多く、カーチス・ルメイ第21爆撃集団司令官の意見で、分散した夜間低空飛行によりレーダー照準爆撃で市街地を目標とする戦術が検討されるようになった。このミーティングハウス1号作戦では、曇天と吹雪が予想された影響もあって離陸前から目標を市街地へ変更し、従来と同じ日中の高々度爆撃ではあったものの、使用弾種の9割を焼夷弾とする新戦術が導入された[14]。それまでで最多の229機が出撃し、神田駅を中心に広範囲を焼失し、新戦術が効果的であることが判明した[15]
  • 1945年2月26日、荒川区、足立区空襲[4]

1945年2月26日-28日での時期のB-29による東京空襲は、昼間に8000メートル程度の高高度を編隊で飛びながらノルデン爆撃照準器による目視照準を主用し、悪天候時には雲より高空からレーダー照準を活用する精密爆撃を意図したものだった。工場などが目標のため、使用弾種も焼夷弾ではなく通常爆弾が中心だった。攻撃隊は東京西部からジェット気流に従って侵入し爆撃を行うのが通例で、悪天候で攻撃目標を捉えられない場合にはそのまま東進して市街地を爆撃することがあった[14]

1945年3月[編集]

  • 1945年3月4日豊島区、滝野川区、城東区、向島区、杉並区、本郷区、葛飾区、足立区、深川区、荒川区、下谷区、江戸川区、北多摩郡田無町、保谷町、府中町、久留米村空襲。死者650人、被害家屋4085戸[4]
  • 1945年3月5日、江戸川区、城東区、目黒区、蒲田区空襲。死者2人[4]
  • 1945年3月7日八丈島空襲、死者1人[4]

1945年3月10日の空襲 (ミーティングハウス2号作戦)[編集]

警防団と思われる焼け焦げた遺体の山。死者・行方不明者は8万人、民間の調査では10万人以上といわれている。(石川光陽撮影)
母子と思われる二つの遺体。子供を背負って逃げていたらしく、母親の背中が焦げていない(石川光陽撮影)
鎮火後の街の風景(石川光陽撮影)

ミーティングハウス2号作戦と呼ばれた1945年3月10日の大空襲(下町大空襲)は、高度1600–2200メートル程度の超低高度・夜間・焼夷弾攻撃という新戦術が本格的に導入された初めての空襲だった。その目的は、木造家屋が多数密集する下町の市街地を、そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。この攻撃についてアメリカ軍は、日本の中小企業が軍需産業の生産拠点となっているためと理由付けしていた。

アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の三個航空団で、325機のB-29爆撃機が出撃した。各B-29には、ほぼ全ての機関銃弾薬を爆弾投下機の多くから降ろし、焼夷弾の搭載量が優先され、通常の約2倍の搭載量である6トンもの高性能焼夷弾を搭載した。この空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1783トンにものぼった。投下された爆弾、焼夷弾が、当時の日本家屋を焼き払うために最適化されたものだった。

また、「低空進入」と呼ばれる飛行法が初めて大規模に実戦導入された。この飛行法ではまず、先行するパス・ファインダー機(投下誘導機)によって超低空からエレクトロン焼夷弾が投弾、その閃光は攻撃区域を後続する本隊に伝える役割を果たした。その本隊の爆撃機編隊も通常より低空で侵入した上、発火点によって囲まれた領域に向けて集束焼夷弾E46を集中的に投弾した。この爆撃の着弾精度は、高空からの爆撃にくらべて高いものだった。

アメリカ軍がミーティングハウス2号作戦の実施を3月10日に選んだ理由は、延焼効果の高い風の強い日と気象予報されたためである[16]。3月10日が日本の陸軍記念日であることに因むという説も有力だが、アメリカ側の資料で確認されているわけではない[要出典]

3月9日夜、アメリカ軍編隊が首都圏上空に飛来した。日本軍もその行動を探知し、日本標準時9日22時30分にはラジオ放送を中断、警戒警報を発令した。ところが、アメリカ軍機が従来の空襲とは異なった航路を採ったことから、日本軍は敵機が房総半島沖に退去したものと誤認し、警戒警報を解除してしまった[17]。これにより生じた隙を突くように、3月10日に日付が変わった直後の午前0時7分、爆撃が開始された。325機の出撃機のうち279機が第一目標の東京市街地への爆撃に成功し[17]、0時7分に

へ初弾が投下されたのを皮切りに、城東区(現在の江東区)にも爆撃が開始された。

空襲警報は遅れて発令され、初弾投下8分後の0時15分となった。遅れた理由は、アメリカ軍機はウインドウを大量に散布してレーダーによる捕捉に対抗しており、また当時吹いた強い季節風によって防空警戒用レーダーのアンテナが揺さぶられ精度が低下し、編隊の把握に支障が生じたためであった。

0時20分には芝区(現在の港区)に対する爆撃も開始された。この他、下谷区、足立区、神田区、麹町区、日本橋区、本郷区、荒川区、向島区、牛込区、小石川区、京橋区、麻布区、赤坂区、葛飾区、滝野川区、世田谷区、豊島区、渋谷区、板橋区、江戸川区、深川区、大森区が被害にあった[4]。災難の中で昭和天皇の初孫の東久邇信彦防空壕で誕生した日でもあった。

一部では爆撃と並行して機銃掃射も行われた[18]。日本側資料では「アメリカ軍機が避難経路を絶つように市街地の円周部から爆撃した後、中心に包囲された市民を焼き殺した」と証言するものがあるが、そのような戦術はアメリカ軍の資料では確認できない。アメリカ軍の作戦報告書によれば、目標が煙で見えなくなるのを避けるため、風下の東側から順に攻撃する指示が出されていた。体験者の印象による誤解と考えられる[19]

使用爆弾[編集]

この爆撃において投下された爆弾の種類は、この作戦で威力を発揮した新型の集束焼夷弾E46 (M69) を中心とする油脂焼夷弾黄燐焼夷弾エレクトロン焼夷弾、ゼリー状のガソリンを約50センチメートルの筒状の容器に詰めたナパーム弾などである。この焼夷弾は、投下時には各容器が一つの束にまとめられており、投下後に空中で散弾のように各容器が分散するようにされていたため、「束ねる」という意味を込めて「クラスター焼夷弾」と呼ばれた。

使用された焼夷弾は当時の通常爆弾とは異なる構造のものだった。通常の航空爆弾では、瞬発または0.02–0.05秒の遅発信管が取り付けられており、破壊力は主に爆発のエネルギーによって得られる。しかし木造の日本家屋を標的にそのような爆弾を用いても、破壊できる家屋が爆風が及ぶ範囲のものに限られ、それを免れた家屋は破壊されず散発的な被害にとどまってしまう。そこでアメリカ軍は、市街地を火災により壊滅させるため、爆発力の代わりに燃焼力を主体とした焼夷弾を用いることとし、その焼夷弾も日本家屋に火災を発生させるために新たに開発した。投下時に確実に日本家屋の瓦屋根を貫通させるため、上述した形状が選ばれるとともに、空中での向きを制御する吹流し状のものも個々の容器に取り付けられた。これにより、各容器が家屋の内部に到達して内部から火災を発生させる確率が高められた。都内では当時すでに、関東大震災を教訓にした燃えにくい素材で建物を補強する対策がなされていた。しかし、防火性のある瓦屋根を貫いて建物の内部で着火剤を飛散させ、中から延焼させる仕組みのこれら焼夷弾の前にその対策は徒労に終わった。この焼夷弾の開発の参考にされたのは、同盟国ドイツによるロンドン空襲において回収された不発弾だった。

被害規模[編集]

犠牲者の遺体を調べる警察官
被害数

当時の警視庁の調査での被害数は以下の通り。

  • 死亡:8万3793人[4]
  • 負傷者:4万918人
  • 被災者:100万8005人
  • 被災家屋:26万8358戸[4]

人的被害の実数はこれよりも多く、死者約8万-10万、負傷4万-11万名ともいわれる。上記警視庁の被害数は、早期に遺体が引き取られた者を含んでおらず、またそれ以外にも行方不明者が数万人規模で存在する。民間団体や新聞社の調査では死亡・行方不明者は10万人以上と言われており、単独の空襲による犠牲者数は世界史上最大である。両親を失った戦災孤児が大量に発生した。外国人、および外地出身者の被害の詳細は不明。

また当時東京に在住していた朝鮮人9万7632人中、戦災者は4万1300人で、死者は1万人を軽く越すと見られている[20][21]

大火災

この空襲で一夜にして、東京市街地の東半部、実に東京35区の3分の1以上の面積にあたる約41平方キロメートルを焼失した。爆撃による火災の煙は高度1万5000メートルの成層圏にまで達し、秒速100メートル以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れ、さながら火山の大噴火を彷彿とさせた。午前2時37分にはアメリカ軍機の退去により空襲警報は解除されたが、想像を絶する大規模な火災は消火作業も満足に行われなかったため10日の夜まで続いた。当夜の冬型の気圧配置という気象条件による強い季節風(いわゆる空っ風)は、大きな影響を及ぼした。強い北西の季節風によって火勢が煽られ延焼が助長され、規模の大きい飛び火も多発し、特に郊外地区を含む城東地区や江戸川区内で焼失区域が拡大する要因となった。さらに後続するアメリカ軍編隊が爆撃範囲を非炎上地域にまで徐々に広げ、当初の投下予定地域ではなかった荒川放水路周辺や、その外側の足立区葛飾区江戸川区の一部の、当時はまだ農村地帯だった地区の集落を含む地域にまで焼夷弾の実際の投下範囲が広げられたことにより、被害が拡大した。これは早い段階で大火災が発生した投下予定地域の上空では火災に伴う強風が生じたため、低空での操縦が困難になったためでもあった。

爆撃の際には火炎から逃れようとして、隅田川や荒川に架かる多くの橋や、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人も多かった。しかし火災の規模が常識を遥かに超えるものだったため、至る所で巨大な火災旋風が発生し、あらゆる場所に竜の如く炎が流れ込んだり、主な通りは軒並み「火の粉の川」と化した。そのため避難をしながらもこれらの炎に巻かれて焼死してしまった人々や、炎に酸素を奪われて窒息によって命を奪われた人々も多かった。焼夷弾は建造物等の目標を焼き払うための兵器だが、この空襲で使われた焼夷弾は小型の子弾が分離し大量に降り注ぐため、避難民でごった返す大通りに大量に降り注ぎ子供を背負った母親や、上空を見上げた人間の頭部・首筋・背中に突き刺さり即死、そのまま爆発的に燃え上がり周囲の人々を巻き添えにするという凄惨な状況が多数発生した。また、川も水面は焼夷弾のガソリンなどの油により引火し、さながら「燃える川」と化しており。水中に逃れても冬期の低い水温のために凍死する人々も多く、翌朝の隅田川荒川放水路等は焼死・凍死・溺死者で川面が溢れた。これら水を求めて隅田川から都心や東京湾・江戸川方面へ避難した集団の死傷率は高かった一方、内陸部、日光街道東武伊勢崎線沿いに春日部古河方面へ脱出した人々には生存者が多かった。

なお、この作戦におけるアメリカ側の損害は、撃墜・墜落が12機、撃破が42機だった。

その後の3月の空襲[編集]

1945年(昭和20年)の戸越公園駅。空襲で周囲が焼け野原と化している

これ以降も、日本側の産業基盤を破壊し、また戦意を挫くため東京への空襲は続けられ、また全国各地でも空襲が行なわれ、その結果多くの一般市民が犠牲となった。

1945年4月[編集]

  • 1945年4月1日、淀橋区、豊島区空襲、死者17人[4]
  • 1945年4月2日北多摩郡武蔵野町、板橋区、杉並区空襲、死者220人[4]
  • 1945年4月4日、淀橋区、下谷区、芝区、向島区、深川区、品川区、大森区、荏原区、蒲田区、江戸川区、世田谷区、立川市、北多摩郡府中町、武蔵野町、田無町、東村山町、小平町、清瀬村、保谷村、久留米村、拝島村村山村、国分寺町、三鷹町、昭和町、南多摩郡日野町、加住村、川口村、西多摩郡福生村、西秋留村空襲、死者710人[4]
  • 1945年4月7日新島、杉並区、四谷区、大森区、蒲田区、板橋区、世田谷区、北多摩郡調布町、武蔵野町空襲。死者44人[4]
  • 1945年4月12日、杉並区、板橋区、荒川区、滝野川区、北多摩郡武蔵野町、大和村、保谷町、田無町、南多摩郡七生町、新島、空襲。死者94人[4]
  • 1945年4月13日 - 4月14日、城北大空襲[22]。B29は330機。神田区、豊島区・渋谷区・向島区・深川区、淀橋区、小石川区、四谷区、麹町区、滝野川区、赤坂区、牛込区、荒川区、板橋区、中野区、王子区(現在の北区北部)、足立区、本郷区、下谷区、葛飾区、日本橋区、杉並区、江戸川区、城東区、浅草区空襲。死者2459人、焼失17万1370戸[4]。宮城御所も被害にあう[5]
  • 1945年4月15日 - 4月16日、八丈島、荏原区、大森区、品川区、目黒区、蒲田区、芝区、麻布区、世田谷区、渋谷区、向島区、日本橋区、江戸川区空襲[4]。B29・202機。死者841名。焼失5万874戸[4]。主として羽田・大森・荏原・蒲田方面。隣接している川崎市も同時に空襲を受けた(城南京浜大空襲)。空襲・機銃掃射を受け死傷者4004人、約22万戸もの家屋を焼失した。
  • 1945年4月18日北多摩郡府中町空襲[4]
  • 1945年4月19日、荏原区、目黒区、大森区、渋谷区、杉並区、世田谷区、立川市、

北多摩郡府中町、昭和町、大和村、三鷹町、小平町空襲。死者8人[4]

1945年5月[編集]

1945年5月25日の空襲で焼失した明治宮殿
明治宮殿豊明殿。跡地には1968年現在の宮殿が建設された。
1945年5月25日の空襲を受けた東京駅
東京駅のプラットホームの屋根も消失した。
  • 1945年5月1日、八丈島、三宅島空襲[4]
  • 1945年5月7日、足立区、王子区空襲[4]
  • 1945年5月12日、足立区空襲。死者3人[4]
  • 1945年5月19日、浅草区、荒川区、向島区空襲。死者10人[4]
  • 1945年5月20日、東京湾羽田沖。
  • 1945年5月23日、浅草区、麻布区。
  • 1945年5月24日 - B29・525機。死者762名。焼失6万5千戸。主として麹町・麻布・牛込・本郷方面。日本橋区、浅草区、麹町区、麻布区、牛込区、本郷区、品川区、中野区、板橋区、四谷区、江戸川区、京橋区、豊島区、蒲田区、荏原区渋谷区、杉並区、赤坂区、世田谷区、目黒区、芝区、大森区、淀橋区空襲[4]。死者762人、被害家屋64,487[4]
  • 1945年5月25日(金) - 山の手に470機ものB29が来襲した(山の手大空襲)。死者3651名。焼失16万6千戸。主として中野・四谷・牛込・麹町・赤坂・麻布、芝、世田谷、渋谷区、青山通り方面。目黒区、杉並区、小石川区、本郷区、大森区、品川区、城東区、深川区、浅草区、葛飾区荒川区、江戸川区、滝野川区、下谷区、京橋区、淀橋区、足立区、神田区、荏原区、豊島区、日本橋区、王子区、板橋区、向島区、立川市、北多摩郡国分寺町、調布町、三鷹町、田無町、小平町、谷保村、昭和町、砂川村、村山村、狛江村多磨村南多摩郡町田町、忠生村、鶴川村、稲城村、浅川町、西多摩郡大久野村、平井村、西多摩村、瑞穂町、調布村空襲[4]。死者3242人、被害家屋156,430[4]国会議事堂周辺や東京駅皇居も被災し明治宮殿が焼失した[5]御文庫に避難されていた昭和天皇は無事だった。死傷者は7415人[要出典]となった。また東京陸軍刑務所に収容されていた62人のアメリカ人捕虜が焼死した(東京陸軍刑務所飛行士焼死事件)。
  • 1945年5月29日、大森区、蒲田区、芝区、品川区、目黒区、四谷区、牛込区空襲で死者41[4]
  • 1945年5月31日、大島空襲[4]

1945年3月から5月にかけての空襲で東京市街の50%を焼失した。また、多摩地区立川八王子八王子空襲)なども空襲の被害を受けている。その後、空襲の矛先は各地方都市に向けられていく。

1945年6月[編集]

1945年7月[編集]

1945年8月[編集]

日本軍による迎撃[編集]

防空戦に出撃した機体の一つ三式戦闘機 飛燕

八丈島のレーダーは機影を捉えていたが、日本列島では猛烈な風のために本土防空隊は迎撃に出撃することができずにいた。その後爆撃隊がサイパンへの帰還中に迎撃可能となり爆撃隊を迎撃した。その際の戦果と陸軍の高射砲部隊の戦果を合わせて12機を撃墜、42機を撃破する戦果を挙げた[25]。5月25日に464機のB-29が来襲した際は、26機撃墜、86機撃破と本土空襲の中で最も大きな損害を与えた[26]。なお、この時墜落機の搭乗員の一人が逃亡途中で警防団員を射殺、逮捕された後に処刑されている(東京上野憲兵隊事件)。

これらの戦果は日本側の報告によるものであり、B-29の損失は実際はもっと少なかった。迎撃した搭乗員の報告と日本国内に墜落したB-29の数に乖離が大きいので、日本側の戦果報告は国民の間でも当時から怪しまれていた。

被害[編集]

空襲による被害者の総数は不明であるが、平成7年の東京新聞調査では全国で55万9197人、東京で11万6959人であった[27]

東京大空襲で落命した著名人[編集]

1945年5月25日の空襲で焼失した東京府庁舎(大正時代)。妻木頼黄設計で1894年完工。
空襲で焼失した大日本帝国陸軍参謀本部。明治末期撮影。

行方不明(死亡確定)

建造物[編集]

1945年5月25日の空襲で焼失した東京駅の全景(1945年撮影)
1945年5月25日の空襲で消失した慶應義塾大学三田大講堂大正4年撮影
空襲で消失した戦国時代大名結城晴朝が作らせた御手杵(復元)。全長約3.8m、重量は6(22.5kg)あったという。

美術工芸[編集]

戦災で焼失した国の指定文化財は170点にのぼる[28]

空襲を免れた地区[編集]

東京の市街地でも空襲を免れた区域がある。周囲が空襲で甚大な被害を受けながらも奇跡的に延焼を免れた地域としては、神田区須田町(現在の千代田区神田須田町)や向島区(現在の墨田区京島)が挙げられる。須田町では神田川が、京島では東武亀戸線沿いを流れていた小川がそれぞれ防火線となり、住民が川の泥や豆腐などを投じてまで懸命な防火活動にあたったことから、被害を免れた。またこの地区にも焼夷弾が落ちたが、空中で分解されずにそのまま落下したため不発弾となって軟弱な土中に深く埋まってしまい[注 1]、そのため亀戸線で限られた地域が焼け残った。この両地域は空襲以前にも関東大震災の際にも延焼を免れ、ほぼ大正初期の路地構成や建物の面影を今に残す、下町一帯の中では希有な地域である。但し「生き残った」ことにより、自動車も通れない明治大正期の極狭路地が迷路のように走る同地帯は、現在では防災面で深刻な問題のある地域として懸念され、現在にいたるまでさまざまな防災に関するまちづくり、取り組みが行われている[29]。ただし、自動車が通らないがゆえに重大交通事故発生を大幅に防ぐことができているという実態もある。中央区佃島月島地区も晴海運河が延焼を食い止めたことから戦火を免れ、現在も戦前からの古い木造長屋が残っている。対岸部の深川区(現在の江東区)が3月10日の下町空襲で壊滅状態となったのとは、明暗が分かれた形となった。

丸の内有楽町付近では東京府庁東京駅が空襲を受け全半壊したものの、内堀通り一帯の第一生命館明治生命館などが立ち並んでいた界隈は空襲を免れている。これは、占領後の軍施設に使用することを想定していたと言われている。宮城は対象から外されていたが、5月25日の空襲では類焼[要出典]により明治宮殿が炎上した。このため、松平恒雄宮内大臣が責任を取って辞任している。

東京帝国大学付近はロックフェラー財団の寄付で建てられた図書館があったことから空襲の被害は軽微だったが、懐徳館を焼失している。

また築地神田神保町一帯が空襲されなかったのも、アメリカ聖公会の建てた聖路加国際病院救世軍本営[要出典]があったからとも言われるが定かではない。神保町を空襲しなかった理由に古書店街の蔵書の消失を恐れたためという俗説もあるが、アメリカ軍は5月14日の名古屋大空襲で国宝名古屋城を焼いたり、ドイツドレスデン爆撃などで文化財の破壊を容赦なく行っていることから信憑性は低い。なお日本正教会ニコライ堂(東京復活大聖堂)およびその関連施設も空襲を免れ現代に残っている。遺体の収容場所が足りなくなったことによる本郷の町会の要請により、大聖堂には一時的に遺体が収容された[30]

戦後[編集]

戦争犯罪[編集]

空襲は、建前では軍施設や軍需産業に対する攻撃だが、東京大空襲は東京そのものの殲滅を目的とする無差別爆撃で多数の非戦闘員たる民間人が犠牲になっており、戦争犯罪ではないかとの指摘も強く、2007年の東京大空襲訴訟でも無差別攻撃はハーグ陸戦条約3条違反という主張がなされた[3]第一次世界大戦後の1922年、ハーグ空戦規則が採択され、軍事目標以外の民間人の損傷を目的とした無差別空爆は禁止されていた[3]

日本政府は、サンフランシスコ平和条約により賠償請求権を放棄している。

国内法でも軍人、軍属とその遺族への特別援護政策がとられた一方で、非軍人に対しては不十分な対策しか講じられていないとして議論がある[27]

ルメイ元司令官への叙勲[編集]

1964年(昭和39年)12月4日に日本本土爆撃を含む対日無差別爆撃を指揮したカーチス・ルメイに対し勲一等旭日章の叙勲を第1次佐藤内閣が閣議決定し[31]、理由は航空自衛隊育成の協力で、授与は7日に行われた[32]

当時非難の声があり国会で追及されたが、佐藤栄作首相は「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然、大国の民とはいつまでもとらわれず今後の関係、功績を考えて処置していくべきもの」と答える。小泉純也防衛庁長官も「功績と戦時の事情は別個に考えるもの」と答えている[33]。勲一等の授与は天皇親授が通例だが、昭和天皇はルメイと面会することはなかった。

ルメイは「もし、我々が負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸い、私は勝者の方に属していた」とも語っており[13]、NHK取材では戦争責任についての問いにルメイは勲章を示して見せた[34]。ルメイの前任者だったハンセル少将は、高高度からの軍事目標への精密爆撃に拘った故に解任されている。ルメイは「我々は日本降伏を促す手段として火災しかなかったのだ」と述懐している[13]

東京大空襲訴訟[編集]

2007年(平成19年)3月9日、「東京空襲犠牲者遺族会」の被災者・犠牲者の遺族112人(平均年齢74歳)は、日本政府に対し、謝罪および総額12億3,200万円の損害賠償を求めて東京地方裁判所に集団提訴をおこなった[35]アメリカ軍の空襲による民間の被害者が集団となって日本国に責任を問うのは初。目的は、旧軍人・軍属が国家補償を受けているのに対して国家総動員法に寄って動員された民間人は補償が行なわれていないことを理由に、「東京空襲が国際法違反の無差別絨毯爆撃だったことを裁判所に認めさせ、誤った国策により戦争を開始した政府の責任を追及する」ことである[3]。法的根拠は、ハーグ陸戦条約3条違反の無差別攻撃であった東京大空襲を行ったアメリカ政府に対して被災者は損害賠償請求権があるが、日本政府はサンフランシスコ平和条約により空襲被害について外交保護権を放棄した。これは憲法17条の公務員の不法行為に該当する、また戦時災害保護法によって国は救済義務を負っているが懈怠した、などというものだった[3]。なお、2006年には日本軍による重慶爆撃に対する謝罪と賠償を求めた重慶大爆撃賠償請求訴訟が開始している。

2009年12月14日の1審判決で請求棄却 [36]。原告側は控訴したが控訴棄却。2013年5月9日に最高裁が原告側の上告を棄却し、原告側の全面敗訴が確定した[37]。棄却の理由で、空襲被害者救済は裁判所では判断が出せず、国会立法で行うとした点は、国民の受忍限度とした旧来の判断から踏み込んだと弁護団は敗訴だが評価した[38]

2010年8月14日、日本政府が空襲被害者に補償をおこなう「空襲被害者等援護法」の制定を目指した「全国空襲被害者連絡協議会」が結成[39]。2011年6月15日には、超党派の議員連盟「空襲被害者等援護法を実現する議員連盟」が設立された[40]

朝鮮人罹災と強制連行賠償問題[編集]

朝鮮人被害者については体験者の証言から当時の状況を記録する運動もあり[41]、さらに、朝鮮人強制連行によって東京強制連行された朝鮮人が東京大空襲の被害にあったと主張する朝鮮人強制連行被害者・遺族協会も2008年に報告書を発表している[42]。報告書では、東京での朝鮮人強制労働犯罪、そして東京大空襲による朝鮮人強制連行被害者の惨状などが報告された[20]朝鮮新報は2008年6月6日記事で「日帝は、空襲があった後に天皇がこの地域を訪れるという口実を設けて、朝鮮人ら死者に対する身元調査すらしないまま、67カ所の公園と寺院、学校の運動場などに土葬し、後で掘り起こして合葬するなど、息を引き取った朝鮮人の遺骨を自分勝手にむちゃくちゃに処理する反人倫的な蛮行を働いた」「東京大空襲で多数の朝鮮人が犠牲になったのは、全的に旧日本政府と軍部の対朝鮮軍事的占領に起因する」とし、日本政府は被害者の遺骨を遺族に送るべきだったし、さらに南北朝鮮を差別して北朝鮮には一切の遺骨が返還されておらず、これは国際人道法と日本の刑法に違反している重大な人権侵害犯罪とし、徹底的に謝罪と賠償を早急に講じるべきと主張している[20]

2013年政府答弁書[編集]

2013年(平成25年)5月7日、第2次安倍内閣は東京大空襲についての答弁書を閣議決定した[43]。答弁書では、「国際法の根底にある基本思想の一つたる人道主義に合致しない」点を強調する一方、「当時の国際法に違反して行われたとは言い切れない」とも指摘し、アメリカへの直接的な批判は避けている[43]

記録[編集]

3月10日の空襲の惨状は、警視総監より撮影の任務を受けた、警視庁石川光陽によって、33枚の写真が残された(上の画像参照)。それらは戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) からネガを引き渡すよう命令が下るが、石川はこれを拒否し、ネガの代わりにプリントを提出することで追求を逃れる一方、ネガを自宅の庭に埋めて守り保管したという。この33枚の写真は、東京大空襲の悲惨さを伝える貴重な資料となっているが、石川自身は本当はこのような写真は撮りたくないと言っている。なお、石川はほかにも1942年(昭和17年)のドーリットル空襲から1945年(昭和20年)5月25日の空襲まで記録写真を撮影しており、東京の空襲全体では撮影枚数は600枚を越える。

慰霊、記念[編集]

「戦災により亡くなられた方々の碑」
台東区浅草七丁目一番

身元不明の犠牲者の遺骨は関東大震災の犠牲者を祀った「震災記念堂」に合わせて納められた。このため1951年(昭和26年)には、震災記念堂から東京都慰霊堂に名称が改められた。慰霊堂では毎年3月10日に追悼行事が行われているほか、隣接する東京都復興記念館に関東大震災及び東京大空襲についての展示がある。

東京都は1990年(平成2年)、空襲犠牲者を追悼し平和を願うことを目的として、3月10日を「東京都平和の日」とすることを条例で定めた。東京都では墨田区横網町公園に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」を設置し、遺族などからの申し出により判明した1942年から1945年の空襲犠牲者の犠牲者名簿(平成25年3月時点で79941名が登載)を納めている[4]

東京都江戸東京博物館には東京大空襲に関する展示がある。2001年開館を目指して東京都平和祈念館の建設も計画されたが、実現していない。

関連作品[編集]

映像
  • NHK特集「東京大空襲」(NHK制作)1978年3月9日放送。
  • 3月10日東京大空襲 語られなかった33枚の真実」(TBS制作)2008年3月10日放送。
    • 1945年3月10日の空襲 (ミーティングハウス2号作戦)において初弾が投下された4カ所の地域(現在の地域)については1978年のNHK特集では、深川区は現在の江東区深川木場、本所区は墨田区本所、浅草区は台東区浅草、日本橋区は中央区日本橋と紹介され、2008年のTBS番組では、それぞれ江東区白河4丁目、墨田区本所3丁目、台東区西浅草かっぱ橋道具街、中央区日本橋小網町とされた。
小説
映画
テレビドラマ
絵本

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 二発が不発弾となったことは確実で、更に一発が不発弾となったと言われているが確定的ではない。

出典[編集]

  1. ^ 早乙女勝元 『図説 東京大空襲』 河出書房新社〈ふくろうの本〉、2003年。
  2. ^ 奥住(1990年)、58頁。
  3. ^ a b c d e f 内藤光博「空襲被災と憲法的補償―東京大空襲訴訟における被災者救済の憲法論―」専修法学論集 (106), 1-51, 2009-07
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs bt bu bv bw bx by bz ca cb cc cd ce cf cg ch ci cj ck cl cm cn co cp cq cr cs ct cu cv cw cx cy cz da db dc dd de df dg dh di dj dk dl dm dn 「東京都戦災史 戦災日誌」昭和28年。リーフレット「東京空襲犠牲者を追悼し平和を記念する碑」東京都生活文化局文化振興部文化事業課、平成25年3月。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 小倉庫次侍従日記『文藝春秋』2007年4月号
  6. ^ a b c 今井清一「戦略爆撃と日本」日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室、2007年。2014.10.27閲覧
  7. ^ E・バートレット・カー『戦略・東京大空爆』 大谷勲訳、光人社、1994年
  8. ^ Britain considered chemical attack on Tokyo in 1944 Times June 26, 2009
  9. ^ a b 吉田裕「アジア太平洋戦争」岩波書店2007,p154-5.
  10. ^ 吉田裕「アジア太平洋戦争」岩波書店2007,p196-7.
  11. ^ a b c 奥住(1990年)、168-169頁。
  12. ^ a b c 中央区空襲被害の状況中央区平和記念バーチャルミュージアム、中央区。
  13. ^ a b c 読売新聞」平成18年3月10日号社説より
  14. ^ a b 奥住(1990年)、33頁。
  15. ^ 奥住(1990年)、47、50-51頁。
  16. ^ 奥住(1990年)、72頁。
  17. ^ a b 奥住(1990年)、76-77頁。
  18. ^ 奥住(1990年)、79-80頁。
  19. ^ 奥住(1990年)、73頁。
  20. ^ a b c 朝鮮新報 2008.6.6
  21. ^ 季刊「戦争責任研究」(日本の戦争責任資料センター)第53号
  22. ^ 4.13根津山小さな追悼会、平成25年4月11日、豊島区政策経営部広報課。灰の中からの脱出 城北大空襲後の暮らし矢島勝昭、「戦争と平和」サイト。2014.10.29閲覧。『豊島区史』通史編2、3。『決定版 昭和史 第12巻 空襲・敗戦・占領』 毎日新聞社 1983年。
  23. ^ 吉田裕「アジア太平洋戦争」岩波書店2007,p214.
  24. ^ 八王子市郷土資料館編『八王子の空襲と戦災の記録』
  25. ^ 『本土防空戦』渡辺洋二・著
  26. ^ 第二時大戦に於けるアメリカ陸軍航空軍戦闘日誌
  27. ^ a b 宍戸伴久「戦後処理の残された課題―日本と欧米における一般市民の戦争被害の補償―」国立国会図書館レファレンス. (695)2008-12
  28. ^ 『戦災等による焼失文化財―20世紀の文化財過去帳』戎光祥出版、2003年
  29. ^ 原 啓介:まちづくり・地域づくり(6)「こわれない」を目指す下町のまちづくり--東京都墨田区京島地区『地理』 56(10), 20-32, 2011年10月号
    池田ほか:3012 耐震防火同時補強技術の木造密集市街地への適用可能性と延焼シミュレーションによる火災延焼抑制効果の検討 : 墨田区京島地区におけるケーススタディ(防火)『研究報告』 2010(I), 533-536, 2011年3月など多数
  30. ^ 高井寿雄『ギリシア正教入門』教文館 (1980)
  31. ^ 朝日新聞夕刊昭和39年12月4日
  32. ^ 朝日新聞夕刊昭和39年12月7日
  33. ^ 昭和39年12月7日 47回衆議院予算委員会 8号
  34. ^ NHK特集 東京大空襲』でのNHKの取材
  35. ^ “東京大空襲、国を提訴 遺族ら12億円賠償請求”. 共同通信社. 47NEWS. (2007年3月9日). http://www.47news.jp/CN/200703/CN2007030901000392.html 2013年8月25日閲覧。 
  36. ^ “東京大空襲の賠償認めず 「救済対象者の選別困難」”. 共同通信社. 47NEWS. (2009年12月14日). http://www.47news.jp/CN/200912/CN2009121401000348.html 2013年8月25日閲覧。 
  37. ^ “東京大空襲で原告敗訴が確定 最高裁が上告退ける”. 共同通信社. 47NEWS. (2013年5月9日). http://www.47news.jp/CN/201305/CN2013050901001267.html 2013年8月25日閲覧。 
  38. ^ 2013年8月17日23時NHKEテレ放送ETV特集「届かぬ訴え~空襲被害者たちの戦後~」
  39. ^ “空襲被害の補償求め全国組織 「援護法」制定を訴え”. 共同通信社. 47NEWS. (2010年8月14日). http://www.47news.jp/CN/201008/CN2010081401000564.html 2013年8月25日閲覧。 
  40. ^ “太平洋戦争の空襲被害 援護法制定へ動き加速 超党派議員連法案来年提出”. 中国新聞. (2011年7月6日). http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20110705134650279_ja 2013年8月25日閲覧。 
  41. ^ 「東京大空襲・朝鮮人罹災の記録する会」“東京大空襲・朝鮮人罹災の記録”. http://www4.ocn.ne.jp/~uil/45310.htm 2013年11月22日閲覧。 
  42. ^ 朝鮮人強制連行被害者・遺族協会「日本の東京に連行され、米軍の空襲によって犠牲になった朝鮮人強制連行被害者問題に関する調査報告書」2008年。「東京大空襲・朝鮮人罹災の記録」PARTIII「葬り去られる犠牲者」に光を、一粒出版・2010年
  43. ^ a b “東京大空襲で答弁書 「人道主義に合致せず」”. 共同通信社. 47NEWS. (2013年5月7日). http://www.47news.jp/CN/201305/CN2013050701001318.html 2013年5月9日閲覧。 

参考文献[編集]

  • 奥住喜重・早乙女勝元 『東京を爆撃せよ―東京大空襲の本当の標的は何だったのか?』 三省堂〈三省堂選書〉、1990年ISBN 4-385-43157-4
  • E・バートレット・カー『戦略・東京大空爆』 大谷勲訳、光人社、1994年
  • A・C・グレイリング(著)、鈴木主税・浅岡政子(訳) 『大空襲と原爆は本当に必要だったのか』 河出書房新社、2007年。ISBN 978-4-309-22460-2
    • A. C. Grayling, "Among The Dead Cities: The History and Moral Legacy of the WWII Bombing of Civilians in Germany and Japan," Walker & Company, March 20, 2007. ISBN 0802715656
  • ロナルド・シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか 戦略爆撃の道義的問題』 深田民生訳 草思社 2007年
  • 早乙女勝元 『図説 東京大空襲』 河出書房新社〈ふくろうの本〉、2003年。ISBN 4-309-76033-3
  • 宍戸伴久「戦後処理の残された課題―日本と欧米における一般市民の戦争被害の補償―」国立国会図書館レファレンス. (695)2008-12
  • 田中利幸「犯罪と責任:無差別爆撃と大量虐殺」現代社会研究12号、京都女子大学現代社会学部、2009年
  • 東京都(編) 『東京都戦災誌』 明元社、2005年。ISBN 4-902622-04-1
  • 内藤光博「空襲被災と憲法的補償―東京大空襲訴訟における被災者救済の憲法論―」専修法学論集 (106), 1-51, 2009-07
  • 平塚柾緒(編・著) 『米軍が記録した日本空襲』 草思社、1995年。ISBN 4-7942-0610-0
  • 村上義人 『手拭いの旗 暁の風に翻る』 福音館書店〈福音館日曜日文庫〉、1977年。ISBN 4-8340-0549-6
  • 山本茂男ほか(著)『B29対陸軍戦闘隊―陸軍防空戦闘隊の記録』 今日の話題社、1985年、新版。ISBN 4-87565-304-2

関連項目[編集]

外部リンク[編集]