荒川放水路

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青山士らによる記念碑
青山士らによる記念碑

荒川放水路(あらかわほうすいろ)は、現在荒川と呼ばれている河川のうち、東京都北区岩淵水門にて隅田川と分かれ、足立区、および墨田区葛飾区の区境を抜けて、江東区江戸川区の区境にて東京湾にそそぎこむ全長約22km、幅約500mの人工河川の部分を指す。1913年大正2年)から1930年昭和5年)にかけて掘削された。

目次

[編集] 沿革

[編集] 計画に至る過程

明治43年(1910年)8月、関東地方は非常な長雨が続いたため、荒川・隅田川および他の主要河川が軒並み氾濫し、東京府・埼玉県などで甚大な被害を引き起こす。被害総数は、家屋流出1500戸、浸水家屋27万戸、死者223人、行方不明245人、堤防決壊300箇所、橋梁被害200箇所に及び、長年豪雨災害によって被害をうけていたこともあり、政府は根本的な首都の水害対策の必要性をうけ、荒川放水路の建設を決定する。

内務省によって調査、設計の準備を進め、土木技官の青山士らを責任者に用地買収の済んだ箇所から逐次工事に着手したのは大正2年(1913年)のことである。

この用地買収は実に1000ヘクタール、1300戸に及ぶ。これにより、南葛飾郡の大木村、平井村、船堀村の3村が廃村となり、周辺の町村へ編入されていった。

[編集] 難工事

結局、この工事は当初の10年という予定期間を大幅に超え、関連工事が完全に完了するまで17年間という歳月を要し、3200万円あまりの工事費を費やした。これは最初に計上された総予算1200万円の実に2.5倍に及んだ。さらに総数300万人以上を工事に動員し、出水や土砂崩れなど多くの災害により、30名近くの犠牲者も出した。

当時は工事の大半が手作業であり、蒸気掘削機やトロッコ、浚渫船も実用化されていたものの、現代のような重機はほとんどなかった。また工事中も幾度も台風に襲われ、中でも1917年(大正6年)9月30日の台風では記録的な高潮に見舞われ、工事用機械や船舶を流出する他、関東大震災では各地の工事中の堤防への亀裂、完成したばかりの橋梁の崩落など枚挙に暇がない。更に第一次世界大戦に伴う不況・物価高騰も難工事に拍車をかけた。

[編集] 完成後

1924年(大正13年)の岩淵水門完成により放水路への注水が開始され、浚渫工事など関連作業が完了したのは1930年(昭和5年)のことである。以後東京は洪水に見舞われることは無くなった。その後も荒川放水路により分断された中川の付け替えや、江戸川放水路の掘削が行われ、ほぼ東京周辺の流路が完成することとなる。

「荒川放水路」は1965年(昭和40年)に正式に荒川の本流とされ、それに伴い岩淵水門より分かれる旧荒川全体が「隅田川」となった。それまでは現在の千住大橋付近までが荒川、それより下流域が隅田川と区別されていた。

[編集] 橋梁

荒川 (関東)#橋梁を参照。

[編集] 関連項目

  • 芝川 - 荒川放水路上流に位置する支流。荒川放水路の掘削にあわせて合流部付近の流路を変更。

[編集] 外部リンク