大和川

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大和川
大和川 2006年3月撮影
近鉄道明寺線鉄橋(柏原市安堂付近)
水系 一級水系 大和川
種別 一級河川
延長 68 km
水源の標高 822 m
平均流量 13.51 /s
(柏原観測所 1994年)
流域面積 1,070 km²
水源 貝ヶ平山(奈良県)
河口、合流先 大阪湾(大阪府)
流域 奈良県大阪府
大和川河口付近の航空写真
大和川河口付近の航空写真

大和川(やまとがわ)は、奈良県および大阪府を流れ大阪湾に注ぐ一級水系本流

目次

[編集] 地理

奈良県桜井市の北東部、貝ヶ平山(かいがひらやま、標高822m)近辺を源流としており、上流部では初瀬川と称される。奈良盆地を西に向かって流れつつ、佐保川、曽我川、葛城川、高田川、竜田川富雄川など盆地内の大半の河川を生駒山系の手前までに合わせる。生駒山系と葛城山系の間を抜けて、大阪平野にでると柏原市で南河内を流れてきた石川合流してまっすぐ西へと流れ、大阪市堺市の間で大阪湾に流れ込んでいる。

奈良県から大阪府へ抜ける峡谷は、「亀の瀬」と呼ばれる地滑り多発地帯。同区間を走る関西本線(大和路線)や国道25号も過去に度々被害を受け、関西本線は路線を付け替えている。

また流域の奈良県などで下水道普及が遅れているなどの原因で、日本で最も水質が悪い河川である。しかし、現在は以前と比べて水質が大幅に改善されており、環境省の水質基準も満たしている。2007年11月には、アユの産卵も確認された。

[編集] 治水・流路変更の歴史

かつては生駒山系を抜けて現在の柏原市付近で石川と合流すると、その流れに乗るように北へ流れ、河内平野に大きな湖(草香江(くさかえ)、または河内湖)をつくって古い時代の淀川を合わせ、上町台地の北で海へと出る流路を為していた。河内湖は次第に土砂により埋まり、河内平野へと変わっていったが、基本的にはこの一帯は上町台地にさえぎられた低い湿地帯であり、江戸時代までは大和川の分流や多くの池を残していた。

江戸時代半ばごろまでの古い大和川は、柏原市の北で長瀬川(久宝寺川ともいう、本流)・楠根川玉串川(吉田川と菱江川に分流)など幾筋にも分かれ、吉田川など一部は寝屋川が注ぎ込む深野池大東市周辺)・新開池東大阪市の鴻池新田周辺)の両池に注ぎこんでいた。これらの池の水と長瀬川本流は現在の大阪市鶴見区放出周辺で合流し、さらに淀川支流の古川、同じく河内平野を流れる平野川と次々合流しながら上町台地の北(現在の天満橋の辺り)でやっと淀川(大川)本流に合流していた。淀川はそこからまた安治川木津川など多くの川に分かれ、デルタ地帯を形成しながら海へ流れていた。

これら大和川の支流は土砂が堆積した天井川で、たびたび河内平野は氾濫の被害にあった。河内平野の洪水防止や農業開発を目的として流路を西へ付け替える構想は古くは奈良時代以前からあり、治水工事の歴史は古墳時代に遡る。

[編集] 江戸時代の付け替え計画以前

[編集] 仁徳天皇による堀江掘削

『日本書紀』巻十一の仁徳天皇十一年十月の条に、『宮(高津宮)北の郊原を掘りて、南の水(大和川)引きて西の海(大阪湾)に入る。困りて其の水を号けて堀江という。又、将に北の河のこみを防がんとして、以て茨田堤を築く』とあり、上町台地の北端、現在の大阪城の北側の大川から中之島方面へ通じる水路を掘ったとされ、大和川の排水を促す工事としては最初のものであり、淀川左岸の築堤とともに日本で初めての大規模治水工事と考えられている。

[編集] 和気清麻呂の工事

律令制制定以降もたびたび大和川流域一帯で護岸工事が行われ、『続日本書紀』の記述によると、弓削道鏡による西京建設と前後して河内国志紀郡・渋川郡付近の護岸工事がのべ3万人余りの労力で行われたとある。

その後、延暦7年(788年)ごろに和気清麻呂により河内川(現在の平野川)を西へ分流させるべく本格的な流路変更が試みられた。のべ23万人の労力で現在の四天王寺の南付近を掘削する工事が行われたが、上町台地の高さの前に挫折した。現在の天王寺区・阿倍野区の地名である「堀越」「北河掘町」「南河堀町」などの名はこの工事の名残と言われている。

[編集] 中世

平安時代以降も大和川流域の洪水被害は頻発していた。堤防補修費用捻出のために弘仁3年(812年)には「出挙」とよばれる利子付貸し付けを行い、その利子を工事費に充てるとことも行われた。さらに、『日本三代実録』の記述によると、貞観12年(870年)には河内国の水害や堤を調査する役人や築堤を担当する役人が任命されるなど、国家事業として大和川治水が行われていた。

[編集] 江戸時代初期

豊臣秀吉が日本全土を平定し、大坂に城下町を整備するのに合わせて淀川・大和川水系の治水工事も大がかりに行われ、断続的だった堤防はこの頃には連続のものになっていく。江戸時代には「国役堤」として江戸幕府直轄の管理下におかれ、堤防の管理・保全が行われた。

このころには大和川の流路は人為的に固定されてしまったため、上流からの土砂は逃げ場を失い、川底に堆積し、天井川となっていった。堤防決壊による洪水被害も起こりやすくなり、被害の復旧、堤防のかさ上げや川浚えなどに多額の費用と労力が費やされた。


[編集] 江戸時代の川違え(付け替え)工事

度重なる被害の大きさに、河内の大和川流域の村々から付け替えの機運が起こり、現在の東大阪市にあった今米村の庄屋中甚兵衛らが河内の農村をとりまとめ何度も幕府に請願し続けた。

新しい川の流路となる村々からも付け替え反対の請願が起こったが、ついに付け替え工事が1704年宝永元年)に行われ、わずか8ヶ月で大和川は現在のようにに向け西流するようになった。

詳細は中甚兵衛を参照

[編集] 付け替えによる影響

大和川の旧流路にあたる中河内では河川敷の跡地や大きな池の跡地が新田(深野池は深野新田などに、新開池は鴻池新田などに)となり、とくに川床跡の砂地に適した木綿栽培や綿業がさかんになった。一方、新しい大和川(「新大和川」))の通った現在の松原市大阪市南部の平野区などは多くの農地を失った上、もとあった川が新しい川に分断されて、上流側では大和川手前で水があふれ下流側では水量が減り、困窮する結果となった。また、大量の土砂が大坂に流れなくなった代わりに堺港に運ばれるようになり、大坂の河川は若干港湾機能を回復するが堺の港湾都市としての地位は低下した。

1871年(明治4年)9月、それまで堺の街の中を通っていた摂津国和泉国との国境が大和川に変更された。

2004年は大和川付け替え工事(1704年)から300周年にあたるため、様々な行事が行われた。


[編集] 亀の瀬地滑り

昭和6年(1931年)11月27日に亀の瀬渓谷北側(大阪府中河内郡堅上村大字峠、現在の柏原市峠)において斜面に亀裂が発生、亀裂は徐々に拡大し、最終的には大規模な地滑りとなった。 これに伴い、関西本線亀ノ瀬トンネルが崩壊したためこの区間は徒歩連絡とせざるを得なくなった。 また、大和川の川床が隆起して流路をせき止めたため、同年7月には上流の王寺町内にて住宅が浸水する被害が出た。

この影響で関西本線は該当区間を橋で大和川を越えて南岸へ迂回するルート切り替えが行われた。また、地滑りを起こした斜面の崩落を防ぐために対策事業を行っている。当初は大阪府の管轄であったが、後に国直轄となった。ひとたび地滑りが発生すると川がせき止められ、二次災害に繋がりかねないため、国土交通省近畿地方整備局 大和川河川事務所の管轄のもと、大規模な対策事業と監視がおこなわれている。


[編集] 流域の自治体

奈良県
桜井市磯城郡田原本町天理市生駒郡安堵町大和郡山市、磯城郡川西町北葛城郡河合町、生駒郡斑鳩町、北葛城郡王寺町、生駒郡三郷町
大阪府
柏原市藤井寺市八尾市松原市堺市堺区北区)、大阪市平野区東住吉区住吉区住之江区

[編集] 主な支流

奈良県
大阪府

[編集] 伝説

大和川上流部の初瀬川周辺では、昔からおとぎ話『桃太郎』を連想させる伝説が伝えられている。

「昔大和国洪水の折に、初瀬川大いに漲り、大なる甕一つ流れ来たって三輪の社頭に止まる。土人開き見るに玉の如き一男子あり云々。後に又小舟に乗って播磨に着し、大荒明神となりけり。」(林羅山本朝神社考』、柳田國男桃太郎の誕生』) 

  • 昔、大和の国が洪水になったとき、初瀬川が増水し、大きな瓶が一つ流れてきて三輪の神社の前に止まった。土地の者がそれを割って中を見ると玉のような男の子がいた~。その後、その男の子は小船に乗って播磨の国に渡り、大荒明神になった。

[編集] 関連項目

[編集] 参考資料

  • 中九兵衛(十代目)著 『甚兵衛と大和川 ~北から西への改流・300年』

[編集] 外部リンク

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