和気清麻呂

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和気清麻呂・『前賢故実』より
和気清麻呂像(和気神社)

和気 清麻呂(わけ の きよまろ、733年天平5年) - 799年4月4日延暦18年2月21日))は奈良時代末期から平安時代初期の高級官僚。備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身。氏姓は当初、磐梨別公(いわなしわけのきみ)[1]、のち藤野真人、和気宿禰、和気朝臣に改めた。磐梨別乎麻呂(または平麻呂)の子。従三位民部卿

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[編集] 経歴

769年(神護景雲3年)7月頃、宇佐神官を兼ねていた大宰府の主神(かんつかさ)、習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)が宇佐八幡神の神託として、道鏡皇位に就かせれば天下太平になる、と称徳天皇へ奏上する。道鏡はこれを信じて、あるいは道鏡が習宜阿曾麻呂をそそのかせて託宣させたとも考えられているが、道鏡は自ら皇位に就くことを望む。(『続紀』没伝)

称徳天皇は側近の尼僧法均を召そうとしたが、虚弱な法均では長旅は堪えられぬため、弟の和気清麻呂を召し、姉に代わって宇佐八幡の神託を確認するよう、命じる。清麻呂は天皇の使者(勅使)として八幡宮に参宮。宝物を奉り宣命の文を読もうとした時、神が禰宣の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出て、与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈、およそ9mの僧形の大神が出現し、大神は再度宣命を訊くことを拒むが、清麻呂は与曽女とともに大神の神託、「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」(『八幡宇佐御託宣集』)を朝廷に持ち帰り、称徳天皇へ報告した(宇佐八幡宮神託事件)。

762年(天平宝字6年)道鏡は孝謙上皇の病を宿曜秘法を用いて治療し、それ以来、孝謙上皇と道鏡は密接な関係があったとされる。764年(天平宝字8年)孝謙上皇は恵美押勝の乱鎮圧の後、淳仁天皇を廃して自ら称徳天皇として重祚すると、天皇の道鏡の権勢は非常に強まり、765年(天平神護元年)太政大臣禅師、翌766年(天平神護2年)には法王となった。こうした状況に、道鏡に欲が出たのではないか、とも推測されている。さらに、称徳天皇も道鏡を天皇の位に就けたがっていたとも言われ、清麻呂の報告を聞いた天皇は怒り、清麻呂を因幡員外介にいったん左遷の上、さらに別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて大隅国(現在の鹿児島県)に配流とした。

称徳天皇が崩御し道鏡失脚後、清麻呂は桓武朝で実務官僚として重用されて高官となる。平安遷都の建設に進言し自ら造営大夫として尽力した。785年(延暦4年)には、神崎川淀川を直結させる工事を行い平安京方面への物流路を確保した。その後、788年(延暦7年)に上町台地を開削して大和川を直接大阪湾に注ぐ工事を行ったが失敗している(大阪市天王寺区茶臼山にある河底池はその名残りとされ、「和気橋」という名称の橋がある)。

また、民部卿として民部大輔菅野真道とともに庶政の刷新にあたった。桓武天皇の勅命により天皇の母・高野新笠の出身氏族和氏の系譜を編纂し、和氏譜として撰上した。子の広世真綱らは、父の没後に官人として活躍した。また、姉の和気広虫(法均尼)は夫・葛城戸主(かつらぎのへぬし)とともに、孤児救済事業で知られる。

1851年(嘉永4年)3月15日孝明天皇は和気清麻呂の功績を讃えて正一位と「護王大明神」の神号を贈った。1874年(明治7年)、神護寺の境内にあった和気清麻呂を祀った廟は護王神社と改称され別格官幣社に列し、1886年(明治19年)、明治天皇の勅命により、神護寺境内から京都御所蛤御門前に遷座した。

また、出身地の岡山県和気町には、和気氏一族の氏神和気神社が鎮座し、和気清麻呂・和気広虫が祀られている。配流先とされる鹿児島県霧島市にも和気神社がある。なお、宇佐へ配流の際にによって難事を救われたとの伝説(北九州市小倉北区など)から、護王神社・和気神社などでは狛犬の代わりに「狛猪」が置かれている。

第二次大戦前は、清麻呂は楠木正成などとならぶ勤皇の忠臣と見なされ、紙幣(ろ拾圓券)に肖像(想像)が印刷された。現在でも忠臣とされ、東京都千代田区大手町の気象庁付近や、岡山県和気町の和気神社境内など、各地に銅像がある。

[編集] 系譜

  • 父:磐梨別乎麻呂(または平麻呂)
  • 母:不詳

[編集] 脚注

  1. ^ 鉱産氏族の伝承を持っている。磐梨の磐は、古代人が鉄は磐のように堅いと考え、鉄の代名詞になったという記載がある。また彼の所領には薬草園があった。

[編集] 関連項目

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