山梨県

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やまなしけん
山梨県
Lake Kawaguchiko Sakura Mount Fuji 3.JPG
山梨県旗 山梨県章
山梨県旗 山梨県章
日本の旗 日本
地方 中部地方甲信越地方
関東地方
団体コード 19000-4
ISO 3166-2:JP JP-19
面積 4,465.37km²
(境界未定部分あり)
総人口 840,437
推計人口、2014年9月1日)
人口密度 188人/km²
隣接都道府県 神奈川県東京都埼玉県長野県静岡県
県の木 カエデ
県の花 フジザクラ
県の鳥 ウグイス
他のシンボル 県の獣:カモシカ
県の歌:山梨県の歌
県民の日:11月20日
山梨県庁
知事 横内正明
所在地 400-8501
山梨県甲府市丸の内一丁目6番1号
北緯35度39分50.9秒東経138度34分6.3秒
山梨県庁
外部リンク 山梨県ウェブサイト
山梨県の位置

山梨県行政区画図

― 市 / ― 町 / ― 村

ウィキポータル 日本の都道府県/山梨県
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山梨県(やまなしけん)は、本州内陸部に位置する、日本の一つ。県庁所在地甲府市令制国甲斐国に相当する。

概要[編集]

南に富士山、西に赤石山脈南アルプス)、北に八ヶ岳、東に奥秩父山地など、標高2000mを超す山々に囲まれる。海洋国家といわれる日本において、内陸側に位置する数少ない県である。山梨県の面積は全国32位であるが、その8割を山岳地が占めるため可住地面積は全国45位である。

往来が比較的容易で、交通路も整備されている東京都(除島嶼)、神奈川県津久井地区、長野県中・南信地方静岡県大井川以東の三方との交流が、古くから盛んである。又、埼玉県秩父地方との境は奥秩父山塊に隔てられているが、1998年(平成10年)の国道140号雁坂トンネル開通により、自動車やバスでの直接往来が可能となった。なお、山梨県と静岡県を併称する場合は、山静(さんせい、やましず)や甲駿(こうすん)という。

「山梨」の県名は律令制下の甲斐四郡のひとつである「山梨郡」に由来し、県名は1871年(明治4年)7月の廃藩置県に際して旧甲斐国一国が甲府県を経て「山梨県」に改称された[1]。山梨郡は県庁所在である甲府が属している郡域であるが県名の改称理由は不明で、新政府による幕藩時代との断絶が意図されていた可能性が考えられている[2]。「山梨郡」は本来甲斐一国を意味する呼称ではないため明治初期には新県名が浸透せず、政治団体やその機関誌等では県域を指す地域呼称として「峡中」が用いられた[3]。現在では「山梨」が県域全体を指す呼称として定着している。

山梨県の分類[編集]

箱根峠より西の内陸に位置するため、明治以来の日本を八つの地方に分ける方法(北海道地方東北地方関東地方中部地方近畿地方中国地方四国地方・九州地方)では、中部地方中央高地、俗に言う甲信地方)として区分されている。しかし、国土整備行政上は中部圏には含まれておらず、首都圏整備法施行令において首都圏と規定されている。また、国機関の管轄などでは関東地方と一緒に扱われることが多い。

県域は、中西部の甲府盆地を中心とする国中(くになか)と、東部の相模川多摩川の上流域および富士山北麓からなる郡内(ぐんない)に分けられ、両者は方言(郡内は西関東方言に分類)など、自然や文化においても大きく異なっている。

地理・地域[編集]

広袤(こうぼう)[編集]

国土地理院の全国都道府県市区町村別面積調によると、山梨県の面積は4465.37平方キロメートルである[4]

国土地理院地理情報によると、山梨県の東西南北それぞれの端は以下の位置である。加えて、および県境未確定地域に仮の境界線を入れて求めた重心も併記する。また統計局平成22年国勢調査によると、人口重心は笛吹市‎石和町小石和付近にある。

重心
北緯35度36分56秒東経138度36分31秒

北端
北緯35度58分18秒東経138度22分23秒
人口重心
北緯35度37分35.97秒東経138度37分12.79秒
西端
北緯35度42分52秒東経138度10分49秒
山梨県庁舎所在地
北緯35度39分50秒東経138度34分6秒
東端
北緯35度37分00秒東経139度8分4秒
 
南端
北緯35度10分6秒東経138度29分28秒
 

地形[編集]

自然公園[編集]

気候と植物相[編集]

中央高地式気候を呈しているが、山地によって隔てられる地域差も大きい。盆地部には夏の暑さと冬の寒さがともに顕著で、冬の季節風(八ヶ岳おろし)が強いが降雪は豪雪地帯南アルプス市(旧芦安村)と早川町を除いてわずか。年間降水量が少なく日照時間が長く、台風の通過経路でもありしばしば集中豪雨に見まわれる。山麓地域では盆地部より気温が冷涼で、降水量も多い。このため、盆地周縁では冷涼な気候に向いた葡萄の栽培が盛んである。

植物相は盆地部で落葉広葉樹林、山岳部では亜高山・高山帯の植生。また、富士川下流域の河内地方は温暖多雨であり太平洋側気候にかなり近く、潜在自然植生で常緑広葉樹林。

富士山の山頂は最暖月平均気温が6.0℃でケッペンの気候区分ではツンドラ気候となっている。また、清里のある八ヶ岳山麓青木ヶ原樹海富士五湖周辺の富士山北麓などの標高1,000mを超える高原地域は亜寒帯湿潤気候(Dfb)に属し、冬の寒さは非常に厳しく厳寒期には-20度を下回るが、夏は冷涼で避暑地となるなど北海道並みの気候である。

山梨県内各地の平年値(統計期間:1971年 - 2000年、出典:気象庁・気象統計情報
平年値
(月単位)
国中地方・中西部 郡内地方・東部富士五湖
北杜市
大泉
韮崎 甲府 甲州市
勝沼
身延町
切石
南部 甲府市
古関
大月 富士河口湖町
河口湖
山中湖村
山中
富士山
平均
気温
()
最暖月 22.3
(8月)
25.6
(8月)
26.2
(8月)
25.5
(8月)
25.6
(8月)
26.0
(8月)
23.6
(8月)
24.5
(8月)
21.8
(8月)
20.5
(8月)
6.0
(8月)
最寒月 -0.4
(1月)
2.1
(1月)
2.5
(1月)
2.1
(2月)
1.7
(1月)
3.6
(1月)
0.3
(1月)
1.7
(1月)
-0.8
(1月)
-2.6
(1月)
-18.5
(1月)
降水量
(mm)
最多月 187.8
(9月)
215.7
(9月)
190.8
(9月)
188.4
(9月)
307.4
(9月)
194.0
(9月)
337.9
(9月)
236.9
(9月)
256.0
(9月)
368.7
(9月)
最少月 20.4
(12月)
22.1
(12月)
23.5
(12月)
22.6
(12月)
32.9
(12月)
29.0
(12月)
35.7
(12月)
26.6
(12月)
33.7
(12月)
49.1
(12月)

山梨県の分類[編集]

東日本に分類されていて、行政上の分類は関東地方又は首都圏。地理上の分類では中部地方甲信地方又は甲信越地方)。

隣接都道府県[編集]

東京都 - 神奈川県 - 埼玉県 - 静岡県 - 長野県

山梨県南都留郡山中湖村静岡県駿東郡小山町の籠坂峠付近と山梨県南都留郡鳴沢村及び富士吉田市静岡県富士宮市及び駿東郡小山町富士山山頂付近(県境)には2ヶ所未定区間がある。(御殿場市は、小山町の間に境界未定部分が有るため、富士吉田市及び鳴沢村と接する可能性もある)

自治体[編集]

自治体は、以下の13市5郡8町6村がある。町の読み方は富士河口湖町だけが「まち」で、ほかはすべて「ちょう」である。
市部
郡部

地域区分[編集]

「国中」「郡内」は、戦国時代以来の呼称。「中西部」「東部富士五湖」は気象情報で用いられている。郡名は古来用いられてきたもの。「峡○」は、県の出先機関である地域振興局の区分となっている(この四つの他、東部・富士北麓地域振興局がある)。国中地方中部地方文化圏であるのに対し、郡内地方関東地方文化圏となっている。方言も国中弁郡内弁で異なる。

歴史[編集]

先史時代[編集]

甲斐銚子塚古墳

甲府盆地では釜無川笛吹川が流れ両河川の氾濫原が広がっており、郡内地方では富士山の火山活動による影響も受け、定住が困難な時代が続いていた。

旧石器時代の遺跡は長野県との八ヶ岳山麓や静岡県の愛鷹山箱根山など隣接する文化圏に属する地域や桂川流域を中心に分布する。最古の一杯窪遺跡都留市)や立石遺跡(甲府市)をはじめ、八ヶ岳山麓の丘の公園内遺跡群(北杜市)や神津島産の黒曜石が出土した横針前久保遺跡(北杜市)長野県産の黒曜石が発見された天神堂遺跡などが代表的で、周辺地域に比べ密度は低いものの、周辺地域との人的移動を示す資料が発掘されている。

縄文時代草創期から前期には引き続き涌水の沸く山麓部や富士北麓などに遺跡が分布し、後期旧石器から草創期への移行期にあたる神取遺跡(北杜市)や関東文化圏の影響が見られる池之元遺跡(富士吉田市)が出現する。中期には盆地にも進出し、大規模な集落遺跡である釈迦堂遺跡群(笛吹市、甲州市)や重要文化財に指定されている精巧な土器の出土した一の沢遺跡、豊富な生活遺物が出土している花鳥山遺跡などが出現し、縄文農耕論にも一石を投じた有孔鍔付土器など学史上注目されている遺物も出土している。また、盆地西部の西郡地域は釜無川の氾濫原であり考古遺跡は乏しいが、近年では精巧な土器や土偶が出土した鋳物師屋遺跡が発掘され注目されている。

後晩期には地球的な寒冷化の影響を受けて遺跡数が減少するものの、石組や配石遺構など祭祀施設であると考えられている八ヶ岳南麓の金生遺跡(北杜市)や牛石遺跡(都留市)などが出現する。また、郡内地方の桂川流域では関東地方との交流が見られる遺物が出土している。

弥生時代には身洗沢遺跡金の尾遺跡などの集落遺跡があり、宮の前遺跡(韮崎市)では水田が確認されている。盆地南西部の曽根丘陵では東海地方経由で弥生文化が流入し、方形周溝墓が見られる上の平遺跡など古墳時代に至る遺跡がある。

古墳時代の4世紀後半には畿内で確立したヤマト王権と政治的接触を持っていたと考えられており、曽根丘陵では4世紀前半の前方後方墳である小平沢古墳をはじめ、4世紀後半には最大規模の甲斐銚子塚古墳岡銚子塚古墳などの有力首長クラスの前方後円墳が出現し、三角縁神獣鏡などの副葬品も出土している。5世紀には中道勢力が衰退し、古墳の造営は盆地各地へ拡散する。

古代[編集]

酒折宮
酒折宮
大善寺
大善寺

古代には律令制下において甲斐国が成立するが、『日本後紀』延暦16年条によれば甲斐東部の都留郡の帰属をめぐっては隣接する相模国との間で争論があったという。甲斐国は五畿七道では東海道に属し、山梨・八代・巨摩・都留の甲斐四郡が成立し、郡郷は『和名類聚抄』に31郷が記載されている。山梨・八代両郡は古代甲斐国の政治的中心地で、国府は山梨郡笛吹市春日居町に前期国府が存在し、八代郡の笛吹市御坂町に移転されたと考えられている。官道は東海道横走宿から分岐して都留郡を経て甲府盆地に入り甲斐国府に至る甲斐路が存在していた。四郡のうち甲斐西部の巨摩郡は渡来人の入植により成立した郡であると考えられている。

一方、『古事記』『日本書紀』(記紀)に記される日本神話においてはヤマトタケル(倭建命、日本武尊)の東征において足柄山から甲斐へ入り、酒折宮(甲府市酒折)において老人と歌を交わす説話を記している。記紀に記される日本神話には両書が成立した奈良時代の歴史認識が反映されているものと考えられているが、考古学的にも甲斐においては古墳後期の4世紀後半代から畿内の影響下にあったと考えられており、酒折宮伝承にもヤマト王権と甲斐の在地豪族との関係が反映されているものと考えられているほか、足柄山から甲斐国へ至ったヤマトタケルの遠征ルートは古代の交通体系を明らかにする上でも注目されている。

また、『続日本紀』においては甲斐国司田辺史広足が黒毛の駿馬を朝廷に献上した甲斐の黒駒に関する説話が記されているが、『延喜式』によれば東国では甲斐をはじめ信濃・上野・武蔵の四国に御牧が設置され馬産が行われていたことが記されており、駿河国正税帳長屋王家木簡などの出土文字資料からも朝廷への貢馬が確認されている。『延喜式』によれば甲斐には穂坂牧、真衣野牧柏前牧の三御牧が設置されていたという。

平安時代には市河荘八代荘などの荘園が成立し、国府所在地である甲府盆地東部では在庁官人である三枝氏が八代荘を勢力基盤とした。『長寛勘文』によれば王保2年(1162年)には三枝氏に打撃を与えた八代荘停廃事件が発生している。

平安時代後期には常陸国から源義清・義光が市河荘に配流され、義清・清光の子孫は甲府盆地の各地へ土着し甲斐源氏となる。

中世[編集]

平安時代後期に甲斐源氏の一族は平氏政権に対する源頼朝の挙兵に従い、甲斐源氏の棟梁となった武田氏甲斐国の守護となる。武田氏は中世には必ずしも甲斐守護を歴任していないが、鎌倉幕府滅亡後に北条時行ら北条氏の残党が起こした中先代の乱までは北条方に属し、南北朝時代には建武政権から離反した足利尊氏に従った。

室町時代には幕府と鎌倉府の対立、鎌倉府における鎌倉公方関東管領の対立など関東地方の騒乱の影響を受け、上杉禅秀の乱では守護武田氏が乱に荷担し追討を受け甲斐は守護不在状況となり、反守護勢力の逸見氏が活動し国内は混乱した。室町後期には幕府の意向で武田氏の守護復帰のため入甲した跡部氏が台頭するが、守護武田信昌は跡部氏を排斥し、国内統一を勧めた。

戦国時代にも国内の争乱や隣国との抗争は続いたが、武田信虎は国中地方の有力国人勢力や郡内領主の小山田氏など従属させ、抗争を続けていた駿河の今川氏や相模の後北条氏とも和睦する。また、新たに甲府を拠点とした城下町整備を進め、国内統一を完成した。戦国期には武田氏による一円支配が行われているが、郡内の小山田氏や河内地方を領する穴山氏などの国衆はそれぞれ独自の支配を行っている。

武田晴信(信玄)は信虎後期の拡大志向を継承し、甲相駿三国同盟を背景に信濃侵攻を行い越後の上杉謙信川中島の戦いを繰り広げ、後期には西上野侵攻や今川領国への侵攻(駿河侵攻)を行い最大領国を達成し、三河・遠江への侵攻も行い織田・徳川勢力と対抗した。また、信玄期に確立した大名権力により独自の領国支配が展開され、検地の実施や棟別諸役の整備、躑躅ヶ崎館を中心とする甲府の城下町整備、黒川金山湯之奥金山など近世まで稼働した甲州金山の開発、信玄堤の築造など治水事業が行われている。

勝頼期には長篠の戦いによる武田領国の動揺を招き、天正10年(1582年)3月、織田信長の甲州征伐で武田氏は滅亡した。武田遺領は織田家家臣に分配され、甲斐は河尻秀隆の領土となった。同年6月に信長が横死し、空白地帯となった武田遺領を巡って徳川氏と後北条氏による天正壬午の乱が起こり、甲斐国は徳川家康の領土となった。

家康は豊臣秀吉に帰服し、天正18年(1590年)には駿府から江戸に移封され、甲斐国には浅野長政ら豊臣系大名が入った。豊臣政権下で甲斐は東国の家康に対する拠点として重視され、甲府城の築城や甲斐国内の検地などが行われた。

近世[編集]

甲府城跡
甲府城跡
身延山久遠寺
身延山久遠寺

天正10年(1582年)、武田氏の滅亡・本能寺の変後の情勢で甲斐・信濃の武田遺領を巡る徳川家康と越後上杉氏、相模後北条氏との天正壬午の乱を経て、甲斐は徳川氏により確保される。徳川氏は甲斐を含む五カ国を領有し豊臣政権に対峙するが、やがて豊臣政権に服従する。家康は関東移封となり、徳川領国に接する甲斐には豊臣系大名が配置された。徳川氏・豊臣政権期に甲斐では天正18年(1590年)に甲府城が新たに支配拠点として築城され、新府中としての城下町整備もはじまった。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後には徳川家康が主導した大名の再配置が行われ、甲斐では浅野氏が和歌山へ移封され再び徳川氏による直轄支配が行われた。甲斐国は関東に近い位置から関東防衛の要所として重視され、国中には将軍直系、郡内には譜代大名が配置され(谷村藩)、代官支配江戸幕府が行われた。江戸時代には甲府徳川家が入封し、藩政機構が整えられた(甲府藩)。宝永元年(1704年)に綱豊(徳川家宣)が将軍後継になると、川越藩柳沢吉保が受封し、吉保の子吉里は甲府藩主ではじめて国元へ入っている。ほか、甲斐には旗本領も存在していた。

享保の改革においては幕府直轄領の整備が行われ、享保9年(1724年)に吉里が大和郡山に転封されると甲斐は幕府直轄領化され、谷村藩も秋元氏の転封後は直轄領化された。甲府町方は甲府勤番、在方は甲府代官所をはじめとする三分代官による支配となり、郡内は石和代官所の出張陣屋である谷村代官所が設置された。延享3年(1746年)には御三卿の賄領がおかれ、うち田安領のみは幕末まで存続した。

近世甲斐は甲府城下町、谷村城下町の城下町のほか在郷町身延山久遠寺門前町や富士北麓の吉田・川口の御師町など都市や町場が発達し、甲州街道駿州往還佐久往還青梅往還をはじめとする諸街道が整備された。江戸初期には角倉了以による富士川の開削工事が行われ富士川舟運中馬による陸上輸送が発展し、江戸後期には甲斐・信濃の年貢米の廻米輸送が行われた。

近世には領主権力の確立により治水や用水路の開削が行われ、釜無川・御勅使川の治水や徳島堰の開削、郡内での谷村大堰新倉掘抜の開削などが行われ、甲府城下でも甲府上水が整備される。治水の進捗に伴い在方では新田開発が進み、養蚕織物など産業が発達した。甲府盆地では一般に米麦栽培に商品作物の栽培、農閑期の行商や大工などの農間余業を組み合わせた生業形態が一般的であったが、甲斐では国土の多くを山地が占めるため山村では林業や狩猟、製炭や漆採取、鉱山経営などの山の生業が発達し、特に郡内では平坦地が少ないため織物の生産や街道沿いでの駄賃稼ぎの占める割合が高い。こうした生業的特徴から甲斐では水利を巡る水論や山の用益を巡る山論が多発している。

また、甲斐では金納税制である大小切税法甲州金甲州枡の甲州三方が独自の国制として存在し、領主側の廃止や改正に対して領民は存置を求め抵抗している。また、領主側との衝突や災害・凶作などに伴う百姓一揆も発生し、米倉騒動太枡騒動、江戸後期には郡内に発する百姓一揆から無宿・悪党を巻き込み一国規模の騒動となった天保騒動など大規模な百姓一揆も発生した。

文化面では甲府城下町の発達により遊芸文化が興隆し、甲府藩時代には大名文化、江戸後期には町人文化が発達する。甲府勤番・勤番士は学問的関心を持ち、甲斐国の総合地誌である『甲斐国志』の編纂や勤番士による『裏見寒話』など地誌の編纂が行われ、勤番士の学問所である徽典館も開かれた。甲府では町人亀屋与兵衛が芝居小屋である亀屋座を開業し、歌舞伎や相撲、人形浄瑠璃などの諸芸興行を行い、1841年(天保12年)には甲府町人が江戸の人気浮世絵師である歌川広重を招き、城下の大通りを広重ら人気浮世絵師の幕絵で飾る甲府道祖神祭礼を創始した。ほか、俳諧や和算なども発達する。

また、武田信玄は近世から甲斐領民の尊崇を集め、武田氏館跡や墓所、武田氏に関係する寺社などが古跡として成立したほか、近世には軍学書である『甲陽軍鑑』が成立し、関係書を含めて武家・庶民の間でも広く読まれ影響力を及ぼし、武田家に関する文学や浮世絵なども製作された。

江戸後期は東国に特徴的な農村の荒廃から無宿・博徒が増加し、竹居安五郎黒駒勝蔵など甲州博徒が台頭した。幕末には横浜の開港に伴い甲州屋忠右衛門若尾逸平ら在方商人が甲州産物を移出して富を築き、若尾逸平は甲府において製糸業に着手し新興商人として台頭し、明治期には甲州財閥を形成する。

明治維新から終戦まで[編集]

睦沢学校(現・藤村記念館)

慶応4年(明治元年、1868年)3月、甲府城へ入った新政府の板垣退助率いる甲州街道軍と、近藤勇率いる旧幕府軍の甲陽鎮撫隊新選組)が勝沼甲州市の一部)大善寺で激突。旧幕府軍は駆逐され、甲州鎮撫府が設置された。

同年10月19日旧暦9月4日)、甲斐国内に府中県県庁所在地は山梨郡甲府)、市川県石和県が設置され、12月11日旧暦10月28日)にこれら3県を統合して甲斐府が設置された。明治2年(1869年8月27日旧暦7月20日)、「」の呼称が京都府東京府大阪府に限定されたことから、甲斐府は甲府県と改称した。

明治3年(1870年)5月に田安領を併合し、明治4年(1871年8月29日旧暦7月14日)の廃藩置県後も甲府県は存続したが、同年10月末(旧暦)に始まる第1次府県統合により、旧韮山代官所を引き継いだ韮山県の甲斐国内管轄区域などを統合して12月31日旧暦11月20日)に甲斐国全域を管轄区域とする山梨県が発足した。県庁所在地は引き続き山梨郡甲府、初代県令には土肥実匡が任ぜられた。1873年(明治6年)に着任した藤村紫朗殖産興業政策により、製糸業の勧業や道路整備、金融機関の整備が行われた。特に青梅街道の改築など道路整備を推し進めたことから、藤村は「道路県令」とも呼ばれている。

1909年(明治42年)には甲府連隊(歩兵第49連隊)が設置された。第二次大戦中には疎開地でもあったが、1945年(昭和20年)7月には、甲府空襲によって甲府は灰燼と帰した。

戦後から現在まで[編集]

※日本の占領時代については「連合国軍占領下の日本」を参照。 終戦後、1945年(昭和20年)9月にはアメリカ軍第8軍の部隊が甲府へ進駐。年末には戦闘部隊は引き上げ、少数の山梨県軍政部が県庁周辺の洋風建築を接収して県内の監視を行う。県内人口は復員兵や疎開者の帰還で増加し、戦時期の山林荒廃から災害被害もあり食糧事情は悪化。当局により新潟県からの移入米の配給や米軍の食糧放出など対策を講じるが食糧難はしばらく続き、ヤミ米が流通した。

連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による改革を受け県内でも政党活動や新聞の発行などが再開される。1946年(昭和21年)には内務省官僚による地方支配に代わり公選知事が導入され、1947年(昭和22年)の第一回県知事選では保守派合同の推薦で吉江勝保が当選し、初代公選知事となる。吉江は1948年(昭和23年)2月に食料増産や山林復旧など10大政策を掲げるが、財政難などの制約もあり産業基盤の復興もままならず、社会福祉制度も構想のみに留まった。

1951年(昭和26年)の知事選では民主党代議士天野久が擁立され、吉江知事を破り当選。天野「富める山梨」を掲げ、利水に乏しい甲府盆地西部の御勅使川扇状地を開発する野呂川総合開発に着手し、計画は国の援助を受け上水道や県営発電所の建設が行われた。また、新笹子トンネル建設による幹線道路の整備は高度経済成長期とも重なり、果樹農業や観光の振興にも繋がった。一方で、天野県政期には開発による災害があり、北富士演習場問題が発生する。

1967年(昭和42年)に天野知事を破り3代知事となった田辺国男は「健康山梨」を掲げ、一村一工場誘致を方針に工業団地造成や幹線道路整備を行う一方で、開発により環境破壊が顕著となっていたため環境保護にも配慮したグリーン・プランを提唱する。一方で連峰スカイライン構想を具体化させると批判が相次ぎ、北富士演習場問題の膠着やオイルショックの影響による不況も重なった。文化事業では、1978年(昭和53年)にはフランスの画家ミレーの「種をまく人」を二億円で落札購入した山梨県立美術館を創設。

田辺県政は日本経済の好景気化も受け4期目をめざすが、中央政界で前天野知事を支持した自民党政治家金丸信が影響力を強めると県議会においても金丸派が最大派閥となり、これに社会党県連が4選阻止のため提携し副知事の望月幸明を擁立し、1979年(昭和54年)の県知事選では田辺知事を破り当選。望月県政は金丸信の後見を受けて県議会でのオール与党体制を確立し、北富士演習場問題の小康やバブル景気の後押しを受け、1986年(昭和61年)のかいじ国体の実施や県有林の高度活用、リゾート施設の造成、リニア実験線の建設などを実施。

地方病流行終息の碑

1965年(昭和40年)までに県内の中央本線が複線・電化され、1982年(昭和57年)には中央自動車道が全線開通。また石和温泉や富士五湖、清里などの観光地が整備され、東京都区部からの日帰り観光地としても発展した。

バブル景気が崩壊すると県内の景気も一気に低下。甲府中心地の地価が15年連続下落し、また清里などのリゾート地も衰退する。一方で郊外のベッドタウンではイトーヨーカドーアピタといったショッピングセンターが次々と開業し、甲府西武ダイエー湯村SCが撤退し停滞する甲府中心街を尻目に発展を遂げている。

望月知事が4選を断念し、1992年(平成4年)に望月県政を批判し金丸派候補を破り当選した天野建知事(父は上記の天野久)は財政難の中公共工事の見直しを行いつつ「幸住県やまなし」事業を実施。山梨県立博物館の建設推進や排水路整備の推進をおこない、1996年(平成8年)には長年県民を苦しめてきた日本住血吸虫地方病)の終息宣言を行う。

天野知事の後、2003年(平成15年)からは前甲府市長山本栄彦が知事に就任。バブル崩壊後手付かずだった甲府駅北口の整備や中部横断自動車道増穂IC以南の着工を推進。しかし県政の混乱が発生し、2007年(平成19年)の選挙で横内正明に敗れ、山本県政は1期で終焉した。

2003年(平成15年)より平成の大合併が行われ、64あった市町村が27(2010年(平成22年)3月現在)まで集約された。

人口[編集]

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山梨県と全国の年齢別人口分布(2005年) 山梨県の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 山梨県
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性
山梨県(に該当する地域)の人口の推移
1970年 762,029人
1975年 783,050人
1980年 804,256人
1985年 832,832人
1990年 852,966人
1995年 881,996人
2000年 888,172人
2005年 884,515人
2010年 862,772人
総務省統計局 国勢調査より

政治・行政[編集]

国政[編集]

衆議院小選挙区は2013年の区割り改正で、3から2に減少。参議院では、全県で1区を構成。

県政[編集]

政治[編集]

  • すべての県議員と市町村議員のうち、2009年度に一度でも議会で代表・一般質問を行ったものは7割未満である。また、6割以上の市町村議会が質問の全文を事前に執行部などに知らせるよう義務付けており、議会の形骸化が実証されている県である。[5]

財政[編集]

2007年(平成19年)度
  • 財政力指数 0.42
    • IIグループ(財政力指数0.4以上、0.5未満)11自治体中8位
2006年(平成18年)度
  • 財政力指数 0.39
    • IIIグループ(財政力指数0.3以上、0.4未満)11自治体中2位
2005年(平成17年)度
  • 財政力指数 0.35
    • IIIグループ(財政力指数0.3以上、0.4未満)14自治体中10位
2004年(平成16年)度
  • 財政力指数 0.32
    • IIIグループ(財政力指数0.3以上、0.4未満)13自治体中11位

経済・産業[編集]

第一次産業[編集]

勝沼のぶどう栽培

山梨県は中央高地式気候のため寒暖の差が大きく、農業に適した地域は甲府盆地を中心に水捌けの良い平坦地である。江戸時代には治水・用水路開発のにより新田開発が行われ農業生産力は向上したが、養蚕果樹などの商品作物栽培を複合させた形態の農業を発達していた。

養蚕は明治初期の殖産興業において特に力を入れられ日本有数の養蚕県であったが、化学繊維の台頭などにより昭和30年代をピークに養蚕の減少と果樹栽培の増加に転じており、桑畑から果樹園への転換による景観的変化や、年中行事など生活・文化面の変化をもたらしている。

戦後の高度経済成長期において日本経済は農業の比重を低下させているが、工業の立ち後れていた山梨経済においても農業の役割は低下し、農家数や耕地面積は減少している。一方で経済成長により生じた国民生活の変化に対応して農業の形態を変化させており、国民の食生活が変化したことにより葡萄サクランボなどの果樹栽培の需要が高まり、葡萄からのワインの醸造も行われている。また、首都圏中京圏から近い地理的条件を活かして観光農園として観光客を集めているところも多い。

1980年代から1990年代にかけては果樹栽培への移行と農業の減退の傾向はさらに加速し、農業を主とする第一種兼業農家から農業を従とする第二種兼業農家への移行を示している。これに伴い中山間地域を中心に高齢化や農業後継者不足、過疎などが顕在化し、近年の課題となっている。

また、ミネラルウォーターの生産量は52万9388キロリットル2004年(平成16年))であり、日本の総生産量の40%を占める。山がちな地形であることから帯水層の露出が多く、都市化が進んでいないため清澄な湧水が多く採取できる上、主要な消費地の東京圏に近く輸送コストが小さいため、大手メーカーの多くが採取地に山梨県を選んでいる。主な産地は南アルプス山麓と富士山および三ツ峠山麓である。

第二次産業[編集]

かつては養蚕業が盛んであったが、戦後に斜陽化のため現在は衰退している。また海や大河がなく大量の水を使うことができないため鉄鋼・金属などの重工業産業が発展しにくい土地である。その一方で四方を山地に囲まれ水質が良好であることから中央自動車道の全線開通以降長野県諏訪地域とともに精密機械産業が発達している。そのほかには石英(水晶)の採掘地であったことから研磨宝飾を中心とした宝石加工産業が発達している。

甲府盆地および富士山麓地域を中心にほぼ全地域に工業団地が点在しているが、可住地面積の少なさが災いしてか大規模な工業団地が形成しにくい。そのため近年では県外の工業団地に移転する企業が相次いでいる。

第三次産業[編集]

岡島百貨店

甲府は近世の甲府城下町が商業的拠点として発達し、明治後に中央本線が開通すると甲府駅が開業し、山梨県庁舎をはじめ岡島百貨店甲府西武などが駅前に軒を連ねたため戦後しばらくまでは甲府駅を中心に発展していった。しかし高度経済成長を迎えると県内でもモータリゼーションが進行し、同時に公共交通機関が衰退した。このため旧城下町である甲府は道幅が狭く渋滞が顕著になった甲府駅前を避ける傾向が強まり、代わりに高速道路バイパス道路が整備された郊外に大型商業施設が次々と進出したため、1990年代よりドーナツ化現象が進行している。また中央本線の高速化や高速バスの発展により県外へのストロー効果が起こり、山梨県の商業そのものに影響を与えている。

外食産業の店舗数が多いことが特徴で、人口当たりで寿司屋ガストバーミヤンモスバーガーの店舗数は全国1位である[6]。特に海が隣接していないのにもかかわらず寿司屋が多く、甲府市の中心部では100mあたり5、6店舗が並ぶところがある。山梨に寿司屋が多い理由として昔からの「海に対するあこがれ」や、元々祝いの席で必ず食べるものがなかったのでその代わりとして寿司が祝いの席の食べ物として出されるようになったことなどが挙げられている。[7]。また、富士川町の鰍沢河岸跡からは明治期のマグロをはじめとする大型魚骨が出土しており、江戸時代から富士山麓の駿州往還や中道往還を利用した駿河方面からの海産物移入が行われていたと考えられている。

富士川など高低差のある河川を利用して戦前より水力発電所が建てられ、戦後は山梨県を管轄する東京電力だけでなく山梨県企業局による水力発電所も建てられ、企業局ので発電された電気は東京電力に売却され、これが山梨県の財政の助けになっている。また、日照時間の長さを利用した太陽光発電も建てられ、米倉山太陽光発電所やまなしメガソーラーなど10MWクラスの発電所が稼働している。山梨にある発電所は水力と太陽光が大半を占めており、火力発電所原子力発電所は皆無である。

その他[編集]

本社を置く主要企業[編集]

製造業
情報通信業
金融業
卸・小売業

拠点事業所を置く主要企業[編集]

生活・交通[編集]

警察[編集]

交通[編集]

空港[編集]

山梨県内に空港はない。なお、近隣で旅客扱いを行う空港としては松本空港長野県)や東京国際空港東京都)などがある。

鉄道[編集]

小海線を除いて、電化されている。

東日本旅客鉄道(JR東日本)
東海旅客鉄道(JR東海)
富士急行
  • 大月線
  • 河口湖線
※上記両線は総称として「富士急行線」と呼ばれる。

バス路線[編集]

山梨交通グループ
富士急行グループ
その他バス路線

道路[編集]

高速道路・有料道路
国道
地域高規格道路
県道
その他の一般道路

医療・福祉[編集]

災害拠点病院
保育所

教育[編集]

大学短期大学
専修学校
特別支援学校
高等学校
中学校
小学校
幼稚園

マスメディア[編集]

新聞[編集]

戦前には『山梨日日新聞』(以下山日)、『山梨毎日新聞』はじめ6紙が発行されていたが、第二次世界大戦中の新聞統制によって県内の諸紙は山日に統合される。戦後には数紙が創刊され、昭和40年代まで富士急行が大株主である『山梨時事新報』(山時)が山日と部数を競った。1969年(昭和44年)に富士急行が所有株式を売却すると山時は山日に吸収され、現在は、全国紙をのぞいて日刊紙は山日のみの状態となっている。全国紙は東京版が販売されている。

テレビ局[編集]

NHKのテレビ放送1953年(昭和28年)に開始されたが山梨の地理的条件のため契約数は少なく、NHK甲府放送局1959年(昭和34年)に中継送信所を設置して以来普及した。民間放送ではラジオ山梨が1959年(昭和34年)12月に送信所を設置してテレビ局を開設し、山梨放送(YBS)(NNN系列)が開局。1968年(昭和43年)にUHF(極超短波放送)電波が割り当てられると、免許申請は一本化されて「山梨中央テレビ」として取得し、翌1969年(昭和44年)5月には株式会社テレビ山梨(UTY)(JNN系列)が発足。

山梨県は首都圏に属しているがYBSとUTYの民放2局状態が長く続いている。それゆえビデオリサーチによる視聴率調査が行われていない都道府県(他は福井県徳島県佐賀県宮崎県)の1つとなっている(その為に有料ケーブルテレビに加入世帯(約160000世帯)が多い地域である(2012年現在))。

ラジオ局[編集]

ケーブルテレビ[編集]

山梨県の有料ケーブルテレビ(自主放送)の世帯普及率は、2012年(平成24年)1月現在86%と全国第1位である。共同アンテナ受信なども含めると93%を数える。ただし、同県のケーブルテレビ局は他の都道府県それと用途が異なり、不足する地上波系列の補完が第一であるため、標準契約で視聴できる放送は地上波のみである[8]STB多チャンネルは別途オプション契約となる。

文化・スポーツ[編集]

方言[編集]

食文化[編集]

郷土料理

伝統工芸[編集]

経済産業大臣指定伝統的工芸品
伝統工芸品

スポーツ[編集]

観光[編集]

有形文化財建造物[編集]

国宝
重要伝統的建造物群保存地区

観光地[編集]

自然
寺社
史跡
保養地など

祭事[編集]

山梨県を舞台とした作品[編集]

文芸[編集]

映画[編集]

東京に比較的近く交通至便のため、下記の作品以外においても(とくに低予算のピンク映画オリジナルビデオなどで)ロケ地として用いられる事が多い。

テレビドラマ[編集]

漫画・アニメ[編集]

ゲーム[編集]

山梨県出身の人物[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 山梨郡の名前の由来は「旧春日居町にある山梨岡神社の裏山に梨の有名な古木があり、そのためこの地域はいつしか山梨と呼ばれるようになった」という付会伝説が存在しているため、果物のヤマナシに由来していると思われがちである。しかし残簡風土記には「山無瀬」、737年天平9年)の駿河国正税帳には「夜萬奈之」と記されており、語源としては「山平らす(やまならす)」、つまり甲府盆地の高低の少ない平坦な様子を表す言葉が次第に「やまなし」へ転化したとみるのが妥当である。そして713年和銅6年)に「諸国の郡郷名は好字(よきじ)で著せ」とする和銅官命が出されたことにより、「梨園」などの言葉に見られる一種の優雅さを感じさせる「梨」という好字を当てて、「山梨」と呼ぶようになったといわれている(山梨県道路公社『雁坂トンネルと秩父往還』1998年(平成10年))。
  2. ^ 宮武外骨『府藩県制史』、県名改称については有泉貞夫「県名改称と区政実施ほか」『山梨県市』通史編5近現代1第一章第三節
  3. ^ 有泉「「山梨」と「峡中」」『山梨の近代』山梨ふるさと文庫、2001
  4. ^ 全国都道府県市区町村別面積調 国土地理院 2013年11月28日閲覧
  5. ^ 議員の3割 1年間質問ゼロ 県内の昨年度 チェック自ら“放棄”(山梨日日新聞)
  6. ^ 新都道府県別統計とランキングで見る県民性
  7. ^ 追跡・発掘:山梨県民はすしがお好き? 「海へのあこがれ」根底に /山梨(2012年06月16日、毎日新聞
  8. ^ 地上波の構成はNHK甲府+地元民放2局+テレビ朝日・テレビ東京・フジテレビ+独立U局が基本。かつてはBSアナログ放送も視聴できた。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

行政
観光
先代:
府中県市川県石和県
行政区の変遷
1868年 -
(甲斐府→甲府県→山梨県)
次代:
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